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コロシアム  作者: 明日
8/12

七日目

 ドアを激しく叩かれて目が覚めた。ドドドっという音が嵐のように通り抜けた。どうやらピンポンダッシュの感じだ。

 「外へ出てください!話をきいてください!」

 そう叫びながらドアを叩きつつ人が走り去る。下の階も騒がしいので数名が組んでいるようだ。

 実際にガタガタと外へ出る音がするが、警戒心無さすぎだと呆れる。

 部屋は1,5メートル間隔しかなく、つまり出たらそこに人がいるわけだ。反射にギリギリ間に合う距離しかない。だから早めに隣をやったのだがそれでも隣の隣の生存はわからないから油断できない。

 でも気にはなったから隙間を開けて覗くことにした。

 「俺達に考えがある!」

 ピンポンダッシュならぬノックダッシュを終え、六人程が下から俺達を見上げていた。居住区の人間はほとんどが手すりにもたれて寝ぼけ眼で見下ろしている。

 …そういえば昨日の俺らに似てるな。

 なんだー、早く言えー。だるい声が降る。

 俺が認識から外しているやつらの話であるだけに期待は薄いらしい。しかし次の語で全ての人が引きついた。

 「これから、誰も殺さないようにしよう」

 ほう。今この案が出るか。

 やつらは滔々と語り続ける。

 「ここの生活は食事は出るし、労働はないし、それなりに広く立ち回れる。このまま続けても結局は誰か一人しか生き残れないんだ。だったら皆でここで生き延びないか。どうせ不安なんだろう?自分が生き残ったとしてうまくやっていけるのかとか、そもそも生き残ること自体難しいって。毎日ヒヤヒヤして過ごすのも疲れただろ。そこそこの衣食住で老いて逝ければ俺達にとっちゃ上等じゃないか」

 表情を消した俺はそっとドアを閉めた。




 まだ毒ガス噴射には早い時間だったからドクターは起こさず屋根に向かった。

 「おぉ」

 早起きだな、こいつ。

 「昨夜は来なかったじゃん。吹きさらしで寒い中待ってたのに」

 行けるもんか。なんて情けない台詞は吐けない。なにも言わずに腰を下ろす。男はもともと返事など求めていないだろう。

 「聞いた?今朝の騒ぎ」

 案の定すぐに話を変えた。

 「ああ」

 「どう思った?」

 「馬鹿かって思った」

 一呼吸もつかずに即答した。

 夢見がちにも程があった。

 このコロシアムにつれてこられても向こうの本気度が分からないのか。お前たち以上に向こうは本気だ。その提案を執ったところで事態をせき止める石にはならない。せいぜい彩りの葉、もしくは

 「悪化の種だよね」

 その通りだ。

 「どうなると思う?」

 「リミットが付けられるか、違反したやつらが処分を食うか」

 「リミットの線が濃いかな」

 「俺もそう思う。手を汚したがらないからな、向こうは」

 「そそ。長くて一週間とかかな」

 全く夢のない会話だった。それは自分たちを苦しめる内容でもあるのにお互い淡々と他人事のように話していた。もう半分どうでもいいのかもしれない。

 「リミット付けられたら面倒?」

 「付けられても果たすまで」

 「だね。…そういえば」

 男がガサガサと外套の内を探る。取り出したのは、

 「昨日ようやくこれがきたね」

 ナイフだった。

 「何より使いやすいものだよ」

 片手でくるくるする弄び方からして言葉の通りだった。

 俺も外套から出して報告とする。

 「んじゃ今日はそれぞれで出来る限りやるってのが一番手っ取り早いかな」

 「ああ」

 無理に組むより動きやすい。

 「目標決めとく?あと百ぐらいいるよ。予定よりちょっと遅い」

 「25はノルマだ。下回ったら信頼を切る」

 「それはお互いね。具体的にいこうじゃない、ここは」

 「30。お前は?」

 「やっぱり[お前]が気になんだよなー」

 男が急にふっと力を緩めた。

 「桧野真崎くん」

 体が、硬く、、、 ならなかった。すれすれで踏み留まった。ざわついた心臓が正確な拍動を戻していく。

 「前にも言ったが、お前はお前で充分だ」

 起伏のない声で答えると男は興味を失ったようにそっぽを向いた。そして

 「だいぶ核心に近い名前だと思ったんだけどね」

 固まった。

 駄目だ。動け。動揺を見せるな、こいつの前で。なんで、なんだ、その一言は。知ってんのか、分かってんのか、知ってて近づいたのか。怖い。読めない。何よりこいつが読めない。

 一番読みたくて理解したくない人物。向けて、下ろした人物。

 男が振り向いた。固まった体を悟られないよう今度は俺がそっぽを向く。

 「ねぇ何か呼んでよ。せっかく桧野君っていってやったじゃん」

 「せっかくなんて言うほどの名じゃない」

 「言うほどだよ。有名だったよ、[コロシノ]」

 表では誰も知らない。しかし裏ではよく通った名だった。偽名に野を使い、近づかれたが最後、逃がしたターゲットは0。並外れた運動神経と殺しに特化した頭脳。恐れられても姿を見たやつはほとんどいない。見れてもすぐやられるからだ。

 なのにこの男は俺とコロシノを結びつけた。また体が強張ってくる。

 「だからさ、そんな桧野君が俺のこと知らない筈がないんだよ」

 言外に、こいつも並ぶ。

 もう駄目だ。震えが起きそう。また呼吸が詰まる。俺はさっと立ち上がった。

 「三裏、裏辺、裏越、裏多。どれもお前を表して、最も遠い名だろ」

 こんなに荒らされてその上名など呼べるわけがない。お前の名前なんて知りたくなかったんだ。

 そうだね、男が力なく言った。

 「俺の本当の名なんてお前くらいしかないのかもしれない」

 背中で聞いた声は今までで最も素に近く、またぎくりと震えが広まった。




 それでも注意して屋根から降りて、部屋まで駆け戻った。不規則になった呼吸が苦しいが、かまって半端な道で倒れたくない。

 誤魔化して誤魔化して走る。心まで、すべてを。それが新鮮でもないことがかえってずっと誤魔化していたことを俺に気づかせる。気づく度にまた苦しくなって足元がふらつく。でも走る。今までと同じように。

 逃げ足の速さはきっと現実から逃げるためではなく、他でもない俺自身から逃げるためのものだ。自分から逃げたくて、それでもどこまでも追ってくるから、どんどんどんどん速くなった。

 部屋に飛び込んで勢いよくドアを閉める。

 ー今だってまだ逃げ切れていない。苦しい。ここ数日で何度も苦しい。

 迫られていた。俺と向き合うことを、再びあいつと向き合うことを。なのにまだ俺は逃げる。もう逃げ場など何処にもないのに。どこにもないと分かってここに来たのに。苦しい。どこに行っても苦しい。本当はあの時からずっと酸素不足だったけれど、無理に息を吸ってきた。きてしまった。戻れないところまで。自らも痛めつけるところまで。誰のせいかなんて浮かびすぎて収拾がつかない。でも一番大きい陰は自分で、それをさらに押しているのがあいつな気がしてならない。

 自分を抱き締めて慰めようとする。僅かな体温が温かくて辛い記憶を蘇らせる。

 やめろ。消えろ。そんなものに浸ったら今の俺がずたずたになってしまう。

 ああだから勝手に慰めを変換するな。聞きたい声に変換するな。

 抱き締めを放り出して両腕を激しく壁に打ちつける。鈍い音と痛みで取っ払うように。

 離れろ、剥がれろ。壊れる、壊れる。

 尚も呼吸は苦しくて壁にすがり付くように腕を打ちつける。ハァッはぁハッはっハァっ

 「どうした!」

 ドアがけたたましく開いた。

 飛び込んできたドクターは俺を見るなり近づいて、壁から力ずくではがした。自棄しないようがっちりと両腕を掴まれたまま背中を壁に押し付けられる。

 「どうしたの?」

 荒い呼吸を繰り返す俺にドクターが幼児に話しかける口調で訊く。今日はドクターのままかなんて思う暇もなく自分で精一杯だった。

 しかしドクターは落ち着いて外傷がないか確認し俺の返答を待っている。会ってから初めてドクターが十も年上であることとまともに働いていたことを感じた。ドクターは答えない俺の腕を捲って軽く握って確かめていく。皮膚の下が赤く滲んでいた。

 「痛くない?」

 一時的に麻痺している表面の痛みは置いておいて、内側の痛みはない。

 「骨折はないね」

 部屋の奥の目覚まし兼デジタル時計を見やる。

 「あと三十分はあるね。ちょっと休みな」

 そう言って俺の背に片腕を回し支えて立ち上がらせた。ぐったりとおぼつかない俺を引きずってベッドへ連れていってもらう。寝る気にはなれなかったのでベットの上で膝を抱えてドクターに背を向けた。角で二面を壁にしてうずくまる。ドクターは少し離れたところで胡座をかいて俺の挙動を見守っていた。

 人に背を向けることは油断だ。いつか言われたことがある。だが、これが油断ならもうそれでいいと今は思えてしまう。それぐらい参っていた。

 背を縮めたままで無になろうとする。勝手に意識が切れればいいのに、理性は容赦なく俺を蝕んでいく。

 呼吸を押し込んで体全体を落ち着かせる。その段階でもドクターは背中を撫でもせず俺を見ていた。

 それでよかった。今慰める手が触れても全て振り払うだろう。それじゃないっと。そんなものを求めている自分がまだいることに、、クッ、

 言葉が紡げない。再び頭を打ち付けたくなる。僅かに振りかぶったら、ドクターがさっと立ち上がる気配がした。落ちぶれておとなしくしているしかない。

 ぎゅっときつく目を閉じて無へ努める。瞼の端が滲みもしなくて、また壊れた自分を思い知った。




 「そろそろ行くかい?」

 ドクターがゆっくり腰を上げた。近づいて肩を貸される前に俺は自力で立ち上がった。ベッドの段差からおりた勢いで足早にドアへ向かう。ドクターは何も言わずについてきた。

 ずかずか移住区を歩いていくとすれ違った人は全員壁際に避けた。黙って闊歩する俺は端から見ると殺気に満ちているだろう。片手のナイフはさらにその印象を増大させるアクセサリーだ。

