レオン・アルディリア
王宮の廊下で、俺を見る目が変わっていた。
頭を下げる者がいる。
目を逸らす者がいる。
笑顔で近づこうとして、隣の者に袖を引かれる者もいる。
少し前まで、俺はハズレスキルを授かった第二王子だった。
今は、軍務局装備監督官を失職させ、御用商会の倉庫を押さえ、監督官印の空白まで机上に並べた第二王子でもある。
人の評価は、一晩で変わる。
軽く見る者は、軽く見る理由を探す。
利用したい者は、利用できる理由を探す。
敵に回したくない者は、笑顔で手を伸ばす。
今日の視線は、そのどれもが混ざっていた。
どの派に寄るのか。
誰の手を取るのか。
誰の敵になるのか。
十三歳の王子に向けるには、少し早すぎる種類の視線だった。
「殿下」
廊下の先で、宰相補佐のラウル・グレインが待っていた。
灰色の髪を後ろで束ね、いつものように書類を抱えている。派手な男ではない。だが、王宮の廊下で立っているだけで、手続きが人の形をしているように見える。
「陛下がお呼びです」
「父上が」
「はい。第一王子殿下もおいでです」
ラウルの声は淡々としていた。
ただ、その言い方だけで、慰労の茶会ではないと分かった。
俺の二歩後ろで、セリア・ランバートが姿勢を少し変える。
護衛騎士としての反応だ。
王に呼ばれる。
第一王子もいる。
軍務局の件の直後。
褒められるだけの場ではない。
「セリアも同行を?」
「控えの間までです」
ラウルが答える。
「内側は、ご家族での話になるかと」
家族。
その言葉が、妙に重かった。
軍務局の会議室では、札と証拠を並べればよかった。
だが、家族の部屋では、並べるものが違う。
*
通されたのは、玉座の間ではなかった。
王族用の小応接室。
高い天井も、臣下が並ぶ広間もない。厚い絨毯と、低い卓と、壁際の暖炉。窓の外には、整えられた中庭が見える。
父王アルディリア三世は、椅子に座っていた。
王冠はない。
肩にかかる上着も、公式の謁見で使うものではない。
それでも、部屋の重さは変わらなかった。
第一王子エドワルド兄上は、父王の右手側に立っている。
背筋がまっすぐで、表情は穏やかだ。穏やかすぎて、何を考えているのか読みにくい。
母上、王妃マリアンヌもいた。
華やかな衣ではなく、淡い色の室内着だった。俺を見る目は、王妃というより母のものだった。
「レオン」
父上が言った。
「座れ」
「はい」
俺は頭を下げ、向かいの椅子に座った。
手のひらが、少し湿っている。
相手が悪人なら楽だった。
不正をした者なら、言葉を残し、証拠を並べ、答弁を求めればいい。
だが、ここにいるのは父だ。
兄だ。
母だ。
それでも、王家の話をする場所だった。
「よくやった、と言うべきなのだろうな」
父上の声は静かだった。
「王宮救済院の食材運用。軍務局装備監督官の不正。ローヴェル軍需商会の倉庫。監督官印の空白。いずれも、見過ごせば国を痩せさせるものだった」
「恐れ入ります」
「だが、王宮は単純ではない」
父上の声が、わずかに低くなる。
「お前は、数日で軍務局の一角を壊した」
壊した。
その言葉は、褒め言葉ではなかった。
叱責でもない。
ただ、事実だった。
兄上が引き継ぐ。
「バルク・ダルモアは、軽い相手ではない。ダルモア家は王都貴族に顔が利く。ローヴェル軍需商会は、軍務局だけでなく貴族院にも取引先がある」
兄上は卓の上に置かれた書状の束へ視線を落とした。
「そして、レオン。お前は今、彼らにとって危険であると同時に、欲しい存在になった」
「欲しい、ですか」
「敵意だけなら分かりやすい」
兄上は言った。
「厄介なのは、善意の顔で来る手だ」
父上が、卓の上の書状を一つ取る。
