第1話 解けた魔法と朝のベル
第1話 解けた魔法と朝のベル
午前五時を告げる鐘が鳴ったとき、エラは何か恐ろしいものが窓の外を歩いているのかと思い、白い羽毛布団の中で肩をすくめた。重い音は五回、夜明け前の宮殿を揺らし、昨夜の結婚式で寝室まで運び込まれた白薔薇の花びらを震わせた。隣に手を伸ばすと、ヘンリーが眠っていた場所には、まだ温かい窪みだけが残っている。洗面台には夫が使った濡れた布と、蓋を閉め忘れた髭剃り用の香油が置かれ、松と柑橘を混ぜた匂いが漂っていた。王子も寝起きには物を片づけないのだと知り、エラが口元を緩めたところで、寝室の扉が三度鳴った。
「王子妃殿下、お目覚めの時刻でございます」
返事をする前に扉が開き、灰色の制服を着た六人の侍女が入ってきた。二人は窓の厚いカーテンを開け、二人は寝台の天蓋を畳み、残る二人は昨夜の花びらを箒で掃き集め始めた。窓の外はまだ青黒く、庭師がランタンを地面に置いて花壇へ水をまいている。祝宴が終わっても働く人は眠っていられないのだと思うと、エラは屋根裏部屋で鶏より早く起きていた頃の癖で、反射的に布団を畳もうとした。
「殿下、それは私どもがいたします」
「でも、端を持つ人が二人いたほうが早いでしょう」
「王子妃殿下は、寝具の端をお持ちになりません」
侍女長は困ったように眉尻を下げたが、エラが手を離すまで布団を受け取ろうとしなかった。仕方なく寝台を降りると、冷たい大理石が素足の裏に触れ、昨夜ガラスの靴で擦った踵がひりついた。床には赤い点がひとつ落ち、若い侍女が黙って絨毯をずらして隠した。エラはその娘の名前を尋ねようとしたものの、別の侍女から腕を取られ、湯気の立つ洗面器の前へ座らされた。
淡い青色の朝用ドレスは、寝巻きより少し上等な程度だと説明されたが、袖口には銀糸で百合が刺繍され、背中には二十個もの小さなボタンが並んでいた。侍女たちは薔薇の香油をエラの髪に馴染ませ、櫛で何度も梳き、頭の後ろで隙のない形に結い上げた。屋根裏で暮らしていた頃は、髪に灰がついていても水で濡らして一本に束ねるだけだったため、これほど手間をかける理由が分からない。けれども、鏡の中の侍女たちは誰も笑っておらず、髪の一本まで王家の持ち物になったように見えた。
「朝食はヘンリー殿下と一緒ですか」
「王子殿下は四時半に起床され、近衛隊の朝稽古をご覧になっております」
「では、戻られるまで待ちます。昨日はほとんど話せなかったもの」
「本日のご予定に、その時間はございません」
侍女長から差し出された紙には、午前五時四十五分から朝食作法、六時十五分から発声、七時から隣国語、八時から王室史と、十五分から一時間刻みの予定が書かれていた。昼食にも「休憩」とは書かれておらず、食器作法の実習と記されている。午後には歩行、謁見、舞踏、署名、宗教儀礼が続き、就寝準備は午後十時だった。エラは紙を裏返したが、裏面にも翌日の課題が書かれており、自由時間を見落としたわけではなかった。
「これは、いつまで続くのですか」
「正式な立太子・妃宣誓式をお迎えになるまででございます」
「その式は、いつですか」
「枢密院の承認が得られましたら」
侍女長はそれ以上説明せず、予定表をエラの手から受け取って銀盆へ戻した。エラは、枢密院の承認など結婚前に済んでいるものだと思っていた。ヘンリーからは、結婚すれば二人で国をよくしていこうと言われただけで、その前に貴族たちの試験を受けなければならないとは聞いていない。問い直そうとしたとき、廊下から杖で床を突く硬い音が近づき、侍女たちは一斉に背筋を伸ばした。
王室筆頭儀典長マグダレーナ公爵夫人は、黒に近い濃紺のドレスを着ていた。襟元から手首まで肌を隠し、白髪を一筋も乱さず頭上へまとめ、腰には銀の時計と小さな鍵束を下げている。朝食室へ入った彼女は挨拶より先に卓上を見回し、曲がっていたナプキンを指先で直した。焼きたての丸パン、茸入りの卵料理、蜂蜜をかけた林檎、鶏肉の澄んだスープが並んでいたが、その顔には料理を楽しむ様子がなかった。
「おはようございます、エラ殿下。結婚式は昨日で終わりました。本日からは王族として働いていただきます」
「おはようございます、公爵夫人。私も働くつもりでおります」
