第七章 第二幕
ルティカは再び周囲の状況を確認した。
中盤に存在していたグループは既に分裂し、塊では無く、一列に広がっている。その長い列の先頭選手から、暫し距離を開けて、まだ塊のままの先頭グループが存在している。
ベートは未だに二位を守っていた。
こちらの順位は上がったものの、ベート達との距離は先程よりも若干開いていた。
――このままじゃまずいわね……。
先頭グループの強さに懸念を抱いた直後、瞬間的に、ルティカは一周目とは異なる、違和感を感じ取った。
刹那違和感の正体に気付き、1番リングを潜りぬけた直後のバラクアに向かって、即座に叫んだ。
「バラクア待って! 2番リング前の風、一周目よりずっと強い! 8だわ! 慎重に!」
「何だと?」
9番選手と小競り合いを続けていた為、どんどん加速していたバラクアは、ルティカの声に殆ど反射で反応し、一度大きく翼を広げ、加速していたスピードにブレーキをかけた。
突然競争相手の居なくなった9番選手は、これチャンスとばかりに、そのスピードのままライバルを引き離そうと、2番リングを潜りぬけようとした。ところが、2番リング直前の激しい人口風に煽られ吹き飛ばされてしまった。予期していない強風に大きくバランスを崩した9番選手は、そのスピードのまま2番リングへと激突してしまう。
ぶつかった鴻鵠から、呻き声が漏れた。
何とか地面に墜落しないように精一杯バランスを整えながら、よろよろと地上へ落ちていく、痛々しい9番選手を見ながら、ルティカは思わず呟いた。
「うわぁ……、痛ったそ~……」
「痛そうじゃない。あれは、痛いんだ……、かなりな……」
同情も入り混じったその言葉を聞き、ルティカは思わずバラクアの頭をくしゃりと撫でた。
「あ~、あの時はごめんね、バラクア……」
激突した直後に檄を飛ばしてしまった、先日のエラリアル杯の事を思い出し、あまりの申し訳無さにそう呟くルティカだったが、バラクアの返事はにべもない。
「いいからしっかり掴まってろ!」
言うが早いか、2番リング前の強烈な人口風を背中に、バラクアはその大きな翼を一度目一杯広げ、羽ばたいた。
猛スピードで次々とリングを潜っていくバラクアの首元で、ルティカは自身の鞍をしっかと握りしめて叫ぶ。
「バラクア! 5番リング後の真下の風弱いわ! 2くらいしかない」
「了解!」
バラクアは短く返事をすると、減速するように5番リング手前で大きく羽ばたいた。
すぐ前を飛んでいた10番選手はその速度のまま飛び出し、想像よりもずっと弱かった5番直後の人口風を、勢い余って通り抜けてしまった。必死で減速して戻ってくるが、既に6番リングからは大きく離れてしまっている。
間隙を突くように、バラクアは慎重に減速し、10番選手より先に6番リングを潜りぬけた。
これで、六位。
グングン上がっていく順位を鑑み、ルティカの口角は自然と上がり始めた。だけれどそれも、再び前方の先頭集団に目を移した瞬間に収まりを見せる。
ベートが遂に、スタートからトップを守っていた1番選手を抜き去ったのだ。華麗に羽ばたくレベの翼が、太陽を反射しキラリと輝く。
――まだ喜ぶには、全然早いわね……。
自分の早計さを戒めつつ、改めてもう一度辺りを見回した。
現在自分の後ろにいるのは、近い方から順に、10番選手、4番選手、6番選手だ。
9番選手の姿が見えないのは、リングへの激突の衝撃の為、残念ながらリタイアしてしまったからかもしれない。凄まじいスピードで行われるレース中の事故は、決して少なくは無い。
『ルティカ、鴻鵠士の世界は、危ない事も多いんだぞ』
不意に、幼い時の父の言葉が蘇ってくる。
――うん、解ってるよ、父さん……。
自分だけ大丈夫、などと言う楽観的な思考をする程バカではない。
――危険な事が一杯なのは百も承知。接触事故もあるし、父さんみたいになっちゃう事も、あるかもしれない……。
残された者の哀しみは、嫌という程骨身に沁みて分かっているルティカである。だが、それでも……。
――……それでも、やっぱり私は、エレリド=ガイゼルの娘なんだよな……。
ルティカはそう思い至り、唇の端を僅かに上げた。
目線を前方へと移す。
現在ルティカ達は、6番リングから7番リングへ急滑空の最中だ。
バラクアの嘴の先すれすれの距離には、2番選手がいる。その2番選手の嘴の先に、5番選手。中盤の鈴なりから少し先、11番リングを潜った直後に、先頭集団の最高尾の8番選手。その8番選手から少し離れ、12番リング手前に1番選手。
そして、その1番選手の前には、7番を背負った、緋色の羽……。
――届くか微妙。だけど、確かに近づいてる。やってやるわよ!
