Ⅳ
ぴたりと泡まみれの俺の手が止まった。
不穏なものが胸をざわめかせる。一晩経って忘れかけていた不吉の影が、再び舞い戻ってきたかのようだった。翔がいなくなった、とは、どういうことなのだろう。
手を洗って入口の方に行ってみると、そこには顔を曇らせた白狐さんが光と話していた。
「外に行ったの?」
「ええ、窓が開いていました」
「窓から、この雨の中へ……?」
率直な疑問を口にした光に、白狐さんは曖昧な声を出す。そして聞き耳を立てていた俺の存在に気が付いて、少し口籠ってから言葉を続けた。
「何のために外へ行ってしまったのかが問題です」
俺と光は恐らく同時に、白狐さんが俺たちに理解しようのない何かを恐れていることに勘付いた。しかし、それを訊く余地はないように思った。
「とにかく探しに行った方がいいですね。僕も行きますが、皓輝くんも頼めますか? 手分けして探しましょう」
「はい……」
白狐さんは心配そうに俺の顔を覗き込んだ。その雰囲気に圧されて咄嗟に頷く。
この胸騒ぎは何だろう。何かが起こりそうな予感に俺の鱗の肌が粟立った。仲間外れにされたと思ったらしい光は「あたしは?」と納得いかなそうに白狐さんに訴えているが、きっと光は来ない方がいい。間違いなく、危険なことが起こる。
何とか笑顔で光を宥め遠ざけた白狐さんは、俺と連れ立って玄関までやって来た。そしてその端正な顔をそっと俺の耳元に寄せて囁く。
「すみません。面倒なことをお願いしてしまって」
「え、いえ。翔を探すんですよね。それくらいなら」
そのくらいで済めばいいんですけど、なんて俺の言葉を遮った白狐さんがため息混じりに呟いた。
「いかんせん昼間の僕は無能でして……陽が翳っているから今日はまだいいかもしれませんが、水の気が多いと痕跡を辿りにくいのです。翔を探すのは大変だと思います。この苔森の外に出ていたらまずいですし、その」
この人は先程から。明らかにおかしい。普段の落ち着いた様子とは違ったその話し方に胸騒ぎがひどくなる。
真意を推し量るよう見つめれば、観念したように白狐さんがその眼差しを伏せた。
「翔は恐らく、自分の意思で外に出たのではないのだと思います」
「夢遊病か何かですか?」
「それならまだ良かったんですけど」
薄い肩を竦めた白狐さんは眉を下げて微笑んだ。それが本心から出ているものではないことは一目で分かる。乾いた笑みはすぐに掻き消え、諦めたような色だけが残った。
「……スコノスに体を乗っ取られてしまったのだと思います」
乗っ取られた、という言葉を心の中で反芻しながら俺は口を動かす。それは、と。きっととてもまずいことなんでしょうね?
