夜_泰陰2
――――ハッ、ハッ、ハッ、ハァッ。
もう足音を隠す必要もない。速度を抑えることもない。
雪祈は、ただただ全速力で、記憶の道を逆へ辿る。
町並みに見覚えなんてない。行きと帰りで、通りの表情は変わる。振り返ってるヒマなんてなかったから、曲がり道と分かれ道の数だけを覚えていた。
次の角は右。次の分かれ道はパスして、ちょっと左で、すぐまた左。
町も道もごちゃごちゃしている。路地を一本でも見落としたら最後だ。
慎重に、でも最速で。
重要なのは、時間だけ。一刻も、一瞬でも早く。
「止まれ、こらぁっ!!」
濁った怒声が轟いた。
そこは、わずかに見覚えのある、ちょっとだけ開けた場所だった。
ここまで来れば、あと少し。なのに、そこには小汚い男たちがわらわらと。
「どこ行こうってんだぁ、小っさい姉ちゃんよぉ」
べったべたな言い回しで、ガニ股が近づいてくる。
普段なら、指でもさして大笑いしたいところだが、今は状況が悪かった。
ただ逃げられればいいわけじゃない上に、ここの土地勘は全くない。
雪祈が目指す道からは、なおも小汚い男たちが湧いて出る。
あの道を失えば、碧流の元へ辿り着ける自信がない。
今は、迷っているヒマすらないというのに。
「あ、すみませーん。帰りたいんで、そこ通してくださーい」
「通すかぁ!」
ひとまず、普通に通ろうとしてみたが、やっぱりダメだった。
仕方ないので、ガニ股と向き直る。
「それで、何のご用ですか?」
あくまで外面は良く、丁重に尋ねてみるが、それもガニ股は鼻で笑って。
「へっ、オレにゃあ何のご用もねぇさ。でもよぉ、あんたぁ連れてこい、っていう怖〜い兄さんがいらしてよぉ」
冷めた目で、そのよく動く口元を見てみる。気持ち悪い。目を離す。
「……お前、なんか無礼じゃねぇか?」
「そんなことないです」
危ない、バレるとこだった。
一応、怖がるフリをしよう。
「大人しくしてりゃあ、痛い目は見ねぇで済むぜ。じゃなきゃあ、、、おい、服ごと連れてこいたぁ、言われてねぇよなぁ」
後ろのお仲間と小芝居を挟み、げらげらと嘲笑う。品がない。
こんな貧相な身体でも見たいものか、通りを埋めていた小汚い男たちが、少しずつ広場に入ってきた。人口密度は高くなったが、通りを塞ぐ人垣は薄くなる。
――――チャンスかな。
息が整っているのを確認し、俯いたまま足元をちらりと見回して。
「大人しくぅ、しなくたっても、いいんだぜぇ〜」
変な調子で歌うように、ガニ股が近づいてきた。
きゃぁ、とか小さく悲鳴をあげて、雪祈はその場に膝を折り。
「――――いでぇっ!」
足元に転がっていた拳大の石を、男の鼻づら目がけて投げつけた。
夜空に鼻血で糸を引きながら、男がゆっくりと倒れていく。
貧相でも身体を狙われたのだ。これくらいで、バチは当たるまい。
「てめぇっ!」
小芝居に付き合っていた男が、相方の仕返しに、いきり立って迫って来た。
雪祈は一歩後ろへ飛ぶと、壁際に積まれていた薪の中から二本、細めのヤツを両手に持って。
「はぁっ!」
踏み込む一歩は、先ほどの倍の幅。
逆手に構えた左の棒を、またも鼻づら目がけて叩きつける。
「あがぁっ!!」
鼻血を見送る余裕はもはやない。そのまま一気に、目指す通りへ走り込む。
「行かせるか!」
掴みかかる手を右で叩き落とし、お腹を目がける回し蹴りは左で防御。
柏の護身術がこんなところで役に立とうとは。
正面に立つ、素っ頓狂な男の顔を打ち払って――――
「ど――――んっ!!」
「きゃぁっ!!」
今度は本物の悲鳴。
ただ思い切り突き飛ばされて、雪祈が広場の中央まで転がった。
「は〜い。振り出しにもっどる〜。最初っからやり直し〜」
妙に甲高い声がして、先ほどまで雪祈がいた通りから、肥えた男が姿を現した。
高さは遼ほどはないが、重さと丸みはこちらが上。雪祈の三倍はある。きっと。
「ほらほら、こっちだよ〜。って、また来る元気、あるかなぁ〜」
からかうような、ふざけた声。
腹は立つが、ここで突っかかっては肥え男の思うつぼだ。
もっと広場の中まで来てくれれば、避けることもできるのだけど。