「王都軍務親睦会からの招待だ。お前の功績を称えたいとある」
次の書状へ、父上の指が移る。
「神殿慈善局からは、救済事業への助言役を願いたいと来ている。民声同盟からは、弱き民の声を拾う会への招き。王都商会連絡会からは、辺境物流の改善について協力提案。貴族院の王統保全派からは、お前に後見役を置くべきだという申し出だ」
書状は、どれも美しかった。
称賛。
後見。
保護。
助言。
協力。
文字だけなら、すべて俺を支える手に見える。
だが、父上も兄上も、その手そのものを見ていない。
手首の先を見ている。
「すべて悪意なのですか」
俺が問うと、兄上は首を振った。
「違う。だから面倒なのだ」
その答えは、すぐに腑に落ちた。
すべてが悪人ではない。
すべてが陰謀ではない。
けれど、善意の手も、人を動けなくすることがある。
母上が静かに言った。
「差し伸べられた手が、支えるためのものか、動かさないためのものか。よく見なさい」
俺は、卓の上の書状を見た。
胸の奥が、少し冷える。
軍務局では、露骨な言葉があった。
適切に処理した。
帳簿上、問題はない。
王家の威信のため。
国防上必要。
北方分は数だけ合わせろ。
今度は違う。
お守りします。
後見します。
導きます。
協力します。
弱き民のために。
どれも、きれいだ。
きれいな言葉ほど、よく見なければならない。
「レオン」
父上が俺を呼んだ。
「お前は何を望む」
部屋が静かになった。
暖炉の薪が、小さく爆ぜる。
父上は俺を見ている。
兄上も見ている。
母上も見ている。
王位が欲しいのか。
正義を振りかざしたいのか。
自分の力を試したいのか。
誰かに担がれるつもりなのか。
そのすべてを問われている気がした。
「王位ではありません」
俺は答えた。
兄上の表情は変わらない。だが、視線だけが少し深くなった。
「では、何だ」
父上が問う。
俺は、すぐに答えられなかった。
言葉を選んだのではない。
喉の奥で、何かがつかえた。
民のため。
その言葉は簡単だ。
けれど、簡単に言いたくなかった。
前世で、俺は何度も聞いた。
国民のため。
生活者のため。
未来のため。
弱者のため。
地域のため。
その言葉の下で、名も顔も消えていく瞬間を見た。
薄い毛布の下で震えていた老人。
窓口で申請書を握りしめたまま、泣く気力すら失った母親。
古い装備を使い続ける者に、予算上は配備済みですと言った役人。
制度の紙にはいたのに、最後の場所にはいなかった人たち。
俺も、その言葉を使ったことがある。
民のため。
正しい言葉だったはずだ。
だが、正しい言葉ほど、人の顔を隠すことがある。
俺は、手のひらを握った。
「父上。私は、まだこの国の民を知りません」
父上の目がわずかに動いた。
兄上も、少しだけ眉を上げる。
俺は続けた。
「王宮の報告書に書かれた民と、薄い粥の椀を持っていた子どもは違いました。軍務局の帳簿にいた兵士と、廃棄予定の靴を送られかけた兵士も違うはずです」
声は荒げない。
荒げれば、たぶん楽だった。
けれど、怒鳴った言葉は、相手の耳を塞がせる。
「私は、民を知っている王子ではありません」
俺は父上を見る。
「知らないまま、民のためだと語る王族になりたくないのです」
母上が、膝の上で手を重ねた。
兄上は何も言わない。
父上も黙っている。
沈黙は、責めるものではなかった。
続きを待つ沈黙だった。
「国とは、王宮ではないと思います」
胸の奥が熱い。
でも、指先は冷えていた。
「民です」
言ってから、俺はすぐに首を横に振った。
「ですが、私はその民をまだ知りません。だから、紙の上だけで民を語りたくありません。誰かが民のためと言った時、その民がどこにいて、何を受け取ったのかを見たいのです」
