Ⅱ
ある昼下がり。
白狐さんが華胥のために自室に籠ってしまってから、暇を持て余した俺は居間の寝椅子でぼうっと外を眺めていた。
開け放たれた障子の向こう、古びた縁側と翠緑の庭が見える。山林としての面影を色濃く残し、日増しに伸びる庭の緑の足元に、野菊が小さな蝶のように群れている。この前庭は世捨て人の主である白狐さんが手入れしているらしいのだが、どの植物も植えたのか勝手に種が飛んできたのか本人も分からないらしく、たまに雑草を抜いていてもすぐに飽きてしまうので野趣に溢れている。意外とあの人は気まぐれなんだよ、と翔は教えてくれた。
こちらの世界も春の季節が巡っているのだろう。地面も木の表面までもあの鮮やかな緑の苔が覆い、表面に珠のような水を噴いている。しなやかに枝を伸ばす喬木は節々に新緑の若葉を萌えさせ、暖かな春の訪れを知らせていた。気温も温かい。
晴れた空は淡く水色に澄み渡り、消えてしまいそうな薄い雲が遥か上空を漂っていた。腕を持ち上げると、奴隷商人に負わされた青痣はほとんど薄れて見えない。ただ、ため息をつく。
「お前はいつも楽しくなさそうだな」
首を捻ると、いつ間にか翔が寝椅子の背に寄り掛かっていた。人懐っこい笑みを口元に浮かべている。
翔とは、若者同士にある砕けた関係のようなものが一方的に築かれつつあった。俺としては本意ではないのだが、翔には何かと世話を焼かれているのも事実である。
何か用か、と俺は瞬きをする。
「面白そうなもの見せてやるよ」
「何だ?」
「それは見てからのお楽しみ」
はあ、と半端な返事をする。翔はいつもそうやって俺や光に構うのだった。翔の見せてくれる面白いものとは、樺の木の切り口から透明な樹液を採る方法や、野生の豌豆の莢でできた笛の作り方や、拾い集めた羽から分かる鳥の種類の見分け方など、とにかく多岐に渡る。果たして光は存外喜ぶのだが、俺は感心半分、反応に困るのが半分というのは正直なところだった。
ところが、今日案内されたのは家の外ではなく、二階だった。翔の後に続いて、居間の傍にあった急勾配で狭い階段を上る。この家で生活し始めてしばらく経ったが、二階に立ち入ったことはなかった。ひとつしかないこの階段は、上に行くものを拒むような雰囲気があって、世捨て人たちもあまり使っていないようだった。足を掛ける度、ぎしぎしと僅かに軋んで動くのを感じた。階段を上がり切ったところに、簡単な欄干があったので手を伸ばす。
二階は、全てが板敷きだった。さほど広い間ではない。左手に、換気のために開かれた突き出し窓がひとつある。床や小箪笥の上に様々な葉植物の鉢植えが置かれ、その緑の濃さや淡さに白い光が差している。
右手にはもう一間あり、障子とも言い難い建具で区切られ、年季の入った墨絵が薄ぼんやり浮かび上がっている。隅々までひっそりして、人の気配はない。薄暗く、床を踏む音さえ静寂さに吸い込まれていく。
「その内、皓輝にここを見せようと思っていたんだ」
翔が慣れたように建具を引いた。古風な菖蒲が描かれた煤色の戸は、小さく擦れるような音を立てて俺たちを迎え入れる。
中はぐるりと背の高い本棚に囲まれていたので、俺は意表を突かれる。本棚だけでは足りないのか、それほど高くない天井にまで書物が積まれ、窮屈そうだった。奥の小さな机には、火の消えた短い蝋燭が金属皿の上で埃に塗れていた。
「すごい、数の本だな」
「ほとんど、白狐さんの私物らしいけど」
当たり障りない感想を漏らすと、得意げな様子で翔は笑う。細かい埃が空中を舞い、その髪色が霞んでいた。
