最終章 後編
「まだいるね」
集まりきらなかった分を探しながら除いていく。
「あと十くらいだよね」
「ああ、探し出してくしかないな」
ここまでくると警戒心が強いやつが残ってくる。だから不用心に俺達の前に出てくることはしない。それどころか意図的に姿を眩ましているようだ。
さっきのような手は通用しない。取り敢えずしらみ潰しだ。コロシアムの端から捜索する。隠れていそうな所を覗いていく。
「あ、いた」
男がひょいと縁を掴み覗いた高い壁の向こうにやつがいたらしい。男は足が宙に浮いたまま、腕の力で体を持ち上げ、向こう側に飛び降りていった。ほんの数十秒後、両手が縁にかかって男の上半身が飛び出た。
「1完了っと」
音もなく地面に着陸し、何事もなかったかのように次へ向かう。疲労もダメージもあったもんじゃない。そういう俺も何も思わない。
しばらく歩いて両側に高い壁が聳え立つ道へ入る。ドクターを横抱きで受け止めた場所だ。
かさっ。左耳を物音が過ぎる。
「いる」
即座に小声で男に報告する。男は気付いていなかったようでどっち側かと訊いてきた。親指で左を指しつつ、初めて歳の差を感じた。僅な聴力の差だけだが。
ここは階段上の壁のまだ低い方でドクターを受け止めた地点の壁よりも5メートルは低い。
だから、いける。
男と頷き合う。俺は男から距離をとって、男目掛けて駆け出した。激突する直前、地を蹴って男の組んだ腕を両足で踏みつけ、飛ぶ!
男の腕力と俺の助走と脚力が相乗、高く高く空へ飛ぶ。頂点で体を動かして調整する。
やっぱりいた。壁一枚向こう側のやつへ、堕ちる。やつはあんぐり口を開け、動かないまま俺の足元に沈んだ。
足場が悪いから捻挫しないか心配だったがうまく乗れた。どこも痛くない。多分やつも痛みを感じる前に逝っただろう。
男に届くよう声を張る。
「完了!」
「OK。じゃああっちで合流しよう」
やつから降りて歩き出す。端は壁がなくつながっている造りだ。
にしても、チアリーダーのような技だった。たった数日前に会った、しかも心から信用していない相手とやる、それは信頼関係と鍛練を補う運動神経がお互いにあったといえる。抜群の運動神経がなければ大怪我だっただろう。男も俺も無傷なだけ割り切れていたという話だ。
いつの間に俺も大人になったもんだと思ったがそういうものではない。あの時に死んだから割り切りが出来るようになっただけだ。
「よっ」
男が角から顔を出した。
「素晴らしい跳躍だったね」
あまつさえハイタッチの距離感で来て、俺はさっと避けた。つれないなあ、と呟きつつ男もすぐに手を引っ込める。
「これであと八か。この辺にまだいると思う?」
「多分いないな。点検してってからでいいが」
念のため端を歩いて壁の間を確認していったが案の定いなかった。俺達の動向を意識しているはずだからもうここを警戒して離れただろう。
「どうする、次」
壁の森から抜ける頃、俺が投げやりに訊いたのはこの効率の悪いしらみ潰しを焦れったく思ってきたからだ。
「焦りは禁物だよ、真崎くん」
ざらりとしたのは男の言い方が癪に触ったからではない。その言い方が可能な時点で何か方法があるということだ。
「じゃあ行こうか」
さらりと男が踏み出した。
俺は唖然としていた。
男が何やら目的地があるようにずかずか進んで行くのについて行くと、草某某で周りを囲われた場に着き、一人いたのだった。余裕綽々で寛いでいたところに大敵が来て、やつは大層驚いていたが、俺も同じだった。男は微笑で近付いていき、やつがはっと逃げる前にナイフで鎮めた。心臓を一突き。さらに脳幹に響く勢いで顔面を殴り付ける。完封。男が振り返り横をすり抜けた。
「じゃ、次行こか」
微笑と歩調は変わらず、次へ向かった場所も似たようなところだった。要するに隠れ家的な場所だ。ただし、宮良のように住み着いている感はなく、あくまで身を隠す場だ。そして、いた。またも男は近付いていき、やつの思考が追いつく前に片付けた。
「えっと、次はー…」
「待て」
あまりのテンポの良さについていけない。
「なに?」
男がようやく止まった。俺が訊く前に男が悟る。
「ああ、なんで知ってるか?」
頷くのは嫌だが沈黙も同じことだろう。
「当たり前だよ。誰よりもこの場を陣地にしなきゃ頂点には立てない。知り尽くさないと不安だろ」
言いたいことは十二分に分かるが、それが出来るかはまた別問題だと思う。
「それに最終的にこういうかくれんぼゲームになることは読めてた。だったら先回りして隠れ場所を知っておくのみ。幸いやつらの思考は全く俺の範疇を越えないね。楽なことこの上ない」
聞きながら無意識に唇を噛んでいた。自分の至らなさが見える。先を読んでアドバンテージを完成させた状態を作る。それを出来なかったのかやらなかったのか自分でも分からなかった。その分からないことが至らない。覚悟持ってるだろ、ならやれ。男からも自分からも忠告を感じる。やはり男から見たら俺は甘い。
「真崎くんなら把握してるかなって思ってたんだけど。やっぱり青いね」
台詞だけなら単なる罵り、しかし声音が悲しげで余計に混乱した。
そんな俺の心中など知らず、男が切り替える。
「質問はもういいかい。じゃあ行くよ」
またも男は的確にやつを見つけた。やつらと男の命懸けのかくれんぼは完全に男の掌だった。男は探す方は勿論、捜される方にも豊富な経験がある。能力の時点でやつらに勝ち目は無いのだ。
それは俺に置き換えても同じ筈だ。負け惜しみではないが、多分同じことが俺にも出来た。それが分かるから余計に駄目だった。揺らぎを見せるな。お前の哲学を信じろ。改めて言い聞かせないといけないくらい、何に揺らいでいるのだろう。今更、本っ当に今更。
そう、だから今更だから、。
「おい、次は俺がやる」
男が微笑の口角を更に上げた。
男が連れてきた場所にも当たり前のようにやつがいた。違うのはやつも俺もお互いに見知っていたことだ。それで瞬時はっと止まってしまったから、男と同様の手が使えなくなった。やつが身構えてしまったのだ。
