Ⅴ
身体がだるいような、重いような。そんな気がしていたのは今朝のことだった。
連日の疲労が抜けないのかも。嫌ですねぇまだ若いのに。朝餉の席で白狐さんとそんな会話を交わした記憶がある。
そのときはまだ、それ以上の異変は感じなかったのだが。
「今日寒いですね」
と、ぼやいたら、白狐さんが上着を貸してくれた。それが確か昼過ぎ。どうにも嫌な悪寒がして、何度かくしゃみも出ていたはずだった。
昨日から降り止まない春の雨のせいで室温は低く、俺は午後の間中ずっと長火鉢の傍で丸くなっていた。
そこで何を言われたか忘れたが、いつものように光と口喧嘩をして、その最中妙に頭が重くぐらぐら眩暈がしたのだ。
そして俺の様子に眉を顰めた光に、白狐さんのもとに連行され──まあ、この様である。自室に敷いた布団に俺は寝かされていた。
風邪を引いたらしい。
「うーん、昨日雨に当たりましたしね」
枕元で俺の脈を取った白狐さんが顔を曇らせた。鉛を流し込まれたよう身体が重い。風邪だと認識した瞬間、一気に症状が表面化した気がする。
寒気と熱っぽさ、頭痛、そして眩暈のように強烈な眠気。鼻水も出てきた。感動的に分かりやすい典型的な風邪だ。
原因もはっきりしている。昨日はあらゆる意味で自己管理が出来ていなかったから、当然の報いだろう。
「お世話かけて申し訳ないです……」
「気にせずゆっくり休んでください。疲れも溜まっていたんでしょう」
にこにこ笑う白狐さんが、生薬を煮詰めた煎薬を持ってきてくれた。それから滝のように流れる鼻水を処理するのに使う薄葉紙も。
薄葉紙はティッシュペーパーに少し近い。本来鼻をかむのにはもっと荒い紙を使うらしく、初めは俺もそれを使わせて貰っていた。
しかし如何せん俺の皮膚は乾燥に弱く、鼻をかむ度、表皮が剥けてきたのである。だんだん紙と擦れて辛くなってきた鼻先を見かねた白狐さんがもっと柔らかい紙を持ってきてくれた、という訳だ。有難いやら申し訳ないやら。
「とりあえず水分を摂って、汗をかいたら着替えて下さいね。何か胃に入れた方がいいでしょう。粥でも作りましょうか?」
「……お願いします」
あまりにもてきぱき看病してくれるので断ることが出来ない。それをするだけの思考力がないのだ。
きっと世の母親というのはこんな感じなんだろうか。熱に浮かされた頭でぼんやり耽る。
湯気を立てる煎薬を口に含むと独特のとろみの中に奇妙な甘い風味がじんわり広がった。身体が暖まる。茶椀の底に溜まった薬の破片の残りまで飲み干した俺は、白狐さんが入れてくれた湯たんぽに足をくっつけながら身体を横たえた。
もう寝慣れた布団の中は熱を持った身体には心地良い。ずっしり重たい頭は枕に吸い付いたようで、発熱の倦怠感に任せてすぐ意識は霞んでいく。いつの間にか俺は眠りについていたようだった。
──立て続けにおかしな夢を見た気がする。体調の悪い時の夢はどうしてこんなに支離滅裂なのか。あまり覚えていないが、楽しい内容ではなかったと思う。夢の中の俺は元の世界に帰っていた。
鼻声で呻いて目を開く。相変わらず全身が気怠いが、頭の重さは少し軽減されたようだ。
「気分はどう?」
「……かける」
不意に顔を覗き込んでくる影。名前を呼んだ声は思った以上にか細くなった。翔は俺の布団のすぐ隣に胡坐をかき、何かの書物を開いている。何やっているんだ、と訊けば「見張り」と冗談めかした答えが返ってきた。
寝惚け眼のまま、近場の薄葉紙を手に取って鼻をかむ。背中が薄ら汗ばんでいた。
昨晩は多少弱っているように見えた翔だが、俺が寝込んでいる間に動き回れるくらいには回復したらしい。俺はほっとして埃っぽい息を吐きだした。
「お前はもう良さそうだな」
「今は、皓輝の方が具合悪そうだぞ」
あはは、と軽快な笑い声を上げるのはいつもの翔だ。その手首や足には痛々しい包帯が巻かれている。きっと傷跡は残っただろう。俺が表情を曇らせたのを、翔は見逃さなかった。
「怖くなった?」
翔がじっと俺を見つめてくる。何が? と俺は目線で問い返す。
「俺の話は白狐さんから聞いたんだろ」
少しの間、俺は黙った。何を言うべきか、言わないべきか逡巡し、静かに首を横に振る。髪の毛が枕に擦れる鈍い音がする。
「怖くはない……ただ、翔の背負っているものが何も見えていなかったんだな、とは思った」
最後の方は意図せず掠れ声になった。それが風邪のせいなのか、感情の揺らぎのせいなのか自分でも分からなかった。
翔はあっけらかんと笑って見せた。
「変な奴だな。自分は自殺してもいいのに、他人が死ぬのはそんなに悲しいのか」