俺は首を動かし、何の気なしに近くの本の背表紙に目を走らせる。特に題が書かれていないため、何の書物なのか分からない。厳めしい風格のもの、紙束を紐で括っただけのもの。雑多な書が棚いっぱいに詰まっている。
一階から光の声が聞こえたのは、そのときだった。翔を探しているらしい。翔が部屋を出て、階段を上がる音が響いてきたので俺はため息をつく。
ここに来てから俺は光と、白狐さんや翔以上に絶妙な距離を以て生活していた。ひとつの屋根の下でずっと暮らしてきた関係とはいえ、共に食事をすることなどなかった。
しかしこの世捨て人の家では必然的に顔を合わせる機会が、少なくとも一日三度はある。翔が何かしようと誘うのも、大抵は俺と光の両方に声を掛けてきた。他人の前で兄妹喧嘩を繰り広げる訳にはいかない──と俺が思っているのに、何かと突っかかってくる妹の存在を、俺は持て余している。
この先どうなるか見当もつかないが、どんな将来でも光と一緒にいるのだけは御免だった。
翔は、光を連れて戻ってきた。空気を読めないのか、それとも分かっていてわざとやっているのか判然としない。日常の些細な事でも、身体が容易く崩れていくような己の脆さを覚える。
光と翔は、他愛もないような会話をしていた。もう少しで庭の桜が咲くから皆で花見をしよう、とか。俺はそれをただ聞き流す。
「それで、二人はここで何をしていたの?」
「皓輝に本を見せていたんだよ」
翔は本棚の奥に向けて手を広げた。
「なあ、皓輝はさ。天学を勉強した方がいいと思うんだよ。きっと向いている」
そこには一際目を引く紫色の背表紙の本たちが、棚の一列を埋めていた。紙を紐で括っただけの安価な本とは違い、丁寧に紫の布で表紙が張られ、背表紙には金糸で文字が縫い込まれている。何やら格式の高い書物らしい。
「『天介地書』だよ」翔は言う。
「見せたかったは、この本か?」
「そう。これは天学の聖典。もしかすると元の世界に戻るための手がかりが見つかるかもしれないし、役に立つんじゃないかと思ってさ」
「天学って何?」
光が訊ねた。
〈天学〉とは、この国で信仰されている──いわば月辰族を形づくる民族宗教のようなものだという。曖昧な言い方をせざるを得ないのは、宗教というのは信仰を持っている当人からすればそういった表現は適当でないと思うからだ。
ただ翔に曰く、天学は古くからの民間信仰とは区別され、月辰族がこの世の始まりから現代に至る歴史を記し、体系化された世界を探求する学問のひとつであるらしい。
俺は本棚に近寄った。
「でも、どうせ読めないでしょ」
光の呟きに、俺は振り向いた。光は手近な本を抜き出し、埃を手で払いながら当然のように言う。
「兄貴はあたしより勉強出来ないじゃない。碌に漢字も読めないでしょ。それに、開いてみれば分かるよ」
勉強が出来るとか出来ないとか、最早そんな基準などこの場所では何の意味もないのに、未だにその指針を振り翳す光の無神経さに俺は苛立った。
「はいはい、喧嘩しないの。兄妹でしょお前ら」と翔が割り込んでくる。俺と光は同時に互いの顔を背けた。
分かっていない。兄妹だからこうなるんだよ。
俺は、『天介地書』を一冊取り出してみる。一番左端にあった、恐らく第一巻を。ずっしりと重量のあるそれを抱え、立ったまま頁を捲る。
途端に、え、と引き攣った声が漏れる。思わず本をその場に取り落としそうになる。
「どう?」翔が覗き込んでくる。
「……いや」
いや、と半ば無意識に口の中で繰り返した。焦る手で頁を捲っていく。真っ白い上質な紙に筆で書かれた、黒い文字の羅列。
──そう、文字だ。それは理解出来る。しかし、これは──。
「これは、漢字か……?」
