Ⅱ
「──スコノスがあんなにも危険な衝動を備えているのは、戦うためですか?」
俺はやっと、疑問を口にした。あの死闘のことは出来るだけ思い出したくないという意識が働いていた。瞼に焼き付いている翔の姿を一刻も早く消したい、と。
例えるならそれは、まるで他人の見てはいけないものを覗き見てしまったような、不謹慎な何かへの忌避感に近かった。
「そう伝えられています。数ある仮説に過ぎませんが、戦乱に明け暮れる世に、突然天からスコノスが降った、と。争いをやめない人類への罰だとか、戦に勝利するための天帝の加護だとか、云々。どれが真実かは知りませんけど」
白狐さんは腕を組んで目を瞑る。行灯の明かりが舐めるような動きでと前髪の影を揺らしていた。
「獣性とは、すなわち破壊の快楽です。人は誰しも命あるものを慈しむ心を持ちながら、その裏で犯して殺めることを渇望するのです。意識しているかはともかく、多かれ少なかれ、人にはそういった衝動があります。それを体現したのがスコノスなんです」
フロイトの精神分析論に近い発想だな、と俺は相槌を打つ。彼らが重んじる天学という学問には、ネクロ・エグロという生き物の性質を捉えた文脈があるのだろう。
そして改めてあのときの翔の姿を浮かべ、身震いした。やはり、あれは気のせいではなく、明確な人格の豹変だったのだ。
白狐さんは腕を組む。
「難しいのです。獣性というのは厄介な性質ですが、一概に悪と言えるものでも、ましてや排除していいものでもありません。同時に理性は善ではありません。どちらかに均衡が傾くことが、我々にとって最も危険なのです」
そうして悩む姿を見ていると、俺は徐々に不安になってくる。目を醒ましたとき、翔は本当に俺の知っている翔だろうか。
スコノスという精霊は、俺が思っているよりも遙かに宿主の精神面と密接な繋がりを持っているようだった。もしそれが仮に人間の破壊衝動を具現化した存在だとしても、翔が奴隷狩りと対峙したときのよう些細なきっかけで露呈するというのは、あまりに危ういのではないか。
「ああ、どうか勘違いしないで下さい」
俺の心情を察知したよう、世捨て人の主がようやく微笑みを取り戻した。「全てのスコノスが戦狂いな訳ではないのです」
「というと?」
「程度には必ず差異があります。生まれつきスコノスが強い人もいれば、弱い人もいるでしょう。翔はたまたま前者だっただけです」そう、と彼はどこか自分に言い聞かせているようだった。「たまたま、最悪だっただけです」
「……」
俺は何と応えて良いか分からない。翔に対してどんな感情を抱くべきか、同情か、恐怖か、或いは哀れみか。少なくとも、翔のスコノスがどんなものなのか訊きたがるこの好奇心だけは、今は相応しくないだろうと分かった。
「すみません。疲れているのに難しい話をしてしまって」
彼は申し訳なさそうに柳眉を下げる。俺を気遣っているようにも、これ以上の会話を避けたがっているようにも見えた。
そうして、白狐さんはまだ治療をしたいからと翔の枕元に残った。皓輝くんは何かお腹に入れた方がいいです、と追い払われた俺は大人しく退室し、薄暗い廊下を通って厨房へと向かう。
脳裏にはぐるぐると聞いたばかりの言葉が巡っていた。理性と獣性のバランスが崩れたという翔のことが気掛かりだった。
翔は一体どうなってしまうのだろう。
考え事をしている内に、途中すれ違った光とぶつかりそうになり、思わず俺は舌打ちをした。人形のような茶色い目がむっとしたように見上げてくる。
「兄貴、着替えた方がいいよ。泥だらけだし」
「余計なお世話だ」
その小柄な体の横をすり抜けて厨房へ向かう俺の耳に、「こらこら喧嘩しちゃ駄目ですよ」なんて窘める白狐さんの声が届いた。思ったよりも大声で言い返してしまったらしい。返事の代わりに大きなため息が出る。
居間に隣接した厨は、暗い。それほど広くない一室には古びた調理道具が整然と並び、空気はほんのりと暖かかった。俺は明かりを床に置く。
普段世捨て人の主が煮炊きをするこの調理場は、ガスも電気も水道もない。代わりにあるのはそう、土間敷きに据えられた素焼きの竈戸、井戸水を使う盥。壁際には薪が積み上げられ、天井には鍋とともに干物や薬草が釣り下がっている。
火の消えた竈戸の口には鉄鍋が据えられており、中にはこの地方ではよく見かけるという豆鼓炒めが入っている。白狐さんが夕餉に作っておいてくれたものだ。
別の鍋には乾燥昆布の汁物があった。蓋を開ければ、湯気とともに出汁のいい香りが漂う。温め直す必要はなさそうだった。そのまま木椀に盛る。
天井から釣り下がっていた白飯の笊を下ろし、皿を用意し、俺はその場で夜食にありつくことにする。疲労のあまり空腹も忘れていたらしい。時間が経ってやや油っこくなった豆鼓炒めを一口運べば、思い出したかのように猛然と食欲が湧き出てくる。
青菜や生姜と油炒めにされた豆鼓は独特の塩辛さがあり、それがまた胃を刺激した。無言で白米を貪り、汁物を啜る。汁はほんの少し煮込まれた豚の赤身がいい味を出し、さっぱりとした風味だ。身体が温まる。
ただ目の前の飯を一心に口に運んでいた俺は失念していた。いや、考えなかったという方が正しい。何故、俺の分の食事が温められていたのか。
