第十話
ミナキはその日、籠を小脇に抱えて森の中を歩いていた。数日前にルーカスと共に行ったマトルの木の元へ向かっていた。数日前の時点ではまだ成っている身が青く、食べられそうになかった。しかし、そろそろ熟れているだろうから採りに行くのだ。ミナキの力を使えば、一瞬にして実を熟れさせることもできたが、待てばいいだけのことに力を使いたくなかった。
森に来たばかりの頃は家の前の庭に出るのも怖かったが、次第に近くの川、近くの薬草の群生地まで行動範囲が広がり、今ではどこに何が生えているかまでしっかり把握していた。
実のところ、ミナキは熊シャーリーと出会ったことがなかった。ルーカスも遠目で見たことがあるぐらいで、そこまで脅威とは感じていなかった。リッツは熊を監視するのが仕事なので、見つけたら適度に痛めつけ、村から遠ざけるというのを繰り返しているらしい。
マトルの木の元に付くと、赤々とした実が葉を押し上げるように実っていた。ミナキは力を使って木を揺らし、実を地面に振り落とした。マトルの木の実は熟れても程よく硬く、振り落ちたぐらいでは崩れない。地面に転がったマトルの木の実を拾い集めていると、少し先の低木の木々が揺れた。誰か、いや何かいるのだろうか。リッツが言うには森の奥には動物がまだ生き残っているらしい。彼が見たことがあるのはウサギやネズミなどの小動物らしいが。
ミナキは人間以外の生き物をこちらの世界に来てから見たことがないので、何が現れるのか気になってじっと見つめていた。
そして一際大きく木々を揺らし、黒い巨体が顔を出す。
「っ」
驚きのあまり、声が出なかった。
そこには、二メートルはあろうかという大きな熊がゆっくりと立ち、ミナキを見下ろしていた。
熊、シャーリーだ。
シャーリーはつぶらな瞳で、穏やかな眼差しをミナキに向ける。対して、ミナキは巨大な相手に指一本動かせず、文字通り固まった。しかし頭の中はパニックで、どうすればいいのか様々な考えが高速で駆け巡っている。
どれくらいそうしていたのだろうか。
時間の感覚が失われ、ほんのわずかの間だったかもしれないし、もしかしたら一時間以上だったかもしれない。だがミナキとシャーリーはじっと見つめあい、お互いに動かなかった。
「ミナキ」
後ろから誰かが駆けてくる音と慌てた声。剣を抜く音。背後から飛び出したその人は真っ直ぐシャーリーへと切りかかった。
リッツだった。
たまたま近くにいたのか、それともミナキが戻ってくるのが遅いと心配して追ってきたのかは分からない。
だがリッツの素早い斬撃はシャーリーの腹を切り、首を切る。
そしてシャーリーは苦痛に唸り、巨体を地に倒す。
勝負は決まったかのように思えた。しかし、リッツは攻撃の手を緩めなかった。倒れたシャーリーの胸元に剣を突き立てる。そして、勢いよく剣で貫いたのだ。
「ほら、戻るぞ」
リッツはシャーリーの返り血を浴びたまま、ミナキの手を引いた。
「倒したんですか……?」
リッツの攻撃は一方的だった。シャーリーは何もしていない。しかし、もしあのまま何かあって、ミナキが襲われていたら? ミナキは頭を振って、起こらなかったことを考えるのをやめた。
「倒してはいない。しばらく動けないだろうがな。傷が癒えればまた森をさまようことだろう」
「殺せない、んでしたよね?」
「そうだ。奴はそういうものらしい」
リッツは平然と言った。彼はこうやって、何度も何度もシャーリーの動きを封じてきたのだろう。だからこそ、断言した。
「どれくらいすれば、シャーリーは動けるようになりますか?」
「一週間は動けないが、二週間後にはもうぴんぴんしているだろうよ。全く、しぶとい奴だ」
リッツは呆れたようにため息を吐いた。
昔、子どもが森で迷ってしまったことがあるらしい。そして、その子どもはシャーリーに食いちぎられた無残な姿で見つかったという。
ミナキも下手したらそうなっていたのかもしれない。
しかしあの穏やかな瞳がひっかかる。もしかしたら、満腹で獲物を追う必要が無かったのかもしれない。
「師匠!?」
庭で作業をしていたルーカスが血を浴びたリッツを見て仰天した。
「シャーリーに遭遇したんだ。大丈夫だ。私もミナキも怪我をしていない」
「そ、そうなんだ。良かった……」
リッツは布と着替えを手に、川へと向かった。水浴びをしに行ったのだろう。
「大丈夫だったか、ミナキ。顔が真っ青だぞ」
「う、うん。シャーリーに会って驚いたの。すごく大きな熊だったから」
それに、リッツの容赦ない攻撃もなかなかにすごかった。シャーリーはともかく、リッツはミナキを助けてくれたのだからこれは口にできない。
「少し休んでいろよ。籠と木の実ならまた今度でもいいんだから」
「そうね。そうする。部屋に戻っているわ」
「ああ」
○
「ねぇ、ルーカス」
