第96話 囚われの記憶
——真っ白な空間。音も、風も、匂いすらない。けれど、その奥底には確かに揺れているものがあった。
エルンの夢は優しくて、苦しかった。
そこにいるのはかつての彼女だった。ひたむきに魔法の術式を写し、詠唱を繰り返す。
杖を握る手が震えていた。何度も何度も、失敗しては転び、傷つき、それでも立ち上がる。
「……私はあの方のようになりたいんです」
その言葉はまるで呪いのように胸に突き刺さっていた。彼女が見つめていた背中。それは賢者カイラン。威厳と慈しみを併せ持つその姿にエルンは必死に手を伸ばしていた。届かないのがわかっていても、それでも憧れずにはいられなかった。
だが——。
その日、カイランは言った。
「私はある秘術を行使する。……しばらく深い眠りに落ちることになる」
「……そんな……!」
エルンは叫んだ。涙が頬を伝うのも構わずに彼の前に立ちはだかった。
「あなたを超える魔導士になるって、それまでは導いてくれると言ったじゃないですか……! なのに、あなたがいなくなったら……私は……!」
「すまない。けれど、これは私が選んだ道だ」
彼はそう言い、最後に静かに頭を撫でた。
「もし、新しい私が生まれたときは……その傍らにいてくれ」
『そうして、君は残された。なにも変えられずに』
背後から声が響く。女の声だ。
黒く長い髪。虚ろな瞳。あなたは……誰?
『努力も、忠誠も、想いも、すべては独りよがり。彼はそれを選ばなかった』
夢の中でエルンの足元が崩れていく。
あの日の雨が降る。孤独の雨が彼女の世界を飲み込んでいく。
***
一方、ルナの夢は暗くて、冷たかった。
木の葉が散る音。獣の遠吠え。血のにじむ足。
「……みんな、どこいったの……?」
ある日、ルナは仲間たちとはぐれた。負傷し、精霊との繋がりも失い、ひとり森に残された。
夜が来ても、誰も迎えには来なかった。
そして、今、目の前に立つ魔物は牙を剥き、咆哮を上げていた。
「やだ……やだやだやだ……!」
叫ぶ声が森に吸い込まれていく。
『また一人になるのよ』
今度はルナの背後に女が現れた。
黒く長い髪。虚ろな瞳。宙に浮かんでいる様にも見える。
『誰も最後まで傍らには居ない。あなたがどれだけ笑っても、忘れたふりをしても、本当のあなたはひとりで泣いていたでしょう?』
「やだ……ルナは、ちゃんと……!」
『無理よ。あの男も、そのうち離れていく。あなたを選ばない』
その瞬間、木々が裂け、影がルナを飲み込んだ。
***
そして——現実へ。
俺はルナとエルンの枕元に座り、二人の手を握っていた。魔力を流しているが彼女たちは目を覚まさない。その顔は先刻よりも、さらに苦悩の色が濃くなっている。
『……ゼノヴィア』
俺の脳裏にカイランの言葉が漏れた。
夢魔族と呼ばれる魔族の中でも名が通る、とびきり狡猾で執拗な存在。他者の精神を支配し、恐怖と幻覚を操るとカイランは記憶している。
『この気配——間違いないだろう。ゼノヴィアが二人の心に潜り込み、過去の傷を抉っている』
「ゼノヴィア……!」
俺は立ち上がった。震える声で詠唱を始める。
「光の精霊ルミナよ。我が魔力を代償とし閉ざされた夢を貫け。闇を砕き意識に光をもたらせ——覚醒の閃光!!」
光が奔った。部屋の空気が振動する。
けれど——
光は二人の額に触れる前に消えた。水に吸われた火のように、何の抵抗もなく消え去った。
「……っ」
魔力は確かに放った。術式も破綻はしていない。でも、届かなかった――。
俺の光はふたりの夢の奥には届かなかった。
あまりに深い眠り。あまりに濃い闇。それは俺が思っていた以上に、根の深いものだった。
エルンの眉が微かに苦しげに歪んだ。
ルナの目尻に一筋の涙が流れていた。
(……守れなかった)
俺の足元から何かが崩れていく感覚。
力が足りなかった。信じていた光はまだ届く強さになっていなかった。
俺は膝をつき、唇を噛みしめる。
(くそっ……!)
誰かを救いたいと願いながら届かない自分。
この世界に来て、俺は新しい自分になれたはずだった。
それでも俺は——。いま、二人を救うことができない。
胸が焼けるように痛かった。




