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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第七話 人型
33/98

 



「暴走の後、翔はすぐにその場から逃げ出しました。自分のしでかしたことの重大さに気付いたのかも知れません。或いは、翔のスコノスが危険を感じて逃がそうとしたのか」


「それで、白狐さんが保護したと」


 そうです。その人は相変わらずどこかに思いを馳せるような眼差しでそう答えた。浮ついた酔眼で、そのときの記憶でも辿っているのだろう。


「自分の故郷が皇国の記録上から消されたと知った翔は苦しみました」


「……」


「罪を償う機会すら、翔は失ってしまいましたから」


 俺は言葉を継げない。

 白狐さんの家に匿われた翔の精神状態は実に恐ろしいものだった。ほとんど事故とはいえ肉親や罪のない同胞を手に掛けた直後なら、それがどんなものなのか推察は容易である。

 犯した過ちは幼い翔に重すぎた。

 手に負えない霊に蝕まれた身体も見るに耐えないほど衰弱し、連れてきた立場の白狐さんでさえすぐ死んでしまうと思っていたらしい。

 実際、幼い翔は生きることを拒み、猛烈なストレスに苛まれて精神的に不安定な時期が続いた。それは人と呼ぶにはあまりにも凄惨で絶望的な姿だった。

 しかし白狐さんの甲斐甲斐しい看病が功を奏したか、長い年月がそうさせたか。最も辛かった一年二年をやっと生き延びた翔は、やがて心身ともに立ち直っていく。

 白狐さんの手によってスコノスを抑え、栄養あるものを食べさせ、幻覚に怯える翔に根気よく付き合った世捨て人の主。そんな母親のように優しいこの人に、翔は少しずつ心を開いていった。

 そして幾度目かの春が巡った日、翔は一筋の希望を見出した。それは仄暗い光だった。

 白狐さんは、酒器を卓の上に置く。ことんという音が存外重たく響く。


「……強すぎるスコノスを持つネクロ・エグロは短命だそうです」


 曰く、ネクロ・エグロが本来の長寿を享受できるようになったのは比較的最近のことで、統一戦争や内乱が絶えなかった第二時代のネクロ・エグロは凶暴なスコノスを持て余し、極端に心身を消耗するため、さして長生きできなかったらしい。


「それからです。翔が幾らか明るくなったのは」


「……」


 自分が短命の系譜にあることを知った翔の中で、どのような精神的受容が起こったのか、俺たちには知りようがない。俺はこれまでの翔の言動を思い出す。最初は明るくて人懐こいように見えた翔。時々ここではないどこかを見る翔。朗らかな振る舞いの底に、いつも遣る瀬無い無力感のようなものを滞留させていた翔。

 それで俺はようやく理解した。あの翔の適当とも言える前向きさは、人生を諦めてしまったが故の境地なのだと。


「翔は、自分のスコノスを表に出さないよう努めています」


 白狐さんは続けた。


「自分の故郷を滅ぼした元凶な訳ですから、その存在を受け入れられないのも無理はありません。でも、同時に翔はスコノスが己の影であることも充分に理解しています。翔がスコノスを拒み、憎悪するということは、自分自身を生涯許さないという決意のようなものなのだと思います」


 翔がそうやって普段は隠している醜悪な獣性は、ふとした拍子に表へ顔を覗かせる。そして翔のスコノスは、徹底的にこの世の全てを破滅させようとする。

 光が強くなるほどに影が濃くなるよう、両者は互いに依存しながらまるで正反対なのだった。翔がスコノスに背を向けている限り、両者の溝が埋まることはない。


「翔は……どうして俺に、この話を」


 聞いて欲しいと思ったのだろう。語尾が途切れる。俺は俯いた。火鉢の熱が、顔の皮膚に張り付いていた。白狐さんは黙って首を横に振る。自分で考えろと言われたようだった。


「皓輝くん」


 やがて、白狐さんが改まった口調で切り出してきた。空になった瓶と酒器が卓の上にある。光沢のある卓の上に、陰が揺れている。彼は肘掛に酔った身体を預けた。


「……皓輝くんはあの子のこと、どうか嫌いになってあげないで下さいね」


 ぽつり、落とされた言葉が波状となって俺の胸に広がった。白狐さんは緩く笑んだ目元でこちらを見つめている。まるで母親のように、穏やかで柔和な表情だった。


「あの子は僕と暮らし始めてから、年の近い子と出会う機会がなかった。ましてや自分を異民族(フアン)扱いしない二人に会えて、すごく喜んでいたんですよ。皓輝くんと光ちゃんがここに留まると決まったとき」