「結構です。では、椅子へお掛けください」
エラが椅子を引こうとすると、後ろに立っていた侍従と手がぶつかった。椅子は侍従が引くものだと教えられ、座り直すよう命じられる。深く腰掛けると背もたれに触れてはならないと言われ、浅く座ると膝の位置が前すぎると言われた。三度目でようやく許され、エラがパンへ手を伸ばすと、今度は食事を始める合図がまだ出ていないと止められた。
「パンを取るだけでも、合図が必要なのですか」
「宮廷では、誰が最初に口をつけるかにも意味があります」
「冷めてしまいます」
「冷めた料理を笑顔でいただくことも、王族の務めです」
ようやく食事が始まり、エラは銀の匙でスープをすくった。朝から何も食べていない腹には、鶏の脂と香草の匂いがたまらなく魅力的だったが、口へ運ぶ直前にマグダレーナの杖が床を鳴らした。匙を持つ位置が先端に寄りすぎていると言われ、持ち直すと、今度は手首を曲げてはならないと指摘された。三回目には匙へ入れる量が多すぎると止められ、湯気の立っていたスープは少しずつ膜を張り始めた。
「公爵夫人、スープは飲むためのものでしょう」
「そのとおりでございます」
「では、飲ませてください」
「国中の誰よりも見られる飲み方を覚えてからです」
エラは奥歯を噛み、匙を皿の奥から手前へ静かに動かした。屋根裏部屋で食べていた朝の粥は水が多く、冬には表面が冷えて固まり、立ったまま木匙で掻き込まなければ義姉に呼びつけられた。それでも腹へ入れば体は温まり、そのあと井戸から水を十往復も運べた。目の前のスープには鶏肉も細切りの野菜も入っているのに、決められた角度を気にしているうちに味が分からなくなった。
「今の持ち方でよろしいですか」
「唇を尖らせてはいけません。音も立てず、匙を口の奥まで入れずに」
「注文の多いスープですね」
若い侍女が思わず小さく吹き出し、すぐに咳払いでごまかした。マグダレーナは侍女を一度見ただけで叱らず、エラへもう一度やり直すよう命じた。エラはようやく一口を飲み込んだが、塩味より先に銀の冷たさを感じた。そのあともパンをちぎる大きさ、卵料理を切る順番、ナプキンで口元を押さえる回数まで直され、食事終了の鐘が鳴ったとき、皿にはほとんど料理が残っていた。
発声の授業では、エラは腹へ手を当て、広い部屋の端まで声を届ける練習をした。講師から「王国」「臣民」「親善」という言葉を何十回も繰り返させられ、喉が乾いても水は休憩まで飲めなかった。隣国語の授業では男性名詞と女性名詞を取り違え、王室史では三百年前の王の愛妾と王妃の名前を逆に答えた。窓の外では洗濯女たちが白いシーツを干しており、風に膨らんだ布が重なったり離れたりするのを見ていると、一緒に籠を運びたくなった。
「殿下、窓の外に答えは書かれておりません」
「洗濯物が雨に遭わないかと思っただけです。西の空が暗くなっています」
「天候の判断は宮廷気象官の仕事です」
「でも、あの雲なら一刻もしないうちに降ります」
実際、四十分後には大粒の雨が窓を叩き、庭では洗濯女たちが慌ててシーツを取り込んでいた。エラは少しだけ胸を張ったが、マグダレーナは褒める代わりに、王妃は洗濯物が雨に濡れない制度を考えるべきで、自分で籠を抱えて走ってはならないと告げた。言葉の意味は分かっても、濡れたシーツを前に制度を考えている時間などあるのかと、エラには納得できなかった。
昼前の歩行訓練では、刺繍の重い黄色のドレスに着替えさせられた。裾を踏まない歩幅で回廊を往復し、立ち止まるときは右足を半歩引き、振り返るときは肩から動かしてはならない。朝から何度も履き替えた絹靴は踵に当たり、歩くたびに傷口が熱を持った。水桶を担いで坂道を上った日にも足は痛くなったが、あの頃は誰にも見られない物陰で靴を脱ぎ、土の上を裸足で歩くことができた。
「顔を上げてください、殿下」
「上げています」
「窓枠ではなく、王冠をご覧になる高さまで」
「王冠は天井にあるのですか」
「いずれ頭上に載せるものです。その重さに耐えられない首では困ります」
