絶望と君 2025.6
「君、クビ」
へ、と間の抜けた声は、意外にも自分の口から飛び出ていた。思考停止。けれどすぐに脳は起動する。
「な、え、ど、どうして!」
七十手前の店長は、深く刻まれた目元を細めた。漁師でもある店長の浅黒い肌は、シミやしわをうまく隠している。そのせいか、同年代よりも若く見えるが、毛髪と呼ばれるものはない。その頭部は、汗で光沢を帯びている。
この町には、漁港の他に毎年一万人の入学生を迎える国立大学がある。まだ食べ盛り遊び盛りの学生たちに向けた、安くて量のある大衆食堂や個人経営の飲食店、居酒屋がここには多い。僕がアルバイトをしているこの飲食店もその一つだ。
店長が朝穫ってきた魚や市場から仕入れた魚介を調理し提供する。夕方から営業し、深夜に閉まるので講義やバイト終わりの学生や教授、仕事終わりのサラリーマンに人気がある。
ちょっと汚いが、安くてうまい店。そこでアルバイトをしている僕は、学生ではない。職を転々としながらこの町で細々と暮らしている、三十五の独身男性だ。
店長は自分の頭を叩きながら、言いにくそうに口をとがらせた。
ぺちん、ぺちんと魚が陸の上で跳ねているような音が僕の耳に入る。どうして突然クビにされるのか理由がわからない。黙って待っていると、店長は頭を叩く手をおろし、口を開く。
「カスミちゃんとリラちゃんにセクハラしたんだろう?」
「はい?」
店長の口から出た名前は、この店のアルバイトだ。二人とも女子大生である。
「君、あの子たちの体にわざと触ったんだろう? 二人ともセクハラされたってすごい剣幕でおれんところに来たんだぞ?」
「せ、セクハラなんて」
微塵もそんな記憶はない。ただ、皿を受け取るときに手が触れたり、客に嫌味を言われ落ち込んでいるときに肩を叩いたりしたことはあったが。
まさか、あれだけでセクハラなのか。
まったく下心なんかないのに?
「ぼ、僕はセクハラなんて――」
唖然としている僕に店長が肩を叩く。
「まあ、君がいるなら二人とも辞めるって言ってんだ。今は繁忙期だし、一人か二人かと迫られたら、なあ?」
どうやら、この結末は変えられないらしい。
深夜の空気は、色のない絵画のように味気なく、よそよそしく通り過ぎていく。腹の底から吐いたため息は、遠くから聞こえる波音に流された。
「これからどうすればいいんだ」
ぽつりと落ちた言葉を拾ってくる者は誰もいない。
この時間の町は、昼間とはまるっきり違う顔をしている。まるで深海に沈んだようだ。曖昧な空気は、ここが夢か現実かわからない。たまに酔っぱらった学生たちが騒いでいるが、外でたむろすることなく、すぐにいなくなる。砂場に潜る貝のように。
顔を上げる。黒い夜空に飛び散った汁のような星がいくつか見える。
二ヶ月。僕は家賃を滞納している。大家さんからは、今月まとめて払えないようなら出ていってもらうと言われていた。
腹をなでる。鉛でも飲み込んだみたいにキリキリ痛んだ。無意識のうちに下唇を噛んでいた僕は、深く息を吐いた。足が止まる。
「なんとかなる」
貯金もなければ、頼れる人間もいない。だけど今までひとりでどうにかできたのだ。今回だって――。
ふいに猫の声が聞こえた。
この町には野良猫が多い。港町だからか、人間は食べない魚介の部位が毎日のように捨てられるこの場所は、猫にとってスーパーマーケットのようなものなのだろう。食に困らなければ、生物はあっという間に増える。するとどうなるか。
答えは簡単。町中に放置される糞尿や病死、事故死した猫の死体は、町の衛生状態を悪化させる。食品関係で栄えているこの町にとって大打撃だ。だからこそ、この町では野良猫の去勢に補助金を出している。耳に切れ込みが入っている猫がそれだ。かわいそうという声もあるが、共存していくなら必要な処置だ。綺麗事だけじゃ腹は満たせない。
