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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十三話 涼省へ
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 昼過ぎ、俺たちは荒野のただ中に旧街道を見つけた。


 整然と固められていたであろう版築は酷く劣化し、半分以上が砂に埋もれている。

 かの時代は夕省と凉省を繋ぐ交易路として大いに賑わっていたに違いない。ひび割れて崩落した土の塊。亀裂から虫が這い出る。大自然の無情を感じた。


 街道の残骸に沿って数キロ進んでいけば、日が暮れる頃、今度は宿場町と思しき場所に辿り着く。無論、今は無人の廃墟と化していたが。

 鳴蛇がこの地を荒らす以前は、生活していた人々がいたのだろう。荒れ果てた野のど真ん中にある市街地に冒険心をくすぐられ、俺と翔はしばし童心に返ることにする。

 閑散とした繁華街。古びた商店の跡地。木造の家屋は無残に朽ち果て、せいぜい不格好な骨組みが残っている程度。十字に走る大通りに夕影が落ちる。

 元はそれなりの規模の邑だったようだ。入り組んだ路地の奥には流砂が降り積もっていた。誰もいない。吹き抜ける風の音が虚しさを誘う。


「今夜はここに泊まるか。安全みたいだし」一通り探索ごっこを楽しんだ末、翔がそう提案した。異論はない。ゴーストタウンでも吹き曝しよりは幾分ましだ。


 ほとんどの建造物は形も残っていないため、西の片隅にぽつり建っていた石造の小屋を仮の宿に決める。

 早速俺たちは傍に馬を繋ぎ、荷を下ろした。完全に日が沈んでしまう前に、まずは一日歩かせた馬の世話を済ませなければならないのだ。

 余計な馬具を外し、蹄を洗い、藁で全身を拭いてやる。神経質な彼らを驚かせないよう、翔に教えられた通り優しく毛並みを撫で、藁の束でその体を擦った。

 最後に水と餌をやる。残っていた干し人参を与えればえらく喜んで食べた上、俺の腕まで甘噛みしてきたので叫びそうになった。心臓に悪い。


 翔は薪とする木材を集めていた。そこらの建物の一部を拝借したのだろう。俺が廃墟に戻ると、丁度積み上げた枯草と薪に火が点けられているところだった。

 既に辺りには夜の帳が下りようとしていた。


「ここは、元々は何に使われていた建物なんだろう?」


 崩れた敷居を跨いで、俺は上を見やる。小屋は屋根がないため、藍色の上空を雲が走っていくのがよく見えた。

 さほど広くはない。二人で寝そべれば一杯になってしまうだろう。それでも古びた石壁は今も堅牢で、四方を囲まれていると安心感があった。


「金持ちの蔵っぽいなぁ。掘ったら金目の物でも出そうじゃないか」指先に霊の力を遊ばせ、翔は楽しそうだ。俺は眉を顰める。


「白骨死体が出てきたらどうする」


「はは、まさか……」


 冗談として流されたが、結局最後まで地面を掘ることはしなかった。

 地べたに座っていると、やがて乾いた木材の山が煙と共に燃え上がる。不安定に揺らめく炎。照らし出される石積みの壁。明るくなった廃屋の中、二人で簡素な夕餉の支度をした。

 干した川魚を火で炙り、湯で戻した煎り餅をかじり、腹の足しにする。塩辛い干物は存外脂が乗って美味い。食後に杏の甘露煮を摘んでいると、翔が懐からたくあんを取り出しているのが視界に入ったが、知らぬ振りをした。


「火陽に間に合うかな」


「間に合わせるさ」翔は強い口調で言い切る。「明後日には荒野を抜けて雁江の関所に着く」


 この先の雁江は幅のある大河で、不法侵入を防ぐため無闇に橋を架けることは禁じられている。橋を渡るには関所の検閲を通らねばならない。

 凉省に行くのは初めてだ、と言う割に翔は詳しい。何から何まで任せきりで、まるで俺が翔の共のようである。


 そもそも、だ。ここまで来て言うのも何だが、年に一度の大規模な奴隷市とはいえ、そこに肝心の光が陳列されている様子が俺にはいまいちぴんと来なかった。

 単純に、奴隷制という未知の文化に想像力が及ばないだけだろうか。人身売買の市場とはどんな様子で、どんな取引がなされるのだろう。人間一人当たりの相場はいくらくらいなのか? 仄暗い妄想に思いを馳せる。

