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泰皇国立皇統学院記 〜 一年目 秋 〜  作者: 都月 敬
当日 〜 夜 〜
22/23

夜_泰陰4


 ひらひら、と。


 腰まで伸びて立ち枯れた葦が、夜風に揺れていた。

 秋らしく情感を誘う風景ではあるが、嬢にそれを眺めている余裕はない。

 岱が、来ない。

 何が起こったのかはよくわからなかったが、恐らく調査の手が伸びたのだろう。

 嬢たちを先に行かせ、後に残った。そのまま、追いついて来ない。

 啓は、あの家に残った。

 自分はここに残るべきだ、と。それ以上は何も言わなかった。

 信念あってのことだろうと、瞳を見てもわかって。嬢も、何も言えなかった。

 嬢たちは逃げている。

 東へ行けば、泰河を渡す小舟が何隻かある。船頭もとっくに寝ている時間だろうが、いつの間にか啓と岱が手配して、夜を徹して待機しているらしい。

 しかし、その二人は来ない。

 最も信頼する二人を置いて。

 二人が泰陰に必要だと信じる嬢は、泰陰を抜け出そうとしている。

 これが逃げでなくて、なんだというのか。

 ここから逃げて、どこへ行き、何をしようというのか。

 迷いが足を重くして、嬢はすぐにそれを振り払った。

 嬢は止まることはできない。

 遼も含め、まだ少なくない人数が嬢に従っている。

 根源である娘を抱えたまま、目的もなく彷徨っている嬢に。


 がさり、と。


 一際大きく葦が揺れて。

 長身の女性が姿を見せた。その、夜闇にも映える、青い髪。


「――――置いていけ」


 女が呟いたその言葉は、嬢には唆されているかのように響いた。

 こんな娘、ここで放り出してしまえば。

 いや、ここで女に渡してしまえば。

 娘の命と引き換えに、泰陰から手を引くように取り引きを――――


「……行け」


 くぐもった声が、後ろから届いて、嬢の意識を引き戻す。

 大きな影が前に出た。


 もう、やめて。


 その言葉は、ぐっと飲み込んだ。

 そんな言葉は、誰も望んでいない。でも。


「行って、くれ!」


 叫びながら、遼が女に襲い掛かった。

 周りの男たちが、東へ向かって走り出す。娘も、二人掛かりで運ばれていく。


「――――嬢!」


 なのに、嬢の足が動かない。

 通り抜けざまに、見知った男が声をかけてくる。名は、何といったろうか。


「嬢!」


 数人の男が立ち止まり、さらに嬢を呼ぶ。戻って来ようとする者もいた。

 それでも動かない嬢の、見開かれた視線の先で。


 どさり、と。


 遼の巨体が宙を舞った。重さもないように、軽々と。


「……ぐくっ」


 水のように、流麗に。

 女は、瞬きの間も無く、転がる遼を押さえ込んでいた。

 極められているのか、遼は左腕を捻り上げられたままで、動けない。


「――――遼」


 嬢の口から慣れ親しんだ呼び名が漏れて、一歩踏み出しかけた、その刹那。


「行けぇっ!!」


 遼が無理やり立ち上がった。

 青い女が振りほどかれる。すぐさま遼が覆いかぶさって。


「嬢!」


 幾度目かの声とともに、嬢が走り出した。

 東だ。東へ行って、渡し舟に乗る。小舟でもこの人数を載せるのに充分な数はあるはずだ。娘には西へ送ると言ったが、小舟では泰河を渡るので精一杯。まずは明朝まで身を隠そう。港でもいい、山でもいい。泰陽にある知り合いの家にだって。

