第4話 権田武の消失(後編)
リゼットになってから一週間。
頭を本でぶん殴ったり、使用人に話を聞いて回ったり、できることはやった。
しかし、帰還の手がかりは何一つなかった。
そして日を追うごとに、ここでの生活に慣れてきてしまった。
「すまない、余計なことを聞いた」
アベルは膝の上で手を組んで頭を下げた。
俺は黙って首を横に振った。
「もし帰る方法があったとしても、このままじゃ俺が先に消えちまいそうだ。俺は権田武なのに、誰も俺をそう呼んでくれねえ」
背もたれにだらしなくもたれかかって、天井を仰ぐ。
植物の蔦のような、繊細な模様が描かれていた。
築五十年のシミだらけの実家の天井とは大違いだ。
「悪魔だの怨霊だの別人格だの、散々な言われようだ。俺は……権田武は本当に存在していたのか、もうそれすら自信がねえよ」
せりあがってくる何かを、腹に力を込めて堪えた。
目の端で、アベルが俯いているのが見えた。
しばらく続いた沈黙を破ったのは、アベルだった。
「……酷いことを言ってすまなかった、ゴンダ。辛かったのは僕たちだけじゃなかったんだな」
一週間ぶりに呼ばれた名前に、俺は喉を鳴らして唾を飲んだ。
天井を見上げたまま、アベルの言葉を待った。
「でも、ゴンダはここにいるじゃないか。今僕と一緒にいるゴンダのことを、よかったら教えてくれないか」
二十歳の若造に、随分と酷なことを言わせてしまった。
俺の話を聞くほど、アベルはリゼットの消失を突きつけられることになる。
それでも、俺の心は揺らいでいた。
アベルはこの世界で唯一、俺をゴンダと呼んでくれる人間だ。
「僕の気持ちの整理にもなると思うんだ」
アベルの声がわずかに震えていたような気がした。
上体を起こすと、アベルはまっすぐに俺を見ていた。
そして眉尻を下げたまま、小さく笑みを浮かべた。
「どうだろう?」
「……わかった。俺も聞いてほしい」
アベルはうなずくと、顎に手を添えた。
「まずは……そうだな、仕事はどんなことをしていたんだ?」
「俺は寺の生まれで、管理や雑用をやってた」
「前に言っていたな。教会のようなものだと」
「ああ。親父が牧師みたいなもんで、俺は牧師の仕事以外は全部やらされてた。人使いの荒い親父だよ」
「わかる気がするよ。僕も父の仕事を手伝ってるから」
苦笑いをしながら、アベルは遠い目で窓の外を見た。
「短大……学校を卒業してしばらくは、葬儀会社で働いていたんだ」
「ソウギガイシャ?」
「人が亡くなった時のお別れ会を取り仕切る仕事ってところだ」
「それが仕事になるのか? 教会や地域の人でやるものだろう?」
「俺の世界では大事な仕事なんだ」
アベルは難しそうな顔をしていたが「そうか」とうなずいた。
「でも数年働いたあと、お袋が急な病気で逝っちまった」
もう二十年近く前の話だが、お袋のことはずっと心に残っていた。
ある日急に倒れて、そのまま目を覚まさなかった。
さよならもありがとうも言えなかった。
「そんで遺されたのが、ビービー泣き喚くちっせえ妹だ」
険しい顔のアベルに、俺はおどけた口調で話を続けた。
「親父は寺の事務仕事をお袋に任せきりだったから管理はできねえ、妹の世話もできねえで大パニックだよ」
「使用人はいないのか?」
「いねえよ。俺の世界じゃ、家族のこと基本的に家族でどうにかするんだ」
アベルは愕然としていた。
万一こいつが現代日本に送り込まれていたら、生きていけただろうか。
「そのあとは、どうなったんだ?」
「妹を保育園……いやわかんねえか。子どもを預かってくれる施設に送り迎えしたり、風呂や食事の世話もしてたが、結局仕事を辞めて家の手伝いに専念することにしたんだ」
「それは……辛かっただろう……」
「辛いなんて言ってらんねえよ。穂香はお袋がいなくなったことを理解できなくて、ストレスで毎日寝しょんべんだぞ」
会社を辞めることには多少悔しさがあった。
妹と仕事を天秤にもかけた。
それでも、仕方ないとは思わなかった。
「そこからは親父と一緒に寺と穂香の世話に明け暮れて、気づけば四十三歳だよ」
自分が選んだ道に後悔はない。
一つだけ悔いるなら、穂香をジャジャ馬に育てすぎた。
あいつがもう少しお淑やかなら、本で殴られることもなかっただろう。
「そうか……妹さんは、いくつになったんだ?」
「今年で二十三だ。クソ生意気だぞ」
「じゃあゴンダからしてみれば、僕は弟みたいなものか。いや息子か?」
アベルは真剣に考え始めた。
それがなんだかおかしくて、俺はふっと笑った。
「弟も息子も勘弁してくれ。妹一匹で手一杯だ」
「それなら、友だちはどうだ?」
「友だち? 俺とお前が?」
「じゃあ他に何がいいんだ」
アベルは不満そうに唇を尖らせた。
口には出さないが、確かに「婚約者」という肩書はどうにかしたい。
とは言え「知り合い」というのも他人行儀すぎる。
考えた結果、俺はアベルの提案を受け入れることにした。
「そうだな。人間関係は『まずはお友だちから』だよな」
俺は右手をワンピースの裾で拭いて立ち上がると、アベルの前に差し出した。
「改めてよろしくな、アベル」
「よろしく、ゴンダ」
アベルは微笑んで、俺の手を握った。
少しだけ、アベルの肩の力が抜けたように感じた。
手を離し、椅子に座り直しながら俺は再び口を開いた。
「ところで、早速友だちのアベルに相談があるんだが、いいか?」
「友だちのゴンダの頼みなら、なんなりと」
「外に……家の外に連れてってくれねえか。ずっと篭ってると息が詰まりそうだ」
アベルはわずかに目を見張った。
何度か脱走を試みたが、警備が厳重で失敗した。
腕を組んで考えていたアベルだったが、やがてうなずいた。
「わかった。リゼットのお義母さんを説得するのに骨が折れそうだが、僕がやってみる」
「助かる」
「今日はもう仕事に戻るから、明日にでも話してみるよ。くれぐれも一人で勝手に外出しないようにね」
「おう」
未遂のことは黙っておこう。
「じゃあまたな、ゴンダ」
「ありがとな。仕事がんばれよ」
アベルはヒラヒラと手を振って、部屋を出ていった。
静かになった部屋で、俺はゆっくり深呼吸をした。
この世界で初めて呼ばれた名前が、耳の奥に温かく残っていた。
そしてそれをかき消すように、不意にデカい音で腹が鳴った。
「そいえば昼飯食ってなかったな」
急激に腹が減ってきた。
食堂に行けば何かないだろうか。
「おーい、メリッサ、飯くれー」
ベッド脇に置かれた呼び鈴をブンブン振り回しながら、俺はメリッサを探しに部屋をあとにした。




