53(最終話)
白いポロシャツに紺色の膝丈スカートを履き、髪を後ろで一つにまとめた美衣は、真剣な面持ちでソファに腰を掛けた。沈黙の時間だけが虚しく過ぎていき、空気がどんよりと重かった。
「あのさ」
「うん?」
美衣が俺の声に反応して顔を上げた。
「少し外歩こうか」
黙って並んで歩いていると、少し先にバス停が見えてきた。
「あっ」
美衣は口を開くと、「あそこ」と指をさした。
「まだへこんでるかな」
「まさか」
ふふっと美衣は笑うと、停留所名が書かれた棒の方へ近づいていった。
「あるよ」
「どこ?」
「ほら」
美衣の指先を見ると、たしかにあの時のへこみ傷があった。近くで見ていると、だんだんとここから離れたくないという思いが胸を締め付けた。だが今は思い出に浸っている場合ではない。美衣に告げるべきことがあるのだから。
「もうすぐだな」
俺は腕時計を見て話を切り出した。
「何? バスに乗るの?」
不思議そうな顔で美衣は俺を見上げた。
「そろそろ出ないと間に合わないから」
「遠くへ行くの?」
「まぁね」
「それって私のせい……だよね?」
「いや、違う。少し前から計画してたことだから」
「そう……」
美衣の声は乾いていて、まったく感情が読み取れなかった。
「でも休み明けには帰ってくるんだよね?」
「戻らない。転校手続きは済ませてあるから」
「転校?」
「向こうの学校に通うんだ」
「一人で引っ越すの?」
「母さんはこっちで西園寺さんと暮らすから」
美衣は少し顔を上げ、棒についたへこみ傷をじっと見つめた。そして少し間をあけてから「わかった」とかすれた声を出した。
「櫻井君なら大丈夫。新しい学校でもきっとうまくいくよ。女子にもモテるから、すぐに彼女ができるね」
「お前こそ早く好きな奴見つけろよ」
俺は胸に奥深く突き刺さる痛みをわざと無視するようにして、ボストンバックを手に持った。ゆっくりとした足取りでバス停の一番後ろに並ぶと、1分もしないうちにバスが来た。無言で車内に乗り込み窓を開けると、美衣はわざとらしい作り笑顔で「さよなら」と言った。そして泣き顔を見せないようにして手を振った。美衣の姿はみるみるうちに小さくなっていき、どんどん見えなくなっていった。
俺はたまらなくなって窓から顔を出した。そしてありったけの声で叫んだ。なんて言ったのかは覚えていない。ただ無我夢中で美衣に何かを、最後の一言を叫んでいた。
◆
到着したと母さんから携帯に連絡があったので、自転車に飛び乗って空港に出迎えに行った。約1年半ぶりに会う母さんは相変わらず服装も化粧も派手なままだった。
「悠ちゃん、卒業おめでとう。少し日焼けしたんじゃない?」
「母さんも元気そうで安心した」
オレンジ色のワンピースに白色のジャケットを羽織った母さんの後ろには、チャコールグレーのスーツを着た西園寺、そして小夜子と菜々子が立っていた。
「皆で来たのかよ」
「ビーチでしょ、紅芋アイスでしょ、沖縄そばにゴーヤーチャンプルーに……」
菜々子は嬉々とした顔で「観光ガイドよろしくね」と言うと俺の腕を掴んでブンブン振り回した。
「お前、化粧濃すぎ」
「これね、悠のママに教えてもらったの。いいでしょ。ママとお揃いのブルーのアイシャドウだよ」
「おい、母さん! 中学生にアイシャドウはないだろ」
「いいじゃないの。娘ができて嬉しいのよ。菜々子ちゃんね、将来モデルになりたいって言うものだからママ張りきっちゃって。ふふふ」
「アタシのメイクはどう?」
声のする方を振り返ると、鼓太郎がハーイと手を上げて爽やかな笑顔を向けた。
「なんでお前がいんの?」
「やだわぁ。あんたボケちゃった? 電話で言ってたでしょ。明日は卒業式だって」
「だから呼んでないし」
「呼ばれなくても来るわよ」
「ってこの前も来たばっかじゃん。沖縄そば食い過ぎて腹壊してたろ」
「だって美味しいんだもん。止まらないのよぉ。あ、そうそう、あの二人から伝言預かってるんだった。大ちゃんはね、オタク仲間と春休みに沖縄旅行に来るって言ってたわ。ちょうど桃香ちゃんのイベントがあるんだって。それから修太は研修医としてこっちの診療所で働くらしいわよ」
「なんで全員大集合になるんだよ。ったく呼んでねぇのに」
「なによぉ、嬉しいくせに。照れちゃって」
「うるせぇな」
「綺麗な海、青い空、美味しい空気! 最高じゃないのぉ」
鼓太郎は大げさに手を振りかざして雲ひとつない空を見上げた。
「沖縄ヤッホー!」
「声でかいって」
「悠もほら一緒に」
菜々子と鼓太郎は意気投合したのか、「沖縄ヤッホー!」とわけのわからない掛け声を出しながら両側から俺の腕をつかみブンブンと振り回した。
「やめろよ、関節外れる……」
「相変わらずモテるわねぇ。両手に花じゃないの」
「見てないで止めてくれよ、母さん」
西園寺は愉快そうに俺達を見て笑い、小夜子もその横で可笑しそうに笑った。
「あ、JALの次の便だから……」
鼓太郎は到着ロビーをキョロキョロ見回して大げさに手招きをした。
「お姫様のご到着よ」
目線の先には、俺が求めて求めて止まなかったあの天使のような微笑みをした少女が立っていた。一歩一歩と近づいて来る。
「卒業おめでとう」
美衣は鮮やかなピンク色の花束を俺に渡すと、穏やかにそう言った。クリーム色のふんわりとしたニットと桃色のスカートが柔らかな雰囲気をさらに際立たせている。
「どうしてここに?」
驚いて目を見開く俺に、美衣はこそっと耳打ちをした。
「鼓太郎さんが教えてくれてたの。櫻井君の近況を色々とね」
「あいつ……」
こっちには美衣の情報なんて何一つ流さなかったくせに。俺は鼓太郎の方を見るとチッと舌打ちをした。
「大学の入学式ももうすぐね。家は決まった?」
俺達は到着ロビーを背に、外に向かってゆっくり歩き始めた。
「ああ」
「どの辺?」
「永福」
「じゃあ近所かな。私も後期でギリギリ受かったの」
「嘘だろ?」
「えへへ、すごいでしょ」
美衣は照れたように笑った。
「頑張っちゃった」
「E判定からの合格なんて本当にあり得るんだな」
「奇跡が起きたんだと思う」
「奇跡……か」
春風がまるく足元から吹き上げ、美衣の髪の毛は柔らかく宙に舞った。
「背伸びたな」
「うん、少しね」
オレンジ色に染まる夕日が二人を優しく包んだ。まるでこれから歩いていく道を照らすかのように、背中にじんわりとした温かさを感じた。
完