男が横でふっと呆れ嗤う。そのまま一歩下がったので完全に俺に任せる流れだ。
外套の内からナイフを取り出し、さっと回して握りを良くする。
やつは針を握っていた。それくらいは殺したということか。ネットの闇バイトの実行役なだけある。俺が幹部を殺したことで全てを崩したが。だが同じように誰かに使われる駒であったやつは殺さなかった。ーただそう指示されていただけだが。
男が見ている。何を望んでいる。俺の辛さをみたいのか。いや、今俺が見せるべきなのだ。だから、徹底的にやる。
「おい、覚えてるか」
まさか話し掛けられるとは思っていなかったのだろう。やつが少し面食らった。
「忘れるわけねぇだろ。俺の人生ぶっ壊したのはお前だ」
数え切れないくらい、そう思われているのだろう。それが俺の手を止めないか、男は探っている。
「お前がっいなければ、いや、せめて、」
やつの膝が震えていた。
「俺も殺してくれれば良かったんだ」
初めて言われた。
俺は今まで、俺の飼い主が指示した通り忠実に役目を果たしてきた。組織がターゲットの場合、大抵は全壊を求められた。だがときたま、利用したり弱みを握るために人を選んでわざと生かした。やつもその一人だった。やつの父親は政治に関係の深い人物で、息子の犯罪加担を世間に隠すのを条件に、飼い主を政治に招いた。ただし牢屋には入れないといけないので海外移住を装っている。手配はもちろん飼い主。
「苦しいんだよ。なかったんじゃない。いないんだよ、もう俺が。犯罪がなかったようになったことが苦しいんじゃない、いないように扱われるのが苦しい」
やつの足はガクガクしていた。崩れそうなのを堪えて、短い針の先だけをなんとか真っ直ぐ俺に向けてくる。ーそれを聞いて俺は、俺は…
「フッ」
笑った。俺は僅かにかかる前髪の隙間からやつを睨み嘗めた。
「自業自得だろ」
また一つ、心が奥へ行った。やつの表情が凍りついた。この上ない絶望、そう見える。だが、俺はその上を知っている。だからお前をやる。
俺は足まで動かなくなったやつへぐっと距離を詰め、心臓をひとつき。返り血を胴に受ける。スローモーションのようにやつが後ろへ倒れていった。不思議と地面に着くときの音がしなかった。かわりに自分の荒い呼吸音が聞こえた。
「よくやったね」
男が常と変わらぬ声で近付いてくる。肩に手を置かれた。
「よーく分かったよ」
耳がざわついた。こんなに危ない橋を渡っていたのかと自覚するほどに。
さっ 気配。
振り向く間もなく小さくおいと呟くことしかできなかった。だが常に張っている男には十分だ。
少し歩きだしていた男は振り向きざまナイフをかざす。俺の脇をすっと抜けたやつがそのまま男に距離を詰めるところだった。しかし咄嗟で確実に捉えた一撃ではない。やつはよろめいただけで立っている。
その目はもう死んでいた。
「おれ知ってる、お前」
死んだ目が男を見つめる。俺は蚊帳の外だった。男の方は相変わらずの微笑を浮かべている。
「苦労した、お前の後片付け」
なるほど、理解。男とやつの関係が分かった。拙さが見える話し方も表社会との隔離を思わせる。
「お前が上手くやらないからおれはここにいる」
ああ、だから。死んだ目が理解できた。感情を入れずにここまでできるやつというわけだ。
「よく俺の顔知ってたな」
「ほぼ専属だったから。お前こそ認識してたんだな」
「当たり前だよ。…お世話さまでした」
男は言い終わるやいなやナイフを首の位置で水平に払った。あまりに容易く単純な動きで血が噴き出す。
「さよなら。二度と会いたくないよ」
本心かジョークか量りかねる口調で言いながらやつは倒れていった。
男は、さ、行こうかという調子で歩きだす。
これが違いか。全く変わらない律動的な背中が、小さくも大きくも見えなかった。等身大なのだ。男にとっては。
俺は早足で男に追い付く。
「お前が知り合いと会ったのは初めてみた」
「ああ、知り合い、そうだね。殺しは得意じゃないと思うんだけど、立ち回りが上手いやつだったから残ったのかもね」
感情がないことは気配がないことに近い。やつからは息遣いを感じなかった。ひょっとしたら男よりも感じなかったかもしれない。
「あれ、成功例だよね」
思わず足が止まりかけた。何とか筋肉だけで動かす。
だよね。同意を求めるような文末といい内容といい、耳を疑った。咎めなのか、単なる会話なのか、昔話をしてるのか、そもそも俺に向けたのか、自分に向けたのか。含もうと思えばいくらでも含める発言だった。
内だけで量りかねて男の表情を盗み見る。
分かった。いつもの微笑の端が僅かに下がっていた。男の同意は自分に向いていた。
成功例。男の人生では重要であろう言葉だ。男はそれを他人に合わせて俯瞰に眺めていた。成功と失敗。その間がない世界で生きてきた男にとってその行為が何を意味するのか。自分は失敗作だ。そう宣言しているのと同じだった。
今、ここで、俺に向けて。
何なんだよ。何なんだよ、何が言いたいんだよ。だったら、だったら。
ふっ。
短く息を吐いた。
取り乱しそうだった。落ち着け。今じゃない。
あと片手だ。
「腹減った」
すたすた歩いていた男が唐突に立ち止まった。
俺も空腹を感じつつあったので近くの壁にもたれて同意する。男も壁に背をつけてすとんとしゃがんだ。外套の内からラップに包まれた握り飯を取り出す。
「笑えるもんだね。こんなときでも腹が減る」
男が飯をほおばながら苦笑する。
確かにこの状況下で、日常的な普通の人のような空腹だけが浮いているように思える。どんなに持久力があっても例え二食抜いて通常業務がこなせても、腹は減る。
そういえばそういう生理現象で[生]を感じていたと思い出す。それくらいしか感じる瞬間がなかったのだ。
男がむさぼりながら口を開く。
「笑える普遍ついでにありきたりな会話でもする?」
「なんだそれ」
男の求めることが掴めない。男は俺に構わず始める。
「じゃあ真崎くん、好きな食べ物は?」
そうくるのか。
