最終章 前編
どんなことがあっても休息は取れる。眠りが浅くても短くても体力は回復する体になっていた。ベットに入ったのが何時だったのか定かではない。窓がないから朝日など感じないが九時を寝過ごすのは洒落にならないから早めに起きる。
早速最後の褒美は何だとボックスを覗く。
…リミットが伊達でないことが分かった。
玩具かと思う程簡単に置かれたそれは拳銃だった。
恐らく男にも同じものがもたらされただろう。俺と男に拳銃を渡したら終わる。そんな読みが窺える。
やはりコロシアムの裏にはあの男がいる。そう思うと自分が未だに下にいる気がして滅入ってくる。
切り替えて、朝飯を掻き込み、歯もざっと磨く。
そんな単なる日常の動作が滑稽に思える。生きることはこんなものかと思えてくる。
こんなことを繰り返すだけで生命は保てるのにどうして難しいものか。どうして間違えるものか。仕方ない、賢くないのだから。それだけの話だ。それだけの…はあっ、
だからありもしない妄想と後悔は苦手なんだ。自分が馬鹿だ馬鹿だと言い聞かせているようで。
しょうもない想像を置いて部屋を出る。後ろ手でなく、振り向いてドアを閉めた。
何の愛着も沸かない部屋だった。
横にずれてノックする。
「ドクター、俺だ」
は~いと間抜けな声がして今日のドクターを察する。
「おはよー」
狂う。おはようとか社交辞令の基礎の基礎、挨拶をした覚えがない。そもそも返事すらまともにしてこなかった。はいと言わずともやったし、いいえと言う気持ちは微塵もなかった。
おの字も発しない俺に苦笑しながら、いつものタオルバックを肩に掛けて出てきた。
「今日はどうすればいい?」
組む、と言いつつ個々で、ドクターに至ってはほぼ昼寝で行動していた。多少迷ったが既に今日の動きは決めてある。
「午前中は宮良のとこ行っといてくれ。午後になったら迎えに行く」
「えーやっぱ僕って邪魔なの?」
そんなストレートに訊いて自分で傷つかないか?やはりドクターは理解不能なところがある。
「いや、ドクターがいるから無茶出来る。保健室的な存在だ」
「保健室にしちゃ高度医療だよ…」
ドクターはぶつぶつ言っているが結局受け入れるのは分かっているからそれ以上はフォローしない。もとよりフォローなどできていないだろうが。柄じゃないから仕方ない。
「まあいいや。機嫌良くいきたいからね」
ドクターが何気なく放った一言に目を見張った。ドクターはそんな俺の反応を小さく笑った。
「言ったでしょ、これが一番賢い僕なんだ」
返す言葉もなかった。そんな顔でそれ言えるか。
足を動かしながら内では立ち止まっている俺を尻目にドクターは一転して不安げになった。
「でも一人でいてもし誰か入ってきたらどうしよう」
「あー」
言い切れないが、
「多分、大丈夫だ」
「…何を根拠に?」
「俺の他にも偵察者がいるはずだから」
ドクターがさすがに驚いた顔をした。
「えっ味方ってこと?」
「いや?ただ見てるだけだろ」
「僕がやられてたら助けてくれるかな」
「さあどうだか。助けようって心が沸かないかもな」
「…何者なのそいつ」
そんなこんな話しながら宮良の古巣に着いた。
「じゃ、また」
淡白に告げて引き返えす。
ばいばーい、と後ろから間延びした声が聞こえた。
屋根に上るとやはりいた。
「よっ。よく場所が分かったね」
「どうせお前が読んでるんだろ」
「だね。真崎くんは読みを読んでるわけだ」
つまらないことを言う。
恐らくドクターといたところから知られている。執拗な監視は男の真骨頂でもある。居場所がバレていながらドクターがやられないのは俺の心中までも男に読まれているからだ。男は基本的に不要なことはしない。
「さてさてお日柄もよく、」