特に嫌味のつもりではないようだったが、俺の胸に鋭い何かが刺さる。別に俺は人命を蔑ろにしている訳じゃないよ、と口籠ると、そうか、と返された。
「まあ、俺はこの通り元気だから、気に病まなくてもいいよ」
ひらひら振る手に昨晩の俺のスコノス暴発を嫌でも思い出す。躊躇いがちに頷き、俺は布団に顔を埋めた。もう二度とあんなことはするまいと誓いながら。
元気になったところで、もうすぐそこに人生の終わりが迫っていることに変わりはない。俺は改めて理解する。翔のあの笑みは、死に間際の命の輝きなのだろう、と。
不意に翔が思い出したよう「あ、そうだ」と声を上げたので、俺はびくりと肩を震わせた。
「もうすぐ夕餉の時間だから、何か食べる? って訊くように言われていたんだ」
上体を起こした俺は変な声を出しながら伸びをする。力を抜くと急にぐったり体の重さを感じた。
この怠さは空腹のせいなのかもしれない。言われるままに頷くと、翔は両脚を畳むような仕草で立ち上がった。
「持ってきてやるからそこで寝てろよ」という翔の言葉に俺は甘える。看病されるときの至れり尽くせりというのは、慣れていないと照れくさいものだ。
やがて戻ってきた翔は、手にいつもの漆塗りの盆を持っていた。乗っているのは広い口の椀と、小さな鍋のような調理器具、黒ずんだ艶のある薬味らしき小皿だった。
「魚のお粥です」
白狐さんの口真似をした翔が、「はいどうぞ」と布団の上に行儀よく盆を置いた。
確かに、白く煮えた粥の中に薄切りの白身魚が入っている。温かな湯気から生姜の匂いがした。薬味に見えたものは、豆鼓と小魚を刻んで発酵させた炒め物らしい。多分保存食なのだろう。
一口食べてみてその味の濃さに慄いた俺だが、お粥と合わせると劇的に美味しかった。貝柱で取った出汁の優しい味に、磯の塩辛さが合う。後味が昆布っぽく、どこか懐かしさすらある。
「それ、西方の海岸の漁民から譲ってもらったものだよ。魚が採れない時期のために作ってあるのを、いつも白狐さんが物々交換してもらっているんだ」
へえ、と俺はそのまま受け流すが、長遐よりも更に西に住んでいる人がいることを聞いたのはこれが初めてだった。
時々ずるずる流れる鼻水を鬱陶しく思いながら俺は粥を胃に流し込む。身体が内側からぽかぽかと温かくなってくる。
「美味しい?」
「ああ」
ふふ、なんて一人で笑う翔が、何かを企んでいることに俺はようやく気付く。手を止めると、翔は嬉しそうに言う。
「それ、光が作ったやつだよ」
「……急に食欲がなくなった」
「おいおい」
椀と蓮華をがちゃりと置いた俺に、翔が苦笑いした。
「どうして俺が嫌がると分かって食べさせたんだ」
「嫌がらせなんかじゃない。風邪を引いたお前を心配して光が一生懸命作ったのに」
「……」
「お前ら、家族なのに仲悪すぎじゃない?」
お手上げ、と両手を上げる翔。俺は顔を背けて鼻をすする。
家族だから。そんなもの、仲良くする理由にならない。むしろ家族だから、兄妹だからこんなに仲が拗れるのだと。きっと翔に言っても分からないだろう。
「いつか言いたいことも言えなくなっちゃうような日が来るかもしれないだろ」
翔が言えば十分すぎるほどの重さを持つその言葉は、俺にとって的外れな気がした。そんな日が来ることを俺は誰よりも望んでいる。そんなことを、翔に言える勇気はなかったが。
「……他人には分からない事情があるんだ」
ほっといてくれ。それだけ口にするとあっさり翔は引き下がってくれた。仕方なく、俺は息をついて椀に残った粥を眺めた。大分冷めてしまったが、食べ物に罪がないのは事実である。何となく胸の悪さを感じながら、薬味を添えて苦労して完食する。
次に翔が渡してきた薬は、衝撃的に不味かった。俺にはよく分からないが、数種類の植物の根やら種子やらが粉末状にされていて、鼻が詰まっているのに形容しがたい漢方薬臭さがしばらく喉に残る始末だった。
「さっきの煎薬は結構美味しかったのに」
「あれは蜂蜜で味を付けているからな。気に入ったなら後でまた持ってくるよ」
どうやらこの手の薬は世捨て人の主が調合しているらしかった。良薬は口に苦しを地で行きすぎて感心するほどだが、確かに効きそうな気はする。再び流れてきた鼻水をかみ、俺は横になった。
翔が食器を片付けるために去ると、部屋は急にしんとしているように感じた。
数分ほど経っただろうか。ふと廊下に人が歩いて来る気配を感じた。翔だろうか。顔を向けると同時に引かれた襖の先。そこに立っていた自分の妹と視線がぶつかる。
どうしてお前が来るんだよ。




