百三十九 下男、キツネに慰められる
折角キュウビの許を訪れたというのに玉手箱を持ってくるのを忘れた俺は後悔していたが、独り言が漏れていたのか、「元々私の物ではないから返す必要は無い」と俺に優しく声を掛けた。
違うんだよ。あの箱を手元に置いておきたくないんだよ。
やや精神が乱れている俺とは対照的に、キュウビとお茶を啜りながら楽しく会話をして気を落ち着けていたヘレナは、ふと冷静になって、自分がどうしてこんな行動をしてしまったのかと少々後悔している様子が見て取れた。
キュウビの彼女の様子を察していたようだったが、俺に軽く目配せをするだけで、詳しく触れようとはしていなかった。・・・・・・まさか、俺に任せた、という意味の目配せじゃないよな?
キュウビとヘレナ、俺の三人で夕食の席を囲んでしばらくすると、食後特有の眠気からかヘレナが欠伸の為に開いた口を手で隠していた。
「寝室にご案内しましょう」
そう言って、キュウビはヘレナを奥の部屋へと連れて行った。
キュウビは戻ってくると、畳の上に腰を下ろしていた俺の隣に座った。
「彼女とはどういったご関係で?」
「・・・・・・近々起きる戦争を止める力が、彼女にはあるみたいで」
「戦争、ですか。私は俗世を離れて久しいですが、それでもあまり耳にしたくはない言葉ですね。・・・・・・それはそれとして、彼女、貴方に大部気を許しているようですが」
「そう、みたいですね」
まさかふざけ半分でやった小芝居が上手くいってしまうとは。ヘレナが俺に気を許している、か。別に衝撃的な出会いをしたわけでも、濃密な時間を過ごしたわけでもないし。もしかしたら、ヘレナが元々人懐っこい性格だっただけなのでは? いや、それだけで王城から攫われようなんて考えるわけないか。
「恐らく、彼女自身の問題の影響で、彼女が俺を依存する対象として選んだだけだと思うんですが」
「つまり、間が良かっただけ、とルシウスさんは考えていらっしゃるのですね」
「彼女とは、昼にあったばかりですし」
「一日で燃え上がる想い、というものも、世の中にはあるのですよ」
もっと言うなら、一瞬で燃え上がる思いもある。俺の中からは、いつまで経っても消え去ってくれないが。
「俺は大抵間の悪い男なので、特に何も起こらないと確信しています」
「・・・・・・好意を向けられるのが、苦手なご様子ですね」
触れられたくない所を突かれて胸がチクリとしたが、事実なのですっと受け入れることができた。
「慣れていないんですよ。上手く処理できないんです。相手に対する自分の気持ちがはっきりと自覚できているのなら楽なんですが」
「時間がかかることは悪いことではありませんよ。私も、出過ぎたことを申しました」
「いえ、胸に刺さりました。今、実際に悩んでいることがあるので」
キュウビは一瞬はっとしたような表情をして、反省の為か身を小さくした。
「これは失礼。他にお相手がいらっしゃるのですね」
「・・・・・・まだ、自分が相手をどう思っているのかが上手くわからないんです」
「いろいろな形の気持ちがあるので、自分の知っている形と、今現在ある形が違うと、戸惑うことも多いと思います。あくまでも、これは私の経験則ですが」
違う。確かに違う。エルトリアへの想いとヴェニアへの想いは、まるで違うのだ。前者ははっきりと恋だと言えるのに、後者はごちゃごちゃしていて上手く言葉に出来ない。
「キュウビさんの言葉には、重みを感じます。・・・・・・やはり、年の功というやつなのでしょうか」
「数百年程度、セフィロスに比べれば大したことはありません」
「彼の場合は、一周回ってやんちゃしてますよ」
「七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず、と言います。彼はああ見えて、他人に迷惑はかけていないでしょ?」
そうか? そうだろうか? うーん。確かに、俺はセバスチャンの振る課題に対して必要以上に応えて、自分から墓穴を掘りに行っている節がある。けれども、セバスチャンも尋ねない限り教えてくれないのが基本スタンスだから、迷惑をかけていないと言えないわけじゃないのでは?
「その様子だと、セフィロスはルシウスさんのことをだいぶ気に入っているようだ」
キュウビは嬉しそうに笑っていた。
キュウビに案内された部屋で、眠ろうと一人目を閉じて布団の中で横になっていると、襖の向こうに人の立っている気配がした。
「アルセーヌさん。起きていますか?」
そんな恥ずかしい名前の人は存在していませよ。
「起きていますよ」
「少し、お話できますか?」
「どうぞ。入ってください」
俺は体を起こして部屋の中に入って来たヘレナを出迎えた。
「どうされました?」
「あの、どうして私のことを攫ったのか、それが知りたくて。・・・・・・まさか本当に、私に一目ぼれしたわけでもないのでしょう?」
かなり冷静になったみたいだ。これを機にきざなキャラを辞めたい。
「第三王子から、これから戦争が起こるという話を聞きましたか?」
ヘレナははっと驚いた後に、首を横に振った。
聞いていなかったのか。まあ、無理に話すようなことでもないからな。それに、第三王子も忙しい身だ。単純に話す時間が無かったのだろう。まだ今日の話だからな。
「貴方の歌には、戦争を回避する力があるのです」
「私の、歌に・・・・・・」
ヘレナは複雑な表情を浮かべた。期待と、不安。喜びと、疑い。そこには、昼に聞いた母親の影が少しだけ見え隠れしているような気がした。
「はい。昼にも確認したでしょう? 貴方の歌は、人の心に感動を与える」
「それだけでは、戦争は回避できませんよ」
「それが可能なのです。俺も詳しい方法を完全には把握していませんが、貴方の歌ならできます」
ヘレナはそっと目を伏せた後、手を自分の胸に当てた。恐らく、何かと考えて、胸のもやもやが生まれてしまったから、それを抑えつけて痛みでごまかそうとしているのだろう。突然こんなことを言われても訳が分からなくて当然だ。
「直ぐに全てを理解する必要はありませんよ。時間がかかることは悪いことではありませんから」
キュウビの言葉をそのまま流用すると、ヘレナはほっとしたような表情を浮かべた。俺はキュウビの功績を奪ってしまったような罪悪から胃が痛みだした。
「私からも、貴方に尋ねたいことがあるのです」
「何ですか?」
「貴方は、どうして攫われたのですか?」
ヘレナはしばらく虚空を見詰めた後、「何で、しょうね」と悲し気に笑った。