男が伸びながら立ち上がってコロシアムを見下ろした。
「日和といきましょうか」
雲一つなく晴れ渡った空。そこに唯一かかる雨雲は俺達だった。
くたばっちゃたまんないから二人でやろう、というのが男の案だった。
実に合理的で私情を挟まない男らしい案だった。もはや乗らない選択肢はない。拒否するのは俺の私情で、不能だと思われたくなかった。
「おっ早速いるよ」
前方に三人の塊がいた。
そっちに反応しようとしたがはっとして留まり、ちらと横を窺って俺の役目を見極め、再び前方に勢いをつけた。
俺がスタートダッシュで2メートルほど離れた刹那、後ろでゴキッという音がした。振り向きはしない。その信用はある。
俺は走った勢いのまま三人に突っ込んだ。出鱈目にも見える突っ込み方だかしっかり捉えている。肘、膝、踵、身体の武器を最大限に活かして極めていく。一人は膝から崩れて呼気もなくなった。ダっと少し二人と距離をとる。そして一気に詰める。構えさせる隙はない。むしろ小さな油断で向こうにできた隙をナイフで突いた。二人が綺麗に後方へ倒れた。
開けた視界には俺と同じように倒れた人を絨毯にしている男がいた。違うのは顔だ。張り付いた微笑が俺の真顔と正反対だった。
「いい判断じゃん」
何様という誉めがきた。
いや、合っている。この男と俺の生き方なら何様や内容は置いておける。正しい立場と適切な褒め言葉だった。
それに言葉よりも男の態度が既に俺を誉めていた。前方に見えながら後ろを振り向くのは信頼がないとできない。実力、判断、そして割り切りに太鼓判が押されたのだ。割り切りに関してはまだどっち付かずで分からないが。
「やつら、組んでたのか?」
男のもとに戻りながら疑問を漏らす。
「さあ?後ろの方は後方を狙おうと企んでたっぽいけど、前は分からないな」
俺も同じ考えだった。まあ組んでようが組んでいまいが、
「どっちにしろ甘いよ」
男が俺の思考に冷たく付け加えた。言い方はフラットだが有無を言わせない迫力と実感がある。並々ならぬ経験と凍てつきがそこにはあった。
「あとどんぐらいいるんだっけ?」
男が歩き出した。切り替えが早い。その精神力は異次元と言ってもよい。
だが俺もその異次元の端くれだ。
「ざっと30じゃないか?」
「はあーまだまだだな。いっそ一ヶ所に集めてやっちゃう?」
何気ない提案のように残酷なことを言う。
「どうやって?」
こう、即座に却下しない俺も大概だ。
男が口角を上げて足は止めずに振り向いた。
「考えろよ、真崎くん」
普通、考えろと言うときは自分に考えが無くて他人に押し付ける時か、既に考えていて優越感に浸りたい時の二択だが、男の場合前者はあり得ない。つくづくムカつく男だ。
俺は密かにむっとしつつ頭を回転させる。十秒もかけなかった。
「放送を牛耳る」
男は大して反応もせずに前に向き直った。
「そうだね。一番効果的だと思う。俺達の唯一の情報源で、俺達はそれを信用することしかできない。しかもコロシアム全体に届くし、[予定変更だ。現在生存しているやつを釈放とする。グランドに集まれ]なんてアナウンスすれば確実でしょ」
男は平均的な低音の声を途中ぐっと低くしてアナウンスを真似た。
張り合うつもりはないが、全く同じ考えだった。
「どうする?やる?」
男は俺が頷けばすぐにでも動き出しそうだ。
だが俺は、信じられないが、淀んでいた。
「ちょっと待ってほしい」
真意を掴むのはひょっとしたら男の方が早かった。男は静寂の目で俺を見やり興味無さそうに前を向いた。
「お好きにどうぞ」
何度目かの冷えを感じた。冷え、…熱ッ
咄嗟に身を翻す。さっきまで俺の左肩があった場所に針が突き刺さっている。
「佐野ぉおおお!」