「――僕も似たようなものだ」
なんとかなる、そんな根拠はどこにもない。不安が荒波のように襲ってくる。ずぶずぶと真っ黒い思考の海に引きずられ、頭の先までとっぷりとつかる――その直前。再びにゃーと暗闇に溶けそうな猫の声が耳に届いた。
幻聴じゃなかったのか。
もしかしてあの猫だろうか。
一年ほど姿を見せていない白猫が脳裏をよぎる。
あたりを見回すが、スポットライトのように点々と照らす街灯の中、それらしき姿は見あたらない。
肺を萎ませるように息を吐いた。くしゃくしゃっと髪を乱す。
疲れているんだ。いきなりバイトをクビにされて、セクハラなんかしていないのにレッテルを貼られ、金が入り用なのに当てもなく、一ヶ月先の未来すら見えない。
もう一度髪を乱す。今度は力強く。目先すら見えない暗雲を払うように。
早く帰って寝よう。
それが今の僕に何より必要なことだ。
目的が定まれば、少しだけラクになった。もしかしたら、これは悪夢なだけかもしれない。ぼんやりとした夜の町は、夢かうつつかわからない。明日のことは明日の自分に任せよう。
考えることを放棄し、足早にアパートに向かおうとしたときだ。とんっと何かが足に当たった。ボールが当たったとかそういう優しい感じじゃない。いきなり、鉛がくっついたような感覚に足下を見れば、ぎょっとした。
腰の位置に見える頭。頼りない街灯の明かりでも、その髪は真っ白だというのがわかる。
老人? いやこんな時間に出歩いているわけが――そもそも人の足にいきなり飛びついてくるか? それに子供みたいに小さい。さすがにそんな老人いるわけない。
光の早さで思考するうちに、僕はさっと血の気が落ちた。
人間じゃなければ――妖怪か?
父親が目玉という妖怪アニメが脳裏をよぎる。
いやいやいや、そんなはずない。
生まれてこの方、そういったものは見たことがないし、いないとまでは断言できないが、この場でそうだと認める勇気もない。
不安と恐怖がじわじわと首を絞める。物音一つでも立てた途端、僕は糸の切れた凧のように、曖昧な夜を駆け抜けるだろう。
身動きできず、じっとしていると頭が動いた。びくりと体を強ばらせる僕を大きな二つ目が映す。人形のように大きく濁りのない透き通った瞳は、純真さで輝いている。
老人じゃない。子供だ。
僕の中でピンと張っていた感情が、一気に緩む。半袖短パンからのぞく細い手足、熱いほどの体温、傷みのない髪。冷静に見ればただの子供だ。
僕の太ももに手を回したまま、その子供は一瞬だけばつが悪そうな顔をした。多分、僕が驚いて硬直していたのがわかったのだろう。十歳前後の子供だ。男の子だと思うが、ボーイッシュな女の子と言われてもおかしくない顔をしている。薄暗闇の中でも小さな口が開いたのがわかった。しかし、その声が僕の耳に届くことはない。
「どうしたんだい? お父さんかお母さんは?」
その子の肩に手を乗せ、目線を合わせるようにしゃがむ。髪色からして日本人じゃないだろう。大学には海外からの留学生だっている。その両親や親族だと考えるのが普通だ。
少年(だと思うことにする)からの返事はない。日本語がわからないのかもしれない。
困ったな。
近くに親らしき姿はない。関わってしまった以上、さすがにこんな時間に、子供ひとりを置き去りにする気にもなれない。
うーん、と頭をひねっていると少年が遠慮がちに袖を引っ張った。目が合う。首を傾げれば、少年はだっと走った。風のように、それこそ足音ひとつあげず。
ぽかんと口を開けて突っ立ていると、少年は立ち止まり振り向いた。街灯の下、少年の髪色が輝いて見える。だがそれ以上に、こちらを射抜く瞳は何より鮮烈だ。
「――そっちに親御さんがいるのかい?」
