Ⅰ
五月の半ばを過ぎた頃、〈吉月〉の日がやってきた。月天子を篤く信仰する孑宸皇国民にとって縁起の良い月蝕の日。世捨て人たちも数日前から支度に勤しんだ。
正午より少し早い時間、外は見事な五月晴れ。今宵はきっと月もよく見えるだろう。
厨では白狐さんが忙しそうにくるくる働き、宴の料理を用意しているのが見えた。光も手伝いをしている。
俺は竈の前で、前日から取っていたガラの出汁で作ったスープの最後の味見をしていた。この国の料理は干し魚や昆布の出汁が多く、動物の骨から取った出汁というのはあまり見かけなかった。
天に信心のない俺が何故準備に携わっているのかと言うと、今月の始めにあった翔の誕生日も〈吉月〉と一緒に祝うと白狐さんから聞いたからだ。本来月始めに祝うはずだった誕生日は、丁度翔がスコノス関係で体調を崩していたので先延ばしになっていたらしい。
日頃から世話になっている翔の誕生日、大したことは出来なくても祝福しない手はなかった。
「何か欲しいものはあるか?」
「たくあん」
期待を裏切らない且つ全く参考にならないやり取りの後、白狐さんに相談して散々悩んだ結果、祝い料理を作るのに手を貸すことに決める。
もっと何か凝ったことをしてやりたくても今の俺には金がないし、たくあんもない。「気持ちが大事です」という白狐さんの笑顔を気休めに、何を作るか考えた。
あまり人に食べさせたことはないが、家族の食卓から日常的に外されていたため自分で何かを作るのには慣れている。皓輝たちの世界らしいものを翔に食べたいと言われ、結局煮込むだけの簡単な汁物を作ろうと決めた。
しかし材料に問題があった。スープに使う出汁は鶏ガラやコンソメが一般的だが、この国の人たちは鶏肉や牛肉を食べることが禁じられているのだそうだ。
更に言えば、馬・猿・犬・人の肉も法によって食べてはいけないことになっているらしい。──禁止しなければ人の肉を食べてしまう国民がいるのか。
以前そう聞かされたとき、俺は訊ねてみた。
「宗教上の理由なんですか?」
「どうでしょう」宗教、という言い方に白狐さんはぴんと来なかったようだ。
「肉を食べれば血の気が多くなり、人々は争いに駆り立てられるからという理由で、御時代に入って定められたんです。宗教というより、僕たちにとっては健康上の理由と言った方がいいのかもしれません」
とにかくそんな訳で、白狐さんの作る料理に肉類が異様に少なかったことも納得する。尤も禁止されているのは鶏肉であって骨がそれに該当するかは微妙だが、避けた方が無難そうである。
結局、うずらの骨を使うことにした。うずらや雉などの野生の鳥肉はこの国の山里ではポピュラーな食材だ。結局それも肉ではないかとは思うのだが、実際当初は完全な食肉の禁止を掲げたものの、庶民は肉を避けて充分な栄養を摂れる生活を送るほど経済的余裕がなかったため様々な反対意見が出て実現しなかったのだという。六種の食肉禁止は妥協の結果なのだ。
うずらを十羽以上ばらしてじっくり骨を煮込み、こまめに灰汁を掬って数時間。ほぐしたうずら肉と春掘りの長芋を具材に、臭みを取るための葫と一緒に煮込めば完成である。我ながら良い出来かもしれない。
目新しい汁物の味が気に行ったのか、しきりに味見をしようと調理場に乗り込んでくる翔を追い払いつつ、主菜を作る白狐さんの手伝いもする。
「じゃあ、こうやって具材を乗せて……光ちゃん上手ですねぇ」
「……うん。料理は好きだよ」
調理台に向かって白狐さんと光が作っているのは、手鞠寿司のような魚料理だ。この日の為に新鮮な青魚や真鯛のような白身魚、鮪に似た赤身魚など、こっそり海沿いの邑まで行って仕入れてきたらしい。炊いた白米と魚の薄切りを酢と酒で軽く和えて、薄布で巻いてゆく。
片手に乗るほどの小さなそれは、本物の鞠のように華やかで見栄えがいい。魚の切り身だけでなく、生姜、大蒜、山で獲った香菜も具材として一緒に乗せ、彩りを添えている。ただ、可愛らしく作るのは不器用には難しかった。
他には若い豌豆を薄口の出汁で柔らかくした翡翠煮、土筆と卵を使った豆腐料理。そして摘んできた蓬を刻んで米粉に混ぜた蒸し団子。調理場を行ったり来たり、白狐さんが器用に複数の料理を並行し、皿に盛り付けてゆく様子を、俺は手鞠寿司に苦戦しながら眺めていた。食べるのが楽しみだ。
「おはよう! もう五月だよ」
唐突に飛び込む弾んだ声と転がるような笑い声。白狐さんと顔を見合わせてから裏口の隙に顔を寄せると、燦々と降り注ぐ日差しのもと、山桜の樹に向かって翔が蛙のように跳ねていた。
俺の目には見えない花の神と話しているのだろう。
世捨て人の家の裏にある一本の古い山桜は、咲くのが随分遅かった。
翔に曰く「うちの山桜の姫様はのんびり屋」らしい。五月の半ばを過ぎてようやく、真っ白い可憐な花で空を埋める。
夜に催す吉月の宴も、せっかくなので桜を楽しみながら明るい時間にやろうと予定が変わった。孑宸皇国民が予定を変えるのも躊躇わないほど満開の山桜は見事だった。
「本当にすごいな」