そこでルティカは、肺の奥まで深く息を吸い込み、全身にグッと力を入れた。
「うっしゃあ! 気合い入れ直しよ!! 待ってなさいよベート!!!」
猛スピードのバラクアの上から、ルティカが猛り、咆哮した。
瞬時に風に掻き消され、誰にも届かない筈のその響きは、自身の相棒の鼓膜と心を、確かに奮わせたのだった。
「ずっとここにいたのか?」
喫煙所でモニターを眺めていたアレツの背中に、ジラザは口髭を撫でながらそんな言葉を投げかけた。その口には太い葉巻を咥えている。
「まったくよぉ、一服しようと思わなかったら、見つけられなかったぜ」
ジラザは口元に咥えた葉巻に火をつけながら、傍らのベンチに腰掛け、薄い笑みを浮かべてアレツに語りかけた。だが、当のアレツはジラザの方を振り向かずに、モニターを眺めたまま呟く。
「今日はルティカちゃん、随分調子がいいみたいですね?」
「ああ、あいつがプロになってもうすぐ一年だが、今日程負けられねぇレースも無ぇからな……」
深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出し、ジラザもモニターに目を移す。
「何せ、ガイゼルの為だもんな……。ったく、もっと早く切羽詰まれってんだよ……」
愚痴るように呟くジラザではあったが、その口ぶりはどこか微笑ましい事を語るような、優しいものだった。
そこでアレツはモニターから視線を外し、振り向いてジラザの目を見て尋ねた。
「私が今日来ていると、どうして分かったんですか?」
「へっ、まぁなんとなくだよ。今日のレースは、お前なら必ず見に来てるだろうって、そんな気がしてただけだ。なのに、どんだけ探し歩いても見つかりゃしねぇ。まさかタバコなんざ吸わねぇお前が、客席じゃなく、こんな所でレースを見てたとはなぁ」
「そうですね、一応チケットはスタッフさんから頂いていたのですが、どうも観客席に行く気になれなくて……」
モニターの中では、ルティカとバラクアが12番リングの手前でまた一つ順位を上げていた。
現在、五位。
「まぁ分かるぜ。フレイク杯は、お前らにとって、思い出深いレースだもんな。今でもよく覚えてるぜ。ラスト一周での、お前とガイゼルの一騎打ち、いい勝負だった」
昔を回顧するかのように、ジラザは目を瞑る。
「ガイゼルの野郎が勝って、あいつはB級に上がった。そんで、お前はうちの厩舎を辞めて、ナーゼルに鞍替えした。暫くしてから、ガイゼルはテレアに求婚をして、うちの厩舎は安泰したって訳だ……」
深く煙を吸い込み、短くなった葉巻を灰皿に押しつけて、ジラザは愉快そうに笑った。
「ずっとライバルでやってたおめぇらの事だ。どうせ、このレースで何か賭けてたんじゃねぇのか?」
ジラザの言葉に、アレツは肯定も否定もせず、再びモニターに視線を戻した。
一位のベートが20番リングを潜り抜け、三周目に突入した。
ルティカ達は未だ五位のまま、16番リングを潜り抜けていく所だ。
「ルティカちゃん、どんどんテレアさんに似ていきますね」
「ああ……、中身は俺が育ててる所為か、とてもお淑やかとは言えなくなっちまったけどな。見た目はもう、あいつにそっくりだよ」
懐からもう一本葉巻を取り出すと、ジラザはそれを手に持ったまま、火を点けずに続ける。
「不思議だよな。ルティカがこうやって鴻鵠士になってんのも、こんな風にレースに出てるのも、不思議でしょうがねぇよ……」
「ジラザさん……」
二人の間に、暫し沈黙が流れる。
それを嫌うように、ジラザは手に持っていた葉巻を口に咥えて、火をつけた。紫煙を燻らせながら、アレツに向けて、おめぇも吸うか、と問いかける。
「いえ、遠慮しておきます」
「そうか……」
「ところで、ジラザさん。本当に、引退を考えてらっしゃるんですか?」
「またその話か……」
「何度でも言わせてもらいますよ。貴方は優秀な調教士だ。その腕を必要としている鴻鵠や鴻鵠士が、まだまだ沢山います。それなのに……」
「いいんだよ……。俺はもう、そう言うのは面倒なんだよ。ルティカが鴻鵠士やりてぇって言うから、老いぼれなりに最後の仕事だと思ってやってんだよ」
「じゃあ、どうして弟子なんて取ってるんですか? 貴方なら、自分で弟子を取らなくたって、他に紹介出来る調教士なんてそれこそ星の数ほどいるでしょう? 未練があるからなんじゃないですか?」
「華瑠の事か? さぁてなぁ、まぁあれも気まぐれだよ。俺が居なくなっても、ルティカの尻を拭ってやれる後進が居た方が、気が楽だと思っただけだ……」
「ジラザさん!」
思わず口調の熱くなるアレツに、ジラザは普段は見せないような穏やかな微笑みを浮かべた。
その表情に、思わずアレツは言葉を詰まらせる。
「悪ぃな。おめぇには心配ばっかりかけさせちまってよ……」
「いえ、そんな事は……」
「おめぇの世界チャンピオン二連覇もちゃんと祝ってねぇしな。近い内にまた来いや。ルティカも喜ぶだろうよ」
「……はい、そうですね。お邪魔させて頂きます」
その言葉を満足そうに聞き、ジラザは吸いかけの葉巻を灰皿で揉み消すと、ゆっくり腰をあげた。
「さてと、そんじゃあ、お前の顔も見れたし、俺も上で観戦するかな。アレツ、おめぇも来ねぇか?」
「いえ、私は、遠慮させてもらいます」
「そうか、まぁ、そうだな……」
ジラザは再びアレツの顔を見据え、そしてニヤリといやらしい笑みを浮かべた。
「何ですか?」
「老けたな、おめぇも」
「当たり前ですよ、って言うか、それはお互い様じゃないですか」
アレツは、そう言って笑みを返す。
「それもそうだな。まぁ、今日のルティカの勝利を祈っててくれや。んじゃあ、またな」
ジラザはアレツに背中を向け、観客席へと続く階段を上って行った。
アレツは暫しジラザの背中を目で追いかけていたが、その目線を再びモニターに移した。
レースはルティカとバラクアが、すぐ前にいた5番選手と小競り合いをしながら、同時に20番リングを潜り抜けたところだった。
アレツの目がその向こうの、遠く上空に映る雲の動きを捉える。
そうして現シャン=ナーゼル世界チャンピオンは、自分の考えを口に出さぬまま、無人のモニタースペースを後にした。