一応考えてみる。食べ物。関心がなかった。出されたものを食べるだけ。少なくても塩辛くても何も言わないかった。その程度で好きでも嫌いでもなかった。だから、多分好みがあったのは前。
ただ、思い出すことができない。身体にさせてもらえない。思い出そうとすると芯がヒリヒリと音を立てる。発熱しそうな、悪寒で震えそうな。
「忘れた」
身体を乗っ取られる前に口をついて出た。
「あっそ」
男は格別興味も無さそうだ。
「お前は?」
形式的に訊いてみる。男が噛むのを止めて僅かに上を向く。が、すぐに苦笑してまた握り飯にかぶりつきながら言う。
「分からない」
その言葉に俺も苦笑した。
俺達は定型文の会話すら出来ない。好きな食べ物は?忘れた。分からない。なんて味気ない日々を過ごしてきたのだろう。いや、味を感じようとしてこなかったのか。きっと味など求めていなかったのだ。…求めてたまるかよ。
「ところでさ、おいしいって何」
男が二つ目の握り飯にとっつきながら何気なく言った。
「は?」
おいしいって何。って何。男を凝視したが動じる気配はなく、あ、本命の質問はこっちか。
「…おいしいって、いつ言ったっけ」
呟くと男が反応した。
「おいしいって誰かに言うものなの?」
あ?何なんだこの男。でも言われてはじめて気付いた。言う人がいたからおいしいと感じたのかもしれない。おいしいなんて一人で感じても心の中ですぐに消える。だから、、なんだろうな。おいしいって、
「人に、言いたくなる味。一緒に食べたいと思える味」
へぇと、男はやはり興味があるのかないのか分からない。
「じゃあさ、おいしいって思うときは一緒に何かを食べたい人といるってこと?」
…心が凍る。駄目だ。今じゃない。抑えろ、収まれ。
「まずいな、この握り飯」
その言葉に留めるのが精一杯だった。男は同意も反対もしなかった。それがまさにこの男らしい返事だった。握り飯を食べ終わり、立ち上がる。ぐーっと男が腕を伸ばす。
「さてと、あと三くらいかな」
「ああ」
「ここからはもはや運だね」
男でも居場所を把握していないということだ。
「実力か、隠れ上手か」
「一人は完全に実力だね。あとは知らないから隠れ側かな」
「実力派は俺も知ってる」
「やったことある?」
「ない」
「俺もない。噂によると武力に秀でて頭脳はそうでもないらしい。だから俺達より早くブタ箱行き」
直接やりあったことはないが、ブタ箱に行くまでは裏の三強の一人であった。一番になりたいとかそんな向上心があるやつはいないから無理に三つ巴などしたことがないが。
「真崎くん、体力は」
歩きだしながら男がきいてくる。
「残ってる。お前は」
「あるよ。どうする、後に残すか、先やっちゃうか」
訊くまでもないだろう。
「先だ。たまたま残り二人が見つからない限り、体力があるうちにやっといた方がいい」
「そりゃそうだ。だがな、」
男がにやりと笑った。直感。俺は頭をがっと下げた。
前屈みに前に数歩進んでもといた場所を振り返ると、さっきまで頭があったところにナイフが突き刺さっていた。
すると突然前にいた男がずしゃーっと右足を横に伸ばして綺麗な着地の形を決めた。そのままぐるっとコンパスのように回転して相手足を払おうとする。相手は咄嗟に後ろに飛んで避けた。
「いきなり二人で挟み込みね」
男がにたにたしながら立ち上がる。
この二人がおそらく男も俺も知らないやつらだ。
男が前のやつから目を離さず背中をつけてきた。背中合わせでそれぞれのやつを注視する。
っ!
次の瞬間、背中が離れた。
やつらが逆方向に走り出したのだ。俺達は反射で自分の目の前にいた方を追った。組んで間もない俺達は基本的に独り行動に慣れている。
まるで迷路のようなコンクリートの壁に挟まれた狭い通路を駆けていく。障害物はない道でやつは工夫もなしにただ走っていく。足は速くて距離が縮まる感覚が薄かった。
スピードとくねりや分岐点がある複雑な道に、いつもは失わない方向感覚と帰り道を記憶しておく余裕が削られる。
あ、これもしや、
全速力で走りながらよぎったが考えを深めて動きを変える余裕もなかった。でも直感はまだ動く。
まずい
突き当たりになりやつが止まった。俺はやつの手前四メートルで止まる。
さて、どっちかな。
かさっ
後ろから足音が聞こえた。
横を向いて前後のやつらを視界にいれる。俺は火糞笑んだ。
俺か。
さっき男が追っていたやつだった。
謀られて、一対二を作られてしまった。おそらく追手を振り切れて、追手が道順を忘れていると推測した方がもう片方に向かう算段だったのだろう。
薄々思っていたことではあるが、男の足はあまり速くない。一般的にみたら十分速い方だが俺よりはコンマ0,5ほど遅い。俺でも距離を保つことで精一杯だったやつらに男が振り切られても不思議ではない。加えて歳を考えれば俺より道の記憶が劣ると考えるのも自然だ。
二人で俺をやった後にまた二人で男をやるつもりだろう。一人では敵わないが二人ならワンチャン、みたいな。
ーナメられたもんだな。俺も、男も。
俺は自分から動こうとはせず、じっと二人を視界の両端で捉え続けた。二人は最大限の警戒をしつつナイフを前に出しながらゆっくり近づいてくる。心の中でもっとゆっくり来いと乞う。ゆっくり、できるだけゆっくり。
両側から残り1,5メートルになった。
そろそろ無理か。
少し待って1メートルを越えられた途端、銅像から解放した。
両側のナイフを持った手首を掴んで強く引く。勢いでやつらが正面衝突する。その隙にナイフを取り上げようとしたがしっかりと握っていて取り損ねた。
やつらは額を押さえたがすぐに切り換えて俺にナイフを振り上げる。横飛びでかわすが即座にナイフを振り上げたまま方向転換して襲ってくる。今度は後ろに飛ぶ。飛びながら体を回転しナイフを回し蹴りする。しかしまたしてもやつらはナイフを離さなかった。
それどころか、蹴り飛ばされて動きがずれたやつらが同じ動きを崩して乱雑に俺に襲いかかり始めた。
