Ⅳ
夢を見た。
これは夢だ、と自分で分かったが、酔いのせいか頭が不自然に重い。何かの拍子に浮上しかけた意識が、また沈みこんでいく。
不意に、誰かに右腕を持ち上げられる。どこか危うげな手つきだった。
俺はそれが現実だとは思わなかった。ただ手首に何か軽いものが触れたのと、聞き覚えのある声が、夢の中で囁くのを感じていた。
「……許してくれなんて言わない……から」
どうやら声の主は泣いているようだった。か細い嗚咽が、海底に届く微弱な光のよう俺の意識に届く。小さな手が俺の手首を握った。
「これ以上あたしのこと嫌いにならないで、欲しいな」
「……」
意味を理解する前に、その言葉は霧散してしまう。
力尽きたかのように、ぱたりと記憶が途切れた。また眠ってしまったのだろう。やがて目を覚ました俺は、しばらく混乱した。暗い。どうしてこんなに真っ暗なのだろう。
寝ぼけ眼を擦っていると、夢の片鱗が蘇ってきた。俺はしばらく、意識のあるようなないような境目を彷徨う。
あれは、もしかして光の声か? と気づいたのはもう随分時間が経ってからだった。枕から浮かして首を動かす。妹の姿は見当たらない。
腕時計が二十一時を指しているのを見た俺は、慌てて起き上がる。月蝕はどうなっただろう。布団を押し退け、髪を整えながら廊下に出る。少しも行かない内に翔に出くわした。
「お、皓輝。丁度良かった。呼びに行こうと思ってさ」
おはよう、と時間にそぐわない挨拶をしてくる翔に、短く応える。持ち手のついた照明器具が、暗い廊下を眩しいくらいに照らしていた。
月蝕はどうなったか訊けば「もうそろそろ始まるよ」と翔は笑った。俺はほっとした。
「そうか」
「居間で白狐さんが待ってる。俺、光呼んでくるよ」
「ああ」
明かりが遠ざかると、廊下はまた闇色に塗り込められた。手探りでどうにか居間まで辿り着く。開かれた縁側の向こうは、月の光で明るく照らされていた。
「……」
宵の空に高く上った月は、完璧に満ちている。居間の家具や俺の足元に影が長く延びて、俺が動けば影も動いて向かいの壁に映った。昼でも夜でもないような奇妙な明るさだった。
白狐さんは、縁側の縁に佇んでいる。
湯浴みの後なのだろう。髪は無造作に湿っている。月光の下、白皙の肌はいよいよその色を失くし、ぼうっと月を見上げる姿は昼間以上に人間味が感じられない。神秘よりも凄味が上回って俺の足は一瞬止まる。
昼間は無力なのだと、白狐さんはしきりに言っていた。逆に言えば夜は彼の本領なのである。それは容姿や、内から滲み出る静かな雰囲気も含まれるのかもしれない。初めてこの人に会ったときのことを思い出しながら、その後姿へと向かう。
「やあ皓輝くん。起きましたか」と振り向かずに白狐さんは目を細めた。
近寄れば一層眩しい月光が、白狐さんの髪や、頬の淡い産毛を光らせている。はい、と応えながら一緒に空を見上げる。
南寄りの空に出た月は、模様が霞むほど白い。辺りの樹々の葉は白く輝き、一面に淡い雪が降り積もったようだった。俺はしばらく、呆気にとられたように黙って月を見つめた。
「皓月……」
不意に白狐さんが呟く。
「え?」
彼はゆっくりと瞬きした。
「孑宸皇国で“皓”は男性の名として好まれる字でもありますが、本来は天体が白く輝く様を表現する字です。白く輝く月──皓月とはまさに、今夜の月にぴったりの言葉ですよね」
「そうですね……」
俺は頷く。月が欠け始める予定の時刻が迫っていた。きっと今頃は多くの孑宸皇国の人々が同じように空を見上げているに違いない。月はただ白く、清らかで、ある種の使命感さえ持って輝いていた。ずっと見つめていると、吸い込まれそうだった。
駆け足で戻ってきた翔が「光の姿が見当たらない」と眉を顰めるのは、それから間もなくしてからだった。
「光ちゃんが?」
何か抑圧された固い表情をしている翔に、白狐さんも顔を曇らせる。二人は顔を見合わせ、何か言葉を交わした。
俺はただ、あいつはどこに行ったんだと考えている。やはり興味が湧かなかった。そこでようやく、自分の手首に僅かな違和感を覚えた。
気づかなかったのは、それがあまりに細くて軽く、感触らしい感触を残さなかったためだ。腕を持ち上げると、何かが滑り落ちる感じがした。掌を月光に照らしてみると、手首を流れる血のような、細く赤いものが巻かれている。
「……」
見たことのない、真紅の紐飾りだった。少し不格好ながら装飾的に編み込まれた紐には、幾つかの小粒の瑪瑙と真鍮の輪が交互に連ねられていた。しっかり玉結びにされたそれは、願掛けをして身に着けるミサンガにも似ている。
じっと紐を眺めていると、白狐さんと翔は同時に息を飲んだ。俺が目線で問い質すと、翔が苦しそうに顔を歪める。
「それは──吉祥の紐」
「吉祥の紐?」
耳にした記憶のある言葉だった。こんなもの、一体いつの間に着けられていたのだろう。俺は薄気味悪さを覚える。