父上の顔から、少しだけ硬さが消えた。
だが、甘さはない。
「民を知らぬと認める王子は、王宮では珍しい」
父上は言った。
「だが、そのまま外へ出せば、お前は利用される」
「分かっています」
「まだ分かっておらぬ」
父上の声は強くなかった。
だから、重かった。
「お前は十三歳だ。王子で、王族スキルを持ち、しかもすでに一つの利権を壊した。お前の名を使えば、動く者がいる。お前の札を使えば、相手を黙らせられると思う者も出る」
兄上が続ける。
「お前を旗にしたがる者が来る。正義の旗だ。改革の旗だ。民の味方という旗だ」
兄上は、卓の上の書状を指した。
「旗にされた者は、自分で歩いているつもりでも、いつの間にか担がれている」
俺は、返せなかった。
前世でも見た。
理想を掲げた者が、派閥の看板にされる。
善意の言葉が、別の利権の入口になる。
民のためという旗の下で、民の顔がまた消える。
母上が言う。
「レオン。あなたが見るべきものは、差し伸べられた手だけではありません。その手が、誰の肩に置かれているかです」
静かな言葉だった。
でも、よく刺さった。
支える手。
縛る手。
誰かの背後から伸びる手。
それを見なければならない。
父上は、卓の横に置かれていた一枚の書類を取った。
「そこで、お前に枠を与える」
「枠、ですか」
「好き勝手に王宮を切り回ることは許さぬ。だが、目を閉じろとも言わぬ」
父上は書類を卓に置いた。
そこには、短い役名が書かれていた。
臨時監札官補。
俺は、その文字を見つめた。
「監札官補」
「正式な官ではない。臨時職だ」
父上は言った。
「裁き手ではない。捜査官でもない。王命を振りかざす役でもない」
兄上が補う。
「言葉、証言、証拠、現物を並べる補佐だ」
父上は俺を見る。
「お前は罪を決めるな。人を裁くな。だが、責任ある者の言葉と、現場にあるものを並べろ」
その言葉は、重かった。
俺が欲しい権限ではない。
むしろ、制限だ。
でも必要な制限だった。
札は強い。
強い力は、使う者の怒りを正義に見せる。
それが一番危ない。
「条件がある」
兄上が言った。
「一人で動くな。政務局を通せ。現場確認には護衛をつけろ。証言者を守れ。公開範囲を破るな。札だけで人を裁くな」
「はい」
「それから、近づいてくる勢力の申し出を、勝手に受けるな」
兄上の声が少し硬くなる。
「お前に来る書状は、すべて政務局と王家で確認する。後見、協力、招待、慈善、物流提案。全部だ」
「信用されていないのですね」
「違う」
兄上は即答した。
「お前を信用するために、手続きを置く」
俺は息を呑んだ。
その言葉は、少し意外だった。
信用しないための手続きではない。
信用を壊さないための手続き。
ラウルが使う言葉に似ている。
父上が、臨時監札官補の任命書へ視線を落とした。
「王家は絶対ではない」
その言葉に、俺は顔を上げた。
父上は、ゆっくり続ける。
「だが、王家がなければ、この国はもっと乱れる。外国は強い。商会は国境を越える。貴族は自領を守る。神殿は神の名で動く。民の声を掲げる者も、別の思惑を持つことがある」
父上の指が、卓を軽く叩いた。
「王家は、必要だ。だが、王家の言葉が現場へ届く途中で薄くなるなら、それは王家の敗北でもある」
父上は、そこで初めて少し苦い顔をした。
「私も、すべてを見られているわけではない」
それは、王の言葉としては弱く聞こえるかもしれない。
だが、俺には強く聞こえた。
見えていないことを認めたからだ。
兄上は黙って父上を見ている。
おそらく兄上も分かっている。
この国は崩壊寸前ではない。