運動神経は俺に及ばずとも、ナイフの挟み込みは逃げに徹する他できない。たまに壁を蹴って振り返りざま相手に蹴りを食らわそうとするがナイフを掲げられると無意識に力を抜いてしまう。
ここで傷を負ってはいけない。その理性が避けることのみさせる。だが避けるだけでは、相手の勢力はほとんど変わらない。たまに戸惑ったように顔を見合わせるが、疲れるまではかかりそうだ。その前にたった一人で攻撃を受け続けるのは不平等で、俺の体力がひたすら削られる。
壁に背をつけて瞬時呼吸を整える。
この時間はわざとか。
心の中で恨めしく思ったとき、上が陰った。落ちてきた物体はまさに俺に刃をくらわせようとしていたやつに上斜めから突き刺さった。やつの顔面が潰れ後ろに倒れる。
「遅かった?」
余裕のある声とともに男がやつを踏みつけたまま振り向く。
「ちょっとな」
俺は壁から背を離した。俺と男に見られ残った一人がすくむ。俺も男も笑みを含んだような目で睨んではいないのに、やつの顔は恐怖一色だった。
間をおいている暇はない。俺と男はやつが逃走を謀る前に一気にやつに詰めよった。硬直したやつは逃げなかった。やられたらやり返す。俺は詰め寄りながら外套からナイフを抜きやつの心臓に刺した。それで十分かと思ったが、念のため頭を下げる。すると、やはりほんの少し後に詰め寄った男はナイフで首をかき切った。ほとんど同時に心臓と首に致命傷を負ったやつは地面に沈んだ。
やつらの最大の誤算は男をみくびったことだった。
男は俺より歳上で体力的に劣ると考えるのも普通だが、そこにたいした差はない。どころか男の方が恐ろしく鋭敏な判断をするときもある。俺より早くやつらの意図に気づいた男は俺が必死に追いすがっていることも見越して、半ばわざと振り切られたのだろう。男は振り切られたふりをしてやつのあとをつけ、ここにたどり着いたのだ。俺は男が来ることを予想してなるべく時間を稼いでいた。
しかし男は多分それなりにすぐ俺の状況も分かっていたはずなのに早く出てこなかった。わざとか?否定できないどころか肯定しないことのほうができない。
「急に二人片付いたね」
男がナイフを外套の裾で拭いながら言う。俺は伏せたやつの心臓からナイフを抜き取って払って血を飛ばす。これを着ている服で拭うとはどういう精神だ。
「俺に体力を削らせてどうする気だ」
「そう故意的に思わないでよ。探ってたんだ、やつがちょうどいい位置に来るのを。登場と同時に一人片付けなきゃ、後から参戦する意味もないしね。まあ真崎くんはよく怪我しないで耐えてくれたよ」
たしかに男が一発でやつを仕留めなかったら結局一対一の形になり、後から来た意味も上を取っていたアドバンテージもなくなる。言い訳なのかリアルなのか。男は本当に本音を悟らせない。
「だが、こいつら先にあいつを狙わなかったのはどうしてだ」
ふと浮かんだ疑問を口にする。二人の俺達より一人の強いやつを狙った方が体力的にも心理的にもいいのではないか。さっき俺達が話していたように。
「気付けよ、自力で」
男が踏み潰したやつのところへ歩いていく。男はやつの手前で立ち止まり、さっと何かを拾った。
「真崎くんから見て、これはどうだった?」
その手にはナイフが握られていた。俺のものでも男のものでもなく、やつが振り回していたものだ。
「違和感」
それだけぽつりと答えた途端、気が付いた。
「組んでた?」
男が頷く。
なるほど。
二人のやつらともう一人のフィジカル系は三人組だったのだ。二人のやつらのうち一人は突きどころの悪いナイフ捌きで、とても自力でナイフが手に入るとは思えなかった。だから避けながら抱えていた僅かな違和感、こいつがなぜナイフを手に入れたのかという疑念は、ナイフはフィジカルのものであったとすれば拭うことができる。そして二人のときどき戸惑った様子、あれは登場するはずの味方がいつまで経っても来なかったからだろう。
でもなぜ、もし三対一を作られたら俺だって苦戦しただろうに。
「お前、会ったのか?」
男がにやりと笑う。
絶句した。男はそこまで読んでいたのだ。三人組で、合流のタイミングを一人が窺っていることまで。男の登場が遅かった訳が分かった。周辺を探していたのだ。
「見つけてどうした」
「逃げてったよ」
「追わなかったのか」
「追わないよ。一対一なんて不利な環境作りたくなかったし、やつが逃げるのも分かってたから探したんだよ」
しくった。見つかって戦いを挑んでくるようなやつなら探さまい。やつはこの男が俺に加勢して仲間をやることを悟ったのだろう。
だとしても強い武闘派なはずだ。味方に加勢すれば俺達を苦しめることもできたはずだ。数的にも向こうに有利になる。
「逃げるとも限らないじゃないか」
「逃げるね。やつは」
「なんで言い切れる。加勢して俺達をやって、後で仲間二人をやるのが一番楽じゃないか」
「真崎くんと哲学が逆なだけだよ」
どういうことだ。
「言ったでしょ、彼、ちょっとバカなんだ。彼が組んでたこいつら、彼が捕まる前に貶めたやつらで、彼は情でこいつらと結び付いてここまで一緒に来た。それなりに仲良くね」
男はコロシアム全体の模様を監視していたから情報が詳しい。だがそれだけではないような。
「お前けっこう知ってただろ」
「まあ、直接やったことがないだけで、常に注意はしてたし、大体どんな考えで行動してるかも知ってた。情のある熱い哲学で動いてるって」
コロシアムに来る前からやつについてある程度知っていたようだ。
「だから彼はこいつらをやらないと思った」
俺の脳裏にはドクターが浮かんでいた。俺はこの手で組んだやつを殺した。それが正義だと思い込んで。間違っているなんて思っていない。そこに間違いを感じるなら俺はここまで生きようとしていない。それは俺の正しさだった。
でもどうやらここには俺と違う哲学のやつがいるらしい。
死に目を作った者と他人に預けた者。どちらが善いのだろう。血が通っているのは後者だとしても、それもそれで酷い情だと思う。
「真崎くんならどうした?」
男の問いはまるで面白がっているようだ。俺は仏頂面で答えた。
