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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第三話 天学
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 ある昼下がり。

 白狐さんが華胥のために自室に籠ってしまってから、暇を持て余した俺は居間の寝椅子でぼうっと外を眺めていた。

 開け放たれた障子の向こう、古びた縁側と翠緑の庭が見える。世捨て人の主の気の向くまま手入れされた庭は野趣に溢れ、山林としての面影を色濃く残していた。

 こちらの世界も春の季節が巡っているのだろう。地面も木の表面までもあの鮮やかな緑の苔が覆い、その根元では白い花がちらちら咲いている。しなやかに枝を伸ばす喬木は節々に新緑の若葉を萌えさせ、暖かな春の訪れを知らせていた。気温も温かい。

 晴れた空は淡く水色に澄み渡り、消えてしまいそうな薄い雲が遥か上空を漂っていた。ただ、ため息をつく。


「お前はいつも楽しくなさそうだな」


 首を捻ると、いつ間にか翔が寝椅子の背に寄り掛かっていた。人懐っこい笑みを口元に浮かべている。

 翔とは、若者同士にある砕けた関係のようなものが一方的に築かれつつあった。俺としては本意ではないのだが、翔には何かと世話を焼かれているのも事実である。

 何か用か、と俺は瞬きをする。


「面白そうなもの見せてやるよ」


「何だ?」


「それは見てからのお楽しみ」


 はあ、と半端な返事をする。翔の後に続いて、居間の傍にあった急勾配で狭い階段を上る。この家で生活し始めて数日経ったが、二階には立ち入ったことがなかった。そもそもひとつしかないこの階段も、上に行くものを拒むような雰囲気があって、世捨て人たちもあまり使っていないようだった。足を掛ける度、ぎしぎしと僅かに軋んで動くのを感じた。階段を上がり切ったところに、簡単な欄干があったので手を伸ばす。


「あれ、二人とも何してるの?」


 不意に、下から声がした。振り向くと階段下の四角く切り取られた光の中に妹がいた。俺が苦虫を噛み潰したような顔になる。

 ここに来てから俺は光と、白狐さんや翔以上に絶妙な距離を以て生活している。ひとつの屋根の下でずっと暮らしてきた関係とはいえ、共に食事をすることなどなかった。

 しかしこの世捨て人の家では必然的に顔を合わせる機会が──少なくとも一日三度は出来てしまい、気まずいといったらなかった。

 他人の前で兄妹喧嘩を繰り広げる訳にはいかない──と俺が思っているのにいちいち突っかかってこの妹をそろそろどうにかしなければ、と思う。

 この先どうなるか見当もつかないが、どんな将来でもこいつと一緒にいるのだけは御免だった。

 翔は、俺とは対照的に表情を明るくさせる。一階に届くよう声を張り上げた。


「今から皓輝と二階へ行こうかと思ってさ。一緒に来るか?」


「うん、行く」


 翔は空気を読めないのか、それとも分かっていてわざとやっているのか。再び、口からやるせない息が漏れた。日常の些細な事でも、身体が容易く崩れていくような己の脆さを覚える。

 時間を掛けて階段を上ってきた光と翔は、他愛もないような会話をした。もう少しで庭の桜が咲くから皆で花見をしよう、とか。俺はそれをただ聞き流す。

 二階は、全てが板敷きだった。さほど広い間ではない。左手に、換気のために開かれた突き出し窓がひとつある。床や小箪笥の上に様々な葉植物の鉢植えが置かれ、その緑の濃さや淡さに白い光が差している様は、真昼だというのに秘密めいた雰囲気があった。

 右手にはもう一間あり、障子とも言い難い建具で区切られ、年季の入った墨絵が薄ぼんやり浮かび上がっている。隅々までひっそりして、人の気配はない。薄暗く、三人の床を踏む音さえ静寂さに吸い込まれていく。