 これが俺だ。あの時からずっと、これが俺だ。崩れようが壊れようがこれ以外の俺がいないのだから仕方ない。

 お洒落とは無縁の真っ黒な服しか着てこなかった。恋人は愚か友達もいないし作れる環境もなかった。並外れた運動神経は全国優勝モノだが表で知るものはいない。豚の肉は切ったことがないけれど人間の肉なら数えきれないほど切ったことがある。それが俺。

 「三野?」

 名の通りその3の名字で呼ばれた。

 頭の片隅に覚えのある顔に髭をまばらに散らしたやつだった。

 「そうだろ」

 やつの声音が下がった。後ろのドクターがすくむ。

 やつが睨みながら寄ってくる。そして止まって言い落とす。

 「お前のせいで人生メチャクチャだよ」

 俺もそう言えたらいいな。と、ぼんやり思った。

 「お前がボスを殺してから俺達全員壊れた。俺は自棄んなってブタ箱行きだ。壊されたんだお前にっ」

 堂々と人に押し付ける、微塵も自分のせいだなんて思っていない。能天気だ。誰が関わろうがお前の人生はお前がつくってるだろうに。

 そう考えて気付いた。俺が言えないのはどうしたって結局自分が作り出したことを知っているからだ。誰のせいにしても変わらないことを知っているからだ。

 「謝れ!ぶち壊したこと謝れ!」

 謝れるわけないだろ。こっちだって理由なくやることはない。それに効果もない。ごめんの三文字で何が解決するのか。何も解決しないから金とか権利の話になるんだろう。

 「早く謝れよ」

 やつが荒く襟首に手をのばしてきた。俺は掴まれるより早く、のばしてきた手を捻り上げた。

 「ウグッ」

 男がもう片方の手で手首を握って引き離そうと踠く。蹴りが飛ぶ前に捻りを合気道に切り換える。肘近くを片手で押さえ込んでいくとやつが意図せず屈んでいく。

 「グっは、なせっ」

 言われて離すやつはここにはいない。過剰な情持ちはそもそもコロシアムに来ない。この能天気はどこまでも能天気だ。

 力を入れて耐えようとしていたがそれは原理を助長するだけで男が完全に両膝をついた。悔しげな舌打ちの後、泣きを含んだ吐露が続く。

 「ひでぇよ。どんだけ人傷つけてもお前は変わんないんだな。俺は変わったのに、お前に傷つけられてから。なのにお前はまだ人を殺すんだな。苦しめて絶望させてこの世から落とすんだな。早く変われよ。お前が同じである限り俺達は救われないんだ。せめて弱くなって簡単に倒されてくれたら救われるのに、お前は何もかも変わってないじゃないか。ずば抜けた強さで人を討つだけじゃないか。さっさと死ねよ。俺より早く死ねよ。俺が踏みつけて埋めてやる」

 まるで川の流れのごとく男の声が俺をすり抜けていく。

 静かな域で小波すら立たない心だった。言葉を暴力に翻訳したら殴られるどころか刺されているのに、何も感じなかった。

 「なんか言えよ。全部否定してやる。全部お前への刃に代えてやる。傷つけてやるよ、お前を。お前は知らないだろうから」

 愚かだった。手では敵わないと降参し、武器を口に変えたようだ。一番無傷で一番深傷を負わせる武器に。

 だがその卑怯さが痛くも痒くもない。リミッターを切るのは殺しよりも先に学んだ。自分の背中を見ないように、すくんだ足下も見ないように。そうしないと自分で自分を殺したくなるから。自分の殺し方すら天才的に思いついてしまうのだから。

 「何か言えっ」

 下から噛みつかれる鼻っ面に肘を押し込んだ。鼻血が付く前に首の急所を手刀で討ち、持ち上げて柵から落とした。

 振り落とした勢いでがくっと自分の膝が折れた。そのまますぐに立ち上がれない。ドクターが心配して近寄るのを片手を挙げて制す。

 ただ、ただ絶句していた。久しぶりに泣きそうな自分に絶句していた。今誰かに、本当は痛かったんだね、耐えていたんだね、なんて情を含んで触れられたら決壊してしまう。

 すっ、はあー。目を瞑って深呼吸をする。

 落ち着いたと決めつけて立ち上がる。

 まだ1/30だ。




 「ドクター、足は?」

 道中で取り戻した素っ気なさできく。

 「だいぶいいよ。激しく動くとちょっと痛むくらい」

 「なら今日はついてこい」

 「いいの?!」

 思わぬ反応にたじろぐ。

 「嬉しいのか」

 束の間ドクターは言葉を選んだ。

 「認められた気がして」

 いいな。素直に喜べて。

 自分のために頑張るとか認められなくてもいいとか豪語するやつは大勢いる。けど結局認められなかったら自称に過ぎなくてほとんどのやつは自称はダサいと感じている。

 だからほんの些細なことでも認められたら小さな居場所ができたように思える。

 しかし俺にとって認められることは堕ちていくことだった。喜んだことはない。作られた居場所は暗くて居心地も悪かった。抜け出す鍵も渡されずただ井戸のような部屋に閉じ込められた。足掻いても爪一つ引っ掛からない。余計に滑って落ちていくだけ。それが分かっていたから抗ったこともない。

 「ねぇキラー、ひとつ訊いてもいい?」

 足を止めないことで了承を示す。ドクターはするりと言った。

 「いつか僕を裏切る?」

 それ以上の他意はないシンプルな問いだった。

 真っ向から、いや、視線は前を向いたまま運命を委ねている。既に俺の掌に乗っていることは分かっているようだ。

 やっぱり今のお前は賢いな。

 直球な問いには真摯に答えなくてはならない。

 「俺を誰だと思ってる」

 ドクターが子どもっぽさを封印してフッと笑んだ。

 「だよね」




 「宮良さーん」

 一旦寄るとドクターが手を振った。宮良は戸惑いながら振り返す。あ、今日はこっちなんですねという感じだ。

 「ドクター、ちょっと宮良さんと話すから寝るなりどっか行くなりしててくれ」

 「了解」

 ドクターは迷わず宮良の布団に潜った。

 「珍しいですね、薪野さんから話したいなんて」

 言外に昨日の俺を責めている。でも責められる俺にならないよう今日はここに来た。

 「ちゃんと向き合おうと思った、俺が」

 「それを昨日信じた私ですよ」

 「今日は期待に沿う。宮良さんの質問に答える」

 単調だが食いぎみの速度でいうと宮良が考え込んだ。訊きたいことを纏めているのだろう。

 「じゃあ、一番ムカついたことからいきますね」

 おお

 「なんでここにいるんですか。あなたがここに来ないために私が身代わりになったんじゃないんですか。あなたがここに来たら私の意味って何ですか。のうのうと生きてられるのも嫌ですがのこのこ捕まってんのも嫌です。自分の意味が分からなくなります。彼女も私も救われません。あなたが間違ってでも自分を通してくれないと、私がバカだったで済まされない」

 宮良が言いながら下を向いていった。

 それを意外な気持ちで見ていた。

 そんな質問がくるとは思わなかった。ただひたすら俺を恨んでいると思っていた。

 もしかしたらこいつは馬鹿じゃなかったのかもしれない。

 俺は宮良の背中を叩いた。

 「悪かった、、、ここに来たことに関して」

 利用したことは決して謝らない。それこそ宮良を踏みにじる。

 手を下げて膝で両手を組み直す。まるで銅像のように一点を見つめ固まる。自分が何を言っても動じないように。

 「俺は、」

 ああもうとっくに事実なのに、口が回らなくなりそうになる。堪えて、堪えて、

 「両親を殺された。」

 言った瞬間、体が記憶に引き摺り下ろされた。


 二階の部屋でだらだらしていた俺の耳にヒステリックな音が突き刺さった。

 それは明らかに日常とかけ離れた音で、何か良くないことが起こっていると本能で分かった。そして悲鳴の意味合いにSOSが含まれていることも分かった。

 それなのに一歩も動けない。行かなきゃ、助けなきゃ、きっと何か大きな後悔をする。

 その時、脳が冷えて震えが始まった。ずっとざわざわしていた階下が突然静かになったのだ。悲鳴や物音が聴こえていたときより不安が一気に膨れ上がった。

 なんとか体を動かして崩れそうな膝で手摺にすがって階段を降りる。奇妙な静寂のドアの前に立つ。ひんやりとしたドアノブに触れた手が震えていた。ゆっくりと下げて引く。

 覗かないと中は見えない。何が待っているのか。想像する余裕はなかった。

 いつもは覗かない部屋だ。堂々と入っておはようと言い合いどたどた出ていく部屋だ。

 だが今は物音一つたてられない。もはや俺たち家族の部屋ではなかった。

 体のどこかで小さく覚悟が決まったらしい。

 そっと、覗く。

 呼吸が止まった。

 食卓に付いた赤い血。マネキンのように生気のない二体の身体。床に散る血潮。ぽた、ぽた、垂れる凶器の、その先の、黒い服、目、焦点が、重なった。

 その瞬間、震えも冷たさも止まった。不思議なのはそれが衝撃からのフリーズではなく、全てを理解してからの落ち着きだったことだ。

 ああ、こいつが。

 黒目同士が離れないまま、自分からは決して逸らそうとしなかった。先に揺れたのは黒服の瞳だった。突然身を翻して小さな庭に面するガラス戸から去っていった。

 追いはしなかった。

 ーそれは俺の人生で唯一の分岐点だった。

 悲しいか、悔しいか、 駆け付けるとよく表される警察官はゆったり歩いてきた。そして俺の前にしゃがみ、そう訊いた。何も答えないと勝手にぽんと頭に手を載せられた。それが無言の約束だったとは後で悟ることになる。


 「…薪野さんはその犯人を殺したかったんですか?だから殺し屋になったんですか?」

 「…分からない」

 「え?」

 「そう思っていたのか、思わされていたのか、もう分からないんだ」

 