どうにかしてそんな言葉を絞り出した。僕が足を進めると、少年はまたもや音もなく駆けていく。遠ざかっては立ち止まる小さな背中を見ながら、昔見た映画を思い出す。猫に導かれ別の世界に行った少女の冒険ファンタジーだ。
僕もこのまま異世界に行くのだろうか。
そう思ってふっと鼻で笑う。ここは映画ではない。現実は残酷だ。滞納した家賃も払えず、バイトもクビになり、これから先の未来に希望も持てない――そんな現実だ。
頬をつねってみる。しかし、こちらを待つ少年のまっすぐな瞳は消えない。
――ストレスが生み出した幻でもないか。
ふっと鼻から息を吐く。現実でも、たまには映画のようなことが起きるらしい。
◇
「え、な、なんで」
たどり着いた先は、僕のアパートだった。築三十年の木造二階建てのアパートは、元々学生に向けた物件だったと聞いている。しかし、時代の変化とともに新しいアパートが増えていき、借り手がいなくなったため僕のようなとにかく安い家賃を求める一般人に解放している――と内見をしたとき不動産の男が言っていた。
「こ、ここに君のご両親がいるの?」
思わず声が裏返る。
元々学生向けのアパートだ。部屋は狭く、階段は急。隣人の声はよく通る。だからここに家族連れが住んでいることはない。断言できる。それに少年のような髪色の住人がいれば、記憶に残らないはずがない。
案の定、少年からの返事はなく彼はまっすぐ僕の部屋の前に立つのだった。
僕は顔がひきつるのを押さえられない。どうして僕の部屋を知っているんだ。そう思ったものの、正直そろそろ喉が乾いた。ため息を飲み込み、僕は鍵をあけた。
「あ、こら!」
靴を脱がずにあがった少年の腕を捕まえる。
「頼むから靴は脱いでくれないかな」
海外では家の中でも土足のままだと聞いたことがあるが、ここは日本だ。ただでさえ大家さんの心象がよくない以上、せめて室内だけはきれいに保ちたい。
少年はきょとんと細い首を傾げる。仕方なく少年を座らせ靴を脱がせてやれば、頬に柔らかいものが当たった。
「え、あ、な!」
言葉にならない声をあげ、仏像のように固まっていると少年はにっこりと微笑み奥へと行く。
異文化、恐ろしい――。
きっと挨拶の軽いキスだ。でも、僕にとっては――ファーストキスだ。
――これは、墓場まで持って行く秘密にしよう。
バクバクとドラムのように鼓動する心臓をなだめながらそのあとに続く。玄関を開けてすぐに洗濯機と台所があり、その向こうに八畳のワンルームがあるだけの部屋だ。ユニットバスは、台所の向かい側にある。ひとりで暮らすには十分な広さだ。少年の姿はすぐに目に入った。
ベッドが部屋の半分を占めている部屋には、冬はこたつに変身する机がひとつ。テレビはない。代わりにノートパソコンが棚の上に置いてある。飾り気のない男の部屋だ。ベッドの上には脱ぎっぱなしの服や洗濯済みの下着が積もっている。慌てて手を伸ばしたが、少年はこちらを見ていなかった。じっと食い入るようにベッドの枕側、その壁に下げたコルクボードを眺めている。
「可愛いだろう」
僕はベッド上の服を掛け布団の下に押し込めながら言う。コルクボードにはたくさんの写真が貼ってある。そのほとんどが猫の写真だ。
「それ、僕が撮った写真なんだ」
部屋の隅にある小さい冷蔵庫から二リットルペットボトルを取り出す。中身は水だ。
「昔、猫を飼っていたんだ。真っ黒い猫」
コルクボードには、少し色あせた写真も数枚ある。それは僕が撮った写真じゃない。けれどその色あせた写真の中には、必ず黒い猫が映っている。
「真っ黒い猫なんて不吉だ、なんて僕の両親は言っていたけど、全然そんなことはなかった。むしろ賢い奴でね。僕は大好きだったな」
学校になじめず、でも親に知られたくなくて公園で時間をつぶしていたときに出会った元野良猫だ。誇り高い一面もあったが、一緒に暮らし始めてからはお茶目な面もたくさん見せてくれた。