 すべては、それからだ。

 また、遼の呻きが聞こえた。それでも嬢は、もう振り返りはしなかった。



 ゆらゆら、と。

 泰河の流れに、小舟が揺れる。

 嬢は、対岸の灯りを眺めている。もう月も天頂を過ぎているというのに、泰陽にはまだちらほらと明かりが見えた。まだ飲み騒ぐ輩がいるのだろうか。

 振り返るまでもなく、来し方は夜闇に沈んで、影も形も見えない。明るくても、低く雑多な町並みは、対岸からは見えないのだ。見えても、見もしないだろうが。

 それでも、嬢たちが作った町だ。

 岱や、啓や、多くの者たちと。一から作り上げたのだ。

 まだまだ、やるべきことも、やりたいことも、山ほどあるのに。

 ぎいぎいと櫂が軋んで、嬢をあの町から引き剥がしていく。

 誰一人、声もなく。

 悠久なる泰河は、誰にも平等に流れていた。


 嬢たちが降り立ったのは、港から大きく東に外れた、何もない河岸だった。

 まずは人気のない場所に降りて、辺りを探る。調査の手はこちらにも伸びているのか。追っ手はかかっているのか。こちらは敵の正体もわかってはいないのだ。

 皆が、黙々と、舟を降りる。降りた端から座り込む者もいた。

 疲労は肉体よりも精神的なものだろう。それだけに嬢も強くは言えない。

 全員が降りたのを確認し、船頭をやってくれた者に目で合図を送る。

 船頭は少しの逡巡の後、舳先を泰陰へと向けた。あの舟は泰陰に必要なものだ。


 さぁ、立て。


 そう命じようとした、矢先だった。

 押し寄せる、松明の灯り。それは、人が持つよりも随分と高く、速い。

 ……馬か。

 絶望的な思いが押し寄せる。

 頭数自体はそれほどでもない。しかしすぐに取り囲まれる。

 逃げることなどできない。この何もない場所で、騎馬に勝てるわけなどない。

 嬢たちにできたのは、わずかに、立ち上がって、身を寄せ合っただけだった。


「人攫いとは、お前たちか!」


 朗々と響き渡る声。

 論理と倫理に裏付けられた自らの正しさを、響きだけで主張しているようだ。


「問答もなく取り囲み、馬上より人を蔑む、お前たちこそ何者か!」


 すぐさま、嬢が叫び返す。

 法も道も助けてはくれない。だからこそ、渾身の大音声で叫んだ。


「我々は、嵩泰教大寺院に属する者。こちらは大僧正がご子息、蒲星様である。教えにより、国を乱す無法者を捕らえに参った!」


 先ほどとは違う声が名乗る。

 警備でないのは意外だったが、それも嬢にはもはや瑣末事。


「国を乱す無法者とはよく言った! 確かに私たちは国を乱す。お前たちが小さくまとめた国は、私たちを生かしてはくれぬからだ。それでもなお、自ら高潔たらんと生くる者たちを、お前たちの教えとやらは蔑み、殺すのか!」


 ざわり、と。囲みがざわついた。

 しかしすぐに別の声が反駁する。


「何を言う! 国も教団も、泰陰には幾度も援助をしているではないか。それを忘れて、生かしてくれぬとは、恩知らずにもほどがあろう!」


 これに、嬢は苦笑を返し。


「恩というが、その援助とやらで、泰陰がわずかでも上向いたことがあったか!そちらの都合しか斟酌せず、恵んでやるから黙って喜べ、感謝しろ。その考え方こそが侮蔑の証左だろう。それがお前たちの唱える、教えか、道か!」


 重ねて教えを貶されて、返る声に怒りが満ちる。


「おのれ、嵩泰教をそしるか!」


 この程度の議論で逆上する、その浅薄さ。

 嬢の言葉にこそ、侮蔑が籠る。


「お前たちが何を信じ、崇めているかは知らん。ただ、他の倫理観を学ぼうとせず、他の生き方を認めぬ教えに、なんの価値があろうか。私にそう感じさせたのは、まさにお前たちのその態度だ!」


