第52話:新しい循環
王都に、風が、戻っていた。
強すぎず。
弱すぎず。
ただ、自然に。
止められていた街路樹の葉が、揺れている。
澄んだまま止まっていた水路の水が、流れている。
あの、息苦しいほどの静止は。
もう、どこにも、なかった。
「……生き返ったみたいだ」
カイルが、城の露台から、都を見下ろして、言った。
「ええ」
私は、頷く。
完璧では、ない。
固定されていた頃のような、一分の乱れもない美しさは、失われた。
風が吹けば、埃も舞う。
流れがあれば、時に、淀みもする。
だが。
生きていた。
都が、呼吸を、していた。
「セレナは」
「奥で、休んでるわ」
私は、答える。
「まだ、本調子じゃないけど。……もう、命が削れることは、ない」
髪の色は、日ごとに、戻っているという。
彼女は、もう、たった一人で、国を背負う「聖女」ではない。
流れを読み、綻びを見つける、大勢の一人。
――それで、いい、と。
彼女は、静かに、笑っていた。
◇
その日の午後。
私は、アルトリウスに、呼ばれた。
玉座の間。
だが、彼は、玉座に、座っていなかった。
窓辺に、立っていた。
「リシェル」
彼は、振り返る。
頬の隈は、まだ、残っていた。
だが、その目には、以前にはなかった、静けさがあった。
「一つ、頼みがある」
彼は、言った。
「戻って、くれないか」
私は、彼を、見る。
「……この国の、王妃として。もう一度、婚約を――」
「殿下」
私は、静かに、遮った。
「その循環は、もう、要りません」
アルトリウスが、目を見開く。
「かつて、この国は、王と王妃が結ぶ“一つの循環”に、支えられていました。だから、私が抜けたら、崩れた。……でも、もう、違います」
私は、窓の外を、指す。
張り巡らされた、新しい流れの構造。
「今の国は、たった一組の婚約に、寄りかかっていません。……大勢が、支え合っています。だから、もう、王妃という“国家機能”は、要らないんです」
私は、彼を、まっすぐ見た。
「私は、あなたの隣に、戻りません。……役割としても、感情としても」
沈黙。
アルトリウスは、しばらく、私を見ていた。
そして。
「……そうか」
ゆっくりと、息を、吐いた。
その顔に、浮かんだのは。
落胆では、なかった。
どこか、安堵に、近いものだった。
「お前を、もう一度、役割に、縛りつけるところだった。……私は、また、同じ過ちを」
「いいえ」
私は、首を振る。
「今度は、あなたは、選びました。私に“戻れ”と命じるのではなく、“頼む”と言った。……それだけで、あの夜とは、違います」
アルトリウスは、微かに、笑った。
それは、あの祝宴の夜以来、初めて見る。
迷いのある、けれど、人間らしい、笑みだった。
「……では、王としての、頼みを一つ、変えよう」
彼は、姿勢を、正す。
「王妃としてではなく。……この国の、“流れを繋ぐ者”として。ときどき、この都に、力を貸してくれないか。お前が育てた、辺境のやり方を。……この国、全体に」
私は、少しだけ、考えた。
そして。
「ええ」
頷く。
「それなら。……喜んで」
役割ではなく。
選択として。
◇
王都を、発つ日。
城門の前で、セレナが、見送りに来ていた。
車椅子から、立ち上がって。
まだ、少し、ふらつきながら。
「もう、歩けるの」
「あなたのおかげで」
セレナは、微笑む。
その髪は、もう、半分ほど、銀の輝きを、取り戻していた。
「リシェル。……いつか、辺境に、行ってもいいですか」
「え?」
「私は、固定しか、知りませんでした。……あなたの“流す”やり方を、もっと、学びたいんです。私が、この国の、たくさんの“繋ぐ人”を、育てられるように」
私は、笑った。
「もちろん。……いつでも、いらっしゃい」
かつて、私から、すべてを奪った人。
いまは。
同じものを見る、仲間だった。
「待ってるわ、セレナ」
私たちは、手を、握り合った。
固定する者と、流す者が。
もう、ぶつかることは、ない。
◇
辺境への、街道。
王都から離れるほどに、風が、強くなる。
いや。
違う。
王都にも、もう、風は、ある。
ただ、辺境の風が、もともと、自由なだけだ。
「……終わったな」
馬車に揺られながら、カイルが、言った。
「いいえ」
私は、首を振る。
「始まったのよ」
王都は、変わった。
だが、この国には、まだ、たくさんの土地がある。
エスタ領。
その先の、名も知らぬ、いくつもの領。
いまも、同じ問題を、抱えている場所が。
「……このやり方を、広げるわ」
私は、窓の外を、見る。
「一つずつ。……私がいなくても、回る場所を、増やしていく」
「面倒だな」
カイルが、軽く、笑う。
「ええ」
私も、笑う。
「面倒で、壊れにくい。……それが、いいの」
馬車は、進んでいく。
崩れなかった世界の中を。
かつて、私は、「役目を終えたのか」と、問われた。
あの夜、すべてを、失った。
だが。
いま、分かる。
あれは、終わりではなかった。
役割を、失った日。
初めて、私は。
自分の意思で、生きることを、始めたのだ。
「……リシェル」
カイルが、ふと、言った。
「なに」
「お前が、全部の土地を回るまで。……どれくらい、かかる」
「さあ」
私は、少し、考える。
「一生、かかるかもね」
「そうか」
カイルは、窓の外を、見た。
そして、ぽつりと。
「……なら、一生、付き合うことになるな」
私は、彼を、見た。
彼は、こちらを、見ていなかった。
ただ、耳が、少しだけ、赤かった。
私は、何も、言わなかった。
ただ、少しだけ、笑って。
窓の外の、流れる風に、目を、向けた。
風は。
どこまでも。
続いていた。
第二部「繋ぐ国」、ここで一区切りとなります。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
第一部は、「役割として生きていた私が、一つの土地を作り直すまで」。
第二部は、そのやり方を、国そのものの中心へ届けるまでの物語でした。
・婚約という「一つの循環」に寄りかかっていた国が、
・大勢で支え合う「たくさんの流れ」に、作り替えられる。
だからもう、リシェルは王妃には戻りません。
役割としても、感情としても。
それは喪失ではなく、彼女が「自分の意思で選べる人」になった証です。
かつて敵だったセレナは、仲間になりました。
かつて彼女を切り捨てたアルトリウスは、「命じる」のではなく「頼む」ことを覚えました。
一極に固執した者は、静かに、必要とされなくなりました。
そして、カイル。
「一生、付き合うことになるな」――派手な言葉は、最後まで、ありません。
けれど、選び取った隣というものは、きっと、そういうものなのだと思います。
物語は、ここで大きな一区切りを迎えますが、
リシェルの「広げる」旅は、まだ続いています。
この国には、まだ、たくさんの土地が残っているから。
もし、その続きを読みたいと思ってくださる方がいれば。
いつか、また、風の向かう先で、お会いできたら嬉しいです。
評価・ブックマーク・感想、どれも大きな励みになります。
ここまでの長い旅に、心からの感謝を。




