第一話
「はぁっ!」
下からの切り上げは、すでに覚られていた。流れるような動きで弾き返され、握っていた木刀はもぎ取られ、ミナキの後方に甲高い音を立てて落ちた。
木刀の転がる音が空しく響く。
「まだまだだな」
勝負がついたことを言外に宣言する白髪交じりの男。ゆっくりと構えていた木刀を下ろす。
「手加減はしないのだな」
呆れたように、第三者の声がした。
もぎ取られた木刀を拾おうとしていたミナキは思わず固まる。その声はまずここにいるはずのない人のもので、次にまさか今の手合わせを見られていたのかという罰の悪さが滲んだ。
「帰っていたのか、グラン」
ミナキの木刀を弾いた男、エルタルが勇者を迎えた。勇者グランを呼び捨てに出来るのはエルタルぐらいなもので、話によると、エルタルはグランの剣の師匠なのだという。
「今さっき着いたんだ。通りかかったら懐かしい音が聞こえたから立ち寄ったんだ」
エルタルの弟子でもあるグランも木刀のぶつかり合う音に慣れ親しんだのだろう。
「丁度いい。休もう」
エルタルが告げると、部屋の隅で待機していたミナキの側仕えであるサマンサが動いた。あっという間に鍛錬場の一角にお茶の席が出来上がる。
サマンサからお茶を受け取り、グランは喉が渇いていたのか、すぐに飲み干した。
「ミナキの鍛錬はどのくらい進んでいる?」
「まだ初歩中の初歩だ。すぐに強くなるわけではないのは、お前もよく分かっていることだろう」
「それもそうだ」
まるで三者面談のような空気の中、ミナキはサマンサからお茶を申し訳なさそうに受け取る。グランがお代わりを要求した。
「三年もあれば一角の剣士になろう」
三年。その途方もない道のりにミナキは気が遠くなった。しかし、呆然としたのはミナキだけで、グランもエルタルも特に気にした様子もない。
それどころか、逆の言葉を言ってのけた。
「それならあっという間だ。ミナキのことはエルタルに任せよう」
「微力ながら、つくさせて貰おう」
「ミナキ、エルタルは何も言わないだろうが、彼が三年と言ったのなら、お前はなかなか筋が良いようだ。期待している」
「は、はい!」
突然話を振られ、ミナキは体を跳ねさせた。両手で包むように持っていたお茶がわずかにこぼれ、手を湿らせる。つぶれた手のまめにお茶がしみた。
ふと視界の端で何かがきらめく。見遣ると、グランの手首にはめられた腕輪であり、その腕輪には見覚えがあった。グランとはまだ四、五回しか会っていないが、見覚えがあるとは不思議である。今は違うが、彼はたいてい金色の目立つきらびやかな鎧を着ているし、その鎧に比べればあの腕輪など隠れてしまいそうなものだ。ではどこで見たのだろう。
「どうしたミナキ」
エルタルが聞いた。
「いえ、グラン様の腕輪が気になって……」
「これか。これは珍しいものでも何でもない」
「いえ、そういうわけじゃなくて……。見覚えがあったから、つい」
「それはこれだろう」
エルタルが袖をまくり、左手首を晒した。そこにはグランがつけているものと同じ金の腕輪がはめられていた。なるほど、毎日顔を合わせているエルタルがつけているものなら見覚えがあってもおかしくない。
「これは従者の証だ」
「従者、ですか?」
聞きなれない言葉に首を傾げる。
「ああ、勇者は信頼する相手を従者とすることができる。エルタルは私の師であるからな。従者になってもらったのだ」
「そうなんだ」
剣の師であり、従者でもある。エルタルとグランの信頼関係はよほどのもののようだ。
「しかし、そうか。ミナキは何も知らないから従者のことを知らなくて当然だったな。そうだな、ミナキも勇者について学ぶべきだろう」
グランは足を崩し、どっしりと座りなおした。そして三杯目のお茶をサマンサに要求した。
「それに、毎日鍛錬ばかりでは飽きるだろうな」
エルタルが呆れたように笑う。
そういえば、ミナキは召喚されて早三ヵ月経つが、毎日のように剣の鍛錬ばかりをしていた。エルタルは厳しい師であり、毎日へとへとになるまで鍛錬が続く。ミナキとしてはいつの間にか三ヵ月経っていた、といった感じだった。
「毎日エルタルと会うというのも辛いものだな」
グランが顔を顰め、エルタルも同じように顔を顰めた。エルタルも毎日グランには会いたくないらしい。
「でも剣の鍛錬ってそんなに必要なのですか?」
ミナキは元々体を動かすのは得意ではない。だから毎日へとへとになる剣の鍛錬が辛くもあった。
「勇者には力が必要だからな」
「力……?」
「ああ、戦う力が。ミナキ、勇者がこの世界の中心だとは知っているか?」
小さく頷く。どこかで聞いたことがあった。そして目の前の屈強な男が、今のこの世界の中心であるという。
「勇者は世界に強い影響力を与える存在だ。そして同時に世界を守らねばならない」
あまりに大きな話に唖然とする。
「そして、今この世界には大きな災いが我が物顔で鎮座しているのだ」
「どういうことですか?」
「私が城をよく空けるのは北に行っているからだ。北に、その災いがある。私はその災いを取り除かねばならないのだ。しかし、なかなかその災いが厄介なものでな。未だに討ち取れていない。ミナキを召喚したのはそのためだ。ミナキ、共にその災いを討ち取ろうではないか」
「待ってください。その災いってなんですか?」