向こうもこちらの狙いを知ってか、通りの入り口から動こうとしない。
「……動けないのかな?」
「なんか、失礼なこと考えてる?」
「とんでもないです」
ともかく。あの肥え男をなんとかしよう。
気づけば、それ以外の有象無象は、広場の外回りにたかっている。
肥え男と少女の一対一の勝負は、泰陰好みのおもしろい見世物なのだろう。
気分は悪いが、都合は良い。あれを超えられれば、通りまでは一直線だ。
「次は捕まえろよぉ〜」
「脱がせ、脱がせぇ〜」
品がない。
一瞬、それを囮に、肥え男を引っ張り出す作戦も頭を過ぎったが、すぐさま却下した。例え貧相な身体でも、囮にするのはさすがに惜しい。
となれば、道は一つ。
両方、順手に持ち替えて、姿勢は低く。
弾けるように、肥え男へと直進した。
「そっちから飛び込んでくるなんて、ひょっとして、惚れた?」
「絶対ないです!」
小さな雪祈の身体目がけ、丸太のような右腕が大きく振り落とされる。
唸りをあげるその腕を、雪祈は身軽に飛び越えて、外から男の右膝へ、左の薪を打ちつけた、が。
ばきり、と、薪が折れ飛んだ。
「……またまたぁ〜」
肥え男が、にたりと下卑た笑みを浮かべた。
武器の一つを失った雪祈に見せつけるように、両腕を大きく広げると。
覆い被さるように、抱きついてきた。
捕まれば終わり、っていうより、触られたくない。でも。
退がりかけた足を踏み止める。狙いは、その気持ちの悪い二重顎。
「んがぁっ?」
右手の棒で狙いを定め、最小半径でくるりと回転。
顎先を綺麗に打ち抜かれ、男の顔が大きく歪む。打った薪がぴしり、と呻いた。
打たれた男はバランスを崩し、右へと一歩、踏み出して。
「んぎぃっ!」
掛かる体重に、右膝が悲鳴をあげた。踏み止まれず、崩折れる。
その、鼻づらに。
「すみません。私、面食いなんです」
雪祈は、左手に残った、折れた薪の残りを打ちつけた。
「いぎゃあぁっ!!」
裂かれた棘がいくつも鼻を貫いて、鮮血が顔を斑らに染める。
見た目ほど深い傷ではないはず。むしろ膝の方が重症だろう。それでも。
あんなに失礼なことを言われたのだ。これくらい、バチも当たるまい。
肥え男の呻きが広がって、広場の雰囲気が変わっていた。
冗談でも、見世物でもなく。
雪祈は、はっきりと、敵として認識されていた。
もし捕まれば、痛めつけられるのは、服だけでは済まないだろう。
武器は右手の、ヒビ折れた薪が一本だけ。
――――ごめんなさい。少しだけ、無理しちゃったかもしれません。
心の中で詫びる。碧流が、責任を感じないといいのだけど。
そのためにも、逃げ切れるだけ、逃げるしかない。
目指す通りに足を向ける。
こちらを睨みつける二、三人の汚い男たち。その向こうに。
ひときわ大きな男の影が差して。
雪祈の足が、止まった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ひらひら、と。
小さな灯火が作り出す、薄い影が揺れるのを眺めていた。
火というものは、放っておけば勝手に出るくせに、出そうと思えば金がかかる。灯油にしろ、蝋燭にしろ、泰陰の者にはおいそれと手が出せるものではない。
泰陰は朝が早い。港も、山もだ。だから、灯りが必要となる時刻にはもう寝静まっている。普段ならば、嬢も寝台に横たわっていた。そうして、眠りがくるまで、考えている。暗闇は考えごとに向いている。考えることなら、幾らでもあった。
「――――嬢。あの娘の処分、決まりましたか?」
啓が、控えめに口を開いた。
嬢は答えない。考えておく、と言ってから、もうどれだけ経ったのか。
啓が急かしてくるほどだから、かなりの時間を考え続けていたのだろう。どれだけ考え続けても、思考はすぐに横滑りして、集中できない。明るいからだろうか。火影のようにひらひらとひらめいて、一向にまとまろうとはしなかった。
「どうしている?」
興味もないのに、そう訊いた。
「変わりません。座っています」
誰が、とも訊いていないのに、的確に答える。啓はいつもそうだ。それだけ常に嬢のことを考えているのかと思えば、たまに薄ら寒くなることもある。
「……どうすべき、だと思う?」