 俺の微妙な表情に何を連想したのか、翔は歯型のついたたくあんを持ったまま顔を顰める。


「情報が少ないし、奴隷なんてこの国には星の数ほどいる。こうなったら徹底的に探した方がいい。奴隷にされた訳だし……まあ、女の子だし」


「ああ……はあ、なるほど」察した俺も顔を歪める。言葉にならなくても、翔の言わんとすることは大方理解出来た。


 胸糞の悪さを水で流し込む。とはいえ、無事でいてくれ、などと願うのも馬鹿馬鹿しい。ぱちん、と火が爆ぜる。廃材を舐める炎はまるで蛇の舌のようだ。

 つまらないこともほどほどに、俺たちは月が昇るまで焚火を囲い、他愛もない話を咲かせた。それはまるで年相応の学生がやるような中身のない話題ばかりだったが、悪い時間ではなかった。



「――そろそろ寝ないか? 眠くなってきたよ」


 いつしか夜も更け、欠伸混じりにそう言いだしたのは翔だ。焚火を挟んで胡坐をかき、猫のように大きな欠伸をしている。

 俺はひとつ頷いた。つられかけた欠伸を噛み殺し、先に寝ていろよ、と促す。野宿するときは交代で寝なければならない。

 翔は疲れているようで、俺の申し出を手も無く承諾した。おやすみ~とふやけた間抜けな挨拶。炎に背を向け、その場に身体を横たえる。数秒も経てば立ちどころに寝息らしきものが聞こえた。

 夏至が近いとはいえ夜は冷え込む。俺も合羽を肩まで引き上げ、嘆息した。


 気付けば風が出ていた。たなびく叢雲。痩せた三日月を翳らせる。星々は黒く塗り潰され、夜闇は深くなる一方だ。

 妙だな、と俺は一抹の不安を覚える。鳴蛇の棲むこの荒野は常に晴天と決まっているはず。鳴蛇は旱の神だ。雲を呼ぶなど有り得ない──ひゅうひゅう鳴る風の音が薄気味悪く、落ち着かない気持ちになった。


 心持ち震える手で薪を掴み、炎の中に投じる。いつの時代も暗闇は人の心を容易く不安に陥れてしまう。夜目の利く俺も例外ではなかった。

 漠然とした恐怖が這い寄り、思わずぎゅっと膝を抱える。

 そうしている内に、ぼんやりと目の前が霞んでいく。煙のせいではない。積み重なった倦怠感が重たい眠気となり、恐怖すら薄らぐ。瞼が落ちてくる。

 やがて抗い難い睡魔は辛うじて残っていた自制心も道連れに、脆弱な意識を溶かしていった。




***




 ――座ったまま居眠りなどこいてしまったらしい。緊張感がない。うとうとと微睡んでいた耳に飛び込んできたのは、甲高い馬の悲鳴だ。

 はっと目を見開き、勢いで立ち上がる。外で何かあった。そう確信し、慌てて飛び出そうとする。

 自分はどれくらい寝ていたのか。混乱に任せて蹲っている翔を飛び越えようとした瞬間、合羽の裾を思い切り引っ張られ、後方につんのめった。



「うわっ……!」



 危うく焚火を踏み抜くところだ。体勢を崩し、熾火の傍らに横倒しになる。頭部が石壁に激突して、星が散る。一体何だというのだ。

 視線を走らせれば、鋭い目とぶつかった。「静かにしろ!」と。


「翔……」


「……」


 起きていたのか。視界の悪い暗闇の中、翔は俺の合羽を掴んだまま静かに身体を起こす。

 その顔を見たことで、寝耳の水に飛び上がった俺もようやく冷静さを取り戻した。早鐘を打つ鼓動を落ち着かせ、深呼吸。上擦った声で呟く。


「何が……起こったんだ?」


 さあ、と小声で囁き返す翔。声が震えている。小屋の外は、暗澹とした夜の気配に満ちていた。恐る恐る窺うも何も見えない。巨大な怪物の口が俺たちを飲み込もうとしているように錯覚する。