「はい、ここ。あんまり掃除してないけど入って」


 翔が慣れたように建具を引いた。古く掠れた菖蒲の絵が描いてある戸は、小さく擦れるような音を立てて俺たちを迎え入れる。

 中はぐるりと背の高い本棚に囲まれていたので、俺は意表を突かれる。本棚だけでは足りないのか、それほど高くない天井にまで書物が積まれ、地震が来たら危ないんじゃないかとかどうでもいいことを考えてしまう。奥の小さな机には、火の消えた短い蝋燭が金属皿の上で埃に塗れていた。


「すごい……数の本だな」


「だろ? ほとんど、白狐さんの私物だけど」


 当たり障りのない感想を漏らすと、何故だか得意げに翔は笑う。細かい埃が空中を舞い、その髪色が霞んでいた。

 俺は首を動かし、何の気なしに近くの本棚の本の背表紙に目を走らせる。特に題が書かれていないため、何の書物なのか分からない。厳めしい風格のもの、紙束を紐で括っただけのもの。雑多な書が棚いっぱいに詰まっている。

 俺は本棚に近寄った。


「兄貴は、どうせ読めないでしょ」


「は?」


 小馬鹿にしたような光に反応して俺は振り向いた。何やら目当ての本を探している翔の隣で、光は手に取った本の埃を手で払いながら当然のように言う。


「だって、あたしより勉強できないじゃない。国語のテストだっていつも散々だったし。それに、開いてみれば分かるよ」


 俺が眉を顰めると「はいはい、喧嘩しないの。兄妹でしょお前ら」と翔が割り込んでくる。俺と光は同時にふんと互いの顔を背けた。

 分かっていない。兄妹だからこうなるんだよ。

 不機嫌そうな光の眉の形が母さんのそれによく似ていることが腹立たしい。手持無沙汰で、特に意味もなく目についた本を引っ張り出してみる。


「これは……」


「うん? 『医草辞典』か。皓輝、薬草学でもやるの?」


「え、いや……」


 決して興味がないわけではないが、と翔に返しながら本を戻す。この世界にはどんな学問があるのだろう。他に面白そうなのはないかと別の本棚に近づいてみると、翔が俺を呼び寄せた。


「あった、こっちこっち」


 翔の指さす方を見ると、一際目を引く紫色の背表紙の本たちが、棚の一列を埋めているのが飛び込んできた。紙を紐で括っただけの安価な本とは違い、丁寧に紫の布で表紙が張られ、背表紙には金糸で文字が縫い込まれている。何やら格式の高い書物らしい。

 その明らかに区別された外見にじっと見惚れる。


「『天介地書(テンカイチショ)』だよ」


「何だ、これ。見せたかったのってこの本か?」


「うん。これは天学(テンガク)の聖典だよ。皓輝はさ、ネクロ・エグロの話とかに興味持ってたじゃん。もしかすると元の世界に戻るための手がかりが見つかるかもしれないし、役に立つんじゃないかと思ってさ」


「天学……?」


 問うと、翔がそうそうと軽快に頷く。

 訊けば〈天学〉というのはこの国で信仰されている──いわば月辰族を形づくる民族宗教のようなものだという。曖昧な言い方をせざるを得ないのは、宗教というのは信仰を持っている当人からすればそういった表現は適当でないと思うからだ。