じっと目を凝らせばその文字に若干の既視感がある。平仮名や片仮名らしきものは一切ない。いわゆる漢文のようだが、果たして本当にそうだろうか? 冷や汗を流す。
もしかするとこれは、異世界固有の文字か──。
複雑な画が組み合わされた、漢字によく似た推定表意文字。俺はひどく混乱した。そして己の迂闊さに、口を押えた。
隣で眺めていた翔がおもむろに口を開いた。
「『天帝は空と地を創りし上帝、天地の治者也。天帝より上に天は無く天地は天帝の爪先に有』……」
「……え」
「『天介地書』の冒頭」
翔の諳んじる声に、俺は現実に引き戻される。どうにか浅く息を吐いた。暗記しているのか、と小声で問えば、得意げな翔と視線がぶつかる。
「『天帝は天穹に坐し、雲爪弾き雨降らす主。怒雷、憂風、慶火、森羅万象天帝の恵也』」
「いや、もういいよ」
すらすらと諳んじる翔を、慌てて止める。このままだと延々読み続けそうだ。それくらい、翔は自信満々だ。俺は平静を装い、感心してみせる。
「すごいな。全部覚えているのか?」
「まさか。最初と、よく読まれるところだけだよ」
「へえ」
翔は肩を竦めた。
「孑宸皇国民なら誰でも知っているよ。一般常識さ。貧しくて本が買えなかったり文字が読めなかったりする人も、親や天院の巫から読み聞かせられたりしてね。この世界の教科書みたいなものだ」
すなわち天学というのは、この国の一般常識の体系。恐らく最も基礎的な学問と捉えてもいいだろう。俺は文字列を目で追っていく。と言っても勿論、易々と読解出来るものではなかったが。
「皓輝? どうした、顔色が悪いぞ」
「だ、大丈夫だ」
こちらの顔を覗き込んでくる翔に、舌がもつれる。
二人の怪訝そうな視線を感じた。俺は本を抱え、一人にしてくれと頼む。何を勘違いしたのか不愛想な光の声が耳に入った。「どうせ読めない」と。
「だから言ったでしょ。この前、あたしも白狐さんから本を借りて読もうと思ったけど読めなかったもの。別の世界の文字なんて知らないものね」
自制よりも早く、首がそちらに向いてしまう。確かに漢文学は小学五年生が習うものではない。まだ十一歳の光が読めないのも当然だろう。
はっきり言って、光の売り言葉を買う余裕はない。目線で黙らせる。そうかと思えば翔は平然とした調子で言う。
「もし興味があるなら読んでやろうか?」
「いや」俺は断る。「自分で読む」
「え?」
翔と光が同時に俺の顔を見るのが分かった。
「自分で読むよ。頼むから、一人にしてくれないか」
「……」
静けさが、書物に吸い込まれてゆく。翔が控えめに念を押してきた。
「本当にいいのか? 一人で」
「兄貴、意地張っても仕方ないじゃん。読めないものは読めないんだから。どうして翔の優しさをそうやって無碍にしちゃうの」
俺は、怒った光を最後まで無視した。放って置いてほしいという俺の意図を汲んでくれたのか、二人は一階に戻ると言った。
「分かんないとこがあれば遠慮なく訊いてくれよ」
そう言い残し、数冊の本を抱えて出ていった翔に、曖昧な返事をする。光は俺を一瞥した後、気に食わないといった顔をして建具を閉めた。足音がだんだん遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
ようやく、一人だ。
西向きに窓があるためだろう。床にも埃にも書物にも、太陽の匂いが沁みついている。漏れた息が、辺りを舞う埃を散らした。俺は膝の上に『天介地書』を置き、震え手で最初の頁を開いてみる。ついさっき、考えなければいけない重大な問題に気付いた。
「……」
やはり、やはり漢文のように思えた。頭が混乱する。先程、この文字を見た瞬間、胸に生まれた焦燥感の正体。
俺は今、“何語”を喋っているのか──?