完成した料理を樹の根元まで運びながら、何度目か分からない称賛の言葉を口にする。でしょ? と口元を緩ませる翔が何故そんなに誇らしげなのか分からないが、花神の姫君が宿る山桜の樹、満開に咲いた白い花で枝を撓ませる様は雲のようだった。
俺のよく知っている濃い色の桜とは種類が違うらしく、色が薄いのも素朴で悪くない。花を愛でる趣味がなくても顔を上に向ける価値はある。
なだらかな地面に灯心草の敷物を敷き、その上に料理や皿や酒類を並べていった。ふと盆を手にしたまま樹陰に佇む妹の姿が視界に入る。
光は頭上の桜を見るでもなく、ただ何か考えているような表情でじっと苔の地面を見つめていた。翔に呼ばれて我に返ったよう顔を上げる。
「わ~美味そう」
「苦労して作った甲斐があった」
「これ形にばらつきがありすぎるんだけど」
「不器用なんだよ、許せ」
準備が整って、靴を脱いで敷物に上がった翔とそんなやり取りをする。
無邪気な双眸が眩しそうに細められていた。ふと咳払いで照れ臭さを払い、改めて「誕生日おめでとう」と告げる。
「ありがとう。二十八だぜ」
ひらひら嬉しそうに手を振る翔。成人したネクロ・エグロは歳を取るのが遅いと知ってはいても、どう見ても十代の半ばにしか見えない翔の若い容姿は不思議だった。
「また来年も皆でいたいな……」
ふと遠くどこかに目を向ける翔の声が春風に掻き消える。俺は何も言わない。
うきうき酒器を手にした白狐さんが最後に揃ったことで、吉月と翔の誕生日と遅い花見を兼ねた祝宴が始まった。
「かんぱーい!」と主役がふざけた声で杯を空に掲げ、朱色の酒杯が日光を弾く。
鶉のスープは好評だった。肉をあまり好まない白狐さんも美味しいと言ってくれたので安堵する。蓮華で掬って食べる光が「懐かしい味がする」と呟いているのを聞き流す。
俺は敷物に胡坐をかいて、色とりどりの手鞠寿司に手を伸ばした。白狐さんが握ったものと自分が握ったものの差は一目瞭然で、恥ずかしいので形の悪いものを選んで食べた。
久し振りの生の鯛は脂が乗っていて、口の中で溶ける。不格好でも味はほとんど変わらないことを確認し、とりあえずは安心した。薄く重ねられた香菜が美味い。
視線を横に向けると翔が祝杯を片手に、樹の根に酒とたくあんを一本置いていた。花神への供え物だというのはすぐ分かったが、遠目から見ても圧倒的な存在感を放っている。
たくあんは必要なのだろうか……。
「山桜の姫様はたくあんが好き!」と高らかに叫ぶ翔が、本当のことを言っているようには到底見えない。直後翔の頭にひらひら桜の葉が落ちてきたのも、偶然ではないように思える。きっとあれはブーイングだ。
穏やかな陽光を受け、和気藹々と時間は流れる。料理を口に運びながら他愛もないような話を弾ませ、時に興味深く耳を傾けたり笑ったりしていた。
四人で食べれば早いもので、あれだけあったご馳走もほとんどなくなる。
やがて会話も途切れ、心地よい風を感じながらゆったり満足感に浸った。俺は目を細める。手鞠寿司を幾つか残すのみとなった黒磁の皿にひらり花びらが舞った。
「……綺麗ですねぇ」
朱漆の杯を傾ける白狐さんが、しみじみ桜を見上げて微笑む。
彼の片目しかない白いまつ毛が光に透けていた。その硝子のような瞳の中に、真っ白な花が咲いている。幾つもの花びらがその頬の傍をひらひら舞い落ちる。白い指が、横になって寝ている翔の髪を優しく梳いていた。
あまり酒に強くないらしい本日の主役は先程、酔っ払った挙句何故か服を脱ごうとし、今は白狐さんの膝の上で穏やかに眠っていた。よくもまあこんなに短時間でテンションを上げ下げできるものだと感心する。白狐さんに贈られた新しい耳飾りが春光に煌めいていた。
頭を撫でられ、気持ち良さそうにふにゃふにゃ寝言を漏らす二十八歳。大の男が母親に甘える幼児のように膝で眠っている様子に、口元が綻ぶ。
……斯く言う自分も、さっきから意識が朦朧として今にも眠りそうだった。ふわふわ雲の上にでもいるような夢心地だ。
どうして、と手元の赤い杯に目をやれば白狐さんが笑顔で銚子から酒を注いでいて。
「俺、未成年なんですけど……」
「それが何か?」
既に何杯目か分からないくらい祝い酒を飲まされ、すっかり酔いが回っている。幸い悪酔いはしなかったようだ。ただ意識が浮ついて、頭が勝手に前後に揺れて気持ち良くなっているだけなのは救いである。
対する白狐さんはほとんど素面と変わらない。未成年飲酒などさして気にした風もなく、多分この国にそういう概念はないのだろう。彼の飲んだ酒の空き瓶が出撃前の歩兵部隊の如く整然と並べられている光景に、俺は恐怖すら覚えた。
「酒強いんですね」と漏らすと「好きですから」と応えが返ってくる。
俺は皿に残った土筆を細々摘まみに杯を煽った。柔らかい卵と醤のしょっぱさが、すっきりした酒の風味に溶けていく。独特の苦みが舌に残った。
「少し失礼します」
白狐さんが翔を起こさないようそっと頭を退けて立ち上がる。どこに行くのかと思いきや「酒が切れました。取ってきます」と笑うので呆れてしまう。
まだ飲むのか。しっかりした足取りで裏口から家に戻る白狐さんは、最早尊敬に値した。




