Ⅱ
朝から降り続いた雨は大分小降りになったようだ。壁越しに聞こえる水音はしとしと穏やかで、じっと耳を傾けていると眠気すら誘われる。
味気のない夕餉の後、俺は一人で翔の自室を訪れていた。
「……」
昼間の暴走を経た翔の身体は、見た目以上に傷ついていると白狐さんは言っていた。
運び込まれてすぐ白狐さんの治癒を受けたらしい翔は今も目を覚ますことなく、泥のように眠り続けている。
所々にある細かな跡。大きな傷と言えば咄嗟に拳で殴りつけた左踝の骨だ。開いてしまった昨晩の傷もあったはず。そして何よりも──恐らく俺の手を通じて放たれた、雷と思しき瞬間的な力による腕からの感電。布団の中に隠れた患部を見るのが恐ろしいと思えるほど、俺の頭は冷静さを取り戻していた。
冷えた畳に直接座り、幾度目か分からないため息を吐く。翔の部屋は程よく散らかって、そこかしこに翔の人生が散らばっているように思えた。白地に若草の描かれた布団、使い込まれた文机に散乱する筆や硯、そして入りきらないのか所々剥がれかけた背表紙の飛び出た本棚。
俺はそのこぢんまりとした部屋に思いを馳せる。確かに存在する翔の生活の連続性は、そこにあるかもしれない不本意さを加味すると物悲しかった。翔は何年も、人目を忍び、世捨て人としてここで生きていたのだ。何となく部屋全体がぬか臭く感じるのは気のせいではないだろう。俺は視線を落とした。
翔はまだ目覚めない。
一連の騒ぎで落ち着きをなくす俺を、白狐さんは「夜になれば大丈夫ですよ」と意味ありげに言い聞かせていた。夜になれば何があるのだというのだろう。翔の容態がどうなるか心配で、つい足を向けてしまった。
枕に頭を預け、翔は寝息に胸を上下させている。静かだ。少なくとも苦しげではない。それが少しだけ俺を安心させる。
昼間散々好き放題に暴れたスコノスは鳴りを潜めている。人の姿をしているという、翔のスコノスは。
聞くところによれば、本来獣や鳥──すなわち宿主の本性を最もよく体現した“獣性”──の姿をとるスコノスは、ごく稀に“人のかたち”を持って生まれるのだという。「進化」という表現を使って良いのなら、それは確かに進化だ。
翔のスコノスもそうやって進化を遂げた種なのだという。“人”という特殊な姿をとったことで、あらゆる意味で人に近くなる霊。支配される立場のスコノスが、逆に宿主を支配してしまうことさえある。
ぽつぽつ説明してくれた白狐さんの陰鬱そうな表情を思い出す。
突然変異的に人のかたちを得ることで、スコノスは単なる獣性の体現を越えた、ひとつの人格になる。スコノスが変化する条件を、白狐さんは話したがらなかった。濁した彼の語尾がその先の話が決して楽しいものではないことを匂わせていた。
俺も敢えて効こうとは思わなかった。もし翔が目覚めて会話が出来る状態だったら、まずどうやって謝ろうということばかり考えていた。
一歩間違えれば、翔を殺していたのかもしれないのだ。想像すると胃の底が冷たくなる。
俺は未だに、自分がどういう理屈で、どういう順序であの力を使ったのか理解出来ていなかった。あのときのことを反芻すると、雷が落ちた瞬間に身体中を駆け巡った何かの痕跡が、まだ血管を疼かせているように思えた。
あれが俺のスコノスの力なのか。
ゆらゆらと揺れるたったひとつの竹製の灯火が、翔の眠りを妨げないよう布団の足下に置かれている。俺の影も、幽霊のように揺れていた。
そうしてどれ程経ったか、そろそろ部屋に戻った方が良いかと考え始めたところで布団の中で翔が身じろぎした。若草模様の掛け布団がもぞもぞ動く。
目が覚めたのだろうか。じっと視線を注いでいると、気配に気付いたのか目蓋の中から見慣れた目が覗いた。
「……?」
誰だろう。まるで初めて見たような顔をされ、一瞬身構える。
「こ、き……?」
「ああ、そうだよ」
焦点の合わない翔の両目。もしや光が足りないのか、と俺は行灯を枕元に置いてやる。眩しそうに目を細め、ようやく翔は俺の顔を見てくれた。
半ば口を開き、何か言いたいのに言えない。そんな表情の翔を俺は黙って見つめる。俺自身も、何と言っていいのか分からなかった。
「いま、いつ……?」
「夜だよ。夕餉の終わった頃」
腕時計を一瞥して答えた。やがて翔ははあという大きなため息をつく。そして行灯の火を反射する前髪の上で両手を組んだ。
「大丈夫か?」
「大丈夫、だよ」
目元を覆う翔の声は案外平気そうで。俺はその身体に厚く巻かれた包帯を横目でちらちら気にかける。