この文明世界での生活が始まって、既にしばらく経っている。どうして一度もこの疑問が浮かばなかったのか。迂闊が過ぎて不気味なくらいだ。恐る恐る思考をそちらに傾ければ、じわりと冷や汗が滲む。
ここは異世界だ。日本ではない。にも関わらず、俺は何の不自由もなくネクロ・エグロたちと会話が出来た。文字を目にする、その瞬間までは。
試しに俺は口を開いてみるが、途端におかしなことが起こる。
言葉が出てこない。意識すればするほど脳内が真っ白になる。まるで発声法の全てを忘れてしまったかのように、舌が動かなかった。
何が起こっている?
「……っあ」
記号化された情報が、脳裏を縦横無尽に飛び交う。落ち着け。思い出せ。言葉を。そう自分に言い聞かせる言葉すらも浮かばない。形のない透明な音の起伏が、指の間をすり抜けてゆく。
まるで、夢の中でこれは夢だと気付いた瞬間に似ていた。それまで何の疑いも持たなかったものが崩れるあの瞬間。
真っ黒な奈落の口に飲まれてしまわないよう、薄れゆく言語という概念にしがみつく。
彷徨った手が、天介地書の硬い表紙を掴んだ。文字通り言葉を失った俺は全神経を集中させ、先程翔が諳んじた文言をなぞる。『天帝は空と地を創りし上帝、天地の治者也。天帝より上に天は無く天地は天帝の爪先に有』と。
傍から見れば相当珍妙な光景であっただろう。まるで覚えたての言葉を、意味も分からず唱える幼児のような。そんなことを幾度となく繰り返した俺は、ようやく心の落ち着きと、失いかけた言語能力を取り戻した。
そして恐ろしいことを理解する。恐らくではあるが、今まで俺が気づいていなかっただけで、この世界に来た時点で俺は“日本語”を話せなくなっているのだ。
本来の母語を話そうとすれば言葉そのものがするりと舌の上から消えてしまう。まるで脳の中枢が麻痺したかのように。
意識さえしなければ、この突発的な言語障害は起こらない。どういう仕組みなのか不明だが、俺の日本語能力はそのままこの国の言葉を話す力に“切り替わって”いるようだ。
「……」
気分が悪かった。もう一度手元の本に目を落とす。いつの間にか変換されていた音声言語に対し、文字を読む識字力は元の世界のままらしい。一見しただけでこれは読むことは出来ない。
とはいえ、俺にはこの書かれた文字が漢字かそれに似た言語のように思えた。全く同じものではないにしろ、その形状が酷似していることは疑いようがない。
読めるかもしれない。漢文ならば、読み方の規則は最低限心得ている。俺は筆字を指先でなぞり、序文の訓読を試みた。数秒後、やはり、と眉を寄せる。俺の予想は間違っていないようだ。
この世界で、この皇国で話される言語が中国語に類縁するものなのであれば──その理由は一体何なのか。生憎言語学にはあまり自信がない。類似の環境にあれば、文化も文字も収斂してゆくのだろうか。
ある小説の内容を思い出す。宇宙人の言語は中国語である、と。まさか。俺は一人で首を振った。あれはただのフィクションの設定だ。十七世紀、イギリスの文学で生まれた創作だ。月旅行物語が、この文明世界と何か関係しているとは思えない。
俺は『天介地書』の冒頭をじっと見つめた。翔はこれを、この世界の教科書と呼んでいた。元の世界に関する手掛かりが見つかる可能性がないでもない。言語には必ず規則がある。完璧に訳せるかはともかく、何となく理解することは出来るのではないか。
書棚の前に座り込んだ俺は、解読作業に取り掛かる。