 警察の男は俺を匿ってやると言った。俺が生きていると知った犯人が口止めに襲いにくるかもしれないらしい。そしてついでに晴らしてやるとも言った。

 それからは普遍を失った日々が始まった。関数もπも知らなくていい。だが卓越した身体能力と特定分野に特化した頭脳を叩き込まれた。

 既に感情は凍りついていたので淡々とこなすだけだ。こなしていくうちに妙な信頼を向こうに与えていたようで、学校ではされることなく終わった期待というやつをいつの間にか背負っていた。自分で大きくした期待が何の期待なのかは意外と早く知ることになる。

 ーおい、これやれ

 誕生日など忘れていたが、たぶん十二歳くらいだったと思う。ペラペラな紙を一枚放られた。見ると正面と両側からの男の顔写真と身体情報、生態や趣味が事細かに書かれていた。

 それまでの訓練から求められていることはすぐに分かった。

 要するに、やれ。

 そして俺は数日のうちに完璧にミッションを遂げた。信用は増した。何人も何年も殺し続けた。

 こんなにも世の中に悪者がいることを知った。やってもやっても湧いてくる。綺麗で正しい平和などないと諦めた。

 いや、諦める心すらなかった。全てを失ったときからその喪失に耐えるために心が温度を失くした。

 冷たい、冷たいと自分に言い聞かせ、赤い血を微塵も感じさせない行動をしてきた。だが時偶すーっと血が流れて、やっぱり俺はあいつにはなりきれないと思った。

 葬送、そんな美しい言い方はできない。よく殺し屋は掃除屋と呼ばれるがまさしくそれだった。俺のターゲットは皆悪だった。警察が厳選した世の邪魔者。

 1人やれば安泰に1歩近づくわけではないととっくに気付いてはいた。だが、いるよりましだと言い聞かせてまた体を冷やして繰り返す。終わりなどない。

 年月も忘れ、暗い道を歩き続けた。SOSも諦めてこの道しか知らずに大人になった。既に内情を知る警察から恐れられる存在になっていたが、俺は委託された件しか全うせず、役は荒く残虐でありながらも、連行されてから苛立ったことは一度もなかった。

 常に静かな心で。そうでないと壊れて崩れて、物理的では足りないくらい自分を切り刻みたくなる。

 俺は間違えたのか。過りそうになる度に布団に潜った問いだ。誰かが簡単に答えを出してくれたら楽なものを、自分に突き刺すように問うのは苦痛だった。どこかに必ず俺を間違いだと否定してくる自分がいることを分かっていたからだと思う。


 「間違えたんだよ、きっと」

 自分の中に吐き出すと宮良は気まずそうに下を向いた。

 「もう誰にも顔向けできない。母さんも父さんも悲しんでると思う。全く誇れない生き方をここまで貫いてしまった」

 昔話でもなくただの吐露になってきた。

 「でもご両親の仇を討ちたいというのも殺し屋になった理由ではないんですか」

 よくある話だ。敵討ちのために主人公が立ち上がって、徐々に敵の足取りを掴み、最後の最後に爽快に倒すストーリー。もしかしたらそんなヒーロー気取りな気持ちもあったのかもしれない。でも

 「ーそうだと思ってたのにな」

 一人呟いた声は宮良にも届いていたらしく怪訝な顔をされた。説明を足そうと口を開きかけ…閉じた。

 「悪い。ここから先は宮良さんじゃない人に話したい」

 俺にとってそれはようやく固まった決意だった。言ったからには実行しなければ。ここまで傷付けた宮良に言ったのなら尚更。

 「私はなんで薪野さんがここに来たのかを一番知りたかったんですけどね」

 その通りだ。自分勝手ですまない。だからちょっとヒント。

 「裏切ったら裏切られた、それだけ」

 ほんとに、それだけ。

 宮良はそれ以上突っ込まなかった。理解あるな。そろそろ行くか。膝に手を付き長く息を吐いて立ち上がった。

 「行くんですか」

 「ノルマがあるからな」

 宮良がはてなの顔をした。

 ドクターを起こしに向かいながら決めていた置き土産を伝える。

 「宮良さん、一つ今日中に考えといてほしいことがある」




 「やっと僕の出番だね」

 「足引っ張るなよ。基本は隠れてろ」

 「そんなぁ。じゃあ連れてこないほうが楽なんじゃない?」

 「そうだ。だが応急措置が必要になったら直ぐ出来るだろ」

 「えっ危険なの今日?」

 「…」

 残り二十九はやらないといけないのだ。こっちも無傷で済む保証はない。殺しとは一方的なものではない。生が汚く容赦なくお互いにぶつかり合うのだ。リスクは常に双方が背負っている。

 「ま、なるべく怪我しないでね」

 おいおいヘリにも乗ってたお医者様だろ。自信なさげに言うな。

 あ。

 六人の塊が目についた。今朝戯れ言を吹いてた連中だ。他に群れてるやつらはいないから手っ取り早い集団といえる。

 「ドクター、離れて右斜め後ろについてこい」

 視界には入っているようにしなくてはならない。今日はドクターをせめて夜までは守らねば。

 六人衆が気付いた。

 「来るな!俺達は誰も殺さず生き延びるんだっ」

 へぇ、

 口元が緩んだ。

 身を縮ませる六人を尻目に速度を変えず歩み寄る。

 「っやめろ!」

 やめろっつって皆やめれば良かったのにね。届かない皮肉を心中で吐く。

 問答無用で一人の髭面の腕を掴み挙げる。

 「ばッバカ!」

 どっちもな。ここには選択間違えたバカしかいねぇよ。

 「やめろっつってんだろ、放せバカ!」

 「お前がな」

 自分は一回棚に挙げる。顔をぐっと寄せて問い質す。

 「お前本気で誰も殺さなかったら皆生き延びれると思ってんのか。誰も死ななかったらハイじゃあ皆でいようねって」

 男が怒りで血走った目で頷く。

 「んな甘くねぇよ」

 一言で容赦なくこき落とす。髭面が苦しそうに飲み込む。

 「…なんでそんなこと言うんだよ」

 先生に教えてもらわないと分からないか。頭の使えないガキだな。残念、この先生は優しくない。

 「知ってからか、知らずに夢見たままか、選べ。他のやつもな」

 俺の薦めは後者だ。だが目が長いやつはここにはいない。

 「前者だ」

 一人が呟くと頷きが広がっていく。今しか目に入らない。今生きられればいい。

 俺は雑に襟を離した。

 捨て台詞を吐く気はない。




 はっと感じた時には話しかけられていた。

 「ずいぶん甘いじゃない」

 真横の死角から入ってこられた。気配に気づかなかったのが悔しい。いや、怖いのはこいつだ。これがもし組んでいなかったら俺は今やられていたのだ。

 「どうせ今日中にはやる」

 「そ。んじゃやつらは任せた。ところで今どんな調子よ」

 「30分の1」

 ケッと男が横を向いた。

 「甘々にも程があるね、桧野真崎くん。君の覚悟はそんなものか」

 くっ

 「お前は、」

 「3分の1だね」

 つまり10。

 まだ午前中だ。爆弾も使わずにナイフ1本でこの速さと量か。体力も精神も半端ない。それを持つのがどれだけ稀で時間のかかることか。

 「まるでそのために生まれてきたようだ」

 漏れた言葉に反応はなかった。

 窺うと男は小さな苦虫を一匹噛んでいた。

 ヒヤリとしたのは俺の方だ。この距離で逆撫でとも取れる発言は文字通り命取りだ。まだ死ぬわけにはいかない。果たすべき使命が残っている。

 かける言葉は見つからなかったからなにも言わずに去った。

 だが奴の葉っぱで勢いはついた。行動で示さねば信用を失う。あのときと同じだ。

 「ドクター、常に離れて俺の斜め後ろにいろ」

 スピードを緩めずに言い捨てて通り過ぎる。

 歩く先にはぽつぽつと五人いる。ナイフはまだ出さない。圧で制しながら近づいて瞬時に仕留めるのだ。一人やったら四人が逃げようとするから、どれだけ速く片付けられるかが勝負。

 間接視野にドクター。中心視野に急所のセンタリング。デカイ動脈を狙えば良い。一人目から三メートル置いて止まる。

 フッと肩の力を抜きながらジャンプ___ットン。

 タッさッぐゥピチャッだッスッズシャタッタグッカッカっグシッたッサッギシャッ。

 斜めに振り落とした立て膝の姿勢で息を整える。

 辺りに音が消えていた。

 あまりにも儚い一瞬に認知が追いつかないのだろう。追いついているのは俺だけだ。

 速くと思ったらこれだけ速くやらねば意味がない。隙など与えない。隙は油断、油断は裏切り、裏切りは死の覚悟。そういう世界で生きてきた。

 いつか、誰だったか、速業は優しさだと教えられたことがある。苦しみを短くした方が死に様に良いと。どうせただ俺に躊躇を覚えさせないためだったのだろうが。とんだ教育だよ、と突っ込めなかったのもまた、結局自分も壊れている証拠。

 そして更に、振り向く。

 確実にできたか、背から襲われないか、そんな悪癖は俺の異常を語る。惨さの想像がつく景色はやはり想像のままそこにあった。ウッとも思わない。これに良くできました、が付いていたあの頃はもっとおかしかった。

