大蛇の姫
さぁー、さぁー。
幾つもの細い線が空から引かれる。
時は皐月の終わりー。
季節は、梅雨に入ろうとしている頃である。
山の中腹に、ひっそりと築かれた屋敷の縁側に少女が一人、座っていた。
薄青の単衣を着付けた少女の左側には、干菓子が山のように積まれた器と淹れて間もないであろう緑茶が白い湯気を立てている。
少女は繊細な雨粒が青々とした葉を濡らす、とてもみずみずしいこの季節を気に入っており、今日も雨音や濡れた草や土の香りを楽しんでいた。
縁側から見える景色は手入れが行き届いた原っぱが広がり、その奥に木々がそびえ立つ深い森がある。
「この季節の雨は身も心も洗われるようね。皆はじめじめしてるからって嫌がるけど。ねぇ、希葉」
声を投げかけた先には丁度、用を済ませて戻ってきた同い年の侍女がいた。この希葉と呼ばれた侍女とは昔から姉妹のように育ってきた仲である。
「えぇ、そうですね。ですが、姫様、あまり外側に行かれては濡れて風邪をお召しになられますし、お菓子も濡れてしまいますよ」
希葉と呼ばれた侍女は主人である少女との間に菓子器を挟む形で座り、持っていたお盆を自分の左横に置いた。
「大丈夫よ、今日は風がないから。それに私は雨に強いからそうそうに風邪を引くことはないわ。むしろ、雨に当たった方が身体にいいかも」
そう言いながら、干菓子が盛り付けられている器をさりげなく左斜め後ろに押しやった。
「まったく、もう…。珠奈姫、本当にやろうとか、思ってないでしょうね?」
希葉にいすくめられ、この館の主である珠奈は目を泳がせた。
「ははっ…やろうとなんて、思ってないって。それより、お菓子を食べましょう。せっかくのお茶が冷めてしまうわ」
希葉はため息を一つ、つくと主に向けてつらつらと言い始めた。
「こないだも雨が降った時に一日中外に出て濡れっぱなしで遊んでいたら、風邪を引いたじゃないですか。
神代から代々に渡ってここら一帯を護ってきた大蛇の力を継ぐ、しかも水を司る水神でもある白姫が外で雨に濡れて風邪をお召しになられた、なんて御屋形様に言ったらなんとお嘆きになられるか」
大蛇。
それはこの国の神代御と呼ばれる時代にいたとされるカミである。
大地と水を司り、世界の自然の巡りに作用する、すなわち自然の恵をもたらす一方で天災を引き起こすことにつながる地中に流れる地脈を治めるため、常世と現世の護人と言われている。
一方で常世に最も近く、見た目も巨大な蛇の姿であり、強大な力を持つがゆえに地上を破滅に追い込んだと云い伝えられることから、化け物との呼び名もつく。
大蛇は女の姿をとって人間の男と交わったとされ、その子孫が珠奈の家系ー桐沢家であった。
代々、大姫(初めの姫)が大蛇の力を持って生まれてくることから、同時に地脈を治めることが桐沢家の役目となり、大蛇の力を持つ姫、白姫を筆頭に地脈を治める地納めの儀や雨を降らせる天恵などの神事を担ってきた。
珠奈はそんな大蛇の力を継ぐ白姫であるのだ。
「うぐっ、あー、ごめんなさい。そういえば、詞野はどこに行ったの?」
詞野は珠奈に仕える5つ年上の侍女である。
「今晩の夕飯の買い出しのついでにご用があるそうで里に降りています」
「そう、詞野、麦粉を買ってきてくれないかしら」
珠奈は白い落雁をつまんで、口に運んだ。
「…姫様、他国から献上された、その高価な落雁を前にしてそれを言いますか」
同盟国を結んだ相手とはことあるごとに献上品として物を送りあうことで絆を深めるという目的だが、国内外に仲が良いことを見せるほか、服従の意を示すなど、様々な意味を持つ。
そして、献上品が菓子の類であると本邸から離れた屋敷に住まう珠奈に届けられるのである。
ちなみに今食べているのは周りを海に囲まれた世津国銘品、白落雁。白砂糖の生産、加工が盛んな国であるため、白砂糖や砂糖菓子が主な特産品である。
一方、麦粉は勾瑠庶民に馴染み深い小麦より作られ、よく菓子などに用いられる。
「だって、美味しいじゃない?麦粉菓子。蜂蜜を加えてこねて食べたいわ。この落雁も美味しいけれどね」
「贅沢言わないでください。まずは他国からの献上品を片付けるのが先ですよ。あ、そういえば、夕朱国より品物が届きました」
「そう。後で見るわ」
そして、二人はお菓子を食べながらたわいも無い話をしていたが、珠奈が何かに気づきお菓子をつまもうとしていた手を止めた。
それに気づいた希葉が怪訝そうに主を伺うと、その主は身体で何かを感じ取るように、目だけ動かして希葉に答えた。
「誰か来るわね。結界に激しい反応が無いところを見ると、兄上か遊梨かしら」
珠奈が住む屋敷には、人ならざるものの侵入を防ぐ結界が張られている。普通の人には見えないが、見鬼という人ならざるものを見る性質を持つ者や妖などにははっきりと見え、動物は本能で感じ取るようだ。
この結界は結界を張った本人の許可なしには通ることができない仕掛けである。結界を張った本人には侵入者の有無を感じ取り、人や妖によって結界に触れた時に放つ閃光の色が異なるため、誰が来たのか分かるようになっている。
無理に踏み込めば、痺れに似た感覚が長時間に渡って襲い、許可された者はその感覚が一瞬だけ感じるようだ。
珠奈がそう言ったと同時に森の向こうから青い閃光が放たれたのが見えた。こちらに近づいて来る黒い影はどうやら若い男で、傘らしきものを持っておらず、雨に濡れたままのようである。
「あの青い光は御屋形様にございますね」
「あら、兄上がいらっしゃったの。傘は…さしていないみたいね。拭くものは私が持って行くから、希葉は水桶を用意して」
「はい、姫様」
希葉が隣に置いていたお盆に干菓子が入った器と湯呑みを乗せて、台所へと下がって行くのを、見届ける前に珠奈は自分の部屋に向かい手拭いを箪笥の中から探す。
見つけたと同時に戸を叩く音が聞こえ、急いで玄関へと向かった。
玄関ではすでに雨に濡れた兄、玲茅が待っていた。
「ようこそおいで下さいました、兄上。何故傘をささずに来られたのです」
「突然降ってきたもんだから驚いた。館を出た時には晴れていたのに」
「兄上、拭きますよ」
「あぁ、ありがとう。霧雨だからたいしたことはないんだがな」
そこへ水桶を抱えた希葉が駆けつけ、玲茅の足元に水桶を置いた。敷居に座って、すまない、と言いながら水桶に両足を突っ込み、じゃばじゃばと泥を落とす。
「たいしたこと、あります。ところで、今日は何のご用でこちらにいらしたのです?」
「うん?あぁ、お前に話があるんだ、珠奈」
玲茅は珠奈から手拭いを受け取り、足を拭きながら言った。
「話、ですか」
隣にいた希葉と顔を見合わせ、きょとんとした顔つきで再び兄の顔を見た。




