Ⅳ
次に目を醒ましたとき、驚いたことに俺はまだ森の中にいた。
そう分かったのは、背中に当たる地面の窪みに明らかな木の根の形を感じたからで、身体の感覚が幾らか戻ってきているようだった。しかしまだ痛みは強く、指を動かすのも辛い。気を失ってから然程時間が経っていないのだろう。
目の前は眩いほど明るかった。恐らくこの唐突な明るさによって意識を取り戻したに違いない。悪臭のする炎を顔に近付けられていた。首が動かなかったが、それは無造作に顔を掴まれているせいだと遅れて気付いた。
人間の息遣いが顔に懸かる。誰かが俺の顔を覗き込んでいた。ぼんやりと瞬きをしたが、それは焦点を合わせるためでなく、ただ明かりに対して反射的にそうしただけだった。
「生きている」
不意に声が聞こえた。俺にも理解の出来る言葉だった。ただ、それが日本語であったかといえばそうでもないようだ。奇妙に聞き取りにくい発音だ。
顎を掴まれているために身じろぎも出来ない。松明の火を差し向けられていた。周囲を取り囲む何者かの姿をようやく目に留める。幾つかの声がぼそぼそと暗闇を震わせていた。それは何というべきか──不揃いな格好をした男たちだった。
顔面も髪も煙で煤け、汗で汚れ、炎を反射してやけに目がぎらついている。決して清潔とは言えない衣服はそれぞれ自前のものなのか、集団でいる割にはいまいち統制を感じられない。
「行き倒れか?」
「さあな。悪霊にでも襲われたんだろう」
「気を付けろ、毒に触るな」
そう、俺の知っている言葉で表現するなら、「賊」とでも呼ぶしかない、秩序とは対極にある類の人間たちだった。顔のひとつひとつは判然としない者の、俺は外国人を前にしたような居心地の悪さを覚える。
いや、もしかすると彼らにとっては俺の方が外国人なのかもしれない。
俺の顎を掴む男が訊ねてくる。
「お前はネクロ・エグロか」
はっきり聞き取れず、精一杯に眉を顰める。何といわれたのか。それすら分からない。
「皇国のネクロ・エグロだろう」
今度は確信的な口調だった。俺は当然答えようがない。多分違う、と心の中で漏らした。そんな妙な単語、初めて聞いた。
反応を示さない俺に、男は「まあいい」とだけ呟く。そしてちらりと横目で隣の男に目配せをする。俺は何となく違和を覚えた。ただのごろつきと呼ぶにはどこか事務的で、情動が感じられない。
顎を離され、代わりに別の男の手が俺に伸びる。追剥でもされるのかと思っていた俺の耳に、およそ予想もしていなかった言葉が飛び込んできた。
「若い男のネクロ・エグロは上等だ。高く売り捌ける」と。
「痩せているが歯が全部ある」
「七百陌は固い」
顔を松明に晒されて値踏みされる俺は、苦しい体勢のまま茫然自失とする。
人身売買など現実のこととは思えなかった。いや、ここで目が覚めてからというもの不可解なことばかり続くが、相手の言葉が理解出来るだけに己が何かの演劇に紛れ込んでしまったようにすら錯覚する。
ここは一体何なのか。彼らに訊ねてみるという選択肢が過るも、馬鹿正直に質問したところでまともに答えが返ってくるとは思えない。
「ま……待て」
俺は声を絞り出す。目の前の男が縄を取り出したところだった。痛みと苦しみで、内臓が口から出そうだ。声が届いている手応えが薄い。
「待て!」
渾身の力で声を張り上げる。男たちの手が一瞬止まる。冷や汗が額を伝い、首筋を濡らした。
「俺は……病気だ」
囁き声程度のものだが、今度は確実に届いた感触があった。男たちが油断のない目付きで目配せし合う。間髪入れず俺は「近づくな」と息絶え絶えに言う。
「移れば死ぬぞ。死にたくなければ離れろ」
「はあ? そんな話を信じるとでも?」
人身売買の男たちは、俺の必死さを嘲り笑う空気すらあった。俺は一瞬の内に色々なことを考えた。こんなことをして何の意味があるのか、と思った。もう命なんて惜しくないはずだ。誰にくれてやっても構いはしないのではないか。
