第3話:その瞬間、風が止んだ
部屋に戻ると、すでに荷物の整理が始まっていた。
整然と並べられていたドレス。
書棚に収められていた書物。
細やかに手入れされていた装飾品。
それらが、今は静かに箱へと収められていく。
まるで。
ここに、最初から何もなかったかのように。
「……早いのね」
思わず、そう呟く。
ミリアが、わずかに目を伏せた。
「ご指示がございましたので」
「そう」
誰の指示か、聞くまでもない。
私は部屋の中央に立ち、ゆっくりと見渡す。
この部屋で過ごした年月は、決して短くない。
けれど。
そこにあるはずの記憶が、どこか遠い。
現実感が、薄い。
まるで。
自分の人生を、他人事のように眺めている感覚。
「リシェル様、お疲れではございませんか」
「いいえ」
即答する。
疲れなど、感じている場合ではない。
私はまだ。
状況を、理解しきれていないのだから。
「ミリア」
「はい」
「王都の気候に、変化は?」
唐突な問いに、彼女は少し驚いたようだったが、すぐに答える。
「ここ数日は、やや風が弱いとの報告がございます」
「……やはり」
私は、小さく息を吐く。
偶然ではない。
あの違和感は。
現実の現象として、すでに現れている。
「他には?」
「作物の生育が、わずかに遅れているとの声も……ただ、季節的なものかと」
季節的なもの。
そう片付けられる程度の異常。
けれど。
それが積み重なれば、どうなるか。
私は知っている。
学んできた。
この国の“仕組み”を。
「……ミリア。しばらく、誰も入れないで」
「かしこまりました」
彼女が一礼し、部屋を出ていく。
扉が閉まる。
静寂。
私はゆっくりと歩き、窓辺へと向かう。
重厚なカーテンを開く。
王都の景色が広がる。
整然と並ぶ建物。
人々の営み。
遠くに見える城壁。
そして。
空。
私は、目を細める。
「……風が、ない」
木々は揺れていない。
旗も、垂れ下がったまま。
煙も、まっすぐに上がっている。
完全な、静止。
ありえない。
この広大な王都で。
これほどまでに空気が動かないなど。
私は窓枠に手をかける。
ひやりとした感触。
その冷たさが、妙に現実的だった。
「……なぜ、今」
呟く。
答えは、すぐに出る。
偶然ではない。
タイミングが、あまりにも一致しすぎている。
婚約破棄。
そして。
この異常。
私は、ゆっくりと目を閉じる。
思い出す。
幼い頃、叩き込まれた知識。
王と王妃。
その関係性。
加護の流れ。
そして──
“契約”。
婚約とは。
ただの約束ではない。
それは。
この国の基盤を支える、一つの要素。
そう教えられてきた。
だが。
それはあくまで、象徴的な意味だと。
そう思っていた。
思い込んでいた。
けれど。
もし。
もし、それが。
単なる象徴ではなく。
本当に“機能”していたとしたら。
「……私は」
ゆっくりと、言葉にする。
「切り離されたの?」
胸の奥が、わずかに痛む。
今まで感じたことのない種類の、感覚。
喪失。
それは、感情ではなく。
機能の欠落に近い。
何かが、欠けている。
それが何なのかは、まだ分からない。
けれど。
確実に。
何かが、失われている。
そのときだった。
──ふ、と。
再び。
空気が、止まる。
いや。
正確には。
世界が、一瞬だけ。
“切り取られた”。
音が消える。
光が、わずかに歪む。
時間が、止まったかのような感覚。
私は、息を呑む。
次の瞬間。
──ざわり。
風が、吹いた。
突然、強く。
窓の外の旗が揺れ、木々がざわめく。
人々が、顔を上げる。
何事かと、空を見上げる。
けれど。
その異常を、理解している者はいない。
ただ、風が吹いた。
それだけのこととして、受け取られている。
けれど。
私は、違う。
今の一瞬。
確かに。
何かが、途切れた。
そして、戻った。
その中心に。
私は、いた。
「……これは」
確信に近い感覚が、胸の奥に生まれる。
恐怖ではない。
理解だ。
点と点が、繋がり始める。
婚約破棄。
聖女。
風の停止。
そして、今の現象。
すべてが。
一つの線になろうとしている。
私は、窓から目を離す。
静かに、息を吐く。
そして。
初めて。
はっきりと、自覚する。
これは。
私個人の問題ではない。
もっと、大きな。
この国全体に関わる、異常だ。
「……ありえない」
もう一度、呟く。
けれど。
その言葉には、先ほどとは違う意味が込められていた。
ありえない、のではない。
ありえてはならない、のだ。
もし、私の仮説が正しければ。
このままでは。
この国は、壊れる。
ゆっくりと。
確実に。
そして、誰もそれに気づかないまま。
私は、目を閉じる。
思考を、整理する。
まだ、確定ではない。
だが。
確かめる必要がある。
自分の中に芽生えた、この仮説を。
証明するために。
私は、再び目を開く。
視線は、まっすぐ前へ。
もう。
“何も考えずに役割をこなす私”ではいられない。
そのことだけは、はっきりしていた。
第3話まで読んでいただきありがとうございます。
ここでようやく、「違和感」が“現象”として見え始めました。
この物語は、ここから
・なぜ婚約破棄で異常が起きるのか
・主人公が何を失ったのか
が少しずつ明らかになっていきます。
もし「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークしていただけるととても嬉しいです。