 ただ翔に曰く、天学は古くからの民間信仰とは区別され、月辰族がこの世の始まりから現代に至る歴史を記し、体系化された世界を探求する学問のひとつであるらしい。

 何となく感心した俺は一冊取り出してみる。一番左端にあった、恐らく第一巻を。ずっしりと重量のあるそれを抱え、立ったまま頁を捲る。

 途端に俺は、え、と引き攣った声を漏らした。思わず本をその場に取り落としそうになる。

「どう?」翔が覗き込んでくる。


「……いや」


 いや、と半ば無意識に口の中で繰り返した。眉を寄せ、俺は本の紙面を睨む。焦る手で頁を捲っていく。真っ白い上質な紙に筆で書かれた、黒い文字の羅列。

 ──そう、文字だ。それは理解出来る。しかし、これは……。


「何だ……これは、漢字か?」


 じっと目を凝らせばその文字に若干の既視感がある。平仮名や片仮名らしきものは一切ない。いわゆる漢文のようだが、果たして本当にそうだろうか? 冷や汗を流す。

 もしかするとこれは、異世界固有の文字か──。

 複雑な画が組み合わされた、漢字によく似た表意文字。俺はひどく混乱した。そして己の迂闊さに、口を押えた。

 隣で眺めていた翔がおもむろに口を開いた。


「『天帝(テンテイ)は空と地を創りし上帝、天地(あめつち)の治者也。天帝より上に天は無く天地は天帝の爪先に有』……」


「……え」


「『天介地書』の冒頭」


 翔の諳んじる声に、俺は現実に引き戻される。どうにか浅く息を吐いた。暗記しているのか、と小声で問えば、得意げな翔と視線がぶつかる。


「『天帝ハ天穹ニ坐シ、雲爪弾キ雨降ラス主。怒雷、憂風、慶火、森羅万象天帝ノ恵也』」


「い、いやもういいよ」


 すらすら歌うように空で読み上げる翔を、慌てて止める。このままだと延々読み続けそうだ。それくらい、翔は自信満々だ。俺は平静を装い、感心してみせる。


「すごいな。全部覚えているのか?」


「まさか。最初と、よく読まれるところだけだよ」


「へえ」


  翔は肩を竦めた。


「孑宸皇国民なら誰でも知っているよ。一般常識さ。貧しくて本が買えなかったり文字が読めなかったりする人も、親や天院の(かんなぎ)から読み聞かせられたりしてね。この世界の教科書みたいなものだ」


 すなわち天学というのは、この国の一般常識の体系。恐らく最も基礎的な学問と捉えてもいいだろう。俺は文字列を目で追っていく。と言っても勿論、易々と読解出来るものではなかったが。


「皓輝? どうした、顔色が悪いぞ」


「だ、大丈夫だ」


 こちらの顔を覗き込んでくる翔。応えようにも、舌がもつれる。

 二人の怪訝そうな視線を感じた。俺は本を抱え、一人にしてくれと頼む。何を勘違いしたのか不愛想な光の声が耳に入った。「どうせ読めない」と。


「どうせ読めないって言ったでしょ。この前、あたしも読もうと思ったけど読めなかったもの。別の世界の文字なんて知らないものね」


 無視しようと自制心よりも早く、首がそちらに向いてしまう。確かに漢文学は小学五年生が習うものではない。まだ十一歳の光が読めないのも当然だろう。

 はっきり言って今の俺に、光の売り言葉を買う余裕はなかった。うるさい、と目線で黙らせる。そうかと思えば翔は平然とした調子で言う。


「もし興味があるなら読んでやろうか?」


「いや」俺は断る。「自力で読む」


「え?」


 翔と光が同時に俺の顔を見るのが分かった。ちらりとそちらを見やり、書物に視線を戻す。


「自分で読むよ。頼むから、一人にしてくれないか」


「……」


 微妙な間がある。翔が控えめに念を押してきた。


「本当にいいのか? 一人で」


「兄貴、意地張っても仕方ないじゃん。読めないものは読めないんだから」


「俺は、ここで勝手に読んでいるから」


 光を無視し、俺は言う。


「ここで? 埃を吸うと体に悪いぞ?」


「そうだけど、一人でいる方が落ち着く」


 ああそう、と翔は引き下がった。放って置いてほしいという俺の意図を汲んでくれたのか、二人は一階に戻ると言った。


「分かんないとこがあれば遠慮なく訊いてくれよ」


 そう言い残し、自分用なのか数冊の本を抱えて出ていった翔に、曖昧な返事をする。光は畳に座りこんだ俺を一瞥した後、気に食わないといった顔をして建具を閉めた。足音がだんだん遠ざかり、やがて聞こえなくなる。

 ようやく、一人だ。

 訪れた静寂にちょっと息をつく。本は一人で読むに限る。それに、ついさっき、考えなければいけない重大な問題に気付いたのだ。

 漏れた息が、辺りを舞う埃を散らした。俺は膝の上に『天介地書』を置き、震え手で最初の頁を開いてみる。


「……」


 やはり、やはり漢文のように思えた。頭がこんがらがってしまう。先程、この文字を見た瞬間、胸に生まれた焦燥感の正体。


 俺は今、“何語”を喋っているのか──?