「君は猫好き?」
少年は、ちらりとこちらを向く。しかし返事はない。すぐにその視線は写真に戻った。
僕の言っていること、わからないのかな。
可能性はある。それでも、普通は意志疎通をはかろうとしてくるものではないのか。腹の底からもやもやしたものが吹き出てくるのを感じたが、飲み込む。子供に当たっても仕方がない。
そっと息を吐き、取りなすように明るめの声を意識して言う。
「僕がこの町に住もうと思ったのは、猫がたくさんいるからなんだ」
対照的に最近撮ったのだとわかるほど色鮮やかな写真には、斑猫、茶虎、白猫、錆猫とさまざまな猫が映っている。背景は深い青色をした海が多い。
どうせ撮るなら、その一瞬を切り取ったものがいいと思い、少しずつ貯金をして安いカメラを購入した。カメラの知識は動画サイトから得た。他人から誉められるほどの腕はないだろうが、僕自身は満足している。
一枚一枚、時間をかけ食い入るように眺めていた少年は、突然くいっとさらに顔を寄せた。白熱灯の下、新雪のように光をはじく髪が少年の頬で揺れる。鼻先が触れそうだ。台所から持ってきたコップに水を入れたあと、僕は少年の背後からのぞき込む。
「きれいな猫だろう」
少年の視線の先には、真っ白い猫が映っている。青い瞳が印象的な若い猫だ。
「僕がこの町に来たばかりのとき、カラスに襲われているのを助けた猫なんだ」
引っ越しを終え、荷解きも済み、出たゴミを抱えて収集所に向かったとき、カラスが群がっていた。それも何羽も。生ゴミでも漁っているのかと思えば、毛で覆われたスリッパのようなものが見え、思わず眉をひそめる。
弱肉強食、という言葉がよぎったとき、つつかれていた毛玉が動いたのを見た。今にも消えそうな鳴き声が確かに耳に届く。
あとは体が勝手に動いた。
手に持っている段ボールを振り回し、カラスを追い払ったあと動物病院に駆け込んだ。子猫は衰弱していたものの、命に別状はなかった。
ほっとするのもつかの間、先生が僕に問う。
――この子、飼うのですか、と。
「え」
きっと間抜けな顔をしていたに違いない。先生は「残酷なことを言うかもしれませんが」と続ける。
「行い自体はすばらしいです。しかし、この子はこれからも生き続ける。少なくともあなたがそれを望んだのです」
どんっと胸を突かれる。
アパートでペットが飼えるのか確認したことはない。けれど、十中八九不可能だろう。冷たい汗がわき出る。
僕の血の気の失せた顔を見て、先生は呆れを押さえたような息を吐く。
「動物に対して優しい方なのはわかります。私も同じような状況に会ったら無視できないでしょう。でも、優しさだけでは、この子たちにとってエゴでしかないこともお忘れなく」
そう言って、この町の野良猫制度を教えてくれたのだ。僕は己のふがいなさに流されるまま、助けた猫の去勢手術代を支払った。しばらくボランティア団体に世話されたあと、手術をし放されるという説明を猫に対する申し訳なさで頭半分しか聞いていなかった。
今でも飼ってやれたらよかったのに、と思う。
「バイト帰りに歩いていたら突然足にすり寄ってきて。すぐにあのときの猫だって気づいたんだ」
今も元気でいるだろうか。
写真を見つめながらあの時の姿を思い描く。白猫はこちらの姿を見つけるたびにやってきた。それこそ犬のように。
「よく懐くから、可愛くて構っちゃうんだよな」
また明日同じくらいの時間に来るからと言って別れた翌日、バイト帰りに白猫が待ち伏せしていたことがあった。それからあそこの裏路地に魚をくれるおばあさんがいるとか、あの道路で猫がひかれているのを見たから注意しろとか、今は公園の噴水に水が張っているから飲めるぞとか、そう言ったことを話せば理解したようなそぶりを見せる。
こいつは人の言葉がわかるかもと思い、地面に文字を書いて教えたこともある。当然、猫が字を書くことはない。