白狐さんが「光ちゃん……」と呟いた。か細く、風に消えてしまいそうな声だった。
「吉祥の紐はね、男女の兄弟の絆を結ぶ紐だよ」
「何だ、それ」
本当に意味が分からず聞き返すと、翔は説明してくれた。
「統一戦争の頃、ある地域では兄弟の無事を祈って、家に残される姉妹たちが紐を編んで贈る風習があった。姉から弟に、妹から兄に。紐を結んでもらった兄弟は、自分の姉妹を生涯守るという誓いを立てるんだ」
言いたいことを堪えながら、「それで?」と先を促す。
「東大陸の一部だけで行われていた吉祥の紐の祭礼は、いつの間には様々な地域にまで広まって、“守護”を意味する鳥の啄木鳥に掛けた〈吉月〉の日に行われるのが通例になった。昔からそうだった訳じゃなくて、近年になって時期を合わせて祝うようになったんだけど」
近年では戦争の有無や年齢に関係なく、兄弟姉妹の関係を祝う祭りとして盛んに行われる。月蝕の日が近付くと、あちらこちらで吉祥の紐が売られるため、市の露店が真っ赤になるのだという。
続けて吉祥の紐を贈るときの一連の手順を話そうとした翔を、白狐さんが遮った。
「光ちゃんは、一体いつの間に紐を結んだんでしょう?」
「あいつはこの習慣を知っていたんですか?」
一瞬詰まった白狐さんが、顎を引いて頷く。「僕らが教えましたから」と言う声は何かを憚るように小さい。
俺はちらりと手首の紐を見て、黙った。光がいつこれを俺に着けたのか、彼らが何を期待して光に吉祥の紐の祭礼について教えたのか、問い質せずとも理解出来た。容易く理解出来たからこそ、腹が立った。彼らは数日掛けてこそこそと、光にこの紐を作らせていたのだ。
ただ、文句を言っている場合ではないようだった。とにかく問題は光がどこへ行ったのか、ということだ。
「本当に家の中にはいなかったのですか?」と白狐さんが翔に訊くのを横目に、俺は空に浮かぶ満月を見た。いつしか先ほどまでの輝きは薄れ、その円の端がくすんだ赤銅色に染まり始めていた。何かに蝕まれるように全体の色合いは暗く、光の下にあった模様が浮かび上がっている。
──月蝕が始まる。
俺たちは手分けをして周辺を探すことにする。〈吉月〉の祝いも後回しに、俺家の外へ向かった。言いたいことが山ほどあったが、文句も何もかも本人がいなければ意味がない。酔いなどとうに醒めてしまった。
歩きながら吉祥の紐を外そうとしたが、玉結びが小さくて解けない。早く早くと落ち着かない様子の翔に急かされ、諦めて靴を履いて玄関を出た。
風が出てきたのか、陽の落ちた苔森は部屋着だけでは心許ない。俺は襯衣の固い襟を握るようにして、身震いする。雪を降らせたようだった月の光は跡形もなく消え、暗闇が続いている。
「光は、どこに行ったんだろう。こんな夜更けに……」
松明を灯した翔が眉を顰めた。「散歩かな」と続けて呟いたその言葉は、そうじゃないことを分かった上で言っているようだった。
俺は何故光がいなくなったのかさっぱり分からなかった。翔や白狐さんが一足先に感じ取った嫌な予感というものもどこか他人事で、どうして二人はそんなに焦っているのだろうと考えていた。
俺は、あまりにも妹に興味がなさ過ぎた。少しでも気を払っていれば、最近の光の様子にも意識が及んでいたかもしれない。
松脂の染みた松明の先端に灯った炎が、風に煽られて歪んだ。一本を手渡され、俺は翔と二人で周囲の森を探索することにした。白狐さんはもう一度家の中を確認してくるという。
「ひかりー!」
「光ー」
どうせすぐに見つかるだろうという俺の目論見は外れた。名前を呼んであちこちを回っても、妹の姿は見当たらなかった。まるで夜の深い闇が大きな口を開け、光を飲み込んでしまったかのようだった。
音を立てて燃える松明が、動かすたびに火花を撒いた。湿った草叢、笹の藪。躓かないよう気を配りながら俺たちは可能な限り辺りを照らす。暗い足元の水を何度も踏んで、足先が冷たくなった。
時計を見れば、既に探索を始めてから一時間近く経っていた。光はいない。どこにも、いない。
「どこに行ったんだ」
俺は誰に問うでもなく呟いた。
翔は何も応えず、俺の後ろを付いて来ている。夜の陰鬱さがそうさせるのか、翔の口数は少ない。
草や木の枝を踏む二人分の足音が、何の形跡も残さず闇に吸い込まれていく。
これだけ探して見つからないということは、もう光はこの近辺にはいないのだろうか。苔森を出たのかもしれない──何故?
手首に結ばれた吉祥の赤い紐をちらりと見やる。一旦白狐さんと合流しようか、と翔が漏らしたそのとき、俺たちの頭上を小さな影が横切った。
軽やかな羽音がある。錆びた鉄色に翳る月が一瞬隠れ、長い飾り羽が目の端で閃く。俺と同時にはっと顔を上げた翔が、「え」と間の抜けた声を出した。
「……」
俺たちが唖然として見上げる先、細い枝に留まった小鳥が松明の光に舐められていた。




