Ⅵ
生まれたときから、奇妙な皮膚病を患わっていた。遺伝性の疾患と診断されたが、実のところよく分かっていない。現代医学では未だに解明しようのない、治療法もない奇病である。
醜い外見は長らくコンプレックスで、治療法や症状を和らげる方法を探して病院を奔走した母さんや、顔面の異質さを「宇宙人」だの陰口を叩いた父方の親戚を眺めて育った俺の心には、それが重たい枷のように根付いている。
だが、それが世捨て人たちにとっては別の意味を持つものとして映っていると改めて気付いたのは、翌朝のことだった。
白狐さんが作った朝餉を食べた後、翔は俺を部屋に呼んだ。俺に合う服を見繕ってやるとのことだった。翔の部屋は、居間から廊下へ出て左に折れた別の棟にあった。
「これから暮らしていくのに、着るものが無いと困るだろ?」
「そもそも、これからどうするかも決めていないのに、貰ってばかりじゃ困る」
「殊勝なやつだなぁ」翔が笑うとその目尻に皺が寄る。「遠慮なくここにいればいいじゃないか。どうせ社会から爪弾きにされた世捨て人の家だ。今更一人二人増えたって別に構わないさ」
俺は返事をしない。その件について答えを出すのは、慎重にしたかった。大きな声では言えないが、俺はもう生きていたくないのだ。それが如何なる場所であろうと、変わらない。おまけに、厄介極まりない妹もいる。この先の身の振り方など、とても考えられる状況にない。
翔の部屋は、俺の部屋と似たような間取りだった。板張りの床に布団はきれいに畳まれ、文机の上には硯や筆など書き物の道具が一通り揃っている。窓際に、竹を割って紐で繋いだ日除けがある。素焼きの花瓶には、野花が一輪活けてあった。衝立に衣服が数枚掛けてある。ほんのり部屋の中が糠臭いのは気のせいだろうか。
「ほら、これとかこれとか合わせて見ろよ」と翔が桐の長箱から取り出した布の塊を次々俺に渡してくる。
「別にいいのに」と言いつつ、確かにこの世捨て人の家でTシャツは簡素すぎるし、カーゴパンツはあの夜木に引っ掛けたせいかところどころ布が破れている。明るい場所で見ればみずぼらしいのは事実だ。
訊けば、光が着ていた服は白狐さんから縫ってもらったらしい。「急いで古着を解いたんですが」と謙遜していた白狐さんだが、その割に光の背丈にきちんと合っていた。
「皓輝は俺よりちょっと低いんだな。しっかしガリガリだなぁ」
そうやって感想を述べる翔にされるがまま、幾つか身体に合わせて、裾が淡く草木染された長衣や、詰襟の綿製のシャツのような服等を貰う。翔もそれほど多くの服を持っている訳でもないらしい。「その内買いに行った方がいいよ」と言う。
「それ、何だ? 綺麗だな」
忙しなく翔が興味を示したのは、腕時計だった。時刻は午前七時過ぎを指している。この文明世界に来てから適当に合わせただけなので正確ではないだろうが、世捨て人の家に時計がないので仕方がない。俺は答える。
「時間を確かめる道具だ」
まじまじと時計盤を見つめる翔が声を漏らす。「動いてる」
「時計だからね」
「何て書いてあるんだ?」
俺はそこに刻印されたブランド名を口にする。当然翔には伝わらないが、光が聞けば嫌味だと眉を顰めただろう。中学生が持つには目立つ代物であることは確かだが、身動きの邪魔にならず、時刻が読み易ければ何でもいいのだ、正直なところ。
翔は俺の腕を持ったまま、秒針が規則的に動く様子をたっぷり二分は眺めた。腕時計が存在しない世界ならば、外しておいた方が良いかもしれない。
チタン製のバンドを留めた手首に、鱗の肌が見え隠れした。俺はそれを居心地悪く思う。
「……なあ、翔はネクロ・エグロなのか?」
俺が訊ねると、翔はようやく顔を上げた。ネクロ・エグロという語が俺の口から出たのが意外そうだった。
「うん、そうだよ」
その嬉しそうな笑い方は、どこからどう見ても人間と変わりない。俺は質問の角度に悩む。
「昨夜、白狐さんからネクロ・エグロについて少し聞いたんだが、何だかよく分からなくて」俺の単語の発音はぎこちなかっただろう。「スコノスというものを持っている人間が、ネクロ・エグロなのか?」
「そういうことになるね」
翔は頷く。
「俺たちにとってスコノスっていうのは自分の半身みたいな、影みたいな、切り離せない存在なんだ。生まれてから死ぬまで、ずっと一緒にいるんだよ」