「……」


「あの子には、もうそれほど長い時間は残されてはいません。少しの間でもいいから、一緒にいてあげてください。こんな世捨て人の暮らしでも、翔には出来るだけ楽しく生きていて欲しいのです」


 翔は今年で二十八になる。ネクロ・エグロにしては相当若い方だが、翔の壮絶な幼少期を知る白狐さんからして見れば充分に生きた方なのだという。


「翔は、あとどれくらい……?」


 口にするのも恐ろしい疑問だったが、訊かずにはいられなかった。白狐さんは曖昧に笑う。


「それは誰にも分かりません。第二時代のネクロ・エグロは、今で言う老いのような緩やかな死の指標がなかったようです。つまり、一見若く健康体のように見えて、いつスコノスに食い尽くされてもおかしくないのです。翔もそれをよく分かっています」


「……」


 俺はこの一月ほど、翔の背負っているものが何ひとつ見えていなかったのだと知る。気の利いた言い回しも浮かばず口の開閉を繰り返した俺は、やがて事実を受け止めようと俯いてみた。

 そして自分がこれだけ衝撃を受けたことにも驚いた。いつの間に、俺は翔に同情していたのだろう。それが何の役にも立たないと知りながら。


「一番覚悟が出来ていないのは僕なのですけれどね」と白狐さんは寂しそうに笑う。そんな顔をしないで欲しいと思った。彼は着物の袖を引き、手首を明かりに翳した。そこに巻かれた包帯が露わになる。


「僕の血液は、スコノスを遠ざける力があるそうです。これを使えば、翔の暴走状態をある程度鎮めることが可能です。しかし……これはきっと、ネクロ・エグロにとってはあまり自然な現象ではないのだと思います。この世の摂理を捻じ曲げているような、そういう禁忌の一種のように感じます」


 俺は瞬きをした。白狐さんが妙に推論で話すことが気になった。


「それは、白狐さんの体質みたいなものですか?」


 例えば、スコノスが宿主に影響を与えるような類のものを想定して訊いたつもりが、彼は肩を竦めるだけだった。何となく、他人と線を引く態度だった。


「他人の血液を投与するのは、例えほんの一滴でも危険な行為です。何度も使える手段じゃありません。短期間で繰り返せば、翔の身体に良からぬ変化を起こしてしまうでしょう。それは、短命の人生を生きるよりも遥かに恐ろしいことです」


「……」


 それはどういう意味ですか、と俺が訊くよりも先に白狐さんは続ける。


「正直僕は、あの子がここに来てから二十年も長生きしてくれるとは思ってもみませんでした。どんな形であれ、あの子には最期まで心置きなく笑っていて欲しいのです。だから……」


 せめて、残り少ない翔の人生に付き合ってやってあげてください。そんな風に言われれば、俺も頷くほかない。安心したように、白狐さんは卓上の酒器を片付け始めた。陶器が触れ合う微かな音がする。

 白狐さんは、何故この家に住んでいるんですか、とは訊けなかった。翔と出会う前から独り長遐で暮らしていた彼が、どのような経緯で世捨て人になったのか、きっとそれなりに憚られる事情があるのだと察せられた。多分それは、翔の過去と同じく好奇心で消費して良いものではないのだ。

 俺は素直に立ち上がった。格天井に俺の影が不気味に映っている。「おやすみなさい」とだけ言って俺は退室した。静かな物音が、夜更けの暗い廊下に吸い込まれて消えた。


 明日、翔に会ったら何を言えばいいのか。昨日までのように振る舞える自信がない。

 如何に、これは単なる同情か。俺には分からない。ただ何だか無性に、たくあんを丸かじりする愉快な翔が恋しくなった。


 早く翔が元気になればいいな。そしてまた、いつもの笑顔を見せてくれたらいい。

 暗い廊下の先を行く俺は、心の内でただそんなことを願う。廊下の半ばでため息を吐き出し、その先へ歩いて行った。


 しとしと、冷たい雨が降っている。




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