第十七話
ざぁざぁ、と降る雨の中をあてもなく歩いた。住宅地を抜け、トンネルを通り、小高い山を登り、気がついた時にはすっかり夜は更けていた。
そこから見る景色は、まるで知らない場所だった。ずいぶん遠くに来たらしい。藪を通って来たから、服は薄汚れサンダルを履いた足は傷だらけだった。それでも、構わず上へ上へ登っていく。
ふと、少女は足を止めた。
赤い鳥居。苔むした岩に縄を巻かれた石と、奥には古びた本殿がある。
恐らく神社なのだろう。人の気配がしないところを見ると、今は廃れているようだ。音がない。雨粒が頬に触れる感覚も、伝う水の冷たさも確かに感じるのに。切り取られたように音だけを失った世界に、一歩足を踏み入れた。
ふと、少女は自分が疲れていたことを思い出した。辺りを見渡すと、本殿へ続く石段が上へ伸びているのが見えた。腰を下ろすと、触れた部分から無機物の冷たさが伝わってくる。体も服も絞ったら水が出るくらい濡れていたが、本殿へ入ろうとはしなかった。神社の本殿は神様のお家だから、と教えてもらったのを覚えている。少女は、少し雨宿りをさせて下さいと心の中で呟くと静かに目を閉じた。
どのくらい眠っただろう。
薄っすら目を開けるとまだ暗くて、そう時間は経っていないことが分かる。
視線のその向こう。暗闇の中で、ぼんやりと光るものがあった。橙色の、仄かな光。
少女は体が冷たくないことに気がついた。視線を向ければ、着ているのはずぶ濡れになったワンピースと破れたサンダルではなく、薄紅色の着物と足袋に下駄という姿だった。
雨は、まだ降っている。証拠に、目の前の水溜まりにはいくつもの波紋が出来ては消えを繰り返している。
ことん、と竹の柄でできた赤い和傘が彼女にさしかかる。ぼんやりと橙の光が隣で揺れた。
見上げれば、提灯を提げ藍色の傘をさした黒い長身の影がこちらを見下ろしていた。顔は、縁日でもらうようなお面をしていて見えない。その人は、少女の目の高さまでしゃがみ込むと着けていた面をとって彼女に渡した。
『おまえにやろう。きっと、おまえのことを守ってくれる』
受け取った面は、まるで羽のように軽かった。もっとよく見ようと顔に近づけてみた瞬間、それは一瞬で空気に溶けた。
『もともとそういうものだ』
幼い少女では、言葉の意味は分からなかったのだけれども。傘で隠れた顔の不意に見えた上がった口元を見て、その人はひどく優しいのだということだけは理解できた。
その人は立ち上がると、踵を返しもと来た方へ歩いていく。
その後ろ姿に、尋ねてみたいことは、きっとたくさんあった。それとは裏腹に口から出たのはありふれた言葉だった。
『あなたはだれ?』
歩き去る後ろ姿に、問いかけた。
その人は振り返らず後ろを向いたまま、立ち止まる。
『俺か?俺の名は---』
確かに聞いたその名前は、今も心のどこかにしまい込んである。
ポツリ、と雫が地面に落ちた。
雨か---否。何度拭っても目から溢れるそれが何であるか気づき、ようやく自分は悲しいのだということを知った。