 息を殺せば、口笛にも似た風が吹き抜けていった。その耳障りな音に馬の不安げな鼻息が混じっている、ような気がする。

 行かなくては、と思うのに合羽を掴まれているので身動きが取れない。翔の顔は幽鬼のように血の気がなかった。この暗がりでもよく見えるほど、真っ青だ。暗闇に弱い目が焦点も合わず彷徨っている。


「鳴蛇でも、来たのか?」


 極力落ち着いた声で問い質そうとしても、翔は首を振るばかり。心配になって口を開きかけた俺は、そのまま言葉ごと凍り付く。

 微かにではあるが、不自然な音を捉えたのだ。その恐怖は、まるで体中を虫が這い回るのに似ていた。

 石壁の向こうからひたり、ひたりと雫が落ちるよう、“何か”が歩いている。よろめき、躓き、今にも崩れ落ちてしまいそうな危うげな足取りで。

 一人や二人ではない。……大勢の“何か”がこの蔵の外にいた。



「――……っ!?」



 恐ろしさの余り声を失う俺と翔。かたかた身体が震えだす。本能が警鐘を鳴らしていた。

 意識すればするほど聴覚は過敏になり、大勢の足音のみならずその浅い息遣い、低い呻き声までが間近に感じられた。

 背後から何かを擦る音が聞こえる。かりかり、鳥肌が立つような高い音。外側から爪で石壁を引っ掻いているのだと気付いた瞬間、全身から血の気が引いた。


 馬が鳴いている。寂しげな、怯えたような声。土を蹴っているらしい。

 まずい。馬を繋いでいたのは傍らの木造家屋の残骸。体格の良い馬たちが力一杯に暴れてしまえば、きっと崩れてしまうだろう。

 綱が切れて脱走されるだけならまだいい。家屋の下敷きになることだけは避けなければ。

 しかし、恐怖に引き攣った身体が動かない。翔などすっかり怯え、涙目で己の身体を抱きしめている。四方から膨れ上がる緊張感。張り詰めた暗闇に押し潰されそうになる。


 俺はありったけの勇気を振り絞り、敷居から身を乗り出して周囲を窺ってみた。

 密やかに、息を殺すように。あちらこちらから聞こえる、ひたひた、湿り気のある足音。囁き声。惨憺たる闇の中、得体の知れない影がこの街中を縦横に徘徊していた。

 それらが何者なのか想像しなくもなかったが。

 突然、ガタンという音と共に視界が黒一色に塗り込められる。慌てて振り返れば、翔が薪火を揉み消したらしい。蔵の中は一寸先も見えない完全な闇になった。


「な、何を」震える俺の声を翔が遮る。すぐ傍で聞こえる乱れた呼吸音。切羽詰まった翔の恐怖心が痛いくらい伝わってきた。


「黙って……“奴ら”に気付かれないように」


 半ば泣きそうな声だった。人一倍幽霊を恐れる翔が、この状況で敢えて明かりを消したのには意味があるのだろう。多分見えていないだろうと思いつつ首肯し、出入り口から離れる。

 耳下を吹き抜ける風に呻くような、唸るような声が混じっていた。大勢の人々が声を震わせて鳴いている。

 ぞくり、首筋に鳥肌が立った。俺と翔は小屋の隅に肩を並べて縮こまる。気配を押し殺し、革の合羽の中に蹲れば、あたかもこの闇と一体になったような心地になった。


 ――これほどスリリングで命懸けの隠れん坊など、この先二度と経験することはないだろう。

 心臓が張り裂けそうなほど脈打ち、隣の翔に話かけることすらままならない。鬼に見つかったら俺たちはどうなるのだろう。考えるほどにどす黒い恐怖が足元を侵食した。

 壁越しで蠢く大勢の“何か”の気配。ひたひたと足音がこちらに近付いてくる度、気が狂いそうになる。恐怖と寒さに震え、その晩はまるで生きた心地がしなかった。




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