白狐さんは薄い唇を苦々しげに歪めていた。俺の胸にあった不穏な胸騒ぎがだんだん明確な形を帯びてくる。獣性が宿主の心身を乗っ取る。それは恐らく、昨夜の翔のような──。
しかし、それ以上の疑問を口にする暇はなかった。突然カメラのフラッシュにも似た鋭い光が飛び込んできて、一瞬だけ玄関の間を真っ白に覆う。
水晶体の奥まで突き刺さった白光、俺の背に何かが駆け上がった。一拍置いて空の彼方から獣の咆哮のような雷鳴が轟く。
俺はぴたりと動きを止めた。ごろごろ苦しそうに唸る低音。家まで揺らすような悪天候に白狐さんが眉を寄せて呟いた。
「これは早く探しに行った方が良さそうですね」
「……」
「皓輝くん?」
そっと名前を呼ばれ俺は我に返る。叩きつけるような雨の音が戻ってきて、目の前には白狐さんが立っていた。俺は黙って雨風の吹き荒れる外に目を向ける。
何だろう、これは。ずぶり泥沼に沈むよう、意識が奥底に呑み込まれる。同時に全身の感覚が鋭くなる。今までに感じたことのない衝動だった。
血ではないものが全身の血管を巡っている。どくん、とひとりでに心臓の鼓動が早まって、俺は土間に並べてあったスニーカ―に足を突っ込んだ。踏まれすぎて柔らかくなった踵を辛うじて直し、戸口へ向かう。
「ちょ、ちょっと待ってください、皓輝くん……!」
戸惑ったような白狐さんの声に引き止められ、振り返ると竹の雨傘を手渡される。
「もし翔を見つけても、それが“翔じゃない”と思ったらすぐに逃げてくださいね。でないとその場で殺されてしまいますよ」
白狐さんはじっと俺の目を見て言い聞かせた。その真剣な警告に辛うじてこくりと頷く。
しかし、実際にその大切な言葉が俺の心に届くことはなかった。体の奥底から抗い難い衝動が湧き上がってきて、早く、早く、と急く心が俺の正常な思考能力を奪っていく。
もう振り返るまい。白狐さんの心配する声を振り切り、俺は引き戸に手を掛け走り出した。
何故、どうして、己はこんなに急き立てられているのか。そんな迷いにも似た思考は、外に満ちる水の気を吸い込んだ途端たちまちの内に掻き消えた。
今は疑問すら鬱陶しい。早く行かなければ。使命感にも似た思いが俺を突き動かす。
家の外は天の盥を引っ繰り返したような土砂降りで、吹き荒れる風が髪を弄った。辺りの木という木の葉は絶え間なく雨粒を弾き、鬱蒼とした森の中はいつになく騒々しい。雨水を含んだ苔が鮮やかな深緑に染まっている。
俺は渡された傘も差さずに投げ捨てた。あっという間に髪も服もずぶ濡れになったが、構うものか。
暴雨の中ひとつの方角目指して疾走する俺の影を、唐突に閃いた稲妻の光が照らし出す。暗雲の中で轟く雷音を聞いていると、勝手に気分が高揚した。五感がぴんと研ぎ澄まされている。
今なら見えないものも視える気がした。
自分が何も考えずに飛び出してしまったことに今更驚く。スコノスに乗っ取られたとかいう翔に対する心配や不安、そういったあるべき感情は遠く追いやられ、俺の胸にあったのはただわくわくと期待に弾む楽しさだった。
水飛沫を跳ね飛ばし、雨に打たれる林の隙間を抜ける。まるで翔に繋げられた糸に引っ張られるよう、俺は迷わず一直線に駆けた。
あと少し。顔を流れる雨水を拭い、じっと先に目を凝らす。しっとり濡れた翠緑の藪中、もう見慣れた背中が見えた。
「……翔」
息を切らし、俺は裸足でうずくまっているその人影に近寄る。雨の中藪を掻き分けた先に横たわる翔も当然ずぶ濡れで、脇腹から斑模様の血が滲んでいた。
昨晩の傷が開いたのだろう。俺は黙って翔の元に歩み寄る。身動き一つしないその背中に手を伸ばすと、寝起きの子どものような呻きが聞こえた。薄く開かれた青い目と目が合う。
「大丈夫か?」
「皓輝……?」
「そうだよ」
「……お腹減った……」
ふわふわしたやり取りの後、拍子抜けするようなその答えに俺は胸を撫で下ろした。心ここにあらずといったような翔だが、ただ寝ぼけているだけのようだ。
「帰ろう」と眠そうに目をこする翔を立ち上がらせようとする。しかし翔はいやいやと幼児じみた仕草で首を左右に振った。
「どうした?」
「……」
何も言わない。酷さを増す雨風が俺たちの周囲を吹き荒れる。俯いているその顔を覗き込もうとした途端、俺の体ががくんと沈んだ。突然の接近に驚いて後ろに引こうとしたが、翔の腕がそれを許さなかった。痛みを感じるほど強く首を掴まれ、一気に気管が締め上げられる。
翔じゃない。的確に急所の喉を狙ったその手が、昨夜俺の足首を掴んだものと同じだとそのとき俺は気付いた。