 それに気付けただけでも、良かった、の、かもしれない。

 「あーっ」

 荒く声を吐き、頭を掻きながら、立ち上がる。

 人の死に様の前に自分の生き様を良くしたらと、どうして誰も言ってくれなかったんだろう。なんで自分に問えなかったんだろう。

 今も同じことを繰り返していて、、、いいのだろうか。

 くっ。初めて向けた問いは痛かった。屈折しそうになる体を堪える。だっから、分かってるから、これだけ、

 「ドクターっ」

 打って響いたようにドクターが駆け寄ってきた。

 「どっか怪我したの?速業で足挫いた?」

 失敬な。睨みで黙殺する。こんな速さで怪我してたらとっくに死んでる。

 「こっちこい。話ある」




 「ーいいか?」

 終始静かに聴いていたドクターは腕を組んで考え込んだ。

 「リスクがなぁ」

 言わずもがなだ。

 「不安か?」

 「うん。衛生と腕がね」

 「自信ないのか」

 「離れてるし」

 「でもドクターヘリ乗りこなしてたんだろ」

 「おっよく知ってるね。なんでそんなに僕の情報量多いの?もしかして狙ってた?」

 言葉に詰まる。二重人格の医者は危険としてサブリストに載っていたなんて言えるわけない。話をそらすために早口で言う。

 「二択だ。やるかやらないか」

 「やるよ」

 思わぬ即答だった。ドクターは壁から体を起こして付け足す。

 「キラーが決めたことならやる」

 揺らぎを知らない答えにたじろぐ。

 「お前、こんな短期間で俺のこと過信しすぎだろ。そう簡単に人のこと信じるな」

 「別に信じた訳じゃない」

 間髪いれずにきたが尚更意味が分からない。

 「キラーがちゃんと考えて決めたことだからやるんだ」

 その時思った。ああ確かにこいつが一番賢い。子どもっぽさはただのお面なのかもしれない。実は大人で深い人格が中にいて、それを滑らかにするために子どもを被せているのではないか。

 「ここに来る理由はさておいてさ、来たからには普通で終わっちゃいけないと思うんだ。考えて想わないとまた後悔しきれない間違いを犯す。犯して終わりたくはないからね。とはいえ僕はこんなだから一人で犯さない自信もない。だからキラーについてるし、キラーが深く考えたことなら協力はする。そのかわり僕が考えたことも聞いてよね」

 「…お前が考えたのはなんだ?」

 「まだ何も」

 なんなんだ。良さげなことを言ったと思ったら。

 「ああでも、分かってるからね」

 ドクターは何でもないことのように言った。

 「キラーは僕を残さないって」

 確信した。やっぱりこいつは賢い。

 「きっと僕はキラーにやられるんだろうね」

 言い方は軽くて思わずふっと口元が弛んだ。

 「だな。俺はお前を生かさない。最後にここに残らないといけないから」

 「だよねぇ。キラーには勝てないよ」

 「その代わりちゃんと俺がやってやるよ。その辺のやつじゃなくてな」

 「ありがとうって言えば良いの?」

 ドクターが苦笑した。

 「言えばいいさ。望み通りにやってやる。希望はあるか?」

 「…希望なのか絶望なのか」

 ドクターはぶつぶつ良いながらも考え込んだ。

 「う~ん別にどうやってくれてもどうせやられるからなぁ」

 そりゃそうだ。

 「あっ、欲を言えば」

 何か閃いたらしい。だが裏腹にドクターの表情は陰った。

 「嫌いな自分を殺してほしい」

 その声はクールな人格のドクターだった。

 ぎくりとする程瞬時にトーンが落ちて居心地が悪くなった。

 「ーそれは、どいつだ」

 対応に迷って変なことを訊いた。でもあながち間違ってはいないような気もする。

 「人殺しの自分」

 淡々と暗い答えに、ああこいつの手も赤黒く染まっていたんだったと思い出した。迷わず無駄のない応急手当をしたり、こどものように昼寝したりするドクターを見ていると、お前なんでここにいると思うことがあるが、いて当たり前であった。

 「大っ嫌いなんだ。僕をここに連れてきたのもそいつだし、全部壊したのもそいつだ。僕は人を助けるために医者になったのにそいつは僕を否定して僕の哲学と真逆の行動をした」

 ドクターが悔しそうに顔を歪めた。

 「許せない」

 籠った低い声は俺の知らないドクターだった。知らない自分に苦しめられた人生が垣間見えた。

 どんな気持ちなんだろう。それなら、たった一人の人格でやっていた俺をドクターはどう思っているのだろう。

 不意にドクターがいつもの穏やかな顔になって振り向いた。

 「キラー、約束だよ。嫌いな僕を殺して」

 少し草臥れた微笑が、そいつをのうのうと飼っていくことに疲れたのだと語っていた。

 思えば自ら要求されるのは初めてで返す言葉を持たなかった。

 ただドクターの右肩にぽんと返事をした。




 残り二十四。

 見つけたやつからやっていこう。でないと終わらない。

 握り飯は歩きながら消化した。返り血の付いた手だったが嫌悪感はなかった。

 「きゃっ」

 斜め後ろから情けない悲鳴が飛んできた。

 即座に振り返るとドクターがいたずらに首を絞められていた。

 アホ、お前の方が腰の位置高いから股関蹴れるだろ。だがドクターはパニクって効果のないジタバタを繰り出すだけだ。助けてやるか。

 「暴れるな」

 低く告げやつへ駆ける。

 ドクター邪魔なんだよな。

 今までは一人でやることが多かったから、見方を庇うとか人質を助けるとかやったことがない。強いていうならボスを庇った敵軍をもろともやったときくらい。…強いてもいえない。

 駆け寄りながら考える。そこの隙間に手を差して体を入れつつドクターを剥がしてやつを投げる。投げ方はお行儀の良いものでなく首を挫くようなレッドプレーで。

 いける。

 ドクターの背と男の腹の隙間に手を入れて、男の両腕を絡み取りながらドクターを押し出す。男の後ろに踏み込むように体躯を捻り投げる。訂正、投げるというより叩きつける。思い切り、折れるように。

 ごルッ

 俗離れした惨い音とともに男の魂が登っていった。

 ーあっけな。

 ー人命に対しての常人の感想ではない。

 それをここにきて付け足せるようになった。前は素であっけないと思い、その日の夜も何事もなかったように眠った。身体は疲れていたから簡単に眠りに落ちて、快眠だった。その頃をぞっと思えるようになったのは今のところ一番の収穫だ。

 「ありがとキラー」

 「夜までは生きててもらわなきゃ困る。気をつけろ」

 「はーい」

 ともかくこれであと二十三。日が落ちるまでに残り十は切っておきたい。

 という矢先、1メートル空けて通りすがったやつをナイフで仕留めた。二十二。避けたいなら5メートルは空けることだな。俺の守備範囲舐めんな。

 っと、言った端から2メートル内。右に半円の弧、持ちかえて左に斜線を描く。鮮血の飛沫が頬に飛んだ。袖口で拭い体を起こす。二十。

 いくぞという意味を込めてドクターを振り向く。

 「ちょっ」

 ドクターが自分の袖を引っ張りだるだるにしながら近づいてきた。

 「ちゃんと拭きなよ。顔ホラーだから」

 ぐいぐい顔を拭われる。お前散々惨烈な場面みてきて今更俺の顔でビビるか。不機嫌顔で為されるがまま。

 「はいっと」

 解放された途端くるりと向きを変えた。まるで兄弟みたいな絵面が嫌だった。兄弟なんていなかったけれど。

 「待ってー」

 兄と弟が逆転した。

 感じた。

 「追いついたぞ」

 先に言った。なのに男は驚きもせずいつも通り余裕の微笑を浮かべた。

 「そ、今更ね。俺はもう5進んだよ」

 刺がある。

 「お前さ、」

 男がぐっと顔を近づける。

 「やる気あんの?」

 左胸に切っ先があった。

 こういう男だ。裏切られてきた奴は誰よりも裏切りに弱く、怖い。

 「今、証明してる」

 でもきっとそれは俺も同じ。

 男が目線だけ自分の左胸に下げた。そこにも容赦なく切っ先が真っ直ぐ向いていた。すれ違う形でお互いを刺そうとしている俺達を周りは遠巻きに見ている。

 「へぇー、面白いことしてくれんじゃん」

 男がニヤリと笑ってナイフを下げた。胸に当てられたまま先に降ろすことがどれだけ勇気が要ることか分かっているから誤差の範囲で俺も倣う。先に下げたことは認めた証でもあるはずだ。

 「さっさとラス10は切った方がいいよ。多分自棄糞が始まるから」

 「言われなくても分かってる」

 「そ、ま頑張り」

 全く心の籠っていない励ましを残し男は去っていった。背を向けて去っていくわけだがその後ろ姿からは警戒が抜けていない。恐らく俺がスプリントをかけたら即座に反応するだろう。その姿勢もまた男の人生だった。

 「あっいた!」

 明らかに自分を捉えた荒い声に振り向いた。後ろのドクターが目を丸くする。

 「宮良さん?!」

 そこには全力で走ってきた様相の宮良がいた。恐らく初日以来グランドに来ていなかっただろう。

 宮良は速度を緩めて俺達の前で止まった。

 「薪野さん」

 宮良は膝に手を置いてはあはあしながら言葉を絞り出した。

 「決めました」

 はあはあを治めて宮良が背筋を伸ばす。

 「やります。やってください。お願いします」

 主語も目的語もない。しかし十分だった。

 「分かった」

 宮良は硬い表情だった。決意を揺らげないためにここまで走ってきたのだろう。

 それに倣って俺も早口で進める。

 「やるのはドクターだ。場所は今のドクターの部屋。ドクター、宮良と準備してろ」

 「うん。あ、でもキラーは?」

 「大丈夫。なんとかなる」

 「分かった。くれぐれも大怪我しないようにね」

 「ああ」

 いや待て。

 俺は慌てて歩きだした二人を追った。

 「なに?なんか言い残した?」

 「どうせ宮良さんの基地行くんだろ、送る」

 「あそっかぁ。僕たちだけじゃたどり着く前にやられるね」

 最悪のシナリオをドクターはあっさり言い放った。宮良は落ち着いた顔で苦笑しただけだったが。

 しかし俺と宮良との歳の差は5もない。三十歳を少し過ぎてのこの落ち着きは大人というより諦観を映す。ー勿体ない。

 「宮良さん」

 周りに気を配って歩きながら呼んだ。

 「後悔しないで進めばいいんだ」

 前を歩く宮良が足を止めかけた。それを圧で押して歩き続ける。

 宮良さん、あんたはそれが可能な位置にいるよ。だからそんな顔しないで進めばいい。

 俺は宮良たちと同じ方向へ歩きながら意識は周りを警戒している。だから同じ道を歩きながら同じ地に辿り着くことはないんだ。

 目的が似ていてもやり方が大きく道を曲げていく。ただ幸せに生きたくて生まれてきたはずなのに、いつからこんな曲がった道を作ってしまったのだろう。ここにいるやつらは皆、曲がっていると知りながらその道しか進めずに今も歩き続けている。それをバカだというやつはさぞ真っ直ぐ歩いているのだろうが、要は知らないのだ、湾曲させる力を。気が付いたら突き当たりの曲がり角に立っている感覚を。