憎しみと針の鉄拳が俺に振り下ろされる。半歩避けて針を持った方の腕を掴み膝を使って折る。男はぐっと喘いで地面に膝を着いた。
「何なんだ何なんだお前はっ!」
男が地団駄を踏み、下から俺を睨み付ける。知っている顔だった。恨まれるだろうから覚えているリストの顔だ。
「お前のせいで捕まって、人生、俺の人生めっ…」
轟音と共に景色が一転した。
目の前で自分に向かって叫んでいた男がゴミ袋みたいに倒れていた。
「真崎くん、」
淡々とした声が場の光景と不釣り合いだった。
「人の話聴くようになってんじゃないよ」
男の拳銃から細く煙が出ていた。その向こうにある顔はどこも見つめていなかった。
思わず一歩引く。
「引くなよ。お前の甘さと一緒にするな」
男が拳銃を下ろした。
「私情で効率乱すような男と一緒にするな」
容赦ない非難だった。男は尚畳み掛ける。
「夢見心地でいたいならいろ。ただし俺は裏切りと見なす」
そんなことを言われて誰が夢を見ようと思えるだろうか。
「裏切らない。良い滅ぼし方を探ってただけだ」
言いながらその通りだと思った。甘さなんてない。ただどうせならと思っただけだ。
男は素っ気なく進み続けた。
「やるなら早い方がいい。俺らの体力があるうちに集めた方が。なにか心残りがあるなら早く片付けてきてくれないか」
言われて初めてこれが心残りというのだと知った。
そうだな。このままやるには呆気ない。
俺は返事はせずに男と進路を分けた。
案の定、寝ていた。
「ドクター、ドクター」
布団にくるまった背を軽く揺する。
「ン…っキラー?」
ドクターはふにゃにゃと体を起こした。
「なに?」
溜めることはないので一息に報告する。
「これから放送が鳴るが全部戯言だから無視しろ。乗るな」
「はーい分かりましたー」
ドクターはまた布団をかぶって横になった。あまりの軽さに念を押す。
「ここにいろよ、絶対な」
ドクターが布団からくいと顔を出す。
「それだけ言いに来たの?」
確かにそうだ。それだけだ。別に言わなくても、、でも。
「キラーちょっと変わった?」
「いや」
それは即座に否定できる。
「変われるなら変わってる」
変われるタイミングなんて今までだってあったのだ。それでも歯牙にもかけず刺し続けて来たのが俺だ。今更変わらない。唯一変われた瞬間はあったのだが、その変わり方はドクターが言ったものとは少し違う。
「そっか」
落胆の声だった。俺が何か添える前にドクター自身が振り払う。
「そりゃそうだよね。僕みたいな例外は置いといてさ、人がころって変わるわけがない」
「…残念か?」
「本能的にね。でもちょっと理性挟んだら全然」
何でもないことのように、本当に何でもないことのように言う。やはりこいつは分からない。
「あっでも怖いのいやだからパッとね、パッと」
注文までしてくる。
「分かった」
不可能な要求以外は肯定する癖があった。もっとも不可能は少なかったが。
「約束ねー」
軽。
「キラー、頑張ってね」
頑張って。そんな言葉を掛けられたことかあっただろうか。ない。でも今回の励ましは内容が内容だけに別に嬉しくはなかった。
言うことは言ったので潔く立ち去ることにする。
「キラー」
歩き出した背に声をかけられた。
「自分を、憎まないようにしたい」
幼くない、掠れた声だった。心から発するのを無理矢理押さえたような苦痛の声だった。
反射的に振り返りそうになるのを堪える。振り向いたところで何も出来ないのだから。
「そうか。」
脈絡はないのにしっかりと繋りを感じたことだけが気にかかった。
「気は済んだ?」
屋根の上、相変わらず容赦ない訊き方だった。素直に答えるのは癪で、黙認で済ませる。
男が伸びやかに立ち上がった。
「じゃあパッと行こう」