 嬢が蔑むは教えではなく、目の前の男たち。

 それがさらに、若い血潮を逆なでて。


「国も無く、家も無き者どもが何を喚く!」

「国ぞ、家ぞ、が無くては立ち行かん者どもを、嘲笑ってくれよう!」


 もはや売り言葉に買い言葉。それでも嬢には余裕が知れる。

 逆に、教団の若き僧たちからは、冷静さが失われていた。

 その一点のみを観るならば、ここまでは嬢の思う様。

 そこへ。


「――――話を戻しても、いいだろうか」


 沸き立つ湯に水を流したかのごとく。

 その一言で、場の熱が急速に引いていく。


「大僧正がご子息、蒲星様、だったか。どうぞ」


 あくまで余裕を見せて、嬢が発言権を譲った。

 不敵な笑みは崩さずに、密かに流れる汗を隠す。


「私の質問は最初の通りだ。人攫いとは、お前たちか」


 蒲星はいつの間にか馬を下りていた。

 視線を揃えて、語調を抑えて。

 これでは、噛みつきようもない。


「現状だけで判断されては不条理だ。物事にはすべて、起因がある」

「ふむ。では聞こう」


 こちらの押しに対して、引くのが早い。とばりのように、手応えがない。


「そもそもは、娘が私たちを一方的に蔑んだことに始まる。客である私たちを、店員である娘が、だ。服装を貶され、泰陰の者だというだけであらぬ罪まで疑われた。あれこそがまさに、私たちに対する泰陽の態度そのものだ」


