↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第七話 人型
32/96

Ⅴ

 

「兄貴、顔色悪いよ」


 光が気遣わしげに言ったのは、翌日の朝餉の後だった。食欲がなく、身体が重かった。俺はただ「うるさい」とだけ返した。この光に心配をされるのが今は何より腹が立つ。

 午前の間、白狐さんの点けてくれた長火鉢の傍で、俺はじっと動かなかった。昨日から続く小雨が、雨戸を撫でるように滑り落ちていく。室温は低いまま、一向に温まらない。袖の内側に仕舞った手を無意識にきつく握り締めていた俺も異変は感じていたが、動こうという気になれなかった。

 昼前になって、いよいよ身体の震えが止まらなくなって、白狐さんがやってきた。呼んだのは光である。俺は額や首を触られたり、脈を測られた。ひやりとした彼の手が、肌の上に透明な痕跡を残したように感じられた。


「風邪ですね」


 簡単な診断だった。白狐さんは慣れたように何かしらの薬を調合して飲ませ、俺を部屋の布団に寝かせた。


「昨日雨に当たりましたからね。ここしばらく疲れも溜まっているでしょうし、ゆっくり休んでください」


「……はい」


 自分の声とは思えない声が喉から出る。風邪を引くこと自体は何ら不思議なことではなかった。そもそも、と思う。別世界にやって来て、真っ当な健康状態で過ごせたこれまでの方が少し異常だったのだ。決して病弱という質ではないが、未知の環境に適応しようと肉体的にも精神的にもどこかで無理をしている自覚が何となくあった。

 熱で頭の芯がぼんやりとしていた。白狐さんが作ってくれた幾つかの磨り潰された生薬を練り混ぜた蜂蜜の、奇妙な甘さが口の中に残っている。独りになって気が緩んで、布団に入った途端に意識が朦朧とする。俺はすぐに眠りについた。

 それはごく浅い眠りだった。浅瀬でうつ伏せになって、力なく藻掻いているような感覚だった。夢の中で、俺は不愉快な記憶を断片的に反芻する。祖母の顔、掌を電撃が通り抜けた感触、倒れている翔、三光鳥の言葉、光の存在。息が苦しくて何度か目を開けたが、動けないまま再び眠りについた。


 次に目が覚めたとき、部屋の中は灰色の光に満たされていた。雨はまだ降っている。俺は苦労しながら上体を捻って、枕元にあった薄い紙で洟をかんだ。幾らか呼吸は楽になったが、頭がぼうっとして上手く考えられない。嫌な夢の質感が、部屋の陰影に残っているように思えた。俺の人生から決して消えることのない、宿命的な陰鬱さ。

 結局、どこにいようと何も変わらないのだ、と思う。

 自分の手を持ち上げて、天井に翳す。鱗のようになった手の甲が、淡い影に包まれる。貴様は人間ではない、と三光鳥は言った。得体の知れないエネルギーで翔を殺しかけたとき、俺はその言葉の意味をより実感を伴って理解した。しかし、ネクロ・エグロとかスコノスとか、それらが持つ力とか特性とか、正直に言ってしまえばどうでも良かった。本当にどうでも良かった。自分自身と事実を切り離し、俺はただ純粋に腹を立てていた。


「皓輝」


 そのとき部屋の外から名前を呼ばれ、思考から醒める。俺は返事を躊躇った。


「……かける?」


 名前を呼んだ声は思った以上にか細くなった。自分が幽霊にでもなったかのようだった。ややあって、引き戸を開けて翔が入って来た。何やら盆を手に持っている。俺と目が合うと歯を見せて笑って、布団のすぐ傍に腰を下ろした。温かな湯気が部屋の沈黙の固さを少し緩めた。


「気分はどう?」


「……」


 俺は言葉を探している自分自身に気付き、黙った。翔をじっと見る。着物の下に包帯は残っているようだが、血色は随分戻っている。何よりも、顔つきや目線や声色はいつもの調子で、普段の翔はこんな感じだったのだなと改めて思い出す。


「お前は、もう良さそうだな」


「今は皓輝の方が具合悪そうだぞ」


 あはは、と翔は軽快な笑い声を上げた。翔は俺に、何も背負わせたくないのだと思う。しかし、どれだけ時間が経ってもきっと昨日の傷跡はずっと残るだろう。俺が表情を曇らせたのを、翔は見逃さなかった。