言った途端フワッと躊躇なく屋根から飛びおりる。心配なわけではないが末路を覗いてみる。男はグランドに着く前に体を丸め器用に地面を転がって衝撃を吸収した。
「早く」
口の動きだけで急かされる。
俺も軽く足場を跳んだ。男と同じ軌道を辿る。ぱたぱたぱたとキレ良く転がってすたっと立つ。
男は見届けず既に歩き出していた。早歩きで並ぶ。
「俺は放送元把握してないぞ」
正直に自分の領を出す。男は前を向いたまま答えた。
「そんなものない」
そういうことか。
「やっぱ遠隔だよな」
いわばラジオだ。どこか遠くからボタンひとつでスピーカーから流されている。つまり放送室なるものはコロシアムには存在しない。だからスピーカーを占拠することは出来ないのだ。
どうする、と訊きかけてやめた。この男のことだ。考え無しで歩いているわけがない。
「どこへ行く」
これだけは訊いてみた。
「俺の隠しロッカー」
何だそれ。心中で突っ込んだが表は動じない面を貼り付ける。
男はそれ以上は言わずに黙々と歩く。歩く、歩く。この辺りから単に歩くとは言えなくなってきた。壁やカーブを淡々とこなして進んでいく。ドクターならすぐに息が上がる道のりだ。俺達は少しも呼吸を乱さずに無言で進む。
「よっと」
男がはじめて声を上げた。ただのお飾りの掛け声であることは分かる。男に続いて壁から飛び降りる。
トンと降り立ったところは、宮良の隠れ家に似ていた。
「ここって意外とこういう場所あるよね。端の方は草ぼうぼうで」
あるよね、把握がまたヒヤリとさせる。
さっと見渡して俺の視線は一点に釘付けになった。二体の、それは、。
はぁあ?と低い吐息が漏れた。
「さっさと剥いで」
男は俺の愕然とした雰囲気を歯牙にもかけずその二体に近づいていく。
俺にとっては暗黙のルール外だった。
「いつやった?」
「昨日。服は汚さないようにやったから大丈夫」
平坦で何の感情もない報告だった。
何で、いいのか、そんなことを重ねたってこいつの胸を打つことはできない。ここは俺が割り切る場面か。
「ルールなんてないからな」
釘のさし方というか制し方というか、男は脅威だ。相手を見透かして的確に突いてくる。
これ以上は本当に何も言えない。尻尾を出したら今にも捕まれそうだ。
俺は黙って男が雑に扱っていない方に近づいた。恐らく絞め殺されたであろう血生臭くない死体は、それ事態は問題ではなくて、着ている服が驚愕させた。
俺も男と同じように剥いでいく服は俺達の作業服とは違う。初日の夜に見かけた臆病な目の[運び屋]の服だった。
それはこの男が微塵も期待していないことを思わせる。それどころか血が冷えきっていることを更に気付かせる。
それを感じていながら手を止めない俺も大概なのだろうか。待て、先ずなんでこんな気持ちになる。変わらないだろう、別に。
俺は何気なく表情のない蒼白な顔を見る。
あ、ない。凶器染みた目尻や本音を隠した口元、感情で動かない黒目、全部なかった。
つまり人殺しの人相がそこにはなかった。のみならず、罪悪人の面もなかった。
だから違うのだ。俺は今まで罪悪人を裏で成敗してきた。だが一般人をやったことはない。
こんな気持ちなのか。初めて人を殺すということが分かった気がする。何人もの犠牲の上で、しかし今まで全く動じずロボットのようにやってきた。
ようやく気付いたそれは罪悪感だった。完全に自分が悪者になる。別に悪人とか善人とか思わずに凍った心でやり続けてきた訳だが、もし対象が違ったら何か変わったのかもしれない。この罪悪感というやつに駆り立てられてあの男から逃げたかもしれないし、反対にもう悪に落ちたならいいやと投げやりにもっと捨て身で続けたかもしれない。投げやり…
「何笑ってる」