 昼間の娘の態度を思い出す。あの怒りで、武装する。

 しかし蒲星は、それもふわりと受け止めて。


「そういう態度を取る者がいることは認めよう。泰陽全体の罪と言われれば、同じく属する者として、小さいながら詫びさせてもらう。申し訳なかった」


 言葉の通り、堂々と頭を下げた。

 こんな時にだけ、そういう態度を取るのは、ずるい。


「下手に出てもらえばそれで済む、というわけでもないが。ただ、娘が最初からそのような態度をとってくれていれば、こんな事態にはならなかったのだろうな」


 吐き捨てる。

 ここで詫びられても、下がる溜飲はない。


「では、それも踏まえて問おう。差別に対する仕返しが誘拐、というのは是か?」


 こちらの攻撃は柔らかく受けとめて、返す一撃はどこまでも鋭く。

 答えを失う嬢に、蒲星はなおも重ねて。


「差別の苦しみは受けた者にしかわからない、と言う。それは一面正しい、とも思う。だが一言で差別といっても千差万別。苦しみようは、人によって異なろう」


 わかっている。泰陰とて平等ではない。

 泰陰で、最も恵まれている嬢が、一番わかっている。


「まして、それに対するのが、誘拐ではな。重ねて問うが、誘拐されたことは?」


 あるわけがない。

 身代金が取れるわけもない泰陰の者を、誰が攫おうと言うのか。


「もちろん誘拐の恐怖、苦しみも人様々なのだろう。目には目を、などと言うが、かように復讐を正当化するのは難しい」


 ぶつけられる言葉は淡々と、ただ冷静。

 頷くことはできなくて、俯くのは悔しくて。

 歯を食いしばって、声のする方を睨みつける。

 そこへ、蒲星は同じ質問を繰り返した。


「どうだ。差別に対する仕返しが誘拐、というのは、是か、非か?」


 あの時の愚鈍な娘のように。

 嬢は、問いが過ぎるのを、ただ待っていた。

 蒲星が小さく、笑うのが聞こえた。そして、続く問いは、優しく。


「質問を戻そうか。人攫いとは、お前たちか」


 元より、逃げ道などなかったのだ。

 最初から。


「その通りだ」


 誤魔化さずに認めることが、嬢に残された最後の誇りだった。

 勝利を確信したのか、蒲星はなおも続けて。


「今回の件、原因を突き詰めれば、泰陰の住民に対する蔑視があろう。それには、多くの信者を持つ教団のにも責任の一端はあるが――――」

「それこそ論点がずれているだろう。差別を無くすための行為などではない」


 それは嬢の、教団に対する批判を覆すためだったのかもしれないが、嬢にそれを聞き続けることはできなかった。元々が、言いがかりだ。

 腰を折られて、鼻白む蒲星へ向けて。

 嬢は、改めて顔を上げ、胸を張り、はっきりとした声で告白する。


「私たちが、この娘を攫った。監禁して、袋に詰めた」


 後ろの男へ顎で示す。

 蒲星の声が聞こえてなおうるさくなった袋が、前に差し出された。


「多少脅しはしたが、傷はつけていない。好きに連れて行け」


 嬢の神妙な態度を窺う素振りも見せながらも、教団の男が二人ほど駆け寄って、袋を丁重に運んでいった。


「指示をしたのは、私だ。実行した者二人は、恐らくすでに捕らえられている。それ以外の者たちは、ここにいる者たちを含め、知らぬままに協力させられたに過ぎない。罪はない」


 それは、従ってきた者に対する、最低限の責任。だが。


「罪の有無を決めるのは、お前ではない」


 正しい声に一蹴される。

 これで、嬢にできることは何もなくなった。

 ようやく。嬢がそっと目を閉じる。


「――――厳密に言えば、蒲星でもないけどね」


 少し、おちゃらけたような。

 その言葉は、嬢たちの背後から届いた。

 後ろには、河しかないはず。そう思って振り向いた嬢の目に入ってきたのは、見覚えのない男が櫂を握った小さな舟と、それに乗った四人。


「……岱、啓、遼」


 オレンジの髪の女が連れたのは、馴染みの三人の男たち。


「嬢、面目ねぇ」


 縄目を受けているのは、そう詫びてうなだれた岱だけで、他の二人は大人しく従っているようだ。ただ、遼は左の肘をかばうように抱えている。


「その様子だと、言いたいことは終わったみたいだね、蒲星。じゃあ、続きはこっちで引き取ってもいいかな?」


 問われた蒲星は、やれやれ、と一つため息をついて。


「……お前が出て来る幕か、橙琳」

「もし、ソレの親がどうしても、って言ってるなら、手を引くけど」

「そんな話は聞いていない。私は、借りを返せ、とせがまれただけだ」

「貸し主とは話がついてる」

「ならば、好きにしろ、とまでは言わないが、ひとまず任せよう」


 妙にテンポのいいやり取りの末、引いたのは蒲星だった。

 その場に漂う、不満げな空気。蒲星を慕うがゆえに、手柄を取られて納得はいかないが、蒲星が引くなら従うしかない。それは怒りにも似ていたが、一人向けられた橙琳にはどこ吹く風。