ミナキの気分は夕食の頃にはすっかり晴れていた。ルーカスと共に夕食の支度をしながら雑談をするほどまで良くなっていた。
「勇者って後継に討たれたら代が代わるのよね?」
「ああ、そうだ。グランの前にも勇者がいたし、数え切れないほど過去に勇者がいたらしい。ま、俺が知っているのはグランだけだけど」
グランはもう何百年も勇者として君臨しているらしい。
「過去にどんな勇者がいたか知ってる?」
「ああ、知ってるぜ。影の勇者ってのが俺のお気に入りだな」
「影の勇者?」
そういえばグランは火炎の勇者と呼ばれていた。彼は火を自在にしていたからそう呼ばれているのだろう。だとすると、影の勇者とは一体どんな力を持っていたのだろうか。
ルーカスは楽しそうに言葉を続けた。
「ああ。隠れるのがすごくうまかった勇者なんだ。その勇者は後継のときからすごかったんだ。普通、勇者の後継って突然現れるんだ。ミナキみたいに召喚されるってのはまずない」
「でしょうね」
「そんでな、勇者は後継が現れたと気付くと、その後継を探し回ったんだ。後継が勇者を討てば勇者は交代するが、逆に勇者が後継を殺せば勇者であり続けられる。影の勇者の前の勇者は勇者であり続けるために、とにかく現れた後継を見つけ出して殺そうとしたんだ。でも全然見つけられなかった」
「もうすでに隠れていたってこと?」
「そうとも言えるな。勇者の座を脅かす脅威を取り除きたい勇者は死に物狂いで後継を探し回ったんだ。勇者は信頼している部下にも相談して、いろいろな助言も受けていた。それでもやっぱり見つけられなかった」
「どういうことなの? 全然分からないわ」
「後継はその相談された部下だったんだよ。怯える勇者を眺めながら、全く的外れの助言をしていたんだ」
「うわっ、性格悪い……!」
「えっ、頭いいの間違いだろう?」
「確かにそうだけど、やり方が気に入らないわ」
「俺はこの勇者の話、好きだけどな」
でも今はその影の勇者の時代ではない。彼もまた、別の勇者の後継に討たれたのだろう。
勇者の話はこうやって代々語り継がれてゆくのだろう。
「でも、他の勇者の話って面白いわね。もっとないの?」
「他に? 何かあったかな。師匠なら他の話を知っているかもしれない」
ミナキは今度、機会があったら聞いてみようと考えた。
○
ミナキが熊シャーリーに遭遇して三週間ほど経った頃だった。
ルーカスと共に少しはなれたところの岩場に生えているカラ芋を掘りに行ったときだった。
「ミナキ、師匠を呼んできてくれ!」
ルーカスの叫びが届く。かなり切羽詰った様子だ。怪我でもしたのだろうか、とルーカスの元へと向かうと違った。
「く、熊!」
あの日、あのときの黒い熊がルーカスに襲い掛かっているところだった。ルーカスは剣を抜き、応戦している。しかし力ではシャーリーのほうが強く、ルーカスも避けるので精一杯の様子だ。
「待ってて! すぐ呼んでくる!」
ミナキも力を使って戦えないことはなかった。しかし、シャーリーの動きは力強く素早い。ミナキは力を以前より自在にできるようになったが、まだ大振りなことしかできず、下手をしたらルーカスを巻き込んでしまいそうだった。ならば駆けてリッツを呼んだほうが早い。
ミナキは土を掘り返すのに使っていたスコップを放り、リッツを呼びに走った。
リッツは騒がしい音を聞きつけてか、すぐに行き会えた。
「シャーリーか?」
「そうです。今ルーカスが!」
「任せなさい」
リッツは本当に頼りになった。伊達に十何年もシャーリーと渡り合っていない。
「もう傷が癒えたのだな。全く、もう少し大人しくしていれば良かったものを」
リッツは剣を抜き、ルーカスとシャーリーの間に割り込んだ。
「師匠!」
「下がれ。私が相手だ」
ルーカスはリッツの邪魔にならないように慌てて離れた。
ミナキはリッツが来たという安心感を抱きながら、シャーリーをじっくりと眺めた。全身を黒の毛で覆われ、ミナキの指の太さほどある爪を立て、リッツに殴りかかる。以前リッツに斬りつけられた傷も無く、確かに傷が完全に癒えているようだ。そして、前に遭遇したときと明らかに違ったのはその瞳である。あの時は穏やかな瞳であったが、今は激情に取り付かれ、暴れまわっているように見えた。同じ熊であるはずだが、印象がまるで違った。
シャーリーの猛攻で、リッツがかすり傷を負ったものの、今回もシャーリーはリッツに斬られて動けなくなった。
「師匠、今手当てを!」
ルーカスは布を取り出し、リッツに駆け寄った。
「大丈夫、掠っただけだ。家に軟膏がある。戻ろう」
「ええ。ミナキ、籠を持ってきてくれるか?」
「うん」
今回は収穫物を持ち帰る余裕があった。ミナキは自分が放り出したスコップを拾い、ルーカスとともに掘り集めたカラ芋の乗った籠を手にリッツとルーカスの後を追った。