「のど乾いただろう? 水しかないけど好きに飲んでいいから」
少年にそう言って机の上へと目を配る。少年は写真から机の前に移動した。座ってコップを両手で持つ。ちろりと舌でコップの水を舐めとるものだから、思わず視線が張り付いた。
国によっては、カップではなく浅い皿で飲み物を飲むところもあるだろう。ただ、やはり見慣れないせいか人間というよりも動物的だと思ってしまう。
「もう夜も遅いし、明日警察に連れて行くからもう寝よう」
ベッドを使っていいからと言うものの、少年は反応を示さない。仕方なく、ベッドの上にある二枚の毛布のうち一枚を体に巻き、壁に背を預ける。
目を閉じ意識を沈めようとする。
今日はいろいろあった。
目を覚ましたかのように、胸に巣食う不安が広がる。が、春の日差しのようにとけ込む温もりがやってきて、ゆっくりと眠りを誘った。
脳が覚醒したとき、体の右側が重かった。
瞼を持ち上げる。薄いカーテンを貫いた陽光で部屋の中は明るい。
体が軋む。やっぱり座って寝るものじゃないなとあくびをしたとき、白いものが視界をかすめた。ぎょっと目を見張る。白い頭がくっついているのが見えた。
ベッドで寝なかったのか。
細い肩が規則正しく上下しているのを見ると、立ち上がりたくてもあがれない。
しょうがない。
僕はもう一度目を閉じた。
◇
「きっと今頃、君のことを心配しているはずだ」
早足で行きたいが、少年のことを思うとそういうわけにもいかない。結局、次に起きたときは昼前だった。少年は興味なさそうに後ろからついてくる。
自分のことなのにのんきだな、と思う。
「交番に行けばなんとかなるから」
それは少年というより、僕に言い聞かせる言葉だった。
「すみません」
声をかければ「どうしましたか」と精悍な顔つきの警察官と目があった。
「実は迷子がいて」
「迷子?」
訝しげな声音に「はい」と返す。
「どこにもそれらしき子供はいないですけど」
そう言われて、飛び跳ねるように振り返った。いない。たしかに警察官のいうように、子供の姿はない。交番を出て周囲を見回す。しかし、目立つ髪色の少年の姿はどこにもなかった。
「探してきます!」
僕は走った。勝手にいなくなったのなら放っておけばいい。どうせ知らない子だと心の中で意地悪な僕が言う。でもそうしたくなかった。短い間に情が沸いたとか、僕が正義感にあふれる人間だからとかそういうことじゃない。
ひとりは自由だ。好きな場所に行き、好きなことができる。だけど。
――抱え込んだ不安も焦りも、自分でどうにかしなくちゃならない。
成人していれば、それも当然だと思われるだろう。けれど相手はまだ子供だ。誰かがお節介を焼くくらいがちょうどいい。
――大人だってそうされたいときがあるのだから。
少年の名前も知らない僕は、とにかく駆け回った。お金は持っていないはずだから公共機関を利用することはない。遠くに行くことはないだろう。
日が傾き、空は青から茜色に移りゆく。長く延びる雲が、藍色を引き延ばしてきた。
交番に向かっている途中で親を見つけたのかもしれない。きっとそうだ。だからもう探さなくてもいいんじゃないか――そんな憶測が先ほどから何度も僕に訴える。でも、憶測は憶測だ。本当かどうかわからない。
何やっているんだろうな、僕は。
動かし続けていた足を止める。途端、自分の呼吸とばくばくと鳴る心音が全身を巡る。
腹が減ったし、のども渇いた。額ににじむ汗を手の甲で拭いながら空を仰ぐ。うっすらと月が浮かんでいる。起きたときに水を一杯飲んだきりだ。もう、足が鉛のように重い。
足を止めたら最後、もう諦めて帰ろうとする思考がずぶずぶと飲み込んでいく。もう少しだけ、と自問自答を繰り返していたときだ。
