Ⅳ
「た、泰遙……皓輝、にげ、ろ!!」
翔の叫び。同時に、いきなり草薮から大きな異形の影が躍り出てきた。厳つさに見合わぬしなやかな動き。音もなく目先の地面に着地したそれを見て、俺は心臓が止まった。
びき、と凍り付いた空気にヒビが入る。
「――……っ」
俺たちの数メートル先に現われたのは、上半身を外気に晒した一人の男だった。日焼けした褐色の裸体はがっしりと筋肉がつき、見事な均整が取れている。真っ赤な布で覆い隠されその表情は窺い知れない。
しかし男はただの人ではなかった。彼の四つの足が地面を踏みしめる。俺は口からあっと声を漏らしかけた。虎だ。男の上半身は人だが、下半身が虎なのだ。半人半獣と呼ぶべきか。人間の下腹部と虎の頸部が絶妙な均衡を保って結合している。
男の下半身となった逞しい虎の胴体。僅かに動く度、縞模様の毛並みが黄金色に波打った。その腰にぶら下げられた長い剣が、不吉な予感を駆り立てる。
翔はひどく動揺した。その光輝く半人半獣の霊に目を釘付けにされ、喘ぐように言った。
「や、やっぱり、あ……俺たち聖域に入りこんだんだ……」
「聖域……?」
俺は呆然とおうむ返しにする。じっと佇む霊獣。その美しくも雄々しい姿には、近寄ることすら許さぬ圧倒的な威厳を感じた。
そう、格が違うのだ。豻などという、俺の右腕を食い千切ろうとしたあの悪霊とは比べ物にならない。
言葉は無粋だった。草原中の生きるもの全てがその足元に伏していた。彼が何者なのか俺は本能的に理解出来たが、それを口に出すのも憚られた。
凄まじい迫力だけが、この霊獣の位の高さを物語っていた。
神だ。
“泰逢”の名を冠するこの土地の守護神。彼は喉から低い唸り声を鳴らし、丸みを帯びた虎の足で草地を踏みしめる。
それはとても余裕のある動作だったが、一歩、また一歩と距離が縮まるごとに俺たちは己の命が削り取られていくのを感じた。腰に携えられた剣が金の毛皮と擦れ合う、僅かな音でさえ恐ろしかった。
咽返るような緊迫感。逃げなくては、と焦っても身体がまるで動かない。神の気迫に竦んでしまったか、空気もろとも凍り付いてしまったかのようだ。
泰逢の目元は見えなかった。しかし俺たちは確かに、射貫くような彼の視線を感じたのである。
無様に立ち尽くす俺たち。あっという間に距離が二メートルないほどに縮まった、その刹那、泰逢は目にも止まらぬ速さで腰の剣を抜き放ち、後ろ脚立ちになった。
翔が声にならない悲鳴を上げるのと、泰逢が雄叫びを上げるのはほぼ同時だった。
「――……!!」
瞬間、身の毛もよだつ咆哮は氷結していた空気を粉々に砕き、俺たちの身体も重力を思い出す。
よろめき、地面に崩れ落ちる俺。翔は素早かった。半ば腰を抜かしながらも一瞬で馬の荷を解き、代わりに己が背に飛び乗ったのだ。「逃げろ!!」と。
酸欠になった頭。パニックになりながらも逃げ出した馬の手綱を掴み、その背に飛び乗ることが出来たのは奇跡に近かった。
ひやり、うなじに冷たいものが当たる。あと僅かにでも遅れていたら首と胴体が切り離されていたに違いない。
指示を出すまでもなく全速力で駆け出す馬。激しく身体を揺さぶられ、視界が定まらない。
俺はこれほど速い馬に乗ったことがなかった。馬を走らせているというより、走る馬に俺がしがみ付いていると言った方が正しかった。振り落とされないよう、ただそのことだけを考えて必死に手綱を握った。
泰逢が走って追いかけて来ている。まさに獲物を狩る肉食獣の如く、力強く地面を蹴り散らして。
振り切れる自信は皆無だった。いつ彼の歯牙が俺を捕らえるのか、この近距離では首を撥ねられるのも時間の問題だろう。
