Ⅲ
お休みを言って廊下への襖に手を掛けた俺を翔は呼び止めた。「なあ」と。
「お前には俺のことを知って欲しくないと思っていたよ」
その眼差しは、穏やかで、凪いだ海のようだった。俺は布団に埋められたその口元が動くのを待つ。
「でも今は、知ってくれた方がいいんじゃないかと思うようになった。きっと、その方がお前の役に立つよ。上手くは言えないけど、お前には、俺みたいになって欲しくないし」
思わぬ優しげな声音に戸惑った。
「俺のことをもっと知りたいなら、白狐さんに聞いた方がいい。きっと話してくれる」
「……分かった」
俺は頷いた。何故だか、翔は自分のことを俺に知ってもらいたがっている、という部分は理解した。同時にそれは、翔の口から直接語るには憚るような何かがある、ということも。
居間を覗きに行くと、長い脚を伸ばした白狐さんが寝椅子をひとつ占領していた。光の姿は見えない。
世捨て人の主は、無造作な振る舞いをしていてもそれが粋に見える。今日はもう店仕舞いだと言わんばかりの寛いだ彼は、空っぽの酒器を唇に付けたままぼんやりしていた。ゆらゆら油の上で揺れる明かりが幾分か血色を取り戻した色白の肌を舐めている。
彼が唇に傾けている酒器は、飾り気のない白磁である。薄暗い部屋にいる彼が、風景というより一幅の絵のように見えて、ほんの一瞬思考が止まった。声を掛けるのを躊躇われた俺は、襖に手を掛けたまま立ち尽くす。
「……皓輝くん。翔は目を覚ましましたか?」
「はい……」
俺が声を掛けるよりも早く白狐さんの首がこちらに向いた。柔らかい微笑み。一見するとその顔の色は普段と大差ないように見えたが、酔眸は心持ち浮ついて見えた。
「皓輝くんも如何です?」
酒器を軽く持ち上げて見せた白狐さんの誘いを断り、俺は落ち着きなく火鉢の隣に腰を下ろす。
尽きかけの煤けた炭と冷酒の薄い香りが漂っていた。黙って瓶から杯に澄んだ液を注ぐ世捨て人の主。俺は、灰から火掻きを抜いて意味もなく炭を突いていた。
「あの子の様子はどうでしたか」
「まだ、調子が優れないようでした。でも怪我の方はもう大分良さそうです」
「そうですか……」
そう言って酒器を一息に呷る。熟れた飲み方だった。白い喉が酒を飲み下すのを、俺は手持ち無沙汰な心地で眺めた。彼が時々一人酒をしているのは知っていたが、こうして見ると結構飲める方なのだと実感する。
卓に肘についた俺は淡い火に当たりながらぼうっとする。霧雨の囁く声が密やかに雨戸越しに聞こえた。
「統一戦争があった頃、スコノスはもっと凶暴だったって本当ですか」
思い切って、俺は訊いてみる。口から離すのを忘れたよう、また酒器を唇に押し当てている白狐さんは、ゆっくりと指先で支える酒器を下ろした。
「はい、そう伝えられています。月天子が孑宸皇国を建て、単独統治を始めた第二時代──ネクロ・エグロは今よりも遥かに危険で血の気が多く、あちこちで争いが絶えなかったと言われています。対外的な統一戦争は勿論、ひとつの国として纏まり切っていなかった皇国内でも」
「そうなんですね」
「今は、平和な時代です──僕のような月辰族にとっては」
片方しかない目が、酒器の底をじっと見ていた。そこに何か違う光景を映しているように。いつも穏やかな彼が、歴史の勝者であることに自覚的なのが俺には意外だったが、翔と二十年近くこの家で暮らしていれば当然かもしれない。
「翔のような異民族の血を引くネクロ・エグロは、本来の性質のスコノスを持って生まれる者も多いと聞きました」
俺がそう言うと、白狐さんはじっとこちらを見つめた。俺はちょっと自信を欠いた声で続ける。