 俺は多分もう戻れない。どれだけ曲がってみても、もう曲がりすぎて、何処が真っ直ぐな道だったのか分からない。

 でも宮良さん、あなたはきっと、あと一度曲がったら真っ直ぐな道を取り戻せる。だからそんな目をするな。振り向くな。

 「ありがとキラー」

 無事宮良の基地に着いた。

 宮良も軽く頭を下げる。その顔が上がり、

  ーよし。

 俺は何も言わずグランドに戻っていった。




 時間勝負だというのは男に言われる前から分かっている。きっとあと少しでテンションがバカになったやつらのフィーバータイムが始まる。その前に。

 俺は水呑場で壁と一体化するように背を向けて立っていた。

 確実に人が定期的にくる場所。水呑場は三ヶ所あるがここを選んだのはグランドからは見えず壁に囲われた場所だから。つまり、油断。

 早速足音がした。まだ振り向かない。視界のギリギリでやつが水を飲むのを窺う。まさしく隙だらけだった。

 振り向いて土を蹴る。

 はっとやつが顔を上げたとき、やつの視界はナイフを振り上げた俺でいっぱいだった。

 ズシャっー

 あとは始末だ。やつの体を引き摺り、陰に押し込む。血は足で砂を掻いてならす。

 あっくる。

 そそくさと同じ位置へ戻る。

 足音が二人分だ。お互い警戒なく順番に水を飲んでいるから組んでいるようだ。

 二人が水を飲み終え俺に背を向けて歩きだす。

 俺の背には目が付いている。でもお前らは違う。

 瞬間的スピードを炸裂させぐっとやつらに迫る。やつらが背に感じたときに右手を柄を握るように左に回し体を捻る。そして思い切り刀を抜く。強く押し付けるように、首のライン一直線に。ナイフなのでさすがに頭は飛ばない。だが大事な血管はざっくり切れる。

 やつらは何が起こったのか理解できず、声を出そうと口を開けたり閉じたりしながら後ろに倒れていった。

 やつらの体が落ち着いてから、また一人が待つ陰へ引きずる。

 その後も二人やってきたが、呆気なく陰行きとなった。この調子ですぐに十は切れそうだ。

 とはいえわりと人が来るのに間があるから時刻はもうすぐ夕方だ。いっそ一気に来てくれればな。でもそれだと体力が削られる。ほぼ超人の運動神経だが人間ではあるので温存できるものは温存しておきたい。

 少し広めの間が空いて、待ち草臥れていたときようやく人声が聞こえた。

 「絶対いるって」

 「見てないし、多分そうだな」

 「信じるよ」

 「逃げんなよ」

 極小さな声だったが研ぎ澄まされた耳は四色の声を逃さなかった。

 これはもしや、

 また少し間が空いて一人が水を飲みに来た。ゆっくり、時間をかけて。

 俺は迷っていた。見逃すか、それとも、

 (やる気あんの?)悔しくも男の台詞が頭中で鳴った。

 ここで逃げたら揺らぐな。それにこんなこと山程あったんだ。見逃す?出来るわけない。やる意味もない。もう片方を選ぼう。見逃す、それとも、 

 俺は物陰を飛び出した。蛇口に顔をうずめていたやつが顔を上げる前に、全身でその頭を突き落とす。武器は使わない。バレーのように組んだ腕を突き落とすのだ。

 ゴギっ

 血は出ていないが即死が分かる音がした。

 これは捨て駒。

 俺がパッと振り向くとそこにはもう二人が迫ってきていた。さすがにナイフは持っていない。だがもう殴る寸前の体勢で二つの拳が近距離にある。

 ナイフの切っ先を外に向けて握り、わずかに右手を下げて一気に斜め左へ引き上げる。その勢いにのり倒れてくる体を左へ反転してかわす。

 倒れはした。でも急所には入らなかった。自衛のための制止に過ぎない。だが決定打はあとだ。しばらく呻いていればいい。

 その前に、ほらもう後ろと前を取られている。二人とも何処かで拾ったのであろう太めの棒を掲げ、両側から駆けてくる。

 別に木の棒くらい。いや、避けれるものは避けるべきだ。まだ先は長い。いっそタイミング良く引いて相討ちしてくれたら。そー簡単にもいかないのは俺の運の悪さも含めて分かっている。

 だから、えっと…おっと、少し考えすぎた。

 っ痛って。

 俺は振り落とされた二本の棒を素手でそれぞれ掴んだ。掌がじんじんする。

 くそ。

 苛ついた気持ちをぶつける。棒を相手の関節の限界まで捻る。うっとかぐっとか言って緩んだところを突いて棒を奪う。奪うときに若干相手を押して空間を作り、瞬時に二本を体の前で交差させ両顎に向かって解放する。

 抜刀歳の勝利のように二人が静止した俺を置いてバタンと倒れた。ただこちらも脳震盪止まりなのでさっきのやつらも合わせた四人を一人ずつナイフで終わらせていく。

 水呑場で最初のほうにやったやつの仲間が戻らないので不審に思ったやつらが纏まって数的アドバンテージを形成してきたわけだ。本気でやるならもっと話し合いの場を遠ざけることだし、計画もいまいちだ。ナイフ対素手の状況を作るのが特に足らない。

 だがまた感づかれて攻められるのも疲れるし、ここは視野が狭くなるからそろそろ出よう。それにあっちもそろそろだろう。




 陰に隠すのが面倒くさくなり放ったらかしにしてグランドにきた。あっ

 「よお」

 ギリギリ感知できた。

 「真崎くんも今が読み?」

 呼び名は無視する。

 「ああ。あの男は動きが早いからな」

 「あの男?」

 チッ。分かってるくせにわざとらしい。俺を道具にして政治に行ったあの男だよ。

 「なんてね。俺だって知ってる、そいつ。最低で貪欲な、国の人間だ」

 最も正確にあの男を表した。

 「よく知ってるんだな」

 「まあね」

 男が面倒くさそうに言った。

 「俺のリストに入ってたから」

 驚きかけ、そうでもないことに気が付いた。

 そういう男だよ、あいつは。恨まれるようなことをして昇っていく奴だった。だが未だに引き摺り下ろされていない、隙がない男なのだ。

 恐ろしい。そんな奴に心を蝕まれていたなんて。あいつに心を飼われ、頭を捕まれ、身体を使われていたなんて。

 「どうだった?背中にあの男がいる気分は」

 答えなくても分かるだろ。でも体から出せばもっと俺に近づけるだろうか。それなら、

 「最悪だよ」

 コロシアムに来て良かったことその二かもしれない。あの男と自分を切り離せた。

 訊いといたくせに男は別段何の反応もしなかった。

 「おっちょうどあいつらもいるじゃん」

 グランドの隅の方に今朝の五人衆がいた。

 男が軽く肩を叩いてくる。

 「ま、あっちは任せたよ」

 分かってる。言われなくてもやらないと信用が落ちる。

 tzn_n__通電の音が入った。

 俺と男は来たかというように顎をあげる。

 「諸君。何か面白いことを考えているようではないか」

 肉声を覆った機械音声がコロシアムに響く。覆っても覆っても俺にはあの男が浮かぶが。

 五人衆を中心に全体が反応した。

 「はっきり言おう」

 含みも何もなかった。

 「無駄だ。」

 動じなかったのは俺達だけだった。他のやつらは絶句して立ち尽くしていた。希望を詰め過ぎたやつは今にも泣き出しそうな表情になった。

 その光景に俺はむしろ微笑を浮かべる。あの男がこれで終わるわけがない。

 「それと追加」

 同じように単調に付け足される。

 「明日の二十四時をリミットとする。それまでに残り一人にならなければ皆殺し。たった一人残ったやつのみ生き残ることが出来る。言っておくがリミットを設けさせたのはお前たちだ。それに基本的なルールは何も変わらない。せいぜい嘆く前に励め」

 馬鹿馬鹿しいと吹き出しそうになった。

 励めなんて、あんたに似つかわしくない。大体俺達の励みの向かう方向は明るくない。励むというより敗走ではないのか。

 通信はぶつりと切れて、息の詰まる沈黙が訪れた。

 受け入れきれない。

 その一言に尽きる空間だった。

 だがきっとすぐに気付く。それか気付く前に体が反射する。…ようはたった一人になればいいと。

 ー絶望の躍りが始まる 

 雄叫びがそこら中で上がった。砂埃がグランドを覆っていく。

 残りたい。ただそれだけの願が乱闘を大きくしていく。もう砂と人で十メートル先が見えない。ひたすら目の前のやつを踏んで座に登ろうと足掻く。

 醜いとかグロいとか、そういう言葉が入る隙がない人間の形態だ。生に焦がれてどこまでも力が湧く。もう死んでいるのか生きているのか分からないほど必死に生を求めて、致命傷を負ったことにも気付かず動き続けて突如息絶える。そんな光景があちこちで現れ始めた。

 俺と男は静かに、自分の安全は確保しながらその光景を見ていた。

 見ていたのはほんの一瞬だっただろうが、全てがスローモーションに見えた。俺の中のどこかがスローモーションに見させたのかもしれない。こんな光景を等速で流してはいけないと。

 「おい、さっさとやってこいよ。あいつら未だに呆然としてるぜ」

 そのとき俺は男に絶望した。深く溜め息もつけない程、心で深く黒く絶望した。

 こんな男とは早く離れよう。俺は砂埃の中の五人衆を見極め脚のバネを飛ばした。五人衆は喧騒とは少し距離のある場所で表情を失くしていた。まるで瞬間移動のようにやつらの前に辿り着く。