「……怖くなった?」


 青い目が、じっと俺を見つめてくる。何が? と俺は目線で問い返す。


「俺の話は白狐さんから聞いたんだろ」


 少しの間、俺は黙った。何を言うべきか、言わないべきか逡巡し、静かに首を横に振る。髪の毛が枕に擦れる鈍い音がする。


「怖くはない……ただ、翔の背負っているものが何も見えていなかったんだな、とは思った」


 最後の方は掠れ声になった。それが風邪のせいなのか、感情の揺らぎのせいなのか自分でも分からなかった。

 翔はあっけらかんと笑って見せた。


「変な奴だな。自分は自殺してもいいのに、他人が死ぬのはそんなに悲しいのか」


 特に嫌味のつもりではないようだったが、俺の胸に鋭い何かが刺さる。別に俺は人命を蔑ろにしている訳じゃないよ、と口籠ると、そうか、と返された。


「まあ、俺はこの通り元気だから、気に病まなくてもいいよ」


 ひらひら振る手に昨晩の俺のスコノスを嫌でも思い出す。躊躇いがちに頷き、俺は布団に顔を埋めた。もう二度とあんなことはするまいと誓いながら。

「ほら、これ食べなよ。腹減っただろ」と翔が差し出してきた盆を、俺は覗き込もうとする。身体が重い。そこには広い口の椀と、小さな鍋のような調理器具、黒ずんだ艶のある薬味らしき小皿があった。


「魚のお粥です」


 白狐さんの口真似をした翔が、「はいどうぞ」と布団の上に行儀よく盆を置いた。

 確かに、白く煮えた粥の中に薄切りの白身魚が入っている。温かな湯気から生姜の匂いがした。薬味に見えたものは、豆鼓と小魚を刻んで発酵させた炒め物らしい。多分保存食なのだろう。

 一口食べてみてその味の濃さに慄いた俺だが、白粥と合わせると劇的に美味しかった。貝柱で取った出汁の優しい味に、磯の塩辛さが合う。後味が昆布っぽく、どこか懐かしさすらある。


「西方の海岸の漁民から譲ってもらったものだよ。魚が採れない時期のために作ってあるのを、いつも白狐さんが物々交換してもらっているんだ」


 へえ、と俺は相槌を打つ。長遐よりも更に西に住んでいる人がいることを聞いたのはこれが初めてだった。

 時々洟をすすりながら、俺は粥を食べる。身体が内側から温かくなってくる。


「美味しい?」


「ああ」


 ふふ、と一人で笑う翔が、何かを企んでいることに俺はようやく気付く。


「それ、光が作ったやつだよ」


「……」


 椀と蓮華をがちゃりと置くと、翔が苦笑いをした。悪びれない態度に、薄ら絶望的な気持ちにさえなる。翔を睨みつける俺が実際どこまで正直な表情をしているのか、自分では分からない。


「どうして、俺が嫌がると分かって食べさせたんだ」


「嫌がらせなんかじゃない。風邪を引いたお前を心配して光が一生懸命作ったのに」


「……」


「お前ら、家族なのに仲悪すぎじゃない?」


 両手を上げる翔に、俺は顔を背けて洟をすすった。

 家族だから。そんなもの、仲良くする理由にはならない。むしろ家族だから、兄妹だからこんなに仲が拗れるのだと。きっと翔に言っても分からないだろう。


「いつか言いたいことも言えなくなっちゃうような日が来るかもしれないだろ」


 翔が言えば十分すぎるほどの重さを持つその言葉は、俺にとって的外れな気がした。そんな日が来ることを俺は誰よりも望んでいる。そんなことを、翔に言える勇気はなかったが。


「……他人には分からない事情があるんだ」


 ほっといてくれ。それだけ口にするとあっさり翔は引き下がった。仕方なく、俺は椀に残った粥を食べた。大分冷めてしまったが、食べ物に罪がないのは事実である。

 食べ終わり、俺は何度かお茶を飲んで、ようやく落ち着いて横になった。体が温まって、少し軽くなっていた。


「薬を作ってきてもらうよ」


 翔が食器を片付けるために立ち去ると、部屋は急にしんとした。俺は横向きになり、半分目を開いたり閉じたりしながら待った。静けさが重みを帯びて、空気の中をゆっくり滞留していた。

 ほどなくして、廊下に人が歩いて来る気配を感じた。顔を向けると同時に戸が引かれる。俺は酷く無防備に、そこに立っていた自分の妹と視線がぶつかった。


 どうしてお前が来るんだよ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。