百十七 下男、襲われる
帰りの馬車の中、ルフィの傷のことがどうしても頭を離れなかった。こんないかにも中世ヨーロッパ風のテンプレ異世界において、遺体はたいてい土葬である。つまり、遺体を掘り起こせば、何かわかるかもしれないということだ。
全く、人体錬成に失敗した母親の死体を掘り返す錬金術師の気分だぜ全く。
そんなことを考えていると、突然馬車が止まった。車輪が外れたのだろうか。御者へと声を掛ける為の小窓を開けると、そこに御者はいなかった。
どこへ行ったんだ?
俺が確認しようと馬車を降りると、その周囲は無数のゴロツキたちに囲まれていた。御者の姿はどこにも見えず、逃げたのか彼らを手引きしたのかは判断することが出来なかった。
ガキ一人に随分と大層な出迎えだな、と啖呵を切ってやりたい気分であったが、正直生きて帰れるかも定かではない状況でそんな台詞を吐く余裕は無かった。
「あんたがルシウス・イタロスかい?」
ウマに乗ったリーダーの様な風格を漂わせる男が、馬車を囲むゴロツキたち全員に聞こえるような大きな声でそう尋ねてきた。ウマに乗っている組織の中の序列が高そうなゴロツキは全体の半数ほどいたが、その中でも一段と体つきが良く、腕っぷしの強さを漂わせていた。
こういう質問には、正直に答えても馬鹿だと笑われ、黙っていても臆病者だと嘲笑われるのだから、何をしても特に意味がないのだ。
「いいえ。私はラック・イタラナイですが?」
出来る限りすっとぼけてこの場をやりすごしてやるぜ。
「ああ? そうなのか? こいつは人違いか?」
向こうもわざとらしく言葉の最後を尻上がりに発生した。どっとゴロツキたちの笑い声が漏れる。
こいつはとぼけても無駄そうだな。と思いつつ、俺は人数、武器をつぶさに観察していく。
こうして貴族の馬車を襲うということは、恐らく魔法の対策か、魔法が使える人間が何人かいるのだろう。
しかし、一体誰に頼まれてこんな所にいるのか、と考えて、心当たりは一人しかいなかった。
マクマホンだ。
勿論、シャノンの行動を嗅ぎ付けた貴族の誰かという線もないわけではないが、わざわざ俺一人を潰す為だけに二十二人もの人間を用意する必要は無い。
路地裏なんかで覗いているのがバレたのか、もしくは今まで邪魔されてきたことを根に持っているのか。動機は不明だが、目を付けられる心当たりはマクマホンしかない。
だが、どうして野盗に襲わせるのだろうか? あり得そうだから? いや、それだけなら他にやりようはあるはずだ。ドラゴンを呼べるのだから、魔物を操ることなど造作もないはずだろう。
「お前が誰なのかはどうだっていいんだ。大人しくしてくれれば、命だけは取らないでやる」
一見した所、矢や投げナイフなどの遠距離用の道具を持っているゴロツキはいない。皆剣しか持っていなかった。やはり矢は技術とお金がかかるのだろうか。
「貴方たちに指示を与えたのが誰なのか教えてくれたら、大人しく投降することを検討いたしますが」
俺がそう言って数拍の間を置いた後、リーダーの男を皮切りに、ゴロツキたちが一斉に笑い出した。
瞬間、俺はリーダーの男の許に駆け寄ると、彼の頭蓋を蹴り飛ばしてウマから落とした。
そのままウマに乗ると、すぐさまゴロツキたちから離れる。
悪いね。先手必勝なんだ。
最初にリーダーを倒したから集団は怯んで直ぐには動けないと考えていたが、ゴロツキたちはウマに乗っている人間を中心に直ぐに俺を追いかけてきた。
嘘だろ。
地面に倒れ、ぴくぴくと体を痙攣させているリーダーに誰も目もくれていなかった。こういう事態をはじめから想定していたということか? それとも彼はリーダーではなく、真のリーダーが別に存在しているのか。
そんなことを判断する余裕はなく、飛んでくるであろう魔法に警戒しながら逃げることで俺は手一杯であった。
無論いざとなったら自力で走れば一気に引き離せるであろうが、以前体力を使い切ってぶっ倒れた経験を鑑みると、ここは可能な限りウマで駆けた方が良いと判断した。
俺が現在駆けている場所は広い街道のど真ん中であり、近くに町がある気配はない。一先ず街道を外れて脇の森の中へと向かう。
俺が森の中に突っ込んだ後もゴロツキたちは俺を追跡してきた。
森に入ってしばらくしてからウマから飛び去り、木々に移って森の奥へと入って行くと、さすがにゴロツキたちが追ってくる気配はなく、俺はほっと息を吐きながらも可能な限りの距離を取った。
一先ず、助かった。そう思いはしたが、状況は最悪だった。食料を持っていないし、サバイバルの経験もない。町がどちらにあるのかもわからないので、行動の指針すらない。
一応マリアからもらった金の笛があるが、これは後一度しか使えない。出来るだけ温存しておきたいというのが、正直な気持ちだ。
さて、どうしたものかと森の中を歩いて、ふと気付いた。森の中に、薄く霧が広がっているのだ。
奥に行くほど白く立ち込めていき、これ以上中に入ってはいけないと俺の直感がそう告げていた。
この霧には近付かないようにしよう。そう思い霧が薄い方へと歩を進めた瞬間、ばったりと、体長五メートル以上はあろうかという巨大なクマと鉢合わせた。
嘘、だろ。
俺は反射的に逃げ出した。そして後悔した。クマが逃げる獲物を追いかけ始めたからだ。
やばいやばいやばいやばい。どうする。どうする? と言うか何であんな近くにいるのにそれまで気付かなかったんだ? ちくしょう。どうすれば。
俺は無我夢中で走り続け、とっさの判断で霧の濃い方へと駆けた。少しでも視界が遮られてくれればいいという思いであった。だが、クマは直ぐに踵を返した。
何かに恐れをなしたというよりは、本当に突然気が変わったという感じだった。霧はまだそれほど濃いわけでもなく、俺の姿ははっきりと捉えられているはずだというのに、クマはどんどん俺から離れていった。
この時までは、ただ単純に運が良いと思っていた。
だが、ぱっとクマが俺の方を向いたかと思うと、再びこちらに向かってきた。
やばい。と思って逃げようとしたが、その前にクマはまた踵を返して俺から離れていた。そしてしばらく歩いた後、再び俺に気付いて走り寄って来ては、また後ろに引き返していった。
そんなゲームのバグの様に近付いては遠ざかるという行動を何度も繰り返した後、何かを悟ったのか、クマは俺を襲うことを諦めてどこかへと消えていった。
一体何が起きたのか。その原因として考えられるのは、霧しかなかった。
俺は懐から取り出した黒縁眼鏡を掛けた。すると、視界が真っ青に染まった。魔法だ。この霧は魔法なのだ。
ということは人がいる? 町の方角を教えてくれるかもしれない。
絶望的に恐ろしい生命体である可能性を胸に留めながら、俺は恐る恐る霧の濃くなる方向へと歩を進めた。