嬢が、啓に問い返した。
啓が、驚いたように眉を上げた。
実際、嬢が啓に問い返すのは珍しい。いつもは啓の問いに嬢が答えるだけだ。そもそも啓は、問う時点で充分な検討を終えている。選択肢もすべて整えて、嬢が決断すればいいだけにして、問う。
しかし今回は、そうではなかった。それだけ異常で、非常な事態だった。
しばらく沈思して、啓が回答する。
「返すべきです。それも岱と遼の手で。そうすれば――――」
「泰陰は助かる、か」
終いまで言わせず、嬢が残りを引き取った。
嬢も、何度も考えたことだ。くどくどとは聞きたくない。
それでも、啓は続けた。
「娘を攫ったのは岱の独断です。いずれ泰陰にも調査が入る。そうすれば、必ずや泰陰の罪となりましょう。調査などせずに、いきなり鎮圧、ということも考えられます。時間が問題です。早いほどいい。そもそも揉め事を起こしたのも――――」
「啓」
もう一度、啓を止める。
啓がこれほど感情的に話すのも珍しかった。
「あの場には私もいた。岱が娘を攫ったのも、私の意を汲んでのことだろう」
嬢は何も命じてはいない。しかしあの場で、あの娘を憎んだことには違いない。
岱もそう言っていた。嬢なら、必ずこうするはずだと思った、と。
ならば、この件は、嬢の起こしたことだった。
「嬢。泰陰には、嬢が必要です」
啓が、祈るように頭を下げた。
啓は嬢に心酔している。岱もだ。それは嬢もわかっている。
嬢からすれば、泰陰には啓の知識があればよく、それを活かすにも岱が皆をまとめていけばよい。嬢も泰陰のために生きていくつもりなのは間違いないが、そのために啓や岱が犠牲になるのでは筋違いだと思う。
しかし二人はそうは思わない。泰陰に唯一必要なのが嬢で、二人はただの駒だ。だから嬢のためであれば、二人はいくらでも犠牲になるし、犠牲にする。
優先順位が違う。それがわかるから、まとまらない。
――――まとまらないのではなく、八方塞がりなのかもしれないな。
「嬢?」
自嘲がつい口に出たのか。
誤魔化すように、嬢は立ち上がった。
「娘に会う」
啓が一つ頭を下げて、先に立った。
扉を開ける。
俯いていた娘が顔をあげた。だが、嬢の顔を見るなり、また元の姿勢に戻る。
助けが来ると思っているのか。
争いもせず、物音も立てず。それでいて部屋の扉から普通に入って来る救い主。この娘はどれだけ幸せな妄想を掻き立てているのだろう。
呆れながら、娘の正面の椅子に座る。啓は音もなく、痩身を娘の影に置いた。
「――――なぜ、ここに連れて来られたと思う?」
嬢は、そんな質問を口にしていた。
会うとは言ったものの、話したいことなどなかったから、自分でも意外だった。
だが、娘は顔も上げない。
「ふん。強者には従っておいた方が利口だと思うが、そんなこともわからんか」
あえて嬲るように、煽ってやる。案の定、娘はすぐに食いついた。
「誰が強者よ! こんな汚らしい家に住んで、こんな粗末な椅子に座って、強者振るなんて滑稽だわ!」
どうやら、思ったよりも元気らしい。馬鹿どもが構いたがるのを止めていたが、そこまで気を使うこともなかったか。
「住人よりも部屋数の多い家に住み、無駄な装飾ばかりの椅子に座ることが、それほど重要か」
「あなたたちには想像もできないでしょうね!」
言い放って、顔を背ける。
想像もできないだろう、と切り捨てることは、相互理解を拒絶することだ。
相手に、無条件で見下してやる、と宣告しているに等しいことが、この娘にはわかっているのだろうか。
「では、お前は、どうして、その財を享受できる?」
自然と、子どもに尋ねるような口調になった。
ようやく自慢できることが言えるからか、娘が見下すように顎を上げる。
「私の家は代々大きな領地を預けられているわ。豊かな農地がある」
「ほう。で?」
その返しは予想できなかったのか。
「え? で、って。いや、だから」
娘がぐずぐずと口籠る。
嬢は、重ねて、噛んで含めるように。
「豊かな農地のある大きな領地を預けられていると、なぜ金が入ってくるんだ?」
「……え、あ、それは」
それでも、答えられないらしい。