 「分かったか」

 ようやく一人が顔を上げた。

 「どうしてですか」

 誰にとも限定しない問いに全員が反応した。

 「僕達がやろうとしたことは間違っていなかった。それなのにどうして、こう、理不尽に不幸に導かれなきゃいけないんですか」

 理不尽。

 「…捨てちまえ、そんな言葉」

 無意識に低く漏れていた。

 言うだけ無駄だ。自分達だって理不尽を他人にぶつけてここに来ている。同じように理不尽を投げられたって仕方ないことをしてきている。たとえそれが社会の理不尽を反射する理不尽だったとしても、乱反射した理不尽が自分に集中してもおかしくはないのだ。

 俺達に理不尽を嘆く自由はない。

 「生きられたんじゃないんですか。皆で協力していけば、」

 「無理だ」

 ばっさりと切る。

 何でもする、あいつは。一度決めた目的を果たすまで振り返らずに進み続ける。

 後列の一人がまた俯いた。

 「なんで、そんなこと言うんですか。皆で考えて、良い方向に進める結末はないんですか」

 良い方向に進める結末、想像もしていなかった。仮にコロシアムからその方向が生まれても、その先には必ず払拭しきれない罪が憑いてくるし。

 一寸先は闇。ここに来てから俺達は常にその状況だ。それにも気付かない馬鹿な集団がここにいるが。

 「皆で協力して脱出するとか、そういうこともできないんですか」

 まだ夢を語る。お前たちにはこの喧騒が見えていないのか。やつらの屈折した精神を感じていないのか。分からず屋が。俺は冷たく口を開いた。

 「なら現実の話をしようか」

 五人衆が黙った。どうせまた、何ですかと突っ掛かってくるのだろう。

「いいです、もう」

 それまで一言も話さなかった小柄なやつが泣き出しそうな声で言った。

 「こんなところで夢見たのが悪かった。僕達はそもそも馬鹿やってここに来てるのに、ここでは真面目に仲良く生きましょうとか、不可能なんだ。おこがましいよ、ここまで来といてそんな行動押し付けるなんて。それができなくてここに来てるのに。僕らがおかしかった。一瞬まともになった気で自惚れてたんだ。もういい、やめよっヴッ」

 うるさい口を黙らせた。心臓を一突き。それに気を取られて止まっているうちにサイドにも同じことをする。完全に引いて後退ったやつらも逃がさない。刹那、全員が死に際になった。

 「なんで、こんなっ、」

 言い切れなかったことは分かる。なんでこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。

 まだか。まだ、なんでと言うか。

 お前たちが何をしでかしてここに来ているかは知らない。だが、傷付けたやつに同じことを問われてお前は答えられたのか。お前が悪いとか気に入らないとか、そういうこと以外に何かものを言えたのか。

 …俺は言えなかったよ。ただ無表情に一掃するだけだった。何一つ最期の喘ぎに答えたことはない。

 だが俺は今、お前らと同様の立場に立ってもそんなことは言わない。言う資格がない。言う意味もない。どうせ答えられないし、答えなど求めていないから。そんなことは自分で考えるんだ。考えられなかったから俺達ここに来たんだろうな。考えられるやつは最初から犯さない。

 愚かだ。皆。そんな問いを最期に出したって今更なのに。滑稽な足掻きを見せて死んでいく。でも生の中ならまだ良いと言い聞かせる。マシじゃなかったらそれもまた意味がない。

 「なーんかごちゃごちゃ話して長引かせてると思ったけど最後は速かったね」

 場に不釣り合いな呑気声がやってきた。

 「お前ならどうした」

 どこか不満そうだったので訊いてみた。

 「話なんか聞かずにやるさ」

 訊くまでもなかった。

 「耳を傾けても無意味だからね。聞くだけ無駄」

 さっきまでの俺を全否定された。

 「真崎くん、君ここに来て変な優しさが芽生えてんじゃないの」

 変な。付けるべきでない修飾より、優しさが心を逆立てる。俺から最も離れておくべき言葉だ。

 「馬鹿な」

 ようやく言ったが男は気に留めもしない。

 「馬鹿なじゃないよ。その馬鹿が真崎くんの中にはいる。死んでるけど、いる」

 真崎くんとか馴れ馴れしい。分かったように言うな。お前には俺のことなど何一つ知らないでほしい。理解しないでほしい。いや、きっと理解はしていないんだ。たかが知識としての感覚だけで俺を図っているだけだ。

 不快だった。

 「でも俺の中にはいないんだろうね」

 はっとして顔を伺ったがやはり声色と同じでからっとしていた。

 「残念でもないくせに」

 思わず本音が漏れる。

 「あは、そうだね。全く残念じゃない。知らないし、俺には要らなかったから。だから、それがまだいる真崎くんは要る世界にいたんだろうね」

 男の深意が掴めない。確信を持っていなくて探っているのだろうか。いや、この男に限ってそんな筈はない。

 密かに動揺する俺を尻目に男は切り替える。

 「で、どうする?ここに四十人くらいいるけど、体力ある?」

 お互いノルマ十は残っている。もう十増えたと考えればそれほどきつくない。体力の自信はある。むしろ十以上歳上の男の方を心配をするべきだ。

 「いける。お前は?」

 「もちろんいける」

 男も俺と張り合う自信がありそうだ。

 「じゃあ今だけ背中頼むね」

 今だけでもこいつの盾になる日がくるとは。

 そんなことを考えている場合ではない。お互い背中を頼まなければ出来ない。

 渋渋な様子など微塵も見せずに頷く。

 「じゃあ行こうか」

 気迫も意気込みもなく男がふらっと大衆へ向かう。俺も歩いて続く。

 俺は細心の注意を払って男の動向を観察した。なぜなら、

  男が大衆に1メートルで急発進した。

 これを捉えるために観察していた。俺は難なくそのスピードに乗り男からあぶれたやつを始末していく。

 男は最低限の動きで先へ進んでいく。最低限が出来るということは重要をよく心得ているということだ。これだけの動きで十分。その実感を得るには鍛練しなくてはならない。ただ悠々と人の間を進んでいるように見えて、ばたばたとサイドが倒れていく様子は静かな圧倒だった。

 だが、進んでいくうちに囲まれる。男が進むのをやめ、囲い打破の体制に入る。俺も駆け足で追い付いて男と背を合わせる。

 呼吸を合わせたのは一瞬。同時にナイフを水平に切る。360°が一枚開く。打って響くように二枚目もその後ろも肉体を武器に詰め寄ってくる。

 全く危機感が無かった。

 磁石の対極。ぶわっと離れて切って切って避けて戻る。くるくると乱舞しながら確実に自分と男の背中を守る。いっそ美しいほどの殺陣が二つの流派で繰り出されていく。

 後ろの呼吸音は何一つ変わらない。これだけ動いて決して若くないのに変わらない。

 きっと何者かになれたであろう男の背中。金メダルに焦がれれば英雄に、名門に焦がれれば秀才になれたであろう男。使い道を間違えなければと誰かに言われて、自分でも思っていたのだろうか。

 いや、思わないだろう。男は俺と違って本当にこの道一本しか目の前に存在しなかった人間だ。それを可哀相なんて思わない。闊歩したのはお前だから。

 後ろの安定した息遣い。殺陣は一線を越えるとグロさが美しさに変わる。歳も性別も越えたしなやかさは、俺と違って体が自然に柔らかい時からの鍛練を思わせる。

 俺よりも美しい殺陣が後ろで舞う。血飛沫は花吹雪に見える。歳の割に若い肌に飛ぶ血も飾りに過ぎない。

 この化け物のような男の背を守る程、自分も化け物染みているのだろうか。自分の息遣いを確かめると何の変化もなかった。知らず溜め息が漏れる。

 迫るやつらを回って全方位守備しながら倒す。終わりが見えない。すっと壁が迫ってくる感覚がする。苦しい。こういう経験は思い起こされるが、そんなに頻繁にはない。年に一度悪党グループを根絶するために乗り込んも時くらいしかない。それにここ三年は牢屋で座り込んでいただけだ。男も似たようなものだと思うが全く乱れがない。