「……」
無意識に翔の足元に映っている影を見る。「影って言うのは比喩だよ」と翔は顔をくしゃくしゃにして笑った。しかし、彼らにとって生まれてから影が付いて回るのと同じくらい当然の存在らしかった。
「今は目に見えないぜ。俺のスコノスは、あまり気軽に身体の外へ出す訳にはいかないからな」
その口ぶりから察するに、スコノスは身体の内面にいるものなのだろう。身体の内面に何かが“いる”という感覚が、俺にはよく理解できない。
スコノスについて語るとき、所有格を頭に付け、あたかもひとつの人格のように形容しているのが不思議だった。まるで何かの“生き物”のような表現だ。
実感が湧かず、じろじろと翔の姿を眺めていると、ほら、と。翔が手品師のように指を鳴らす。
唐突だった。室内ではあまりにも不自然なそよ風が俺の頬を撫でる。それは俺の髪に触れ、部屋の隅に溜まった僅かな埃を巻き上げ──すぐに消えた。
あまりにも平然と、穏やかに起こった超自然現象に俺は目を白黒させる。翔の合図で旋風が起こったという因果を見出すのにしばらくかかり、曖昧に受け止めていた分、その唐突さに面食らう。
そんな反応を見て、翔は鼻を高くしている。
「おお、いい反応」
俺の動揺はなかなか収まらない。気付けば布団から起き上がっていた。
「い、今のは……」
「ちょっと、スコノスの力を見せただけだよ」
「スコノスの力?」
「俺のスコノス、風を呼ぶんだ」
何が何だかさっぱり分からないので、頷くほかない。そうか、風を呼ぶのか、と半ば勢いで飲み込む。
「ネクロ・エグロの数だけ、そこに宿るスコノスの形も性格も個性がある。風を呼んだり、火を熾したり。大人しかったり、やんちゃだったり」
「……」
「そしてスコノスの性質が、俺たちの身体に弊害をもたらすこともある」
俺はどきりとする。
「まあ、弊害っていうのは言いすぎかもしれない。でも、悪いことも多いからなぁ」
意に介す様子もなく、翔はのんびり笑った。
「例えば俺なんかは、スコノスが鳥だから、鳥目なんだ。分かる? 鳥目って。夜になると全く目が見えなくなる体質なんだけど」
結構不便なんだよねぇと、自身の眼球を指で差して笑った。翔の瞳は、素朴な青色だ。焦げ茶がかった眼球の縁は汚れ、彼の見目以上の年月の流れを感じさせる。
「白狐さんのスコノスはどんな形なのかよく知らないけど、太陽の光が受け付けない体質なんだって。きっと夜行性のスコノスなんだろうね」
「──翔の目からも、俺はネクロ・エグロに見えるか?」
答えを聞くのは怖い気がした。翔は「うん」と頷いた後、俺の微妙な表情にようやく気付いたようだった。顔を覗き込まれ、目を背けたくなる。
「魚や爬虫類のスコノスだってこの世にはいるからね。鱗みたいな皮膚のネクロ・エグロだって勿論いる。ぱっと見たとき、やっぱりスコノスの影響なんだろうなとは思うよ」
何が気に食わないんだ? と訊かれたようだった。俺は首を横に振る。
「でも、実際俺はネクロ・エグロじゃない訳だろ。スコノスなんていない。ただ自分の容姿が生む諸々の誤解や偏見がこの期に及んで増えたというのが、憂鬱なんだ」
今更気に病むのも馬鹿らしいが、俺はどこに行っても誰かに言い訳や説明をしなければいけないのかと思う。存在するだけで詮索され、気を遣いながら生きることの肩身の狭さは、体験する当事者にしか分からない。
「ああ、それ、ちょっと分かるな」
翔が呟くので、俺は首を傾げた。ネクロ・エグロというのはこの世界のスタンダードな訳で、翔がそうした偏見の目に晒されるとは思えなかった。
こちらの内心を読んだように、翔は口許だけで笑う。
「俺は世捨て人だぞ。それなりに後ろ暗いものがあるから山奥で暮らしている。白狐さんだってそうだ。変な目で見られるのだって慣れている」
穏やかだが、それがより凄味を感じさせたので、俺は黙った。彼らの過去に何があったのか、知りたいとは思わなかった。
俺は翔がまとめて渡してくれた衣服を受け取り、共に部屋を出る。
ともあれ、異質な文化圏にいるということ自体がまず憂鬱だった。話せば話すほど、翔と会話が通じているのか不安になる。
先程の超自然現象のことは、忘却することにした。昨日から今に至るまであまりの情報量に脳がキャパオーバーを起こしそうな俺に、翔の合図で風が発生した原理について考える気力などない。
