第56話 風なき静寂(しじま)
ギルド裏手にある訓練場の奥——人目のつかない屋外の一角で、セリスはいつになく真剣な顔で剣を構えていた。
俺は少し離れた岩に腰を下ろし、彼女の背中を静かに見守っている。
「こうして改めて見ると、本当に戦士だよな。迷いがないというか……」
「迷っております、今まさに」
セリスが口元を引き結びながらも、淡く返す。けれど、その視線は鋭いままだった。
「風というもの、私にはあまりに掴みどころがありません。ですが、カイン殿がおっしゃっていた真空の概念……あれには、心がざわつくものがあります」
そう、俺がセリスに提案したのは、「空気を完全に遮断する空間=真空」を風魔法で生み出すことだった。
目的は敵の詠唱の遮断。魔術師にとって声が出せない状況は、すなわち無防備になることを意味する。
「そもそも、声ってどうやって届くか、知ってるか?」
「……息と喉の震えでは?」
「それもあるけど、声は空気の振動なんだ。俺の世界では、声は空気を揺らして、その波が相手の耳に届いて音になるとされてる。だから、空気がなければ——声は伝わらない」
「……空気がなければ、音も言葉も、存在できない……」
「その通り。俺のいた世界では、無音の空間という、空気のまったくない空間があってな。そこでは叫んでも、音ひとつ響かない。……それを、風魔法で作り出す。それが狙いだ」
セリスは目を伏せて、剣の柄を見つめる。
「……もしそれが叶うのであれば、戦場での立ち回りに新たな可能性が生まれます」
「ただし、通常の詠唱では発動に時間がかかる。俺が考案した《音消》は優れた魔法だけど、実戦では先に敵の詠唱が始まってしまうこともある」
「……それは、致命的ですね」
俺は少し笑って言った。
「セリスの課題は、《音消》を相手の詠唱よりも早く発動できるようにすること。そして、そのためには詠唱を簡略化する必要がある」
「詠唱を……簡略化、ですか?」
「カイランの知識によれば、詠唱の一部を動作で代用することは理論上可能だ」
「……動作で、精霊に意志を伝えるのですね」
「そう。たとえば剣の切っ先で相手の口元を指し示す。その動作に『我が魔力を代償とする』という意思を込めておけば、毎回口に出さなくてもいい。その契約を精霊と交わせば、詠唱は短縮できる」
「なるほど……それであれば——」
セリスは剣を抜き、ゆるりと構えた。
「音を断て——《音消》だけで、済むというわけですね」
「そう。それを目標に練習しよう」
セリスは集中し、風の精霊シルフィードに意識を向け、空気の流れを感じ取る。
(風を導くのではなく、風を消す……)
両足をしっかりと踏みしめ、両手を軽く広げる。
呼吸を整え、魔力を静かに練る。
流れを断ち切る。その中心に無を生み出すために。
「風の精霊シルフィードよ、我が魔力を代償とし、音と息を断つ静寂の渦を生め——《音消》!」
その瞬間、空気がわずかに震えた。
セリスの正面、ほんの小さな空間が——まるで存在が消されたかのように、沈黙した。
そこにあった木の葉が、音もなく落ち、風さえ通らぬ異様な空間が生まれていた。
俺は立ち上がり、彼女に近づいた。
「……今のは、完璧じゃないにしても、確かに空気が止まってた。俺の声が、君のところに届かなかった」
セリスは額の汗を拭きながら、小さく微笑んだ。
「まだ思うようにはいきませんが……これを鍛えれば、詠唱者の口元だけを封じることはできそうです」
「うん。そしてそれができれば、戦況を一変させる切り札になる」
「詠唱を止めるどころか、呼吸すら……奪えてしまう。恐ろしい力ですね」
「それでも、君なら……きっと正しく使える」
セリスは剣を静かに納め、そして俺へと振り返った。
「ありがとうございます、賢者様。私などに、こんな力を教えてくださって。……あなたが導き手と呼ばれる所以を実感いたしました」
それは心からの敬意をこめた、まっすぐな言葉だった。
夜空の下、セリスは再び剣を抜いた。剣の先端にわずかな風の渦を宿しながら、口元に小さく魔力を集中させる。
風を断ち、声を奪う魔法。
それはただの補助魔法ではなく、闇の中で詠唱者の息を封じる沈黙の刃だった。
戦士セリスの戦い方が、ここでひとつ、進化を遂げた。
そしてまたひとつ——世界は、ざわつく。