「迷わず自分でやったよ」
なかなか見つからない。残り一人を探し続けて、もうすぐ日が暮れる。
男の口数は少なかった。男から会話を始めても、その内容は作戦とは程遠く、ただの雑談に過ぎなかった。俺はそれに素っ気なく答えていくだけだった。
「真崎くん、昨日の話をしようか」
男がすたすた歩きながら何気なく言った。
頭を殴られたような衝撃が走る。必死で動揺を隠して歩き続ける。
ここで?それを蒸し返すのか。
「黙るなよ。意図を訊こうか」
「…」
何か言おうとするが言葉を紡げない。自分の心と身体の離別を感じる。
「黙るなっつってんだ」
男の声が一段と低くなった。
縮む身体と対称に頭が柔らかく動いた。
そういうことか。くそ。
「お前には関係ない」
「ある。裏切りとみなすと何度言ったら分かる」
「裏切りとみなして困るのはお前だろ」
「真崎くんだね。一人じゃ何もできない甘ちゃんが」
「無知なおっさんに言われたくない」
「そんな口きいていいのか、ガキ」
「お前の方こそガキ以下だ」
「はっ嫌だね、犬にそんなこと言われるなんて」
「っ俺が犬ならてめぇはマウスだ」
「あ?お前何が言いたい」
「苦しいっ襟絞めるな。そういうとこだよ、お前は作ら…」
「うっせぇ、犬が犬が犬が!」
男のこんな声量は初めて聞いた。いつも抑えた声で悠々な語り口の男が、怒鳴った。
俺は力ずくで襟元から男を剥がした。そして負けじと怒鳴り返す。
「じゃあ切れよ!俺を裏切れよ!」
男がはっ、と溜め息と苦笑の混じった声を出した。
「真崎くんなんか最後にやってやるよ」
男が去っていく。捨て台詞だけが刺さった。俺も対抗する。
「お前の希望潰すのは俺だ」
男が立ち止まりかけた。が、すぐに何事もなかったかのように強い歩調で進みだす。
俺も男に背を向け、足音を荒くして歩きだす。どたどたどたどた、怒りを表して。
暫く歩いて、何度目かの角を曲がって立ち止まった。束の間神経を研ぎ澄ませる。
いない。…ということは。
俺はゆったりと身を翻した。来た道を戻っていく。ただしさっきとは違い、少しの砂擦れの音も立てず、気配すら消して。
男と別れた地点まできた。男が去っていた方向に砂の僅かなえぐれが連なっている。男も俺と同じでわざと怒りを表現した歩きをしていた。
俺はそのえぐれを気配を出さないよう慎重に辿った。体温すら抑え込むように。
そのまま何度も何度も道を曲がる。俺が逆を歩いたのとだいたい等しい距離まできたがまだえぐりは続いていた。
さっさと出ろよ。妙に神経質だな。
また少し歩くと、ぐっと踏み込まれたえぐりを見つけた。
近い。一層気配を消して、速度もかなり落として進む。
次の右曲がり角の手前、
さざっシュッ
そこか。
俺は右サイドの壁に飛びつき、ぐいと体を持ち上げて反対側に垂れた。ひょいと飛んで降りたいところだったが、音を立てたくないので腕をめいっぱい伸ばして極限まで衝撃を減らして降りる。成功。
壁づたいに細心の注意を払って歩を進める。壁に従って右に曲がる。音が大きくなった。
ガサッシュッたッだっ
確信した。絶対ここにいる。ここで、
男とやつが戦っている。
俺は作戦に気付くのが遅かった。
男はずっと、残り一人のやつが俺達を見張っていることに気がついていた。俺達が二人でいる限り、例えバカでも一人で飛び込んでくるやつはいないだろう。だからこそ、男は俺と離れたがった。口数が増えたのは危うく俺がどうする?と訊いたり、たらたら作戦を話し始めたりするのを防ぐためだ。
のみならず、男はどうでもいい会話をしてきた。内容は砂とコンクリートならどちらがいいか、ナイフと銃ならどちらが使いやすいか、といった二択のものばかりだった。そして俺がどちらかをぼそっと答えると男は必ずその答えを否定してきた。俺は違うね、と。そして論を展開させて更に俺の答えを責めてきた。俺はめんどくさくて、ああそうかいとしかレスポンスしなかった。すると男はまた黙って、少しして別の質問をしてきた。
最大のヒントだったのに。答えなんてどうでもよくて、男は俺と喧嘩したかったのだ。
だが俺が鈍かった。俺はやつは逃げていったと聞いたから、てっきり身を潜めてどこかに俺達に見つからないよう隠れていると思っていた。心の準備が出来るまで待って出てくるか、俺達が探し出してやるかだと思っていた。
まさかずっとそばに張り付いていたなんて。肝が据わっていないとできない。
男は仕方なく俺を揺すった。穏便に喧嘩しなかったのは俺のせいだ。男は賭けたのだ、低い一言に。
俺はやっと気付いて男に乗った。
感情なんて何も挟まない喧嘩を演じた。喧嘩別れするコンビを演じるために、相手を傷つける台詞を探した。だが、掴まれた襟元は本当に一瞬苦しかった。男はすぐに緩めたがあんな形相は見たことがなかった。どうやら選んだ台詞は男の傷らしい。その後発した大声はわざとであることは分かったが、捨て台詞は唯一の本心だろう。俺もそうだった。俺達の本当の喧嘩はその一言づつだけだった。
そしてずたずた足跡をつけながら歩き、やつが出てくるのを待った。俺が暫く歩いて止まっても、何の気配も感じなかったから男の方に出たようだった。俺は男がつけた足跡でここに辿り着いたわけだ。
やはりやつは一人になるのを待ち構えていたらしい。十分俺と離れたところで男を襲っている。今、壁の向こうからは絶えることのない砂音が聞こえる。二足の靴が地面を打ったり擦ったりしている。どちらも止まる予兆はない。男とやつはやりあっているのだ。
くそ。
俺はつたっていた壁の向かいの壁に腰を下ろした。
負け惜しみ?認めたくないな。あ、でも男と分けられるのならいいか。
どちらにしろ、仕返しで早くは出てやらない。開いた両膝に肘を置いて真ん中で指を組む。
シュッただっサっザッ
壁の向こうの音は鳴りやまない。どちらも決定打を打てないようだ。あの男相手にそれができるとは、やはり強い。
たッダッ
ん?
音が一瞬消えた。
次の瞬間、男が向かいの壁から飛び降りてきた。
こいつッ…!