 この文明世界に来て既に数日、どうして一度もこの疑問が浮かばなかったのか。迂闊が過ぎて不気味なくらいだ。恐る恐る思考をそちらに傾ければ、じわりと冷や汗が滲む。

 ここは異世界だ。日本ではない。にも関わらず、俺は何の不自由もなくネクロ・エグロたちと会話が出来た。文字を目にする、その瞬間までは。

 試しに俺は口を開いてみるが、途端におかしなことが起こる。

 言葉が出てこない。意識すればするほど脳内が真っ白になる。まるで発声法の全てを忘れてしまったかのように、舌が動かなかった。

 何故だ? 何が起こっている?


「……っあ」


 蒼白になった記憶の中、記号化された情報が縦横無尽に飛び交う。落ち着け。思い出せ。言葉を。そう自分に言い聞かせる言葉すらも浮かばない。

 それはまるで、夢の中でこれは夢だと気付いた瞬間に似ていた。それまで何の疑いも持たなかったものが崩れるあの瞬間。

 真っ黒な奈落の口に飲まれてしまわないよう、薄れゆく言語という概念にしがみつく。

 彷徨った手が、天介地書の硬い表紙を掴んだ。文字通り言葉を失った俺は全神経を集中させ、先程翔が暗唱した文言をうわ言のようになぞる。『天帝は空と地を創りし上帝、天地の治者也。天帝より上に天は無く天地は天帝の爪先に有』……と。

 傍から見れば相当珍妙な光景であっただろう。まるで覚えたての言葉を、意味も分からず唱える幼児のような。そんなことを幾度となく繰り返した俺は、ようやく心の落ち着きと、失いかけた言語能力を取り戻した。

 そして恐ろしいことを理解する。恐らくではあるが、今まで俺が気づいていなかっただけで、この世界に来た時点で俺は“日本語”を話せなくなっているのだ。

 本来の母語を話そうとすれば言葉そのものがするりと舌の上から消えてしまう。まるで脳の中枢が麻痺したかのように。

 意識さえしなければ、この突発的な言語障害は起こらない。どういう仕組みなのか不明だが、俺の日本語能力はそのままこの国の言葉を話す力に“切り替わって”いるようだ。


「……」


 気分が悪かった。もう一度手元の本に目を落とす。いつの間にか変換されていた音声言語に対し、文字を読む識字力は元の世界のままらしい。一見しただけでこれは読むことは出来ない。

 とはいえ、俺にはこの書かれた文字が漢字かそれに似た言語のように思えた。全く同じものではないにしろ、その形状が酷似していることは疑いようがない。

 読めるかもしれない。漢文ならば、読み方の規則は最低限心得ている。俺は筆字を指先でなぞり、序文の訓読を試みた。数秒後、やはり、と眉を寄せる。俺の予想は間違っていないようだ。

 この世界で、この皇国で話される言語が人間界で言う中国語に類縁するものなのであれば──その理由は一体何なのか。生憎言語学にはあまり自信がない。その代わり、馬鹿げた俗説を思い出す。宇宙人の言語は中国語である、と。

 まさか。俺は一人で首を振った。あれはただのフィクションの設定だ。十七世紀、イギリスの文学で生まれた創作だ。月旅行物語が、この文明世界と何か関係しているとは思えない。


 それはそうと、この『天介地書』の内容そのものに関心があった。翔が言った通り、元の世界に関する手掛かりが見つかる可能性がないでもない。

 どの頁にも、どうだ読めないだろうとばかりに連なる疑似漢字。こうも挑戦的な態度を取られると、意地でも読みたくなってくる。

 完璧に訳せるかはともかく、全く知らない言語でなければ何となく理解出来るはずだ。

 馴染みのない言語は俺の探求心に火を点けたらしい。書棚の前に座り込んだ俺は紫の書物にのめり込み、時間も忘れて解読作業に耽った。




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