──例えばそれは俺が来るタイミングに合わせて妹が鍋に火に掛けておいたのだとか、そういった発想が決定的に欠落していたのである。先程光が正面からやって来た理由を少し考えれば少しは分かりそうではあったのだが。
腹を満たすことだけを考えた夜食をあっという間に平らげ、空になった食器を片付けた俺は、徐々に睡魔に襲われた。腹が一杯になり、安堵したのだろう。そろそろ休んだ方がいいかもしれない。
二、三度欠伸を繰り返し、ずるずると這い出るよう居間に向かう。雨戸の閉められた陰気な部屋の中、手元にと灯した行灯の明かりが滲んで見えた。
誰もいない広い居間はしんと静まり返っている。油の上で小さな火が震える音が聞こえる程に、静かだ。
「皓輝くん」
思わずはっと声が出た。驚いたというより、ひやりとしたと言った方が正しい。不意に仄暗い居間に現れた白狐さんは、その肌の白さや面立ちの細さから、幽霊と見紛う儚さを纏っていた。
「翔は……」思わず反射的にそう口をついたのは、彼の表情から何となく嫌なものを感じ取ったためだ。
「もう、大丈夫です」
それはどことなく、希望的観測の混じった響きだった。大丈夫だといいんですけど。そんな彼の心の声が聞こえるようだ。
「様子見をします」白狐さんは居住まいを正す。「確かに随分スコノスの気配が強まっているようですが、それがどの程度のものなのか正直僕には分かりません。明日にはけろっとしているかも」
そうだといいですね。俺は心から同意する。世捨て人の主はややまつ毛を伏せた。感心するほどひとつひとつの所作が思わせぶりな人だ。「皓輝くんも、もう床についてください。今日は本当に大変でしたね」
俺はどうにか首肯した。頷くという作業すら億劫だ。翔の容態など気になることは多かったが、とにかく既に夢の世界に片足を突っ込んでいる俺は一刻も早く布団に倒れ込みたかった。
彼と就寝の挨拶を交わし、居間に背を向けて廊下へと足を踏み出す。持ち手のついた行灯がゆらゆら影を揺らした。歩きながら眠気に襲われ、足取りが危なっかしくなる。頭を振り、離れにある自室へ──。
不意に俺は廊下の中ほどで何となしに足を止める。背後には暗闇が揺れていた。どうして自分でそんなことをしたのか分からなかった。本能的が微弱な電流を感じ取ったよう、俺を振り向かせた。
廊下は閉鎖された静けさが満ちている。一歩足を引く。その右足が──突然動かなくなった。
骨ばった細い指のようなものに足首を捕らえられる感触。生温かいその体温にぞわりと鳥肌が立つ。“誰か”の手が俺の足を掴んでいた。
心臓が跳ね上がる。その手と思しきものはがっしりと俺の足首を握り締めて離さない。そう理解すると同時に、消えた。何かがすり抜けてゆくような風の匂いがして、後はただ仄暗い闇が、辺りに満ちていた。
半ばパニックになって辺りを見回す。濃淡のある暗闇の向こうから、壁を爪で引っ掻くような微かな笑い声が聞こえてきた。俺は動けない。冴えた空気が頬を撫で、吹き出る冷や汗が体温を奪う。全身に鳥肌が立っていた。
見知らぬ女の声だった。
世捨て人の家の誰でもない。光の声でないことは間違いない。じゃあ誰か。笑い声は徐々に遠ざかり、やがて静寂に紛れて聞こえなくなった。しかし、廊下の奥から誰かがこちらを観察しているような薄っすらと嫌な気配はずっと残った。それも俺の気のせいかもしれない。疲れて幻覚を見たのではという疑いも捨てきれない。
足を動かすことが出来たのはしばらく経ってからだった。
周囲の闇が迫ってくるような息苦しさを錯覚する。天井の梁から、廊下の角から、あの不気味な声が聞こえてくるのではないか。俺はほとんど逃げるように明かりを拾って立ち去った。正直なところ、泣きそうだった。
己の部屋に戻っても、頭から冷や水を被せられたような感触は消えない。俺は裾を捲り、自分の右足首を見てみる。跡はない。掴まれたのは一瞬だった。目を瞑る。あれは気のせいではない。ただ、暗澹とした廊下の床に這い蹲るようにして、誰かが俺の右足を掴んだのは確かなのだ。
錯覚だと思いたかった。疲弊のあまり夢でも見たのだと、誰かに言って欲しかった。そうでなければ、あまりに心臓に悪い。首筋に立った鳥肌を擦って宥め、布団に腰掛けた俺は、今宵は明かりをつけたまま眠ることを決意する。
あれは一体何だったのか。“女だ”と咄嗟に思ったのは、視覚的、聴覚的な特徴があったからではなく、俺の本能がそう直感したためだ。あの笑い声は、疑いようもなく人ならざるもの。そこに性があるのかは定かではない。
「……」
俺は泥だらけの上着を脱いで、ばさりと掛け布団を被った。これ以上の思考はあらゆる意味で辛く、気力が限界だ。心臓の鼓動と鳥肌が徐々に鎮まっていくにつれ、抗い難い眠気も戻ってくる。
重たすぎる瞼を閉じてしまえば、もう体が動かなかった。心に残った恐怖の爪痕は深かったが、一方であれは単なる幻覚だったのではという気もしてくる。布団のみが俺を守ってくれる防具だ。そのぬくもりを頼りに、意識はふにゃふにゃと眠りの世界に溶けていく。
その頃──翔の部屋の戸が音もなく開き、確かにそこに二足直立の“誰か”がいたことなど、知る由もない。