居間に戻ると、白狐さんが長椅子の上で縫物をして、光が傍で眺めていた。朝陽が差して、煤竹色の床と、彼の手元の針が淡く煌めいている。
「せっかくなら、もっと綺麗な生地で縫いたいですねぇ」
そんな風に白狐さんが微笑んでいるのが見える。彼が傍らに広げているのは光が着ていたワンピースで、彼には洋服そのものが珍しいらしい。翔がその手元を覗き込みにゆく。
「白狐さん、皓輝に幾らか服をあげましたけど、こいつ細すぎるし、新しいのを買った方が良いですよ」
「そうですか」白狐さんは振り向いて頷く。「色々と入り用のものもあるでしょうし、今度山を下りるとしましょう」
「買い物に行ける場所があるの?」
光が身を乗り出す。どうしてお前はそんなにこの世捨て人たちに馴染んでいるんだ、と俺は問い詰めたくなる。
「はい、長遐を出れば麓に邑があります。小さな人里ですが、買い物をする程度には賑わっていますよ」
でも、と白狐さんが糸の端を始末し、小さな鋏で切る。
「光ちゃんは行かない方が良いでしょう」
「どうして?」
「ネクロ・エグロではないからです。それを誰かに気取られるのは良いことではないと思います。ネクロ・エグロに比べると、ただの人間は無力ですから」
俺は衣服を抱えたまま、隣の翔に話しかける。「なあ、訊きたいことがあるんだ」と。
「お前らは自分のことをネクロ・エグロと呼んでいただろう。それはつまり、ネクロ・エグロ以外の異なる種族がこの世界にもいるということだろう?」
「どうしてそう思うんだ?」
「呼び名があるということは対立概念があるということだ。この世界の住民全員がネクロ・エグロなら、そもそもそれ以外と区別する呼び名なんて必要ない。“ただの人間”なんて言い回しはしないだろ」
翔は朗らかに笑った。
「お前は賢い」
「本当に賢かったら受験に落ちないでしょ」
口を挟む光に舌打ちをすると、まあまあと白狐さんに咎められる。彼は作り掛けの服らしき布を繋ぎ合わせたものを持ち上げて、その翳りが顔に掛かっていた。
翔は自身の顎に指を当てる。片足に体重を掛け直し、その動きが如何にも身軽そうだった。
「そうだなぁ、はっきりと分かっている訳じゃないけど、俺たちは初めからネクロ・エグロではなかったと言われているんだ。ずっと昔、まだ地上に人間しかいなかった時代に突然スコノスが現れて、人間に宿ってネクロ・エグロになった、とされている」
「だから“ただの人間”って呼ぶ訳か」
翔の口ぶりは神話を語るようだったが、一応納得しておく。彼らには彼らなりの歴史観があるらしいということも分かった。そのとき、長椅子から白狐さんが振り向いた。その手は、針の穴に糸を通している最中だった。
「ああ、そうだ。翔、服をあげるなら衣装箱もあげた方が良いでしょう。今の皓輝くんの部屋には何もないですからね」
僕の部屋の余っているのをあげます、と白狐さんが気前よく言うので、二人で廊下を引き返すことにする。途中で、翔がちらりとこちらの顔を見たのが分かった。俺は眉を顰める。
「……何だ?」
「別に」
ふっとおかしそうに頬を緩ませる翔に、直接怪訝な目を向けた。翔は口元を手で隠している。
「お前と光っていつもあんな感じなの?」
「そうだけど」
そんなことかと俺は視線を外した。
「いや、何か微笑ましいなぁって。さっきのにしたってさ」
「微笑ましい?」思わず、間延びした声で訊き返してしまう。「あいつの物言いの、どこが微笑ましいんだ」
翔は目を細めて、微笑んだ。薄暗い廊下の格子窓の位置に合わせて、翔の顔にくすんだ緑の陰影がかかったり消えたりする。
「白狐さんが言っていたよ。お二人は育ちがいいんでしょうねって。何のかんの言いつつ、物分かりが良いだろ?」
そうやって育てられたからな、と内心で答える。俺も、光も。
「でも、二人で喧嘩しているときは剥き出しっていうかさ、本音を言い合っているじゃないか。それに皓輝は光相手に、ちゃんと手加減しているし」
「本音? 手加減?」
この暢気な世捨て人は、昨日俺が薬瓶を投げつけた一件など忘れているらしい。しかしそれ以上は何も言わなかった。余計に首を突っ込まれる隙を見せるのは賢明ではない。
「……とっとと行こう。白狐さんの部屋はどこなんだ?」
きょとんとしている翔が、我に返って早足に歩き出す後ろを付いてゆく。