俺はもう既に死んだも同然の気分であった。事実、野太い咆哮が後方から響いたのを最後に意識の糸がぶつりと途切れ、何も分からなくなったのである。
***
「おい、おい!」
混濁した意識。肩を揺さぶられている。翔の声だ。手足が動かない。
薄く開いたままの瞼の隙に光が差し込んできた。涙が滲み、俺は瞬きする。
「生きているか……?」ぜえぜえ、喘鳴が聞こえた。心配そうに覗き込んでくる翔の顔。
応えようにも喉に刺すような痛みがあって、声が出ない。指の先までからからに干乾びてしまったようだ。どうにか呻き声を絞って、意識があることを伝える。
俺は冷たい草叢に、仰向けで寝かされているらしかった。
「どこか、変なところはないか?」
「……喉が、いたい……」
身体が熱い。熱っぽい気怠さ、虚脱感、眩暈。視界がぐにゃりと不自然に歪み、倒れてもなお平衡感覚を失っている。力が入らず、唇を動かすことすら辛かった。
「泰逢の、神気に中ったんだ」自失する俺の傍らで、途切れ途切れに言葉を紡いだ。「あれだけ神に近寄ればおかしくもなる」
先に逃げちゃって悪かったよ、と翔はバツが悪そうに目を伏せた。そんなことよりも、俺は今の状況を知りたい。回らない呂律では、それを伝えるのも随分苦労したが。
――あの後、馬は気絶した俺を背負ってなおも走り続けた。
対する泰逢はある時点から追うのを止め、深追いすることもなくあっさり草原に戻って行ったらしい。翔はあそこを聖域と呼んだが、守護神である泰逢の怒りは侵入者にのみに向けられ、そこから抜けさえすれば余程のことがない限り殺されることもないと言う。
俺は仰向けのまま、空を覆う樹木の天蓋を見上げた。
「ここ、は……?」
「雁江の手前だよ。どうにか街道沿いまで辿り着いたんだ。お前の馬が別方向に突っ走って、探すの大変だったけど」
唇を舐める翔。ちゃんと回収したから安心してくれよ、と。言葉とは裏腹にその眼差しは浮かない。
よく目を凝らせば、屈んだ翔の手や顔は土に汚れ、痣のような変色部が出来ている。錯乱して暴れる馬を鎮めるのに相当苦戦したようだ。
泡を吹くほど興奮していた二頭の馬たちは負傷の甲斐もあり、今は何とか大人しく樹に繋がれていた。俺は彼らを一瞥した後、鉛のように重たい頭を動かして周囲を窺ってみる。
碧梧街道と呼ばれる新街道は、さすがに人通りが多い。舗装された横幅の広い道路は、様々な面構えの人々や馬が行き交っていた。雑踏や馬の蹄、荷車の音がごちゃ混ぜになって、舞台のガヤを思わせる賑やかさを演出している。
金持ちの商人だろうか、時折見るからに裕福そうな車や輿が目につく。着物の裾を翻し、足早に過ぎていく従者。道沿いの木陰で休む俺たちを気にかける人などほとんどいない。
怒れる霊獣に殺されかけたばかりの身としては、周囲に人気があるというだけで安心出来た。
翔はまだ困惑気味に「泰逢か」と呟く。口にするのも畏れ多い、といった様子だった。
「初めて見た。……いや、生きている間に目にするとは思わなかった」
「あれ……一体何だったんだ?」
「泰逢は南方の平地や海岸を守る霊獣だよ」まるで周囲の人たちに知れたら殺されるとでも言いたげな表情で翔は囁く。「この世にただ一匹しかいない」
「神か」
「そう、神」
善い神なのか? と訊くと、翔は複雑そうな顔をしてみせた。「本来は幸運をもたらす吉獣のはずなんだけど」と言ったきり口籠る。
先程平原で遭遇したあの異形の神が、俺たちに幸運をもたらす気がゼロだったことは明白だ。あの威圧感を味わえば、この世のどんな不敬な人間も手のひら返して平伏す違いない。
侵入に悪意があったか否かなどは関係ないのだ。霊域を侵し秩序を乱した。泰逢が刃を抜く理由はそれだけで十分なのだ。