「それは竜の形をしていて、我々は北の暴竜と呼んでいる。分厚い雪雲を従え、世界中を雪で閉ざそうとしているのだ。奴の力は日に日に増し、雪雲は広がり、やがてこの勇者の都にも届くだろう。今は私の力で何とか食い止めているが、永遠にはできない。必ず奴を討たねばならない。でなければ私がこれまで払った代償に申し訳がたたないのだ」
「で、でも私、まだ全然駄目で……。とてもグラン様の力になれません」
「今すぐではないさ。まずは三年。エルタルも言っただろう、三年もすれば一角の剣士になれると。それにミナキは勇者の後継だ。勇者と勇者の後継には特別な力が宿っている。三年もすればミナキも何かの力に目覚めるだろう」
「力、ですか?」
何のことか分からず、困惑した。すると、グランはミナキの前に手を差し出す。ミナキはただその手とグランの顔を交互に見つめた。グランは得意げな顔で見ていろとミナキに言う。
「えっ!」
ミナキは驚きのあまり身を引いた。何もなかったグランの手の上で拳大の炎が突如現れたのだ。
「これが私の力だ。私の力は火炎。だからこそ、私は火炎の勇者と呼ばれているのだ」
驚きのあまり、ミナキは言葉を失った。まるで魔法のようだった。グランの手には何もなかった。それなのに火が現れ、今もミナキの目の前で煌々と燃え盛っている。
「私にも力が宿っているのでしょうか?」
「ミナキは後継だ。だから間違いなく宿っていることだろう」
「とても信じられません。だって、そんな魔法みたいなこと……」
「安心しなさい。そんな怪しいものではないし、おかしなものでもない。過去に多くの勇者が様々な力を宿していた。そして私と同じようにその力と従者とで多くの災いを退けてきたのだ」
グランが自嘲気味に笑う。
「願わくば、ミナキに宿る力がその災いに有効な力であることを願おう」
○
グランとのお茶会から早くも三ヵ月が経った。
グランは日々北の災いの対処で忙しいらしく、城を空けることが多い。あれから一度か二度ほどしか会っていないし、会ったというより見かけた、という方がふさわしい。
そしてミナキは勇者の後継として、期待された力の覚醒はまだだった。
しかし三ヵ月前と全く同じ、というわけではなかった。
「はいっ!」
鋭い突きを繰り出し、対戦相手の首筋に木刀の先を突き立てた。
一瞬の隙を突かれ、対戦相手の若手の兵士は、呆然としながら負けを認める。若手の兵士、経験の浅い者が相手なら、ミナキは稽古で勝ちを取れるようになっていた。
「やりましたね、ミナキ様」
側仕えのサマンサが汗拭き用の布を片手に駆け寄ってきた。サマンサはミナキより少し年上の二十そこらの女性だった。勇者の城では女性が珍しく、サマンサを除くと、あとは二、三人かそれぐらいしかいないようだった。この勇者の城は大きく、頑丈で高い城壁に囲まれているが、大きさに比べて中にいる人があまりに少なく、寂しい感じがした。
「腕が上がってきたようだな」
首筋の汗をぬぐっていると、エルタルがやってきた。最近では若手の兵士たちと共に鍛錬するようになり、エルタルと手合わせする機会がめっきり減った。それでも、手合わせすればあっさりと負けてしまうのだ。さすが勇者を育てた師だけはある。
グランとエルタル、どっちが強いのだろうと疑問に思ったことがある。
二人が手合わせしたところを見たこともないし、手合わせしたという話も聞かない。最も、グランは北の災いへの対処で忙しくてそんなことしていられないのだろうけど。
ただ、エルタルはグランにとって頭の上がらない人らしく、グランには他にも何人かの従者がいるが、エルタルは中でも特別な存在だった。
「エルタル様の指導のおかげです」
召喚される前と今とでは、自分が全く違うと気付いていた。そりゃあ、ただ学校と家の往復をするだけの生活と、毎日木刀を片手に体を動かす生活では変わらないはずがないけれど。
それでも、エルタルの指導は素晴らしいものだと感じていた。で、なければ自分より背の高く、経験の多い青年兵士を負かすことなどできやしない。
「私は大したことはしていない。おまえ自身の実力だ。しかし、そろそろこちらに来て半年ぐらい経つか?」
「え、ええ。それぐらいになります」
召喚されたのがずっと前のように思えた。
「そうか。何か変わったことはないか?」
「いえ?」
「どうされたのですか、エルタル様」
普段静かに控えているサマンサが口を挟んだ。
「いいや、力が目覚めたかどうか確認していたのだ」
「そういうことですか。ミナキ様に何かあれば私が気付いておりますよ」
サマンサが微笑む。サマンサは常にミナキの側にいた。朝起きたらもうそこにいるし、鍛錬でへとへとになったら手を引いて部屋まで連れてってくれる。サマンサは常にミナキと共にいた。
「それもそうだな。だが、城の中に留まっているのが良くないのかもしれないな」
「どういうことですか?」
「もっと様々なものに触れたほうがいいかもしれない。町に行ってみたらどうだろうか?」
「町? 町があるんですか?」
ミナキはこの世界ではこの城しか知らない。毎日鍛錬ばかりで、他のことを考える余裕がなかったのだ。
「城壁の外に町がある。勇者の城の城下町といったところだ」
「へぇー」
「行ってみたいか?」
「行ってもいいのですか?」
「グランに伺ってみよう。お前の身柄についてはあいつの許可がいるからな」