「翔は……自分の身に何が起こったのか、白狐さんなら話してくれると言っていました。きっと俺の役に立つ、とも」
「あの子の生い立ちを知りたいですか?」
訊ねられ、俺はぎこちなく頷く。
「翔に、お前には俺みたいになって欲しくないと言われたんです。それが何を意味するのかはっきりとは分からないんですが、多分、俺がスコノスの力を持て余していることを危惧したんだと思います」
俺はまだ自分の中にいるであろうスコノスの存在を感じ取れない。その上、今日のように突発的に発生させるには、スコノスの力は危険すぎる。今日の翔と対峙した一連の流れを思えば、スコノスを制御化に置けていなかったのは俺も同じである。俺は翔のあの物言いを、そう解釈した。
「なるほど」と白狐さんが頷いた。手の中で酒器をゆっくり回す。手首から包帯がちらりと覗いた。
「人型スコノスはあまりに強すぎて、宿主の制御下に置き切れない、と言いましたよね。実際、僕も翔以外の人型スコノスを視たことがないほど現代では稀少な存在なのですが……翔のスコノスがあれほど嗜虐的であるのは別の理由もあるのだと思います」
白狐さんの言葉は、か細い歌でも口ずさむようだった。
「別の理由、とは?」
「翔は、自身のスコノスの存在を拒んでいます。本来であれば表裏一体であるはずの己の影を、翔は長い間蔑ろにし続けています。結果として、翔のスコノスは翔を憎み、宿主を残虐に苦しめることに悦びを見出しているのです」
「スコノスが──宿主を憎む?」
俺の反復に頷き、器に残った酒の滴を揺らしては唇を舐めた。酔った白狐さんは気味が悪いほど色気があった。
「皓輝くんにはまだぴんとこないかもしれませんが、ネクロ・エグロにとってスコノスは、生まれてから死ぬまでずっと一緒にいる人生の伴侶なのです。その精神的な繋がりは、ネクロ・エグロ同士の関係を遥かに凌駕します。スコノスは宿主の命令だけを聞き、宿主に与えられた名前を大切にし、宿主を守るという強い本能に従って行動します。──翔のように、スコノスとの関係が歪む例は滅多にありません」
「何が、あったんですか」
その先を聞くのは怖かったが、訊かずにはいられなかった。静けさに泥む白狐さんの瞳は、ここではないどこかを見つめている。
「翔の故郷が滅んだのです。翔がまだ九歳だった頃に」
***
今から二十年前。人気のない亢州の郊外で行き倒れていた幼い翔を、たまたま白狐さんが見つけた。それが二人の出会いだった。土砂降りの中、翔はぼろぼろの身なりで正気を失っていた。
「そのとき、僕は長遐で一人暮らしていました。翔を見つけたのはほんの偶然です。山を下りたとき、何かに呼ばれたような気がしていつもと違う道に行ったんです。恐らく翔のスコノスが助けを求めていたのだと思います。翔の姿を見て、一目で異民族の血を引いていると分かりました」
それで、長遐のこの家に運び込んだのだという。会話が出来る精神状態でもなく、周囲の様子から何があったのか推察することはほとんど出来なかった。
ほどなくして、夕省中にある噂が広まった。異民族の集落で、何者かによる殲滅が起こったらしい、と。
それは、異なる見た目から皇国に馴染めなくなった混血の異民族が集まって暮らしている山間の集落だった。彼らの多くは異民族式の生活を捨てていた。朝廷の方針で、かつての狩猟採集の生活を禁じられ、月辰族らしい農耕生活を強いられた異民族のそういった集落は、辺境の夕省ではそれほど珍しくない。
突如として、そんな集落が丸々ひとつ滅んだ。話によれば、小さな木造の家々が集まるだけの集落の中は惨憺たる有様だったという。生存者はおらず、誰も彼もが殺害され、人々の死体が折り重なっていた。