泰逢を怒らせれば取り返しのつかない災厄が降るんだと、と翔は憂鬱に眉を寄せる。その背中に全ての禍の重責が圧し掛かっているかのようだ。
「泰逢の霊格は鳴蛇の比じゃない。今年孑宸で大規模な災害が起これば、十中八九俺たちのせいだな」
「笑えない冗談だ」
俺は気怠く返した。笑う元気もない。出来ればもう二度と、あんな恐い思いをするのは御免だ。
“神気に中たる”とは、遭遇した高位の霊が纏う気に耐え切れず精神や肉体が異常をきたすことだと言う。今の俺はまるで熱病のような症状だが、死に至ることも珍しくないため決して油断は出来ない。
事実、残っていた竹筒の水を飲み、木陰で身体を横たえさせていても、俺の体調は一向に改善しなかった。
困り果てた翔は「先に関所を通ろう」と提案した。
雁江の橋を渡った向こう岸には大きな邑がある。旅人も多ければ休む場所もあるだろう。寝れば治るのか若干疑問だが、少なくとも草枕より屋根のある宿の方がずっと休まるに違いなかった。
仕方ない。俺は小さく頷いて、重たく脱力した身体に鞭打った。
轟轟、遠くから激しい水流の逆巻きが聞こえてくる。ああ、河か。ぼやけた意識ではそのくらいしか分からない。
覚束ない足元、平坦な街道を歩くことすらきつかった。両手で握る手綱だけが掌にはっきりした感触を伝え、現実と俺を繋ぎ止める。これを離して倒れてしまえたらどんなに楽か。
徐々に近くなる水音と爽やかなそよ風。清涼な空気に反し、俺の意識は泥沼に沈む一方だ。
雁江の岸にある関所は、水が堰き止められたダムのように人の流れが滞り、検閲の順番を待つ人々でごった返していた。俺たちと同じく、〈火陽〉へ向かう人も少なからずいるのだろう。予想以上の人混みに、隣の翔が顔を顰めている。
役人による検閲は、緊急事態でもない限り厳しい取り締まりがなされることはないというが、何せこの混雑である。順番が回るまでの間、時の流れがやたらと遅かった。翔は馬と共にどこかへ行ってしまった。
隣接した木造の立場。一階に設けられた茶屋の片隅で翔の帰りを待つ俺の体調は、見事に悪化の一途を辿る。
頭蓋に反響する喧噪。建物内のそこかしこで吐き出される煙草の煙。獣臭い淀んだ空気に生暖かい飲食物の匂いが混ざり合う。
熱で衰弱した身体にこれ以上辛い場所などない。吐かないようにするのが精一杯。せめて静かにしてくれと怒鳴りたくなる。
翔が戻ってくるころには俺の意識は朦朧として立つこともままならず、肝心の検問に至っては病人と勘違いされたようでほとんど取り調べられることもなく通行を許可された。
以前、俺が隠密隊の七星に目を付けられたことで警戒していたのだろう。翔はあっさり通されたことに安堵し、不幸中の幸いかな、と呟いている。
雁江の橋を渡った後のことは、実はあまり覚えていない。休む場所を探すため翔があちこち奔走し、結局隣町の古びた民宿まで歩いたことだけ朧げに記憶に残っている。
細々と旅籠を営む温厚そうな夫婦は、ぼろぼろの俺たちのため快く厩と客室を空けてくれた。既に意識のなかった俺は宿の二階に運び込まれ、そのまま気絶した。
医者を呼ぼうとする宿の主人を翔は慌てて止めたらしい。俺の病状は医学でどうにかなるものではないし、万一彼らに俺たちが泰逢の禁域に踏み込んだ不敬者と知れたら、もう二度とこのような歓迎を受けることもなくなるからだ。
追い出されるならまだしも、最悪逮捕される可能性がある。あの鳴蛇の荒野だって横断は決して褒められたことではない。
神霊の怒りを買うことがどれだけ畏れ多いことなのか、知るのが遅すぎた。今はただ彼らに勘付かれないことと、症状の回復を祈るしかなかった。




