Ⅲ
揺さぶられて目を覚ましたのは、もう夕刻に近い時間だった。
一体いつの間に敷物の上で寝こけていたのか。白狐さんに酒を勧められながらこっくりこっくり舟を漕ぎ、仕舞いにはその場で目を回してしまった──らしい。記憶がない。
顔の半面に敷物の跡が残ってしまった俺を見て、白狐さんはしばらく笑いが収まらないようだった。俺を酔わせた張本人だろうに。
胃の底にどろどろしたものが圧し掛かる気持ち悪さ。悪酔いだ。ぼさぼさになった髪を掻きながら、もう酒は飲まないと心に誓う。
「光ちゃん、翔を起こして来てくれますか」
沈み始めた陽日を背に、光がこくりと頷いた。笑顔の白狐さんはそんな光を見送った後、散らかっていた酒器類を片付け始める。中身のない酒瓶たちが西日を反射して赤く光っていた。
俺が力尽きてからも、この人はずっと飲んでいたらしい。ワクというのはこういう人を言うのだろう。俺はもう感心する他ない。
「酷い顔ですねぇ」
放心していると、白狐さんにくすくす笑われた。人間離れした容姿の世捨て人に言われると、より惨めだ。白狐さんは慈しむように目を細め「あとで饂飩を茹でてあげます」と俺に微笑みかける。
「冷たい出汁と大葉を入れますから。さっぱりして美味しいですよ」
「ありがとうございます……」
宥められながら、俺は腰を上げた。身体が痛い。関節の継ぎ目を確かめるよう肩を回す。裏口から翔と光が連れ立って出てくるのが見えた。手に何かの道具を抱えて。首を傾けてじっと見ていると、白狐さんは履物に足を通しながら言う。
「月が出る前に、天を奉る儀式を執り行います。顔を洗っていらっしゃい」
「儀式……? 一体何をするんですか?」
「そう大したことではありませんよ。今から準備します」
儀式、という言葉に堅苦しい思考を巡らせながら、俺は白狐さんに促され、一度洗面所まで行った。そこでさっぱりしてから、裏庭で執り行われる〈吉月〉の儀礼を見に行く。海の波のようにやってくる睡魔も悪酔いの蟠りも辛いが、どんなことをするのか関心があった。そう頻繁にはない月蝕という現象、この機を逃したらしばらく見られないだろう。
そんな訳で、俺は翔と光と共に支度をする白狐さんを遠巻きに見学している。既に陽が暮れかけ、白木に組まれたささやかな祭壇は柔らかい色に染まっていた。
東の方向に設えた祭壇は箱のようで、中に早生の李と犬の肉を供えてある。瓶に生けられた豪華な石楠花の花は、先程翔たちが庭から切ってきたもの。祭壇を調えた白狐さんは、地面に膝をつき丁寧に神酒を捧げていた。
「犬の肉を食べるのは禁じられているんじゃなかったっけ?」
「食べちゃいけないだけで、殺しちゃいけない訳じゃない」
小声で訊ねると、隣にいる翔は小さく肩を竦める。もう酔いは覚めたらしく大分顔色がいい。よく分からない理屈に頭を混乱させる俺の前で、白狐さんは懐から不思議な絵の描かれた札を四枚取り出した。ここにいる四人分の長寿を願って火をつけ、天に還すんだと翔は説明してくれた。
「不思議な絵だな……」
少し背伸びをして、白狐さんの手元を覗き込みながら呟く。横向きに大きく墨汁で描かれているのは──翼を広げた蝙蝠だろうか。蝙蝠は何か対になった丸いものを口に咥え、更に左右には桃がある。何か意味ありげだ。
白狐さんは振り返って、札の一枚を俺に差し出して来た。「この絵、どういう意味か分かりますか?」と訊ねられ、俺は少し考え込む。光も背伸びをして蝙蝠の絵を睨みつけていた。
意味を訊いてきたということは、これはアレゴリーと解釈するのが筋だろう。それなら俺も少し知識がある。黒線で描かれた事物のひとつひとつをなぞるように眺め、口を開いた。
「えーっと……桃はきっと“長寿”の象徴、ですよね。これは分かります」
「正解です」
頭の中の知識をかっぽじって、分かる場所から解読していく。多少価値観の違いはあれど、絵画のメッセージ性というのはどの地域にも共通して存在するのか。俺は芸術に理解はないが、寓意を読み取るのはむしろ得意な方だった。首を捻りながらも続ける。