俺のスコノスを通じ、翔の身体にどれほどの強さの電流が走ったのか全く見当もつかなかった。俺の不安を見越すよう、翔は体勢を変えず口を開く。
「あの程度じゃ死なないよ」
俺は何と言ってよいか分からない。思った以上に翔の意識がはっきりしていることに、静かに動揺した。「痛くないのか?」と俺が訊ねると、「痛いは痛いけど」と返ってくるので余計に慌てる。
翔は不自由そうに首の位置を変え、ため息のような欠伸をする。屋根にぶつかる雨粒の固い音がよく響いた。翔はふっと、心持ち視線を伏せる。
「ごめん」
「……」
何についての謝罪か、翔は言わなかった。俺は首を振る。謝らなければならないのは俺の方だ。
確かに、土砂降りの中襲い掛かってきた昼間の姿は憎悪と狂気に塗れて恐ろしかったが、あれが翔の本意ではないことを俺は知っている。翔の目の奥が翳る。
「俺のスコノス、見た?」
「いや──はっきりとは。でもお前の身体を乗っ取っているところなら、見た」
昨夜俺の足首を掴んだ女らしきもののことは、何故だか口に上らせる気になれなかった。俺の答えに、翔は口元を緩めた。己の行動を恥じるような苦笑だった。
「スコノスってこんな存在なんだ、って皓輝に思われたくなかったな」
その言葉が、胸に重くのし掛かる。何故だか、翔にそんな自虐的な物言いをしてほしくなかった。
「翔も、俺がネクロ・エグロだって気づいていたのか」
少し間を置いて、翔が目線だけで頷く。
「ずっとスコノスの気配を感じていた。というより、光と比べて明らかに俺たちに近しい感じがしたから」
大きく息を吐く。空気の揺らぎが、思考が四隅の陰に吸い込まれてゆく。翔が掛け布団の下で身動ぎする僅かな衣擦れの音だけが響いた。しんと静まり返って、暗闇が迫ってくるようだった。
「……スコノスはさ、戦争があると強くなるんだって」
おもむろに口を開いた翔は、瞼を閉じていた。その顔は明かりに淡く照らされている。
「月辰族が地方の異民族を制圧した統一戦争から、もう七百年経った。戦乱が遠のくにつれ、代替わりしたネクロ・エグロとスコノスたちは少しずつ穏やかな性質になっている。皇国の街中を歩いていても、血生臭い思いをすることは少ない」
そこで翔は一度言葉を区切った。
「でも、異民族は違う」
目元を覆った翔が、ゆっくりと手を避ける。青い目がそこにある。月辰族には決して馴染まない、異質な遺伝子がそこにある。
「異民族の多くのスコノスは、統一戦争期と変わらず依然として凶暴なままだ。俺は人型のスコノスを持って生まれたときに言われた。異民族にとってまだ戦争は終わっていないんだって」
「……」
翔の先祖は東方で暮らしていたと言っていた。戦争によって移住を余儀なくされ、大陸の西の端まで流れ着いた。そして統一──異なる民族による支配、同化。そこにどれだけの不本意さがあったか、俺には知り得ない。
「俺は異民族と月辰族が混血したネクロ・エグロの集落で生まれた」
翔は、ゆっくりと語った。
「混血した異民族は、皇国の法律で三代経れば帰化人として普通の皇国民と同じ扱いを受けることになっている。俺も戸籍上は皇国民だったんだよ。でも、実際に同じ扱いを受けたことなんてない。そうやって皇国の共同体に上手く馴染めず、異民族同士で集まってひっそり暮らしていた集落だった」
先日の翔の言葉を思い出す。「今は皇国民と変わりないよ」と自分のことを語った翔のどこか無理した態度を、今ならはっきり感じ取れる。
悲しい話だった。統一戦争を起こした月辰族が平和な時代を享受する傍らで、被支配民となった異民族は未だに戦争の不条理を忘れられないでいる。
「……異民族だとか月辰族だとか、俺にはどうでもいいんだけどな」
ぽつり、と溢したきり、翔は口を閉ざしてしまった。初めて翔の本心のようなものに触れた気がした。そうか、と俺は頷く。それ以外にいい相槌が思いつかない。翔の中で、理不尽な現実への怒りは擦り切れてしまっているように見えた。混血したネクロ・エグロの故郷で何が起こったのか、翔は語らない。
やがて時間を置いて、こちらを向いた翔は幾らか笑っていた。
「今の俺は世捨て人だから。もう、それでいいんだ」
そうだな。俺も心から思う。世捨て人という自称は、翔が口にすると誇り高く聞こえた。それでいいのだと思った。異民族でも月辰族でもない、どこにも属さない者。翔はきっとこのこぢんまりした部屋に、長遐の山に居場所を見出したのだ。