過保護なお嬢様には、社会の仕組みから教えなければならないか。
「領地はその豊かさに応じて一定の税を課せられる。領主はその税を集め、国へ納めるのが仕事だろう。それで儲けている、と言うのは、税のついでに領民から搾り取っている、と言っているに等しいと思うが、それでいいのか?」
刃のような言葉を突きつけられて、娘が言葉を失った。
嬢の嗜虐性が高まっていく。
――――たったこれだけのことも答えられないのか、学院生というのは。
嬢は解釈を曲げている。
領主には領地に課せられた税の一部を収入として得る権利が皇によって認められており、豊かな領地であれば当然その額も多くなる。だから、この泰皇国においては、大領地を持つ領主が儲けるのは当然なのだ。
ただ、ほとんどの領主は定められた税以上を集めているし、そもそも、この制度自体が現状に相応しいかどうかは全く論議されていない。
それを踏まえて、嬢は解釈を曲げた。その方が現状に近いからだ。
少なくとも、嬢にはこれだけの知識がある。考えている。それでも。
――――私には、選ばれる権利すら与えられなかった。
「さて、お前の家が国賊の家系であることは良くわかった」
がたり、とわざと音を立てて、嬢が椅子に浅く座り直した。
娘がびくりと肩を竦める。あの強気はどこへ行ったのか。
「それで、お前は何ができるんだ?」
「……私?」
もう、顎を上げる元気もないのか、上目遣いで問い返す。
憐れみを乞うような。それが嬢には、何よりも無様で醜悪に映る。
「そうだ。お前は先刻、この家を蔑んだ。この椅子もだ。昼には服も蔑んでいたな。そして、泰陰全体を蔑んだ。そうできるだけ、お前は何ができるんだ?」
再び、娘が口をつぐんだ。
今度は答えられないのではない。ただ怯えているのだ。
それでは、許せない。黙っているだけで、やり過ごされてなんか、やらない。
「この家は私たちで建てた。この椅子も仲間の一人が作った。そもそも泰陰に椅子などそうそうない。わかるか? 椅子、卓、寝台、真っ先に必要になるのはなんだ? 最も不要なものは?」
この湿った土地でも、床があれば、椅子など無くても生活はできる。
それでもこの家に椅子があるのは、皆が嬢に望んでいるからだ。
皆が床に座っていても、嬢は椅子に座る。それが求められている。
「服もそうだ。布団も、カーテンも。道具も材料も何もないところから、空腹に鞭打って蓄えた金で、捨てられていた廃材で。皆で、なんとかして、必死に作ったものを、お前は簡単に蔑んだ。お前は、どうして、そんなことができるんだ?」
馬鹿だからだ。何も知らないからだ。ただただ、恵まれているからだ。
服も布団もカーテンも、嬢には良く出来た物が回される。皆、喜んで嬢にくれる。嬢は、何不自由ないとまで言った。それを。それすらを。
その娘はうずくまっている。嬢に与えられた、特別な椅子の上で。
「お前をどうするかが決まった」
「――――え?」
掠れた声。
対する嬢の声は、柔らかく、慈愛に満ちているかのように。
「船に、乗ったことはあるか?」
ふるふる、と。娘が弱く首を振る。それは否定か、拒絶か。
「船に乗せて、永風へ送ってやろう。西柏の都だ。良いところだぞ。ここと似たような町がある。あそこへ放り込んで、私たちと同じ暮らしを味わってもらおうか」
想像もできないのなら、実際にやってみるといい。泰陰と同じ暮らしを。
やめて、そんなこと、やめて。
その悲鳴は声にならず、娘はただただ必死に首を振る。
「安心しろ。服だけは与えてやる。そうでもないと、保たないだろう」
この娘に服を与えるのは癪だが、代わりに今の服を売ればいい金になる。
西で身体を売るのは自由だが、自分の意思で売ってもらわないと、つまらない。
嬢が席を立った。
すがりつこうとする娘を啓が押さえつけて、元の椅子に座らせる。
「やめて! 助けて!!」
ようやく声が出たのか。しかしそんな要求が通ると思っているなら、夢の中から出てこられてはいないらしい。
堰を切ったように喚き続ける娘を放置し、啓が後ろ手に扉を閉めた。
――――喋りすぎた。
大きく息を吐いた嬢の元に、一人の男が駆け込んできた。