「蝙蝠は何だろう……幸福か、それとも不吉か。いや、蝠と福を掛けているなら幸せという意味かな」
「よく分かりますね。蝙蝠は“幸福”を意味する縁起のいい動物です」
「あとこの丸いのは……お金? 銭に穴が空いているから……空洞……」
顎に手を当てて目を眇める。中国の吉祥画で、似たようなアレゴリーを見たことがあった。確か同じ音の漢字を変換して、その意味を考えるのだ。穴を意味する文字は「眼」だから、「眼銭」となる。つまり「眼前」か? とすると、この絵に込められたのは“幸福と長寿が目の前にある”というメッセージになる。
「惜しいですね。蝙蝠が咥えている銭は二枚あるんですよ」
「ん? ……双、銭……? 善? 漸? あ、双全?」
思わず声を上げる。隣で見守っていた翔が「当たりー」と歯を見せて笑った。
「“幸福と長寿、どちらも完璧”まあそんな意味かな、このお札は」
「なるほど……」
さすがというべきか、長命を願う日らしく縁起の良い言葉が込められているのだな。俺は何度か頷きながらもう一度札の絵を見た。装飾的な翼を持つ蝙蝠は、ユーモアのある顔で二枚の硬貨を口に咥えている。アレゴリーの知識がなければただの面白い絵と見過ごしてしまいそうだ。
しばらく感心した後、白狐さんが蝋燭の火を使って四枚の札に火を点けるのを見守る。薄紙で出来た札はあっという間に燃え尽きた。残った灰は彫刻が施された筒のような道具の中に入れられる。これもまた特徴的な形をした道具だ。
じっと見ていると、いつものように翔が説明してくれた。
「天帝を奉る礼器さ。天は丸く、地は四角い。だからほら、不思議な形をしているだろ」
指さす先にはなるほど確かに、三十センチほどの玉の筒は外側が方形、中のくり抜かれた空洞は円形をしている。天地の様を表わす礼器には、天に向かって羽ばたく鷹が彫られていた。天地を介する鳥だ。
「そういえば、もうひとつ〈吉月〉の日に関係のある鳥がいるんだけど、分かるか?」
「……分からない。何だ?」
「啄木鳥」
「そのままじゃないか」
思わず息を吐く。この国の人は言葉遊びが好きなようだ。
「啄木鳥は“守護”の象徴。羽はお守りとして人気なんだ」
そう語る翔の青い目は、背後で黙っている光の方を意味有りげに向いている。何だか最近こいつらに隠し事をされているような気がしないでもない、と思いながら「へえ」と相槌を打って関心なく装った。
夕刻の儀式は決められた例式に則って滞りなく済まされた。月が昇る前、昼と夜が入れ替わる頃にまず家長が天に供物を捧げ、札を燃やして長寿を祈願する。次に月天子を讃える『天介地書』の詩を読む。何も見ず、空ですらすら謡いあげる白狐さんの声が心地よく印象的だった。そして最後に桃酒を回して飲む。桃は邪気を払い不老長寿を与える植物として有名……また飲んでしまった。先程の誓いは一瞬で破れ去った。完熟の桃が使われた酒はまるでジュースのように甘い。無花果酒でも代用可能とのことだ。
あとは燃やした札の残った灰を家の四隅に撒きます、という風に終了を告げられる。が、間髪入れず「月の門が閉じ始めるまで休憩です」と微笑まれた。まだ何かやることがあるのか。酒のせいか眩暈を覚える。
「暗くなるまでに身体を清めましょう」
胸の前で両手を合わせて白狐さんがそう言った。その瞳は黄昏の陽を避けるよう細められている。風呂掃除するぜーと張り切っている翔を横目に、俺は何度目か分からない欠伸を噛み殺す。
眠い。やはりまだ酒が効いているようだ。日差しの向こうに意識が吸い込まれてしまいそうで、足元がふらつく。月蝕が始まるまでどうせかなり時間はあるだろう。俺は入浴を後回しにし、一度部屋に戻って寝直すことにした。
儀式の間中、光がずっと黙っていたことに俺は気付かない。旨を伝えて一人家に入って行く危うげな兄の後姿を、光はじっと見つめている。