 俺はだんだんと呼吸が荒くなってきた。

 ハッハぁ 

 自分の呼吸かと思ったら背中の呼吸だった。

 経験の長さと若さは一律だったらしい。

 「真崎くん、ちょっと限界近いから一気に片付けていい?」

 ぐっと近づいた拍子に男がフラッグを出してきた。即座に乗る。

 「俺もやる」

 「そ、じゃあそっちよろしくっ」

 [っ]で同時に逆方向へ飛び上がった。

 重なる壁を余すところなく崩していく。

 シュタタッスタシュッスッタサッ 

 素早く、地面に着く前に全て斬る。

 刹那 

 衝撃を吸収した音のない着地。

 振り返ると人の川があった。向こう岸では男がこちらを振り向いた。

 アートのように血を浴びた男は俺を見てにやりと口角を上げた。

 一生懸けてもなれないことをまた悟った。




 十八時過ぎ。さすがに体力も削られ、いつもより遅いスピードで歩く。

 明日で決着だな、男はそれだけ言って去っていった。それからもすれ違ったやつはやって過ごしたが、まだ十ぐらいは潜んでいそうだ。しかし今日片付ける気力はない。

 確かめるように階段を昇り一つのドアをノックする。

 「は~い」

 温度差がすごい。さっきまでの俺が吹き飛びそうだ。

 「俺だ。開けてくれ」

 「え?誰」

 声で分かれよ。間抜けな返事して変な警戒心出してんじゃねぇ。渋渋ダサい呼称を使う。

 「…キラーだよ」

 ガチャッ。

 「ごめんごめん。ま、入りなよ」

 お前の部屋じゃねえだろ。今だ温度に適応していない。調子狂うなと思いながら髪を掻きあげて中に入る。

 「あっ薪野さん」

 宮良は上半身裸になっていた。薄く頼りない胸板だ。

 「わりと良い体してない?」

 ドクターの感想は真逆だった。どこが、とは言わないでおく。

 「そうですか?」

 「うん。ちょうど良い感じ。」

 何にちょうど良いのかよく分からない。まあ、イメージ通りではあるか。

 「ドクターさんも良い感じに見えますけどね」

 「えっ?全然だよ。こう見えてお腹ぽよんだから」

 特段太ったようには見えないが筋肉ではなさそうな体だ。

 「私も腹筋とかはないですけどね」

 「腹筋ないけど細いじゃん。無駄がなくていいな。僕無駄だらけ」

 何の話。大して良くも悪くもない男の体の話なんか誰も聞かない。

 「ねぇ、僕キラーの上裸見てみたい」

 「は?キモッ」

 「えっだって絶対割れてるでしょ?僕、仕事柄裸は見慣れてるけど割れてる人ってそんないないんだよねぇ」

 「いやだ」

 確かに割れてるし、締まってる。だがそれだけじゃない。病院に行けずに残った傷とか弾痕がある。

 「えーいいじゃん」

 「見たいなら自力で脱がしに来い」

 さすがにドクターは引き下がった。自分をよく知っているものわかりのいいやつだ。

 「それより準備はできたか」

 ドクターが少しだけ真顔になった。

 「できたよ。コロシアムの端のほうが草ぼうぼうでさ、薬草っぽいのも結構あった」

 「そういう知識もあるんだな」

 「ん、まあ一応ガリ勉したからね」

 何のための勉強だったのか。今となってはどう答えるのだろう。

 「で、麻酔に毒草使おうと思うんだけどいい?」

 振られた宮良は消化しきれず即答しない。

 「あの、麻酔はすべきだと思うんだけど、ないじゃん?だから一旦感覚なくす的な感じで適量の毒草飲んでもらって意識飛ばそうかなって」

 「はあ…」

 「ただ僕専門家じゃないからさ、ちゃんと適量でできるかちょっと不安」

 「…」

 正直な告白に宮良も口を閉ざす。しばしうつむき、

 「いいです、ドクターさんを信じます。麻酔ないよりマシなんで」

 決まった。

 「ドクター、準備はできてるのか?」

 「うん。あ、キラーのナイフ貸してね」

 「分かった」

 「じゃあ宮良さんはこれよく噛んで飲んで」

 ドクターが渡したのはそのままの草だ。俺には植物の区別が、木、草、花しかないから名前も効能も知らない。

 宮良は恐る恐る口にいれて渋い顔をしながらゆっくり噛んだ。

 「宮良さんが気失ったら始めるから」

 俺は取り出したナイフを渡そうとし、こびりついた血に気が付いた。

 「キラー、それは使えない。洗って殺菌して」

 分かってる。

 洗面所に行き、大量の水のなかでごしごし刃を擦る。なかなか落ちなくて爪の裏で引っ掻く。爪の間に入るのは嫌なのだ。ようやく綺麗になったところで水を止め、消毒?

 「ドクター、消毒はどうする」

 「えーなんかバーナーかマッチであぶるとか?」

 「ねぇよそんなもん」

 あったら今頃コロシアムは灰になっている。

 「んー。じゃもうしょうがない。石鹸でよく洗って」

 毒草といい消毒といい不安要素が積まれていく。

 泡が細かくなって消えそうになるほどよく洗ってドクターに渡した。

 「薪野さん、ちょっと来てください」

 まだ毒が回っていない宮良に手招きされた。並んでベッドに腰かける。ドクターはあくせくと動き回っている。

 「お礼は、言いたくないですね」

 宮良がベットの縁を掴んで言った。

 「言わなくていい。恩着せられる立場じゃないから俺は」

 苦笑された。

 「そうですね。そうでした。もう否定しません。でもそれだけじゃなくて、私なんかがって思ってるところもあるんですよ」

 宮良が遠くへ行く。戻れ。

 「思ってりゃいい。ずっと背負っていけばいい。苦しいが、もう一度間違えることはない。逆にそれ捨てたら宮良さんは壊れると思う」

 宮良はきっと嫌でも背負う人だから選んだんだ。もしかしたらもう忘れかけていた良心で選んだんだ。無駄にするな。

 「ああ、なんとなく薪野さんの気持ちが分かりました。私が無駄にすることは許されないんですね」

 「…そうだな。だが、俺のことは気にしないでほしい」

 俺を覚えてもらうためにやるんじゃない。

 「何のために出るのか、宮良さんなら考えられる」

 そう信じている。

 なぜこんなに短期間で、しかも自分が裏切った相手を想っているか、自分でもよく分からない。しかしそれは同族嫌悪と罪滅ぼし、善意と悪意が混ざっているように思う。だから、綺麗さと泥臭さ、こんなごちゃごちゃを投げつけたやつのことなんか忘れればいい。

 宮良がふと視線を固めた。

 「何のためにとは考えていませんけど、やりたいことはあるんです」

 宮良の目は俺を捉えていない。自分の内側に向かった決意だ。

 「真実を言いたい。」

 俺は静かに、良かったと思った。その感情に驚いて、ああこれが本望というものかと気が付いた。

 「もう一度彼女に会いたいとか、そういうことは望みません。…望めません。でも彼女を失望させた自分に戻りたくはないんです。彼女は何も言わない私を責めました。相談しなかったことから始まって、無抵抗に堕ちていく私を肩を掴んで叱りました。これでいいのか、何か言わないのかと。そして、頑なに口を開かない私に項垂れて、諦めたように叱ることをやめました。それが、きっと、一番心にきました」

 宮良の淵に涙はない。悲しいのに泣けない。いや悲しいと言い切れないのだ。単純な悲劇なら、例えば自分のせいでない理不尽な不幸ならいくらでも泣ける。

 そういう劇じゃなかった。

 それは空虚な喪失に近い。自己防衛と混ざって空っぽに現実だけが流れていく。宮良は彼女を失って以来、ずっと空洞なんだと思う。

 だが、まだ空洞だ。俺みたいに空洞に何かを流し込まれていない。だから綺麗な空洞のまま行け。

 「諦めるな、まだ」

 宮良の遠い目が戻ってきた。

 「諦めるな、自分を諦めるな。まだ早い。早いよ」

 馬鹿みたいに繰り返す。

 「宮良さんが諦めるな。まだ、諦めるな」

 馬鹿みたいで馬鹿みたいで馬鹿みたいで、ようやく泣きそうな自分に気が付いた。なんで、こんなところで?

 「どうしたんですか、薪野さん?」

 宮良まで心配そうにしてくる。

 俺は振り払って立ち上がった。水気も吹き飛ばす。

 「とにかく行け。宮良さんの道は曲がってない」

 さっきの涙がもし流れていたら、それは悔し涙と呼ぶのだろう。

 「薪野さん!」

 慌てて呼び止められる。

 「待ってください。ーもう話せない気がして」

 「その通りだよ。もう話せない」

 「それならまだ伝えたいことが…あるような気がするんです」

 宮良自身もそれが何かは分かっていない様子だった。しかしそこまで言われたら戻るしかない。もう一度腰掛ける。

 「…」

 「…」

 「…」

 「…お前が呼び止めたんだからお前から話せよ」

 気まずい沈黙に思わずドクターと話す口調になってしまった。今まではかろうじて呼び名だけはさん付けだったのに。宮良はすいませんと小さくなる。

 「何話せばいいか分からなくて」

 「俺だってそうだ。さっき言ったこと以外は口滑らすくらいしか出ない」

 「滑らす?」

 「悪かったとかそういうことを言いそうになる」

 あ、

 ほら滑らした。もう言ってる。

 宮良がうーんと頭を垂れた。

 「それは要らない言葉ですね」

 そうだろ。口が裂けても言うかと思っていた。

 「後悔を奪うな、って思います」

 乱暴な語尾と付け足しの言葉との間、初めて宮良が敬語を崩しそうになった。

 後悔を奪う。なんて傲慢な行為だろう。

 背負っていくと決めて、重石にしようと決めて、時にそれを武器に乗り越えていこうと決めたものをたった一言のエゴが奪う。謝罪など単なる自己満足だと分かっていた。それ以前に俺に謝る心はないが。

 「薪野さんが謝らないから私は私でいるんですよ」

 その通りだ。俺が謝っては宮良は否定される。宮良が決めた自分をたった一言で壊してしまう。それこそ罪だろう。

 「悪かった、謝ったことに関して。俺はちっともお前に悪いなんて思っていない」

 宮良ははいと納得した。

 「それでいいんです。…それじゃないと困るくらい」

 宮良は笑いながら言った。

 「間違えたのは自分です。後悔したのも自分です。背負うと決めたのも自分です」

 宮良の顔が青白くなってきた。

 「痛めつけながら生きますよ」

 直後、宮良の具合が見るからに悪くなった。

 吐き気と目眩に屈折している。血生臭さには慣れているがこの気持ち悪さには慣れていない。

 背中をさすりもしない俺をドクターが押しのけた。

 「キラー、外に出てていいよ。終わったら呼びに行く」




 すっかり夕方を過ぎ、夜が深まっていた。

 部屋の前で黄昏るのもどうかと思い、ふらふらと夜のコロシアムを歩き回る。

 カサッ 

 「なんだ」

 「あー気づかれちゃったか」

 のほほんとした口調でありながらいつも通り目は笑っていない。

 「なに、夜の散歩?」

 なんだかうるさい。

 「あんまり気分良さそうじゃないね」

 「お前に監視されてるからだ」

 言いながら本当にそうだと思った。このタイミングに合わせてつけてきやがって。宮良の部屋に入ったところから見ていたのだろう。

 「気分が悪いな。俺はお前を監視していないのに」

 「だってまだ信用できないんだもん。俺の知ってるコロシノはこんなもんなのかなーって」

 「こんなもんだよ」

 変な期待を懸けるな。

 「信用しないなら俺から切るぞ」

 本気だった。それなのに男は揺らぎもしない。微笑のままゆたり。

 「それは困るなぁ。分かった俺も信用するよ」

 何回確認すれば信用されるのか。

 この警戒心と周到さも男の半生をよく表している。もはやそれは性格の一部といえる程に染み付いた男の癖だ。

 「でも心配なんだよ。真崎くんが何か見当違いなことするんじゃないかって」

 また俺の方が冷えた。

 間違いない。男は勘づいている。どうしようか。頭を高速に回す。

 「今夜は何もしない。お前に危害を及ぼすこともしない。だから明日に備えてゆっくり休めばいい」

 …と言っても男は裏だけを正確に酌む。だが分かってはくれるだろう。

 男は変わらぬ笑みを浮かべながら呆れた。

 「残念だね。真崎くんとは哲学が似てると思ったんだけど、そんな馬鹿なこと考えるとは。若気の至りか」

 哲学が似てる?爆弾のような発言だった。

 「分かってるならはっきり言え。どうせ収まらないんだろ」

 回りくどく人の動揺を楽しむ男に嫌気が差した。

 「そ、じゃあ言う」

 俺の苛立ちを感じているのに男の微笑は崩れない。それもまた腹が立つ。

 「あの男を逃がすことに何の意味がある」

 凍りついた心から発せられる冷たい声だった。

 何の意味がある。常人なら絶対に問わない。信じられないがこの男は本当に分からないのだ。

 「意味はある。俺も残念だ。お前がわからず屋で」

 苛立ちが隠せない。少しでも言葉で男を傷付けたいと思う。

 「わからず屋?それは違うな。俺が無知なだけだ」

 男は自分で言った。

 「そうだな。俺よりもお前は無知だ。だから口を挟むな」

 「挟むね」

 男の固い壁を感じた。

 「そういうところから裏切りは始まる。少なくとも俺の中で真崎くんの行動は正しくない。俺は真崎くんを非難してるからね。正否の違いは断裂を生む。真崎くんなら分かるでしょ?」