相手も男を追って壁を飛び越えてきた。やつの着地と同時に俺も弾かれたようにナイフを抜いて立ち上がる。
やつは突然増えた敵に面食らっていたがすぐに切り替えて攻撃を開始した。ああ…
けっこう強い。
二対一になってもやつの勢力は衰えなかった。とにかく身体がでかい。俺と男は引き締まってはいるが無駄のない身体で、見てくれは一般に紛れる体格だ。一方やつの身体はいちいちがでかく筋肉が発達している。
ー安禄山。乏しい俺の教科書的知識からそんな単語が浮かんだ。玄宗と楊貴妃の恋に憧れていた夢見がちなおっさんをやったときの知識だ。だが安禄山とは違って太っているでかさではない。強靭で大柄な体格。俺と男を合わせたようなでかさだった。
そのでかさを持っていながら、繰り出す技は細かく軽い。重そうな図体をものともせず、壁を蹴って地を蹴って、様々な方向から俺達を攻めてくる。
男がズシャーッと滑ってやつの足に突っ込む。やつがその場で飛んで男はやつの下を滑り通る。やつが着地する前に俺がその腹にナイフを刺そうと駆け寄る。が、やつは空中のまま自分のナイフを俺に向かって振りかざす。頭を下げて脇を駆け抜け即座に転換して背中を狙う。悟ったやつは僅かな着地でまた飛び上がり空で前転して俺から離れる。俺の横を男が全速で抜けて向こうの壁を強く蹴って翻り、俺から離れたやつに前から斬りかかる。やつは横にずれてそれを避ける。俺は後ろからスライディングして足を狙う。
と、気付かれてやつが上からナイフを振り落とそうとする。滑り途中で止まれない俺は焦った。このまま突っ込んだら刺される。すんでのところでやつの横腹に男がタックルした。何もなくなった地面を滑ってしゅたっと立ち上がる。
男のホールドを力ずくでほどき、やつがぐるっとリーチの効いた身体を回して男と距離を取る。バックで下がって避けた男がそのままこちらに寄ってきた。背中を向けたまま話しかけられる。
「けっこうまずいね」
男の息が切れていた。こっちの壁に来る前からやつと戦い続けている代償だ。俺はまだ息切れしていない。
「俺わりと疲れたんだけど、真崎くんもうちょっと動いてくんない?」
「そっちこそもうちょっと消耗させてから来いよ」
「仕返しみたいなこすいこと考えてる奴に消耗させてから渡す義理はない」
「チッ」
フォローはしろよと言い捨てて男を押し退けて前に出る。
やつが構える。やつも息が切れていた。
俺も右足を前に出し右手のナイフをやつに向けて構える。
やつが勢いよく走り込んできた。俺もやつへ向かって駆ける。
タタダタダタタタダタッたッ
正面衝突する寸前、左手を外套に挿し左へ跳んだ。左足で壁を強く蹴って宙に飛び、右へ体を捻りながら、左手を外套から抜く。
ドォンッ
やつが傾いだ。俺は体を捻った勢いのまま地面に転がって受身を取る。すぐさま立ち上がってやつにナイフで襲いかかる。やつは右足を引き摺りながら避けて、またリーチで俺を離す。やつの呼吸は荒くなっていた。
拳銃はやつが持っていない武器だった。そもそも持っていたら男とやりあった時点で使っているはずだ。それだけ俺と男が抜きん出てやっていたという話。
やつの右太腿から赤黒い血が出ていた。骨まではいかなかったようでまだ辛うじて立っている。
ドォンッ
また轟音が響いた。
「ぐガァッ」
やつが右足を抑えてうずくまる。
俺は冷ややかな目で男を見る。
男は薄ら笑いで細い煙の向こうにいた。
まったく容赦がない。わざわざ同じ箇所を狙って撃つとは、よほど痛ませてやりたいらしい。さっさと心臓を撃てばいいものを。
っ!
ドォンッ
反射で横にずれると、残った髪の先が焼け切れた。
驚きで目を開く。
-持ってんのかよ!
「アハハハハ…!」
不釣り合いな笑い声が殺伐とした場の空気を流した。
「おっとっと危ないね。諦めなよ、お前はもう素手では戦えないんだから。いっとくけど俺も真崎くんも弾の直撃なんかくらわないよ」
その通りなんだが。この温度差といい、俺は黙って見ることしかできない。避けれはするが無駄に撃たれたくはない。
しかし男は余裕綽々で貼り付けた微笑を崩さない。
楽しんでいる。
そう思わせる表情だった。
冷えた。男との凄まじい距離を感じる。何度生まれ変わって同じ道を歩いても、きっと男に追いつくことはない。そう悟らざるをえない、この、差。
俺の口元にも笑みが浮かんだ。
-それで良かった。
「こんなっところで、くたばってたまるかよ」
やつが荒い呼気で男を睨み啖呵を切る。
「有名だったな。残酷で情のない完璧な殺し屋。俺の組織じゃ作られたサイボーグって呼ばれてたぜ」
男の微笑がにわかに凍った。男はやつに盛大に煽られている。
「どうしてここにいる、捕まるようなヘマしたのか?信じられないな」
この時ばかりは男から目が離せなかった。よくその表情の変化を観察したい。だが男はまた柔らかい微笑を作っただけだった。
「うるさいねぇ。すぐ捕まったバカに言われたくないな」
「くっいちいちムカつくなてめぇ」
「てめぇねえ。呼び方がムカつく。そろそろ緒を切らしてもいいかな」
「切らせばいいさ。どうせそこのやつにやられるかてめぇにやられるかだもんな。まだ見知った方がマシだ」
「お前真崎くんのこと知らないの?」
「知らねえ。若いな、俺が捕まったときはチビだったんじゃないか」
「そうだね、デビューほやほやだったかな」
「チビでデビュー?っ!コロシノ!?」
やつが驚きを向けてくる。俺は頷きも返事もしないで見返す。この状態でここまで会話できるとはやはりこいつは只者ではない。俺の方が喋っていない。
「コロシノとサイボーグのコンビか。オワリだな」
「だからずっとそう言ってんじゃん」
「尚更倒したいな」
「無理だって、そんな身体じゃ。お前的がでかいから撃ちやすいし」
「うっせぇ、てめぇ」
「一応歳上なんだけど。てめぇとかお前とかどうにかならない?」
「コロシノにはなんて呼ばれてる」
「お前」
「ならいいじゃねえか」
「それは諸事情により」
「あ?んじゃあ、き…っ」
ドォンッ
短い轟音と静寂が訪れた。
目の前で細い煙が揺れている。
やつの血だらけの顔が地面に着いた。でかい図体が砂に伏していく。
心の中でやつに主張する。
その先は俺が言うんだ。
ドォンッ
嘘だろっ。
即座に左肩を引く。外套の胸のラインを弾道が擦れる。
残り一人が消えた途端、男が俺を殺しにかかってきたのだった。いよいよこの男がコロシアムで敵になった。
「待て」
まだ拳銃を構えている男に乞う。
「話したい。時間をくれ」
男の顔は微笑が消えていた。完全にターゲットを見る表情だった。俺が何を言っても動かなそうな表情。
だが、動かしてみせる。
「お前と話したい。毅葉」
男にそれまでの微笑とは違う笑みが生まれた。恐ろしいような、子どものような。
「待ってた」