男が冷めた目を向けてきた。いつのまにか口元が弛んでいたらしい。
「いや、」
俺はすぐに口元を直した。
「結局変わんないって話」
投げやりになんてとっくになっていた。俺の体を俺よりも気遣ってくれた母さんがいなくなった時点でどんな怪我をしてもいいやと思ったし、父さんが買ってくれる物の他には何も欲しくなかった。
俺の未来を誰よりも楽しみにしていた両親がいなくなった時点でもう自分の未来などどうでもよかった。
「真崎くんさ、よく考えるよね」
男は既に剥ぎ終わって黒い作業服のジッパーを下ろし始めた。コロシアムでは肌着は支給されないので裸が露になる。引き締まった身体だ。
「増えたでしょ、ここに来てから考えること」
たしかにそうかもしれない。今までは考える前に凍らせていたことがここでは離してはいけない気がして。
「実に今更だね」
体の根幹を突き抜かれた。
「何、睨んでる?」
指摘されて反射的に目を逸らした。睨みなどこの男に向けてはいけない。
「本当のことでしょ。ほんと、真崎くんがどっち側なのか分からなくなるよ」
「今更でも無駄じゃないと思った」
捩じ込むように言う。
「ここに来て、考える頭がまだあることを知れて良かったと思ってる」
言いながら自分の本音に気付く。
「むしろその頭すらないお前を可哀想に思っ…」
右肩だけ脱ぎ落とした作業服を乱暴に掴まれた。
男が今までに見たことのない顔をしていた。いつも貼り付けている微笑がそこには無かった。近距離で見ると目尻に小さな皺があった。しかし全身から若い魂を粛々と感じる。
思ってもないこと言うな、若造が。遂にそういうことを言われるかと思った。
「何だよ」
言えよ、言ってみろよ。
だが男は胸ぐらを引き放った。
「その面で俺に勝ち目はないね」
いつもの本心を包んだ外面の良い声だった。
そこで潔く勝ち負けに持っていくのがこの男だ。男の必要性の勘定はいつだって速く的確だ。そうやって自己防衛もしてきたのだろう。だから男の中身はつるつるの茹で卵だ。本当はひび割れた殻でも気付こうとしないから。
「羨ましいとか思わないのか」
惜しくてつついてみる。
男はすっと前を見て少し考えた。
「…分からない。」
分からないことに何も思わないのか。そう続けようとした言葉が憚られた。
「でも、どんな感じなんだろうって思う。真崎くんの中にはいるでしょ、誰か、あったかい人っていうか嫌われたくない人みたいな?」
いる。正確には、いた。もう残り香を嗅ぐことしかできない。それすらシャットダウンしていたから嗅げるようになったのもここに来てからだ。
「そういう人が俺にはいないから。いたら違ったかもって。ただ可能性でしか想像出来ないけど、今俺が持ってないものが手に入った気がする」
男の言葉は全て臆測だった。表情は変わらなくて相変わらず真意と虚が読めない。
「良かったかもって思うのか」
「さあ?俺はこの生き方しか知らないから、何が良くて悪いのかも分からないよ」
善悪が分からない。恐らくこの男しか素で言えない。
「良いもんだと思う?真崎くんは」
淡々と着替えながら放たれた問いの答えは暫し要した。
「良い。…けど、悪い」
男が微かに笑んだ。
「その心は」
「俺は向き合うのが遅すぎた。ずっと逃げて、振り向いたときにはもう支えにはならないくらい遠くに行ってしまった」
それは俺と向こうが正反対に歩いてしまったのだ。もう駆け戻れない距離まで進んで、振り向いても古い思い出ばかりで今の手助けにはならない。もっと早ければさっと手を引いてくれたかもしれないのに。
そう言うしかない今の俺が客観的に悲しかった。