いや、まだだ。すぐ思い直す。この場所に他の人がいるのは分かったが、必ずしも安全とは呼べない。光が無事でいるところを見届けるまで、死ぬ訳にはいかない。痛覚や死の恐怖が残っているというのは、まだ生きている証拠なのだ、恐らく。
「本当に病気だ。信じないならこれを見ろ」
俺は袖を捲る。松明の火に照らされ、俺の腕が剥き出しになる。心臓は早鐘のように脈打っていたが、俺の声は取り繕った表面上の落ち着きを取り戻していた。火に晒された俺の腕は、皮膚が鱗のように細かくひび割れ、固くなっていた。
「これは致死性の皮膚病で、接触すると人に感染する。俺ももうすぐ死ぬ。だから近づくな。放っておけ」
視線が腕に集まっているのを感じる。多少気を引く程度に異質な皮膚として映ったようだった。俺を普通から切り離したこの奇妙な病気を、今の俺は生き延びるための活路として利用している。そんなことが過る。
突如として、目の前が真っ赤に染まった。
息つく暇もない。背後から固いもので横薙ぎに殴られたのだと分かったのは、しばらくしてからだ。余韻が鈍痛となり、数秒あまり、意識が飛んだ。無造作に腹を蹴り飛ばされる。ごろり、仰向けに地面に転がされた俺は、「これでもまだ、その出鱈目を続けるつもりか?」とせせら笑う声を聞いた。
間髪入れず二撃目が降ってくる。俺の身体は実に呆気なく地面に転がる。大した時間稼ぎにもならなかった。目の前が暗くなってゆくのを感じる。あまり売り物を傷つけるな、と宥める声すらも嗜虐的な笑いを含んでいた。
断わりもなく腋の下に手を入れられ、俺は荷物の如く引き摺られた。ただ放心する。生暖かい液体が額を伝う。涙? 血? 脳髄? その判別もつかない。
ところが──何の前触れもなく、辺りの空気は凍った。不明瞭な悪臭が迫ってきている。男たちの口々から、困惑にも似た吐息が漏れる。徐々に、彼らの影が離れていく気配がした。
喘ぐように肩で息をする俺は、もう指一本動かせない。何が起こったか気に掛ける余裕もない。俯せで肩を激しく上下させる。咳き込む。
ぼたり。不意に、粘着質な液体が雫となって頬に降った。樹上から。酷い腐臭がする。鼻が曲がりそうだ。
これは一体何だろう。
「よ、蜮だ!」
後退りしながら、賊の一人が顔を引き攣らせる。そこに浮かんだ恐怖の相に、満身創痍の俺はようやく様子がおかしいと気付いた。男たちは、先程まで俺に振るっていた威勢の良さなど嘘のように、情けない逃げ腰と間抜け面を晒している。
彼らの視線は、頭上に集中していた。そこに何かがいる。腐液を滴らせ、葉陰に身を顰めたものの息遣いを感じる。
──あの獣だ。
刹那、真っ黒い毛並みを靡かせ、あの悪夢のような獣が暗がりに躍り出た。
そして、ギイとかギャアとか、とにかく文字では言い表しがたい軋んだ鳴き声を上げ、闇を滑空するモモンガの如く、そのしなやかな体躯を目一杯に伸ばして飛び掛かったのだ。
悲鳴じみたどよめきが森閑を乱す。餌食になったのは賊の一味だった。
頭部に噛み付かれた男が狂ったように引き剥がそうと暴れるも、その努力は空しい。仲間の一人が剣のようなものを振るい、獣の尾先を散らす。
威嚇の絶叫が鼓膜を劈いた。転がるように地面に着地した尖り耳の獣は、怒りと興奮を剥き出しにして猛々しく吼えたてる。その口腔からねばついた毒がほとばしり、男たちは滑稽なほど叫んで転ぶ。
俺は混乱していた。これを好機と見なすべきか、はたまた更なる不運と呼ぶべきか判然としない。
あの野獣がこちらを助けに来てくれるほどの理性と思いやりを持っているとは到底思えなかった。むしろ、そいつは俺が先に見つけたのだと言わんばかりに、獲物を渡すまいと彼らに牙を剥いているようだった。
何にせよ痛めつけられた身体では、逃げるという選択肢すら喪失していた。敵が増えたところで窮地に追い詰められていることに変わりない。枯れ草が踏み荒らされる音が聞こえる。怒号と喧騒が飛び交う。
そのときだった。地面に蹲る俺の耳が、突如ひとつの声を捉える。これだけの騒ぎの中にいながら気が付けたのは、唯一耳に馴染んだものだったからだ
「兄貴!」
まるで暗闇を切り裂くよう、その声はどこからか俺を呼んでいた。