「ここでいっか」
男が先導して着いた場所はいつもの屋根上だった。男が棟に腰掛け、俺も一人分空けて左側に腰掛ける。
「…」
「…」
「話したいって言ったのは真崎くんだよね?」
言い出す言葉を選んでいたら急かされた。男の急かしは淡白で、もし何か言わなかったらすぐにでも屋根を降りていってしまいそうだった。
必死で頭を回すが言葉が何も引っ掛からない。
早く、早く言わないと、終わってしまう。
「おーい」
男が起伏のない声で巻く。
ここまで来たのにな。一つの意味がここにあるのにな。
どう、ほどけばいいのか分からない。溶かせばいいのか分からない。何か言おうとしても俺の気持ちのほんの一部も言い当てていないような薄っぺらい言葉しか思い付かない。そんな言葉を出してしまったら、二度と自分の凍った芯を溶かす鍵を失ってしまう気がした。
もっと心から吐き出したい。ずっと無心で触らないようにしてきたものに触れたい。触れないといけない。
宮良に言っただろ。とっくに覚悟しただろ。言え、言え。
「早くしてよ」
必死に探したのに男に先を越された。
「緒野梭世吏くん」
心の硝子が崩れ落ちた。
音もなく粉々に割れて落ちる。現れた奥の心は、少年だった。
「なんでお前しかその名前を呼んでくれないんだ」
そう言って僕は泣いた。
一粒、二粒、ぼろぼろぼろぼろ…。
背中が屈折し、右手で目頭を押さえる。がくがくと喉が震える。
もう二十年近く泣けなかったことが嘘のようにあんな一言で涙が溢れてきた。そして止まらない。止まらない。止まらない。
僕の心はずっとこんなに泣いていた。
「梭世吏くん」
「やめろっお前が呼ぶな」
制したい。呼ぶな。誰にも呼ばれたくない。呼んでほしい人などもう、この世にいないのだから。
それはあの時とっくに廃れた名だ。閉じ込めた名だ。今の俺を示してはいけない。許されない。俺が壊れる。
だから呼ぶな。お前が呼ぶな。お前が、お前が、
「お前が殺したくせに」
男が揺れた。僕が泣いてもちらりともこちらを見なかった男が小さく動じた。
男がゆっくり口を開いた。
「そうだね。俺が梭世吏くんの両親を殺した」
体の中で大波が起きた。
飲まれる。飲まれてしまう。
知ってるよ、そんなこと。とっくに知ってる。知ってるはずなのに、全身が飲み込まれそうになる。懸命に耐えて待つ。
男が静かに付け足した。
「後悔してる。あの時梭世吏くんを殺さなかったこと」
血の付いた刃物、その先、黒い目。そこにいたのは男だった。
男はあの時、僕より早く目を逸らして去っていった。それを男は後悔しているらしい。
「俺、初めて残念に思った。真崎くんが殺し屋になったって知ったとき。初めて、後悔ってやつを知った」
男の目が遠くなった。
「ああ、あの時殺しておけばよかった」
ぽんと溜め息をつくようだった。
「真崎くん、生きてて良かった?」
酷だろ、その問いは。
分からない。僕は良かったのか。いや、そもそも僕はもう存在しない。俺は、俺がここまでのうのうと生きてきてしまっただけだ。
僕はあの時死んだ。
「俺、あの時ちょっと怯えてた。それもあの時まで感じたことがない感情だった。梭世吏くんの目が一瞬で俺を捉えて引き込まれそうで、寒気がした」
僕はあの時、たくさんのことを瞬時に悟った。両親が殺されたこと。目の前の男が殺したこと。喪うということ。喪ってあく空洞があること。どれだけ自称代理が現れてもその空洞が埋まらないこと。そして今の僕ではその喪失に堪えられないこと。その瞬間、死んだ。以来、俺の心は呼吸をやめた。
「俺は壊れる寸前で自分を塞いだ。だから生きてきた。生きたかったかはもう、分からない。とっくに壊れてるのに、誤魔化して誤魔化して、ここまで来てしまったから、もう、戻れない」
壊れてることも知っていた。それすらあの時押し込めてしまったから、今決壊している。よりにもよって、この男の前で。
「ねぇ、こんなこと言ったら怒る?」
男がいつもと同じ口調で言う。
「俺は壊れる真崎くんが羨ましい」
男は一点を見つめたまま言った。見つめる先に男の歩んできた一本道がのびる。俺とは違う、しかし今同じところにいる道のり。
「俺には失って壊れる人はいない」
それは男と俺の大きな違いだった。それこそ男の強みであり、引け目ともいえるのかもしれない。
「俺は親を知らない。組織でシャーレの中で作られて、誰かが俺を産んだ。毅葉って名前だってただの分類みたいなものさ。俺は組織の試作品。成功例になるために生かされてきた。自分なんてない。感情なんてない。壊れる心もない。真崎くん言ったよね、俺のことをマウスって。逆上したよ、正直。あまりにも俺に相応しい呼び方に思えた。でもすぐ屈辱とも思わない心に気付いた。ずっとそうだから、俺。何か思いそうで結局何も思えない。俺の中身は乏しい。少年にもなりきれない、空っぽだよ、空っぽ。だからあの時梭世吏くんを殺せなかった自分に驚いたんだ。いつもなら見られたって思った時点ですぐ殺してた。なのにあの時はそれが出来なかった。…きっとどうかしてた、俺」
どうかしてた。男の気まぐれで命拾いしたみたいな。殺さない方がおかしいような口ぶりはもはや男の正常だ。
そんな男の生き様を可哀想なんて思わない。表社会の目に入らないところで、心もなく生きてきた、その生き方しか知らない男。暗い路地裏のガムを誰も気に留めないように、男も表から一切気にされず、それを異常だとも思わず、ただただ命令に従ってきただけの道。俺のように大きな岐路がない。…いや、あるか。
「まさか人生で二回もどうかしてる瞬間が訪れるなんて思わなかったよ」
男が男の岐路に近付く。前を向いていた男がゆっくりとこちらを向く。そして俺の目を真っ直ぐ見つめる。
真崎くん、
男の声音が変わった。
「どうしてあの時俺を殺さなかったの」
男の一度目の、俺の二度目の岐路の話。二つ目のあの時の話。
三年前、飼い主はいつものようにぺらりと紙を渡してきた。すれ違いざま受け取ってさっと目を通す。年齢、職業、ああ、同業者。名前、苗字のない名前… そして俺の目は顔写真に釘付けられた。
記憶が引きずり込まれる。忘れた気でいた。もう蓋は開かないと思っていた。しかし、
あの男だと、間違えるはずもなかった。
感情は動かなかった。むしろ更に冷えきって、綿密に淡々と計画を立てた。
本番。
実に上手くいった。今までの集大成といえるデキだった。男の組織アジトに入り込み、他の仲間を使いながら男以外の敵を巻き、男のみの状態を作り、気付かれぬまま男に接近した。
引き金を引くだけ。
その時、男が振り向いた。
目が合った。
ーッはぁ
呼吸が止まって、心が息をした。
こいつが、こいつがこいつがこいつがっ。殺したい殺すべき殺さなきゃ。死んで、俺の前で、俺の手で。今、今、殺せる。
今しかないっ!