 自分たちを取り合うはずのそのやり取りを、嬢はひどく客観的に眺めていた。

 状況はさっぱり理解できていないが、理解しようとも思わない。

 すでに嬢には何も残っていない。

 ただ、三人の顔がまた見られたのは、嬉しかった。


「で、嬢、って呼んでいいのかな?」


 オレンジの髪の女、橙琳が、馴れ馴れしく訊いてくる。

 いつもなら無視で済ませるところだが、そうした方が長引きそうだ。


「……好きにしろ」


 投げやりな嬢と、うって変わってにこやかな橙琳。


「じゃ、嬢。事情は、そこの啓に聞いた。舟で、岱にも聞いたけど――――」

「だから、オレが勝手にやったことだって! 嬢は関係ねぇっ!!」


 喚く岱だが、橙琳はそれも気にせず。


「ってしか言わないから、まぁ、気にしないことにしてる」

「それでいい。啓は必要以上に自らを卑下し、その分、私を奉る傾向があるから、そこは割り引いておけ。いずれにせよ、私の責任だ」

「嬢! 嬢は何も、うげっ。」


 なおも喚き続ける岱の縄目を強く引いて。


「うるさいから黙る。今は、そこはどうでもいいの。いや、良くはないんだけど、わきまえているみたいだし、いいの」


 橙琳は、嬢に聞こえるように、岱を雑に説得すると。


「じゃ、泰陰に関することの責任は、嬢が負う、ってことでいいのかな?」


 重ねて、念を押す。

 だが、その問いに、今の嬢は頷くことができない。

 それは、先ほど諦めたもの。今夜、守り切れなかったものだ。

 そんな嬢の顔を見つめて、橙琳はわかったような顔をして微笑んだ。


「これじゃ、答えにくいか、じゃあ、質問を替えよう。嬢は、こんなことがあってもなお、泰陰のために、死ぬ覚悟はある?」


 死ぬ覚悟。

 そんなもの、今までずっと持ってきた。

 それだけを胸に、ここまでやってきた、と言ってもいい。

 でなければ、あんな町で生きていくことなんて、できっこなかった。

 その中で、皆に、あんなに求められて、あんなに期待されて。

 自分が死ぬことくらい、なんてこと――――


「――――死ぬ覚悟など、あるはずないだろう」


 絞り出した声は、夜風に乗って、河を渡る。


「こんなことをしでかして、勝手に死ねるわけがない。もし、まだ皆が求めてくれるなら、私はすべてを賭してでも、泰陰のために生きる。泰陰が豊かになるまで、差別がなくなるまで、この命は泰陰に預ける。その覚悟なら、いくらでもある」

「嬢!」


 岱と遼の声が重なった。

 駆け寄ろうとして、岱が橙琳に引き戻される。

 その橙琳も、満足げに頷いて。


「いい答えだな。ついでに、求めてくれるなら、なんて情けないこと言わないで、求めてもらえるように説得して欲しいんだけど」


 おどけた口調での図々しい追加要求に。


「それは、私がやります」


 震える声で、それを即座に請け負ったのは、啓だった。


「だよね。あそこまで語るんだから、言わなくてもやってくれるか」


 何を語ったものか。

 いつものように後ろに控えた啓は、見たこともないほどの涙を流している。


「……啓」

「嬢の、今の言葉を聞いて、従わない者は泰陰にはおりません」


 涙に震える声で、それでも滅多に聞かない、きっぱりとした口調で。

 啓は、嬢に訴えかけている。だから、泰陰に戻ってきて欲しい、と。


「じゃ、決まりでいいかな」


 終了宣言はあっさりと。


「ちょっと待て。今ので、何が決まった?」


 嬢は話に付いていけていない。なぜ、覚悟を問われたのかも、わかっていない。

 っていうか、誰か付いていっているのか。ひょっとして、私だけか?


「司法取引って、知ってる?」

「……は?」



 飄々としたその声を聞いていると、なんだかすべてが馬鹿馬鹿しく思えてくる。

 それでも、彼女に聞かされた話は、どうでもいいで済ませる内容ではとてもなく。


 結論から言えば、今回の件は無かったことになった。

 橙琳の書いた筋書きで、今回の件は、柿由、というらしいあの娘の態度が悪かったことに腹を立てた岱が、時間も忘れてくどくどと説教をしていた、というだけのことになった。その渦中では、互いの友人同士が衝突する不幸な諍いもあったが、祭りの夜に喧嘩はつきもの。わざわざ警備に通すような話でもないだろう、と。

