百四十二 下男、頭痛が痛くなる
我が姉エルトリアとシモン・ロマは夫婦である。夫婦になってから、既に一年以上の時間が経過している。だから、そういう事態になったとしても何ら不思議ではなく、むしろ、俺はどうしてこの事態をこれっぽっちも想定していなかったのかと、目眩と吐き気に襲われた。
勿論エルトリアの前で倒れるわけにもいかず、気分が悪くなったことをぐっと堪えはしたが、その事実をはっきりと認めようとするたびに、思い出だったものの一つ一つが、遥か遠い日々であるかのように感じられた。
詰まる所、俺はエルトリアとシモンの間に子供が出来ることを、ほんの一瞬ですら考えることを、無意識の内に避けていたのだ。
妊娠六か月。ということは、どう計算しても、彼女は魔法学園の入学式の段階で妊娠していたことになる。駄目だ、考えただけで目眩がする。
「・・・・・・こっちで生むつもりなの?」
「ええ。王都の方が何やら騒がしいとかで、シモンは赤ん坊が生まれるまでには帰ってこられないって言うから。ルシウスは、何か知らない?」
「・・・・・・俺も、詳しくは知らないや」
本当は知っているが、戦争などといういかにもストレスがかかりそうな言葉を、今のエルトリアに掛けることは出来なかった。
彼女のことを考える度に、赤ん坊のことが頭にちらつき、そしてシモンの顔がちらつき、二人の夫婦としての過ごし方にまで想像を巡らせては、足が震えてしまった。
彼女は未だ十六歳。前世の基準で考えればとんでもない事態だが、この世界では十五歳が成人なのだ。別段不思議なことではない。
しかし、俺は今の今まで、こうして実際に目にするまで、どうして考えてこなかったのだろう。いや、そういうこともあるな、と、どうして思えなかったのだろう。
「・・・・・・ルシウス? 顔色が優れないけど、大丈夫?」
「・・・・・・急いで帰って来たから、少し疲れているだけだよ。・・・・・・でも、今は休むね」
「ええ。くれぐれも無理しないでね」
今すぐ一目散に全速力でエルトリアの前から走り出したくなる気持ちをぐっと堪え、俺は出来るだけ平生を装いながら自分の部屋へと向かった。
ベッドに倒れ込んでふと自分の手を見ると、ぶるぶると細かく震えていた。次彼女の前に立った時に、平静でいられるような自信はない。
妊娠かあ。そりゃあるよな。あるよ。彼らは結婚しているんだから。子供が出来たって不思議じゃない。不思議じゃないんだ。
一生懸命当然のことだと思おうとしても、頭の中がぐしゃぐしゃになって、うまく考えがまとまらず、突然兎に角大声で叫び出したい衝動に駆られ、それを必死に抑え込みながら、少なくとも、これは喜ぶべきことなのだと、自分に何度も言い聞かせた。
心の奥底にある感情に蓋をしろとは言わない。でも、これは良いことなのだ。シモンはエルトリアのことをちゃんと愛している。これは喜ぶべきことなのだ。エルトリアは子供を慈しんでいる。これは正しいことなのだ。
コンコンコンと扉が鳴った。
「俺だ」
ロンの声だった。
「どうぞ」
俺はベッドから体を起こしてロンを出迎えた。
「ルシウスは、レンから何か聞いていないか? うちへ帰って来るとかどうとか」
「・・・・・・ごめん。聞いてないや」
「そうか。邪魔したな」
そう言って、ロンは直ぐに部屋を出て行った。
何かをしていないと、時間とともにひどくなっていく胃痛と頭痛で気が狂いそうだった。
レンは行方知れず。エルトリアの妊娠。戦争。解決不能なマルセイジュ、エルゼス、ケルンの三角関係。アテネはマクマホンと繋がっているのかどうか。
どれもこれも、現状俺から行動を起こしてどうにかなるような問題ではなかった。
思わず出た溜息に口を覆い、その手を額に当てて、指で何度も額を小突いた。そのわずかな刺激が思考と頭痛をごまかしてくれた。
何をすべきかもわからないし、正直、今すぐこの家から飛び出してしまいたい。しかし、一度帰った手前、数日程度は家に居ないと当然不審がられる。けれども、数日家に居るということは、その分エルトリアと顔を突き合わせる機会が増えるということだ。
彼女の存在が、これほどの頭痛の種になるとは思いもしなかった。
俺は深い溜息を吐きながら、ごろりとベッドの上に横になった。