…それなのに、体が硬直した。引き金にかけた指まで固まる。
体の中で心が大きく揺れようとする。それを抑え込もうと体に力が入る。力んで力んで、固まっていく。
目は男の目から離れない。見ている。見られている。
どうしようもなく泣き叫びたくなった。
体が動かないのは怯えではない。
凄まじい恨みと、開けてしまったこれ以上ない哀しみ、完全に呑み込まれた体は衝動的にはならなかった。
確かに目の前には男がいた。しかし、この泣き叫びたい気持ちすら、男に向けたいのか分からなくなった。
俺はその時、封じられていた感情の爆発に堪えていた。
俺は男を恨んで、俺は俺に失望して、俺は親に逢いたくて逢いたくなくて、俺は僕を捨てた僕が憎くて、俺は俺として生きてしまった俺が嫌で、俺は今さら顔を覗かせよようとする僕に戸惑っていた。
そんな多くて複雑な心が、ぐるぐるとぐるぐると俺を責める。立っているのかも、もう分からない。俺は、僕は、
こいつを殺したいんじゃなかったのか。
そんな格言を内に突きつけても、体は動かなかった。
結局、俺は引き金を引けなかった。
そして俺は飼い主に棄てられた。期待を裏切ったから裏切られて、ほどよくこれまでの殺しを晒されて牢屋行きになった。
それが俺の二度目の岐路の話。
宮良には話さず、男に話そうと決意してきた話。
俺の話を男は静かに聴いていた。二人とも視線は前の一点を見つめている。
涙は話している間流れなかった。声だけに小さな震えが残っていたが、男はまるで気にしていないようだった。
濡れた頬に夜風が吹きつける。
話し終わっても男は何も反応しなかった。ついでに言ってみる。
「毅葉だって、あの時俺を殺せただろ」
毅葉。ようやく呼べた。お前で誤魔化さずに。たとえ男にとっては分類名でも、俺にとってはずっと抱えてきた唯一無二の名だ。その名を呼ぶことはもう逃げないで、しまわないで、僕を呼び起こして向き合うことだ。
「うん、殺せたね。」
淡白な返事だった。またただの気まぐれか。
「でも殺さなかった。俺の意思で」
驚いた。あの時は毅葉にとって巨大な変化だったのだ。はたから情報を見ていても毅葉に自我がないことは明らかだった。そんな毅葉に自分が生まれた瞬間。
「俺はあの時、拳銃を持ってた。でも真崎くんに向かって構えもしなかった」
毅葉が息と一緒にあの時の思いを吐き出す。
「悲しかったなあ、あの時」
毅葉が遠い目をした。
「梭世吏くんが自分を撃とうとしてた時。ここまで来ちゃったんだ、来させちゃったんだって思った。肩入れしてたのかな、梭世吏くんに。急に心が重たくなってね、ああ、もういいやって気持ちになった」
生まれて初めて感じる心は毅葉には重すぎたようだ。
「梭世吏くんに殺されるなら、もうそれでいいやって思った」
毅葉が俺を見る。
「悪いけど、罪悪感とかじゃないと思う。そういう教育は受けてないからね。でもずっとどっかで、この生き方しか知らない自分に弱みを覚えてた。だから梭世吏くんが俺に殺されなかった後に俺と同じ道を歩いてきたのが、残念だった。君はここにくるべき子じゃなかったのになって」
毅葉の言葉に俺は屈折していく。
ここにくるべきじゃなかった。
その事実を突き付けられれば、俺はもう誰も殺せない。誰も、誰も、僕は殺す必要がなかったのに。今や誰かに殺されて然るべき人間になってしまったことが切ない。愛しい人たちを失望させてしまう。
「…ごめんなさい」
掠れた声で呟いた。また一筋、涙が流れた。そして次々に。
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」
ーこんな人間でごめんなさい。
そう言わざるを得ない人間に、俺はなってしまった。
「いいなあ、謝れて」
取り乱した俺に毅葉が苦笑する。
「俺は謝ることも知らない。俺、真崎くんといる時も、申し訳ないなんて思ったことないよ。残念だな、殺せばよかったな、そもそもあの男に依頼されなければな、みたいな」
あの男…。
「ああそういえば気にならない?誰が梭世吏くんの両親を殺せって依頼したか、どうして依頼したか」
今まで触れないようにしていたからあえて考えてこなかった。触れたらすぐに分かっただろうに。
俺の無言を毅葉が同意とみて話し始めた。
「依頼したのは真崎くんの飼い主だよ」
なんとなく予想がついていた。
「…でも、あの男は毅葉のブラックリストに載ってたんじゃないのか」
「前にね。あの男が巨額の報酬でうちの組織に依頼してきてからはブラックリストじゃなくて要注意依頼主のリストに載ってた」
「どうして…」
依頼したんだ。
父さんは正義感が強い優しい人で、恨みを買うような人間ではなかった。母さんも人見知りで友達の少なかった僕と懲りずに遊んでくれた。
どうして奪われたのだろう。
知っていいのだろうか。
だが毅葉は続ける。
「あの男は梭世吏くんを飼う前から警察で秘密裏に企画を実行してた。真崎くんほど優秀じゃなくても、同じような人材を作る企画。でもそれが善良な警察だった梭世吏くんの父親にバレてまずい所にチクられそうになった。だから口封じのために殺しを依頼した。ほんとは父親だけ殺すはずだったんだけど、母親に目撃されちゃったから仕方なく母親も殺した」
あっけない。かいつまめば三文小説。たったそれだけのことが一生纏わりついて離れない。
待て。
…ーっ
ー醜く低く激しい咆哮が夜空に響いたー
それは俺の慟哭だった。
体の奥底から慟哭する。身が絞られる。毅葉がうるさそうに顔をしかめる。
文字に起こせない激甚の嗚咽が俺を裂いてく。
ー父さんは止めようとしてたんだ。あの男の企画を。俺を堕とした企画を。それなのに俺は、その穴に半ば自ら落ちていった。落ちて、落ちて、堕ちて、堕ちて、抗いもしなかった。父さんが大好きだった僕を消して、母さんと遊んでいた微笑みも置いて、こんなところまで落ちてしまった。反対方向の遠くへ全速で駆けた自分に今更気付く。今更、今っ更。
ー戻れない。
慟哭が止まった。
だから、
何のためにここに来た。
最後の最後で、俺は俺の良心に従うためにここに来た。ひょっとしたら父さんの正義感と母さんの包容力を芽吹かせて。
絶望を引き受けるために。
ぐいと目元を拭い、棟の上に立ち上がる。
「毅葉」
毅葉がちらりと俺を見て、口角を上げて立った。
「俺でいいか」
真っ直ぐお互いを見据える。
毅葉が毅葉として笑った。
「その答えはもう言ったはずだよ」
僕は引き金を引いた。