 結果として自分の責任にされた柿由は、自分が悪者になることと、帰ってからのお説教を恐れて、なかなか納得しなかったが、それも蒲星に。


「蒲星〜! 私、すっごく怖くって、、、」

「それはそうだろう。しかし、元はと言えば、発端はキミにあるんだぞ」

「え、キミ? あの、蒲星。私、柿由って、、、」

「まぁ、これもいい経験だと思って、これ以上事を荒立てないでくれると助かる」

「あ、それは、蒲星がそう言うなら、それでいいんだけど、、、」

「以後、このようなことのないように」

「……はい。って、あれ? 蒲星、私のこと、知ってる?」


 などと諭されて、それ以上反抗する気力を失っていた。

 怪我なく助かったことを喜ぶでなく、他国へ流されなかったことに安堵するでもなく。父親に叱られることを怖れ、男に名前を覚えられていなかったことを嘆く。

 どうやら、あの娘の夢は、しばらく醒めそうもなさそうだ。


 嬢たちは、泰陰へと戻された。

 遼の左肘は応急手当がなされ、岱の縄も外されている。他の誰にも罪はなく。

 橙琳たちは、今後の泰陰への施策に関して、泰陰側の窓口となる者を探していたらしい。泰陽からの援助が有効に働いていない現状を鑑み、援助に対する泰陰側の意見を取りまとめ、有効に活用する、という役割の者が必要だと考えたのだそうだ。そこへ、最近、泰陰に自治組織のようなものができたと耳にし、その役割を任せられないかと期待していたのだ、ということだった。

 今回の件の、どこでその自治組織と嬢たち誘拐犯の一味とが一致したのかはわからなかったが、嬢の家で待っていた啓の熱心な語りを聞いて、期待は確信となる。啓は何を聞かれるよりも早く、ひたすらに泰陰における嬢の働きと重要性を語ったらしい。ただし、文句一つ言わずにそれをすべて聞いてから、初めて誘拐の経緯を確認し始めたというのだから、これは聞いた方も少しおかしい。

 ともあれ、泰陰側の窓口としての役割を忠実にこなすのであれば、今回の件は不問にする、と言われ、嬢は頷くしかなかった。

 泰陰にとっては、どうあれ泰陽からの援助は必須だ、と考える嬢からすれば、結果的にとはいえ、これは渡りに船と言える提案だった。アイディア自体は、嬢にとっては今さら、とも思えるものだったが、泰陰側からどうこうできるものでもないし、泰陽側からこんな提案が来るとは予想もしていなかった。

 ただ、何もなくこの話を持って来られていたら、泰陰内からは反対する意見も出ただろう。今までの経験による反発は根強い。政府の手先になるのは癪だと感じる者も多かったはずだ。

 しかし、中心人物である嬢や岱が弱みを握られてしまえば、それも仕方ないと思わせることもできる。いつも真っ先に文句を言うのが岱なのだから、なおさらだ。それでも不平を訴える者は出るだろうが、そこを押さえるのは裁量のうちだ。

 期せずして嬢が言った、泰陽の都合しか斟酌しない援助を、変えられる。

 本来が必要なことである以上、余計な意地さえ外してしまえば、あとは上手くいく。いかせる。後は結果さえ出せばいい。豊かになるのを拒む者はいない。

 これで、泰陰は変わる。すぐにではなくとも。

 泰河のごとく、ゆっくりとでも。


 その、大事な時に。


「岱、啓、遼」


 嬢は三人の名を呼んだ。


 ――――本当に、私で、いいのか。


 でも、それ以上、嬢が口を開く間はなく。


「これからまた、よろしくお願いしますよ、嬢」


 岱が、いつもより、少しだけ丁寧な口調で。


「嬢がいなくては、誰も付いてきませんから」


 啓は、いつもの、冷静な口調で。


「私は、岱が引っ張って、啓が補佐すれば、それでいい、と思うん、だけど」


 嬢は、いつもなら、絶対に出さないような弱気な声で。


「……い、いつも、通り、でいい、と、思う」


 遼が、いつにもなく、口を挟んだ。


「みんな、で、お互い。頼り、ながら、ま、任せ合いながら」


 考え、考え。自信なさげに、つっかえながらも。


「オレは、それが、好きだ、から」


 その、精一杯の強い口調に。

 三人が、顔を見合わせて、笑う。

 遼も笑った。


 さしあたっては、皆に謝って。説得して、もう一度信じてもらって。

 それでも反対する者は出るだろう。その対処もしなくては。

 その前に、この舟を戻さないと、働きにも出られない。

 問題は山積みで、それでも嬢の顔は今までになく、晴れやかに。


 祭りが終わって。

 ようやく昇った太陽は、泰河に跳ねて、泰陰をも照らし始めた。


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