「申し訳なくてならない。いっそいなかった方がただ俺の悪だけで済んだのに、残念な顔するだろうとか、嫌われるだろうとか、無条件の好きも無くなるだろうとか、そういうことを考えて苦しくなる。これから会えても、ずっと下向いてるしかない。見たいのに、本当は撫でて欲しいのに、自分でその自信を棄てたことが哀しくて情けなくて、もう何の意味もないって思ってしまう」
どうしてこんなに男に垂れ流しているのか分からない。言うつもりのないことが漏れていく。
ああ、これは祈りかもしれない。いや、祈りなのだ。きっと心で俺は願っている。まだ願っている。叶わない願いを、ずっと。それを向ける相手は一番間違えているが。
「ふうん。」
男は相変わらず興味があるのかないのか。
「というか、これから会えるって、真崎くんは天国に行くつもり?」
真意を図りかねて答えられなかった。
「地獄に行けばいい。そしたら会わなくて済んで、下向くこともないよ」
身体も心も停止した。驚愕だった。
悟られまいと慌てて身体は動かして服を着替え終えたが、心は静止したままだ。
この男は、一体。罵りも覚えない。ただただ驚いて言葉が出ない。
待て。
驚愕な中で俺は静かに火糞笑んだ。
「よし、じゃあ予定通り」
俺の着替えを待って男が歩き出した。
着なれない服に居心地が悪い。周りからどう見られているのか考えると尚更着心地が悪かった。
早く脱ぎ捨ててしまいたい衝動に駆られながら男を追う。来た時と同じ道を辿って軽々壁や障害を超えていく。
お前みたいに動けたら羽が付いたようなんだろうな、いつか言われたことがある。俺にとってはこの動きが当たり前だから何も思わないが、体が重苦しいと感じたことはほとんどない。
グランドに着いた途端、男と歩き方を変えた。勿体振るように仰々しく、あくまで上司と部下のような距離感でグランドの開けた場所まで行く。数人が遠巻きに俺達を眺めていた。
適当な場で立ち止まり、男が全体に向き直る。
「連絡だ!」
視界内のやつらが殺気を止めて注目する。
「条件が変更された。残った一人ではなく、最終日の今、残っている全員を釈放とする」
空気が動いた。浮き足立つ圧を肌で感じる。
「残っている者は十分以内にグランドに集まれ!集まらなかった者は死亡とする」
言い終わるやいなや数人が寄ってきた。用心深いやつはまだ遠巻きに様子を伺っているが集まるのも時間の問題だろう。
男は同じことを叫びながらコロシアムを周回する。付いていく俺も厳然とした雰囲気を纏い生真面目な面を作る。
男が一角で更に声を張り上げた。意図的が見えて苦笑しそうになる。やはり気付いている。そこは宮良の隠れ家へ続く通路の入り口だった。
男は一頻り声を張り上げて次へ行く。転々としながら十分の制限時間を正確に削って知らせていくのは隙の無さの表れだ。
「そろそろいいか」
男が引き返し俺も続く。もとの位置に戻ると二十人くらい集まっていた。遠巻きにしていたやつらも寄ってきたようだ。
「で?」
小声で男の耳元で囁いた。わざわざ訊いたのには、俺は単純にまとめてやるのは嫌だという主張を籠めている。いくらなんでも昨日の最後のようにやるのは疲れた。それに数が昨日より多い。
男はいつもの微笑のまま、まあまあと俺を均した。
「言い忘れていたが一つ条件がある」
わざとらしいな。勘の良いやつは雲行きに気付くだろう。だがその隙も与えず男は一息に言い放った。
「今ここに二十人いる。十人ずつで二列に並べ」
異を唱えさせぬ口調だった。微笑を消してワントーン低温にし、柔らかい語尾もない。
俺がサポートにまわり、二列に並ばせる。並んだところで男が一声、
「向き合え。」
これまた有無を言わせぬ口調で全員が怠そうにも向き合う。
俺は既に読めているが、やつらは次の言葉にも従うのだろうか。
