俺はお前になりたい
肉は美味かった。
炭火で焼かれた獣肉から立ち上る香草の香り。
噛むたびに溢れる脂。
向かいに座る妻は幸せそうに笑っていた。
「どう?」
「うまい。」
レイン・ヴァルクは答えた。
本当に美味かった。
嘘ではない。
窓の外では子供たちが走り回り、市場では商人たちが声を張り上げている。
穏やかな昼だった。
平和な街だった。
誰もが羨むような日常だった。
レインは世界で最も有名なハンターの一人だった。
十七歳でラストライトを踏破した男。
千年以上の歴史を持つ伝説の迷宮。
その最深部へ辿り着いた者は、歴史上たった二人しかいない。
一人目は伝説のハンター。
そして二人目がレインだった。
名誉があった。
金があった。
家があった。
愛する妻がいた。
欲しいものは、ほとんど手に入れた。
それなのに。
レインは窓の外を眺める。
青い空。
流れる雲。
今日も平和だった。
「また考え事?」
妻が笑う。
「そんな顔してるか?」
「してる。」
即答だった。
「パンを食べてる時以外、だいたいしてる。」
レインは少し笑った。
「ひどいな。」
「事実だもん。」
彼女は街のパン屋だった。
出会いもパンだった。
毎日同じパンを買いに来る男がいる。
それがレインだった。
ある日、彼女は聞いた。
「そんなに好きなの?」
「好きだ。」
「私も。」
それだけだった。
そこから話すようになった。
好きな食べ物。
好きな季節。
くだらない話。
気付けば一緒にいる時間が増えていた。
彼女はレインが英雄だから好きになったわけではない。
最初はラストライト踏破者だということすら知らなかった。
知った時も、
「へぇ。」
と言っただけだった。
その反応が妙に嬉しかったことを、レインは覚えている。
食事を終え、立ち上がる。
「どこ行くの?」
「ギルド。」
「仕事?」
「いや。」
少し考える。
「暇つぶし。」
妻は吹き出した。
「世界一贅沢な暇つぶしだね。」
「かもしれない。」
レインは家を出た。
石畳の道を歩く。
市場を抜ける。
やがて巨大な建物が見えてくる。
ハンターギルド。
若い頃は毎日のように通った場所だった。
扉を開く。
酒の匂い。
笑い声。
依頼書の貼られた掲示板。
何も変わらない。
懐かしい光景だった。
「おお!」
聞き覚えのある声が響く。
振り返る。
そこにいたのは白髪混じりの男だった。
深い皺。
日に焼けた顔。
無数の傷跡。
だが、その目だけは不思議なほど輝いていた。
グラン。
五十八歳。
ハンター歴三十七年。
そして、一度もラストライトへ辿り着けなかった男。
「久しぶりだな、レイン!」
「お久しぶりです。」
「聞いたか?」
「何をです?」
グランは少年のように笑った。
そして胸を張る。
「俺、ラストライトへ行く。」
周囲のハンターたちが顔を見合わせる。
無茶だ。
危険だ。
そんな空気が流れる。
だがグランだけは楽しそうだった。
「本気ですか。」
レインは聞く。
「もちろん。」
「危険ですよ。」
「知ってる。」
「死ぬかもしれない。」
「知ってる。」
それでもグランは笑う。
レインには不思議だった。
なぜそんな顔ができるのだろう。
自分も昔はそうだった気がする。
ラストライトを目指していた頃。
明日が待ち遠しかった。
朝が楽しみだった。
今は違う。
幸せだ。
それは間違いない。
だが。
何かが足りない。
何かを失った気がする。
「どうしてですか。」
気付けば聞いていた。
グランは首を傾げる。
「何がだ?」
「そこまでして、ラストライトに行きたい理由です。」
グランは少し考えた。
難しいことを聞かれた子供みたいに。
そして照れ臭そうに笑う。
「変なこと聞くな。」
そう言って頭を掻いた。
それから真っ直ぐレインを見る。
少しも迷わずに。
少しも恥ずかしがらずに。
そして言った。
「俺はお前になりたいんだよ。」
レインは言葉を失った。
その目は本気だった。
五十八歳の男とは思えないほど。
まるで少年みたいだった。
レインは視線を逸らした。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
昔の自分を見ているような気がしたからかもしれない。
あるいは。
もう失ってしまった何かを見ている気がしたからかもしれない。