どんっと何かが足にからみつく。その感覚は昨夜もあって。目を落とせば、茜色を反射させる髪があった。こちらを見上げる瞳は青く澄んでいる。僕はその場に座り込んだ。
「――君、一体どこに行っていたんだよ」
ほっとしたのもつかの間、少年は僕の手首を掴むと引っ張ってきた。どこかに連れて行きたいらしい。仕方なく立ち上がると、少年は手を離し駆ける。そして立ち止まり振り向いた。昨日――というより今日のことだが――を思い出し、思わず口元が綻ぶ。
――また僕を現実から遠ざけてくれるのかな。
ゆっくりとした足取りで向かえば、海岸についた。波音が近づいては遠ざかる。今はシーズンではないので、浜辺に人はいない。彼の保護者の元へ案内してくれたわけではないようだ。
「一体なにを見せてくれるのかな」
藍色から紺色に染まりつつある空と色を失いつつある海と砂浜、その上で少年の髪が海風で乱れる。わずかな光さえはじく髪は、何となく星を連想させた。
近づいて気づく。波が運んだ貝やゴミ、石など砂浜の上は意外と物であふれている。しかし、少年の周りだけ綺麗だ。何度も砂浜を掘って埋めたようなあとがある。目を滑らせた僕は、少年の足先に書かれた文字を見て思わず彼を見た。少年は得意げに顎をあげている。
「あ、いた!」
突然背中に刺さった声につられ振り返る。ここには僕らしかない。しかし、声を上げた女性は見知らぬ人だった。高く結い上げた髪を左右に揺らし駆け寄ってくる女性は、まだ二十代くらいに見える。セクハラと僕を間接的に非難した彼女らが脳裏をよぎって、体が固まる。女性は僕には目もくれず、その背後に向かって言った。
「もう、探したんだからね!」
みゃーと場違いな声が聞こえて、今度こそ僕は目を疑った。
そこにいたはずの少年の姿はなく、女性の腕には真っ白い猫が抱かれていた。猫は魚のように暴れると腕をすり抜け、僕の足下にすり寄ってくる。
耳に切れ込みの入っているこの猫を、僕は知っている。
「あの」
自然と声が出ていた。
「あなたは?」
女性は人の良さそうな笑みを浮かべる。
「わたしはこの町で猫カフェを経営する予定の者です」
そう言って名刺を差し出す。
「予定?」と尋ねれば「まだ準備中なんです」とはにかみながら言う。
「保護猫の猫カフェで、希望者がいれば引き取ることもできるカフェです」
「でも、この猫は」
そう言って僕は足下をぐるぐる回る猫をみる。彼女はわかってますと言った。
「毎日のように店にやってくるので、特定の飼い主がいなければ保護しようと思っていたんです。地域猫でも、安心できるお家がある方がいいですから。もしかして飼い主さんですか」
僕は言葉に詰まる。そうだと言いたい。けど――。
「勝手を言うようで申し訳ないのですが――少しの間面倒を見てもらうことはできますか」
今、飼える状況じゃなくてと言えば、彼女は一瞬驚いた表情をしたあと「大丈夫ですか」と尋ねた。僕の脳裏に獣医の言葉が浮かぶ。
「絶対に迎えに行きます」
今の僕はあの頃よりもっと頼りないだろう。でも、光が見えた。こんな奇跡は二度とない。
「わかりました」
彼女は空を見上げる。
「いつでも待っていますので」
「あ、その前にちょっといいですか」
猫を抱き上げようと足を踏み出そうとする彼女を止めると、ポケットから携帯を取り出し構えた。本当はあのカメラを使いたかったがここにはない。すると、流れるように白猫もレンズに入ってきた。
これは決意だ。同時に証でもある。
――僕はひとりだ。でも、待ってくれる存在がある。
ぱしゃりと音が響く。画面に映し出された写真には歪な文字で「ねこ」と書かれていた。さっきまでの出来事は、現実か都合のいい幻か、それはわからない。でもひとつだけ確かなことがある。
白猫の頭をなでる。
「ねこと書いて希望と読むのかな」
そう言えば、にゃんと返事をするように白猫は鳴いた。
了