そして調査のため衛士を派遣した朝廷は、集落の存在をなかったことにした。地図上から静かに抹消し、そこで暮らしていた異民族の戸籍は闇に葬られた。周辺の住民には箝口令が敷かれ、集落は皇国の記録から完全に消された。
「何故そんなことを……?」
「朝廷にとって都合の悪いことが起こっていたのです。だから集落そのものを消した」
ひとつ息を吐いて、白狐さんが言葉を継いだ。俺に向かって、というより、酒器に言っているようだった。
「奴隷商人の異民族狩り、だったそうです」
それは文字通りの意味である。人身売買を生業とする奴隷商人が、異民族を標的とした奴隷狩り。武装集団が徒党を組んで辺境の集落を襲撃し、被差別民である異民族を奴隷として連行する。
統一戦争が終結してから既に七百年、当時は捕虜や奴隷だった大勢の異民族も、今では帰化という形ながら、皇国民として認められるようになっている。
反面、奴隷として扱われた歴史の長さゆえに、元異民族への差別や偏見は未だに根強い。昔から、彼ら特有の優れた容姿や伝統的な芸は、金持ちを喜ばせるものとして人気がある。それも飽くまで蛮族としての扱いで、異質な文化を持つ人間を見世物にしているに過ぎない。
そんな古来より続く差別意識が、この異民族狩りを助長させている。特に翔の故郷のように、同じ異民族の血縁が固まって暮らしている地域では、集落が丸ごと襲撃されることもある。
「朝廷からしてみれば、ちょっとした人身御供のようなものなのです」
ぞっとする話だった。この国は多くの場面で、奴隷身分に労働力を依存している。朝廷は表向き武力による奴隷狩りを法で取り締まっているが、水面下では奴隷商人との根深い癒着があるのだ。月辰族が奴隷狩りの被害に遭うより、帰化人や異民族を差し出した方が遥かに都合が良い。
この国の異民族は未だに被差別民として蔑まれ、血統だけを理由に狩りの対象となる恐怖と、何かあれば朝廷に切り捨てられる不条理さも抱えている。
「では翔の故郷の人々は、今は奴隷に……?」
「そうだったら、まだ良かったんですけど」
空になった器を置いて新しく酒を注ぐ。その鮮やかな手元をじっと見る俺。とくとくという音が静寂を震わせた。
彼の目線は宙の一点に浮いている。意味有りげな希望形の意味を図ろうと俺も顔を上げた。
「哀れ、奴隷商人たちは、集落に住む人々を誰一人として連れ去ることが出来ませんでした」
「何故ですか?」
「集落の中で見つかった死体は、ひとり残らず同一のスコノスに殺害されていました。全く同じ瞬間、似たような傷痕──恐らく奴隷商人の襲撃に対抗しようとした一体のネクロ・エグロが、スコノスの力を暴走させたのではないかというのが当時の見解だったようです」
俺は言葉を失う他なかった。やっと出てきた声は、掠れていた。
「まさか、翔が──」
白狐さんは唇を結んでいる。酒器の中の透明な揺らぎが反射する、押し黙った表情が全てだった。
「そんなことが出来るのは、人型スコノスだけです。集落の範囲にいた者全てを、一瞬で殺害するなどという、並外れたことが出来るのは」
俺も口を閉ざす。その日、何が起こったのか想像してみる。九歳だった翔も、今日の俺のように何の自覚もなく反射的にスコノスの力を使ったのかもしれない。
敵も味方もなく打ち捨てられた死体の山の中に幾つか見知った顔があったのを、子どもだった翔はどんな気持ちで眺めたのだろう。自分が手に掛けたと即座に理解出来たのだろうか。その胸の内がどんな色に染またかは想像に難くない。
そこにはただ絶望だけがあった。