 痛むものがあった。あれも正否の違いだったのだろうか。

 「せめてこそこそしないでほしかったね。怪しさ満載だった。その行動もまた信頼問題を生むね」

 「正直に言えば助けてくれたのか」

 「助けないよ。俺は間違ってると思うから。でも邪魔はしないかな、俺に関わりがなかったら」

 「ない。全くないと約束する」

 慌てて宣言した。男の着地点は此処だったのだ。

 男が最も嫌うもの、それは裏切りだ。哲学の違いとかそんなものじゃない。執念とも呼べる猜疑心を男はずっと持ち続けている。常に張ったアンテナは自らの保身のためだ。張り続けていないとどうなるか、身を持って知ってきたのだろう。

 「そ。じゃあ俺はもう自分の部屋で寝るよ。今夜は見逃してやる」

 あえて寝場所を言ったのはまだ疑いがあるからだろう。

 俺の表情を窺って高ぶりがないことを確認し、男はようやく背を向けた。

 どこまでもどこまでも生き疲れそうな男だった。




 すっかり夜も深くなって肉眼では限界に近い暗さになった頃、そろそろかと思い宮良の部屋周辺をぶらぶらしていた。

 ガチャりとドアが開く。

 「あっいた!」

 外套を羽織ったドクターが出てきた。

 「終わったよ」

 ドクターに疲れは見られなかった。その経歴と才能を思わせる。きっと成功者になれた、あるいはだった、だろう。そんなこと言えた義理ではないが。

 「お疲れ」

 ドクターの肩を叩き部屋に入る。きもち服を払って清潔にし、洗面所で手を洗ってから奥のベットへ向かう。

 ベットには裂いたタオルで上半身をぐるぐる巻きにされた宮良がぐったりと仰向けで寝ていた。

 「呼吸はあるから大丈夫だと思うけど、目を覚ますにはまだかかりそう」

 ドクターの毒薬知識はなんとかなったらしい。

 「どうする?今夜中に運ぶよね」

 「ああ。だが俺がやるからドクターは部屋に戻っていい」

 「分かった。慎重に運んでね。出血させちゃ駄目だよ」

 ドクターは汚れた黒い作業着を拾ってベットの横に跪いた。そしてきつく目を閉じた宮良に顔を近づける。

 「さよなら、宮良さん」

 さっぱりとそれだけ告げてドクターは立ち上がった。

 たった二日そこいらの関係だ。それ以上はあるまい。ただドクターの最後の患者であることは間違いなかった。

 恐らくそれなりに懸けてきたであろう医療の人生の終焉だった。美しいのか、美しくないのか、そんな判断はとっくに棄てているだろう。正しいか正しくないか、それも同じだ。

 ただできることをやっただけ。

 すれ違いざま、

 「ありがとう」

 ドクターははっと立ち止まって下を向いて通りすぎていった。その口元が緩んでいるのが見えた。

 俺の方が動けない。ありがとうなんてあれ以来発したことがない。良い変化と呼べれば、いい、のだろうか。

 考えることをやめて、筋肉を起こす。宮良の側に寄ってドクターのように膝をつく。

 宮良は苦悶の表情をしていた。今までの苦とこれからの苦に押し潰されているようだった。

 俺は一言も楽になれるとはいっていない。こういう道もあると選択肢をあげただけだ。だからその苦悶を俺は一欠片も気に留めない。たがら宮良も俺のことなどすぐ忘れればいい。

 俺は宮良の腹に手を添えて肩に担ごうとした。

 「ヴッ」

 宮良が小さく喘いで、慌てて手を離す。早くもドクターとの約束を破るところだった。

 丁寧に扱わねば。宮良を薄い布団で巻いてそっと背中に両手を差して抱き上げる。

 一瞬自分の嗜好が変わったような変な気持ちになった。が、すぐに消え去ったので今更自分の恋愛対象を知った。罷り間違ってもこういう展開はなかっただろうが。それとも、もしかしたら俺にも宮良にとっての彼女みたいな存在ができたのだろうか。

 フッ。過った妄想に嗤う。

 あり得ない話だ。俺はずっと色と隔離されて、暗いところでどす黒いやつらを始末してきただけの男だ。好きになってくれる人などいない。いたとしても逆に俺がその人を疑う。こんな俺に近づいてくるなんて何かが悪い方向にあると読む。前に特に考えもせず当たり前に言い切ったが正解だった。不幸にさせる自信がある。誰も近寄ってこなくて良かった。

 「お前は違うだろ」

 宮良を見下ろして言う。

 違うんだよ、俺とは。それにしっかり気付いていってほしい。違うと分離してほしい。

 自分で曲がった線引きをするな。まっすぐ自分の前に引け。

 心の中で丈を伝えて、行くぞと歩き出した。

 外はもう何も見えないほど漆黒に染まっていた。少し立ち止まって目を闇に馴染ませる。暗闇で作業することに慣れていたから馴染ませる時間は短く済む。足下が危険でないくらいに確認できるようになり再び踏み出した。

 顎まで布団にくるんだ宮良を横抱きに歩くと何だか既視感を覚える。ざっと記憶を洗うと俺のほぼ唯一といってよい歴史の知識だった。カエサルのもとに絨毯にくるまれて運ばれたクレオパトラだ。ターゲットの中にクレオパトラ好きのおばさんがいて…クレオパトラに憧れて濃い化粧をするような…その人に近付くために付け焼き刃のクレオパトラ知識を用いたのだった。

 俺は学校に通ったことがないからあの男に頼まれた案件で使うような勉学しか知らない。だから勉強的な脳は自分のものというよりターゲットのもののようだ。自分の領域は殺し用しかない。

 本当は何を学びたかったのだろう。

 ああ、普通の生き方だ。もっと悲しませないような生き方だ。誰を?

 また自傷的な笑みが浮かぶ。

 …いたんだよ、俺にも。嫌われたくないと思うような人たちが。でもいなくなって、だからもうどうでもよくなったのかもしれない。嫌われようが胸張れないことをしようが、見られていないならもういいや、と。

 でも今はこれから先会えたときに堂々と涙を流せないのが痛い。心置きなく抱き締めてもらえないのが辛い。そう思うと、ごめんなさいと言わなくてはならない自分になってしまったことを初めて悔いた。きっと俺に失望させてしまうことをこの上なく申し訳なく思う。

 いっそ向こう側に行っても会わない方がいいか。でも小さな期待が残る。無条件に撫でてくれはしないかと思ってしまう。そういう人たちだから、大好きだったから。

 向こう側にいったらあの頃に戻れるだろうか。少年に戻って愛されるだろうか。それとも地獄いきか。俺を鬼の元へ送りたいやつらはたくさんいるだろう。それこそ自業自得だ。

 血生臭いグランドの一画にきた。男と二人で片付けた現場だ。

 宮良を倒れている人の間に慎重に寝かせる。布団もそっと剥いでやる。そして作業の一環でわざと隣に倒れているやつの動脈を切る。出た血を手に付けて宮良の服に移す。億劫になって結局倒れているやつを押して宮良にくっつけた。ーまるで宮良が死人に見えるように。

 よしと立ち上がって見下ろすと宮良は見事に息絶えているやつらの仲間入りをしていた。

 思わず心配になって膝立ちし、掌を胸にあてる。小さな衝撃が律動的に走る。

 この鼓動を止めてはいけない。

 直感で思った。

 ああ、もしかしたら俺は妬みとか罪滅ぼしではなく、ただ宮良に希望を乗せたかったのかもしれない。男が見当違いだの若気の至りだの言った意味が少し分かってしまう。

 確かに己の希望に蓋をしてきた俺達のやり方ではない。まして男なら絶対にやらない。その差は俺がまだ夢見がちなガキであることくらいだ。男はもう希望の書き方も知らない境地にいる。たとえコロシアムにとっては不利でも、それが人間にとっては俺に有利な差であってほしい。

 でもきっとお前はもっと有利だよ。

 宮良の鼓動に額をつける。その心音は俺には真似できない。額を付けたまま声を宮良の心へ発する。

 「生きろ、宮良さん」

 瞬間、額を押す力が僅かに強くなった。ふっと口元が弛む。

 それ以上はいい。俺は立ち上がり、漆黒へ身を翻した。




 ○

 深い深い夜、外套とは違う地味な作業着を身に付けた人影が二車輪の運び道具を引きながら幾人かコロシアム内に入った。

 彼らは死体を見つけると、手に収まる機材を胸の近くにかざし信号がないことを確めて、無造作に担いで積んでいく。

 また一人担ぎ上げると死体がにわかに喘いだ気がした。驚いて荷車に乱暴に下ろす。慌てて機材をかざすが信号は無し。

 もはや怪奇現象だった。まだ荷車には余裕があったが、他の仲間に任せて、足早に去った。

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