百四十三 下男、神父と再会する
鬱々とした気分の中、表面だけは平生を装って過ごしていた。旦那様と奥様は俺の気分が落ち込んでいることなどそれほど長く共に過ごしていないのでわからないだろうし、ロンは幸せの絶頂に居る為俺の気持ちどころか周囲のどんな人間の暗い気持にも気付かないだろうし、アクアは可能な限り俺と関わろうとしないので気付いたとしても何も言わないだろうし、恐らく俺の暗い気持ちに気付いているエルトリアでさえも、その原因が自分であるとはわからないだろう。
故に、俺は至って普通の生活を送っていた。各食事時にエルトリアと顔を合わせ、散歩を共にし、他愛もない話に興じた。
エルトリアが特に何も聞いてこないことが唯一の幸いだった。正直、早く帰ってしまいたいとは思っていたのだが、セバスチャンから我が家に届けられた手紙に、暫くイタロスの屋敷で待機しているように、という旨のことが書かれており、俺は実家から身動きが取れなくなってしまっていた。
少しでも気を紛らわそうと一人で屋敷のあちこちを歩いて、出来るだけエルトリアと遭遇しないようにしていたある日、屋敷内で思いがけない人物を見かけたので、俺は思わず声を掛けた。
「お久しぶりです、神父様」
「ラック! 本当に久しぶりだね」
「今日はどうしてこちらへ?」
「もちろん君に会いに、と言いたいところだが、今回は別の用件なんだ」
「どのような要件なのか、聞かせてもらえませんか?」
「もちろん。しかも、君絡みの話だぞ」
「俺にですか?」
神父は、トマトの乾燥粉末を平民が使えるようにするための交渉にイタロスの屋敷へと訪れていた。旦那様もこの提案には好意的らしく、話を詰めるために定期的に最近屋敷を定期的に訪れているのだとか。
「やはり、薪などを集めるよりもトマトの粉末を使った方が遥に楽でね。暖房や冷凍器具などが何台か、既に町で試験運用されているんだ」
「へえ。もう実用段階何ですね」
「あれからいくらか改良が進んでね。完全な粉末状だと飛散していくらか使わずに無くなってしまうという事態があって。パン生地の様に何かに練り込んだ方が良いのでは、という意見が出て実際に試験運用したりしているんだ」
「なるほど。でしたら、トマトの液をゼリー状にして使うのもそういう意味ではありかもしれませんね」
「確かに。それはまだ試していないな」
そんな話をしばらくしていると、俺の頭から一時的にエルトリアのことが消え、暫くは無心で楽しく会話をすることが出来た。
そんな俺の様子に気付いていたのだろう。ほっと安心したように息を吐いて、神父は優しく笑った。
「最初見た時は少し元気がないように見えたが、どうやら杞憂だったみたいだな」
「・・・・・・ははは。この通り。元気いっぱいですよ」
一瞬、気の迷いだと頭では理解していたのだが、胸の内をぞわぞわとはいずり回っているものをこの神父に全てぶちまけてしまいたくなった。勿論人の悩みを聞くことが本職であるが故の人間が纏っている雰囲気のせいということも十分あるが、それ以上に俺が神父に対してエルトリアに対する感情を暴露したくなったのは、マリアの故郷で過ごした十二年間が、俺の中で一番心地よかった時間だったかもしれない。
勿論、それは過去を美化しているだけなのかもしれない。しかし、歳を重ねるごとに心労が増す事態に晒されていくという端的な事実を、俺は前世からの悟りの一つして知覚していた。
いくら新しく人生をやり直すことが出来たとしても、俺という人間の中身が変わらない限り、どう足掻いたって同じような人生に行きついてしまうのかもしれない。そう思うと、途端に全身の力が抜けていくような錯覚に襲われ、ベッドの中に籠って死ぬまでだらだらと過ごしていたい気分になった。
勿論、そうやって力を抜いて生きられるほど、俺の心は器用には出来ておらず、責任とか義務感とかが胃痛という形になって、早くやれ、と俺に催促してくるのだ。
全く嫌になるぜ、と思いながら神父との会話に興じた。
自分の部屋のベッドの上でごろりと横になりながら考える。
結局の所、俺がこのイタロスの屋敷から離れないのは、セバスチャンの指示のせいにしているが、俺自身が居たいと思っているからに他ならない。居たいと思う様な場所であるのに、それでも居たいと思うのは、俺が単純にこの家に、エルトリアという女性に縛られているだけなのかもしれない。
そう思った瞬間、ふとケルンのことを思い出した。
俺はエルトリアと結ばれるという未来を描くことは出来なかったが、ケルンはエルゼスと婚約にまで至っている。彼の望んでいた未来は、後少しというところで実現しなかった。そして、その後少しからどれだけ後退してしまっていても、一度ゴールが見えてしまったケルンは、必ず到達できると思ってしまったのかもしれない。
そう思うと、運命に翻弄されている彼がもしかしたら自分だったかもしれない、という奇妙な錯覚に襲われた。
俺は偶々数十年分余計に生きていた記憶があったから耐えられているだけで、高々十数歳の少年の精神では運命の理不尽さに正気を失っても仕方がないのかもしれない。
もしかしたら、俺の許にもマクマホンが来ていたかもな。彼らは、大抵想う人と結ばれない人間の前に現れては、甘い誘惑をしてくるからだ。
そして、ふと思った。
パーティー会場でクーニャ・トリスタンが俺に接触したのは、もしかしたら取り込めると考えたからではないか? しかし、彼らは具体的なことは何一つ言って来なかったぞ。じゃあ俺の思い過ごしか。
そもそも、マクマホンとして行動している時、彼らはいつもマントに身を包んでいる。だが、クーニャはマントに身を包んでいなかった。俺の先入観を逆手に取ったのか?
でも、俺が彼女を捕まえようとした時点でクーニャの身元は割れている。いや、彼女には姿を変える魔法があるはず。俺には通じないが。
では、何故マクマホンはマントで身を覆っている。あれが組織としての姿なのだろうか? ある種のアイデンティティ? 多くの人間にはマントの姿で接触している。でもケルンにはマントの姿で接触していない。クーニャはその方法を取る必要がないからか? いや、だったらそもそもパーティー会場で接触する必要すらない。公爵の屋敷に平然と侵入できるやつらなのだから。
何故ケルンにはマントを纏っていない状態で接触した? 何故俺と接触を図ろうとした? と言うか、ケルンと二度目に接触している時、クーニャは一体どんな姿をしていたんだ? パーティー会場で接触していた時と同様に肌が白い女性として? それとも別の人間として? だったら、どうやってケルンはクーニャを見分けたんだ? 合言葉でも決めているのだろうか。
突然驚くほど深まった思考の先でふと何かを掴めそうになったその時、誰かが扉をノックした。・・・・・・いや、誰がノックしたかは、既に察しがついていた。
「私よ。エルトリア」
「・・・・・・どうぞ」
頭では拒み続けて、心のどこかで望んでいた事態が、今まさに起こっていた。