「目の前のやつを殺せ。勝ったやつを釈放とする」
空気が凍てついた。戸惑いを肌で感じる。じりと後退りするやつを逃さず男が制す。
「やめるのか?」
何を、が省かれた問いかけの効果は絶大だった。それぞれがその空白を埋め、向き直る。ここでやめるのが何を表すのか、分かっているはずだ。
「よし」
教官のように言い、
「はじめ」
雄叫びがコロシアムの空へ突き抜けた。
それから先はどうしてこれが直視できようという光景だった。
死に物狂いで拳を振り上げ、叩き込んで叩き込んで、倒れろ倒れろと魂胆を籠める。ここまで残ってきただけあって一打一打は重いが決定打に乏しい。よって血生臭さが続く長期戦になる。
なぜそれをこんなにも冷静に見れてしまうのか。それどころかもっと首狙えだの隙だ蹴れだの思っている。
そして遂に思うのだ。
俺ならこうする。
この場の監督になれてしまう。この、生き際の戦場の。横の男も同じだろうか。
盗み見て、戦慄。
男は笑んでいた。睨みの効いた仏頂面の俺とは真逆だ。口角を上げ余裕綽々の様子で腕を組む姿はあまりにも場に不釣り合いで、いよいよ男が分からなくなった。
俺の視線に気付いた男が俺に耳打ちしてきた。
「勝手に半減してくれるなんて有り難いね」
表情は崩さず凍てついた。何も応えない俺に飽きて男はまた余裕な監督に戻った。
目の前で一人倒れた。起き上がろうと立てた腕を容赦なく蹴られている。ついに潰れてまた顔を踏みつけられ二度と起きなくなった。
一心不乱に踏みつけていたやつは荒い息を吐きながら空に発狂した。勝利の雄叫びだった。また一人、また一人、倒れては雄叫びが響く。
男はそれを満足気に眺めている。俺は両方を無心で受け入れる。
なぜ。人が何人も倒れて喘いで死んでいくのに、生を求めて手を伸ばし続けているのに。
もっと酷くやったやつもいたよ。そう思う自分がいる。結局自分も同じなのだ。男となんら変わらない。微笑か真顔か、それだけの、表面だけの違いだ。
せめて屈辱に思いたかった。でもその感覚は既に埋没していた。
「よし、終わったな」
男が呟いて、絨毯とかろうじて立っている十人へ一歩踏み出す。俺はその場で背筋を伸ばした。
「ご苦労」
恐らくその台詞は違う。束の間役が抜けたのかもしれない。
「お前達を釈放とする」
その一言で十人がふっと脱力した。男が小さく跳ねたのが見えた。
シュタッスッタッ
同時に飛び出し別々のやつらを仕留める。完璧なタイミングだった。気の抜けたところを遠慮なく突く。拳銃を出すまでもない。第一あれは弾数が限られていて、無駄遣いできない。だから全身を懸けて骨から終わらせていく。男も思惑は同じらしく、身一つで処理している。これで留め。既にふらふらになっているやつの首を捉えて捩じ伏せた。
「真崎くん」
男は僅に先に倒したらしい。
「やっぱりただじゃいかないね」
はっと顔を上げると、もう迫っていた。ここまで来たんだ、こんなところで。そんな意気を身で感じる。ここまで残ったやつらはそこそこやる。それを今感じる。
八人が巴になって俺達を攻めてくる。だがさっきの見物で休息が取れた。あれぐらいの休みで回復しなければやってこれない。とはいえしぶとい。
「真崎くん、背中」
俺はさっと男の背をとった。
色々考える余裕はない。気を抜けば危ないとまさにさっき学んだ。どんなに強くても束の間の緩みで引っくり返るのだから。今は男の盾になるのが堅実だ。
取り囲まれたがこの中心は爆弾だ。バン、バンと破裂して周りを広げては攻められて倒してはまた加勢してこられを繰り返す。
ぼろぼろの体を命への執着心で動かす敵に少し苦戦している。何とか目の前のやつを殴り倒す。息吐く間も無くまた反射で避ける。
「真崎くんっ」