民は働き者で、礼儀正しい。市場には品があり、街道には荷が走り、王都の鐘は今日も鳴る。
だが、だからこそ腐敗は見えにくい。
父上は、任命書を俺の前へ押した。
「レオン。お前を自由な刃にはしない」
次の言葉は、さらに静かだった。
「だが、王宮の飾りにもさせない」
胸の奥で、何かが動いた。
俺は頭を下げる。
「承知いたしました」
父上は、指輪を外さないまま、赤い封蝋へ王印を押した。
封蝋が沈む。
王の印が残る。
それは褒賞ではなかった。
慰労でもない。
俺を王位へ近づける紙でもない。
動くための枠であり、止まるための鎖でもある。
それでいい。
鎖がなければ、人は自分の怒りで遠くへ行きすぎる。
俺は、その紙を受け取った。
「ありがとうございます」
「礼は要らぬ」
父上は言った。
「明日から忙しくなるぞ」
兄上が卓の上の書状をまとめる。
「まずは、これらを整理する。どの申し出が善意で、どの申し出が首輪か。お前の札だけでなく、記録を見る目も必要になる」
「ミレイアを使いますか」
「書記官見習いのままでは使いにくい」
兄上は、少しだけ口元を緩めた。
「ラウルが手続きを考えるはずだ」
ラウルの仕事がまた増える。
そう思ったが、口には出さなかった。
母上が立ち上がり、俺の近くへ来た。
そして、俺の肩に手を置く。
「レオン」
「はい、母上」
「眠れていますか」
一瞬、答えに詰まった。
まさか、この場でそれを問われるとは思わなかった。
「……少しは」
「少し、なのですね」
母上の手は温かかった。
「あなたの怒りは、間違っていないのでしょう。でも、怒りだけで歩くと、あなた自身が削れてしまいます」
母上は、俺の目を見る。
「民を知りたいなら、あなたも倒れてはいけません」
喉の奥が詰まった。
会議室で責められるより、こういう言葉の方が逃げ場がない。
「気をつけます」
「約束ですよ」
「はい」
この言葉は、札にしなかった。
する必要がない。
母の言葉は、逃げる言葉ではないからだ。
*
部屋を出ると、控えの間でセリアが待っていた。
彼女は俺の顔を見て、すぐに周囲を見た。
俺が何を言われたかより、今この場に危険がないかを先に確認する。
変わらない。
それが少しありがたかった。
「殿下」
「戻りましょう」
「はい」
廊下へ出ると、ラウルが待っていた。
彼は俺の手元の任命書を見る。
「拝見しても?」
「はい」
ラウルは書面を読み、眼鏡の奥で目を細めた。
「臨時監札官補」
「仕事は増えますか」
「増えます」
即答だった。
「ですが、必要な増え方です」
それは、ローヴェル軍需商会の倉庫を押さえた時と同じ響きだった。
ラウルは、卓上の書状を受け取ったらしい。
王都軍務親睦会。
神殿慈善局。
民声同盟。
王都商会連絡会。
貴族院王統保全派。
きれいな名が並んでいる。
どれも、俺を支えたいと言う。
どれも、俺を守りたいと言う。
ラウルが言った。
「殿下。最初にどれを見ますか」
俺は少し考えた。
そして答える。
「全部、まず出所を並べます」
ラウルが、小さく息を吐く。
「そうおっしゃると思いました」
俺は、書状の束を見た。
称賛。
後見。
保護。
慈善。
協力。
友好。
公平。
どれも、王宮ではよく光る言葉だ。
だが、光る言葉の下に、誰の利益があるのか。
その手は、誰の肩に置かれているのか。
民のためと言うなら、その民はどこにいるのか。
まだ、俺は知らない。
だから、知ったことにしない。
俺は任命書を胸元に抱えた。
今度の相手は、怒鳴らないかもしれない。
優しく笑うかもしれない。
俺を褒め、守ると言い、導くと言うかもしれない。
ならば、まず見る。
言葉ではなく、その手の先を。