男の語尾が揺れた。息切れの揺れではないのは分かる。なら何故。
「ワァァアアア!」
出鱈目な威勢と共に新たな男が駆け込んできた。見開かれた目、その顔、
「ドクター!」
久し振りに心からの驚愕が出た。その後も呆気にとられつつ殺陣をしながらドクター、ドクター?と間抜けに口ずさむ。だが何度呼び掛けてもドクターは反応しなかった。
もう十回は呼んだだろうか。ここにドクターはいないと悟った。ここにいるのは、ドクターが最も嫌いな人間だ。そいつは他のやつらに紛れて俺達を攻めてきた。揉みくちゃにされながら生を叫ぶ。
俺は無意識にそいつだけは攻められてきても押し返すだけにしていた。他は容赦なく殴り込む。男も俺の様子を見て同様の対応をとっていた。
だからそいつは残った。他のやつらは力尽きてぐったりとグランドに埋もれた。そいつだけがぜぇぜぇと荒い息を吐きながら傾いで立っている。
俺は男の背から離れた。ふらふらのそいつは向かっては来ず、しかし後退りはしなかった。俺は歩いて近づいていく。感情は切った。
あと数歩、もう数歩。ナイフは出さない。腕を伸ばせば届く距離。
正々堂々、殺す。
拳を真っ直ぐ胸の左寄りに叩き込んだ。ゴホッとむせるが倒れない。意外としぶといじゃないか。しぶといやつには一撃で終わらそうとせず外堀を埋めるように削っていく。無論、こちらを削られないことが大前提。
休むことなく拳と蹴りを炸裂させ、ひびから折っていく。肋骨はほとんど折れただろう。なのにそいつは立っている。その口元がにやにやしていた。にやにやの中に死ね死ねと混ぜ混んでいる。やはりここにドクターはいない。こんなに殺し合いを楽しむ顔はなかなか見ない。狂気だ。サイコパスだ。ただの他人の擦り傷をあんなに素速く処置する人とは程遠い。
だからお前をやる。今、最もドクターと遠い位置にいるお前を。
渾身の力を籠めて胴を殴り付ける。ずさっと倒れた。即座に乗り込んでマウントを取る。
そいつはまだニタニタしていた。俺の両腕をきつく掴み力ずくで剥がそうとしてくる。思いの外強い力だった。だがそんなものには劣らない。腕にくい込む手をそのままに、より強い力で無理矢理腕を振り上げ両手ともどもそいつの胸に落とした。
感触がした。衝撃で心臓が止まったのだ。
心臓が止まったとて、同時に意識が止まるわけではない。そいつはうっと顔を歪め、俺の腕を掴んでいた手は力失く離れた。
俺はさっとその両手を拾った。
「果たしたぞ、ドクター」
そいつの口角が柔らかく上がった。
ドクターは静かに俺の下で息を引き取った。
「なあ、もういいか」
俺はドクターの手を離した後即座に立ち上がり、男の方も振り向かずすたすた歩いて水道へ向かった。そこで黙々と手を擦り洗っていた。
男がゆっくり追いついてきてからも流音は続いた。男はしばらく腕を組んで見守っていたが、もはや狂ったように手を洗い続ける俺を咎めた。
だが俺は止まらない。まるで強迫性障害だ。洗っても洗っても落ちない。こんなに何かを洗い流したいと思ったことはない。汚れたと自覚したことはない。
男がつかつかと歩いてきて横からさっと俺の両手首を掴みとった。
「これは真崎くんにとって矛盾だろ?」
はっとした。男の言う通りだった。
男に緩く掴まれた右手を抜かし、蛇口を締める。濡れた手で髪を掻き上げる。冷気が水気の額を冷やした。
「取り乱した」
素直に報告すると男はまあいいという風に身を翻した。俺も今のことは忘れようと思い、切り替えて男を追った。
だが過った。これでいいのか。
足が立ち止まりかける。
すっと息を吸って想像する。もしもの未来。ドクターが頂点に立って……絶望する。
やっぱりこれでいい。俺が全部背負う。
再びスピードを上げ男を追った。