エラは汗で張りついた襟元を指で引きたい衝動をこらえ、顎を上げた。足の震えを止めようと太腿へ力を入れると、今度は歩き方が硬いと言われた。何度目かの往復で視界が白くなり、壁に飾られた歴代王妃の肖像が横へ傾いた。マグダレーナが腕をつかんだため倒れずに済んだが、公爵夫人の細い指には、見た目からは想像できないほど強い力があった。
「朝食をほとんど召し上がっていませんね」
「食べようとするたび、止められましたから」
「止められても、時間内に必要な量を召し上がる方法を覚えなさい。公務中に倒れれば、あなたの体調ではなく王家の弱体化として報じられます」
マグダレーナは侍女に蜂蜜水と小さな干し葡萄入りのパンを持ってこさせた。エラが礼を言うと、これは親切ではなく午後の授業を続けるためだと念を押された。それでも、柔らかなパンを噛むと干し葡萄の甘さが舌へ広がり、空っぽだった腹がようやく動き出した。マグダレーナは窓辺に立ち、エラが一個を食べ終えるまで次の指示を出さなかった。
「公爵夫人。なぜ、そこまで厳しくなさるのですか」
「あなたが失敗するのを待っている者が、宮殿の内外にいるからです」
「私は誰とも争うために、ヘンリーと結婚したのではありません」
「あなたが争いを望むかどうかを、相手は尋ねません」
マグダレーナは杖の先で、床に落ちたパン屑を指した。エラが拾おうとすると侍女に任せるよう止められ、その小さな屑さえ自分の手で片づけられないことが、朝から受けたどの注意より息苦しく感じられた。けれども、公爵夫人の言葉には、単なる意地悪では片づけられない硬さがあった。エラは蜂蜜水を飲み干し、震える足で立ち上がった。
「午後の授業をお願いします」
「よろしい。まずは謁見室へ入るところから百回です」
「百回も入ったら、百一回目には住み着いてしまいます」
今度は年配の侍従まで口元を隠したが、マグダレーナは眉ひとつ動かさなかった。ただし、杖を持つ手がわずかに緩んだことを、エラは見逃さなかった。
夜十時を過ぎて寝室へ戻ったとき、エラの髪からは朝につけた薔薇の香りが消え、汗と蝋燭の煙の匂いが残っていた。侍女にドレスを脱がせてもらうと、コルセットの跡が肋骨に沿って赤く残り、絹靴の内側には踵からにじんだ血がついていた。食卓には夕食の残りらしい冷えた鴨肉と硬くなったパンが置かれていたが、顎まで疲れていて手を伸ばす気になれなかった。ヘンリーは寝台の上で狩猟用の上着を広げ、ほつれた金ボタンを自分で縫おうとして、糸を何度も絡ませていた。
「エラ、ちょうどよかった。この糸をほどいてくれないか。侍従に頼むほどのことでもないと思ったのだけれど、どうにも輪が増えてしまう」
「貸してください」
エラは床へ座り、ヘンリーから上着を受け取った。絡んだ糸を見ると、屋根裏で義姉たちの靴下を繕っていた指が勝手に動き、数秒で結び目がほどけた。ヘンリーは感心して笑い、明日は郊外の森で狩猟会があるのだと楽しそうに話した。エラは自分も同行するのかと思ったが、明日の予定表には外交儀礼と舞踏訓練が記されている。
「王宮での一日目はどうだった。美しいドレスに、立派な先生たちだ。夢のような毎日だろう」
エラは返事をせず、上着のボタンへ針を通した。昼間に何度も背筋を伸ばしたせいで肩が固まり、指先にも力が入らない。ヘンリーは悪気なく笑っており、朝食を食べ損ねたことも、歩くたび靴の中へ血がにじんだことも知らない。その顔を見ていると、今日一日の出来事をどこから話せばよいのか分からなくなった。
「明日の狩猟会が終わったら、君にも森を案内しよう。湖のほとりに、とても美しい場所があるんだ」
「ええ」
「疲れたのか」
「少しだけです。ボタンは直りました」
エラは上着を渡し、血のついた絹靴を寝台の下へ押し込んだ。ヘンリーは彼女の額へ口づけると、明日も早いからと先に布団へ入った。やがて規則正しい寝息が聞こえ始めたが、エラは足の痛みで横になれず、冷えた鴨肉を小さく切って一切れだけ食べた。脂は白く固まり、香草の匂いも薄れていた。
同じ頃、宮殿北棟の枢密院会議室では、十数本の蝋燭が長机を照らしていた。飲み残された葡萄酒の表面には埃が浮き、書記官の袖口には乾きかけたインクの染みがついている。オルブライト侯爵は一枚の動議書を机の中央へ置き、平民として育った娘を次代の王太子妃として認めることは、王国の秩序と外交上の信用を損なうと主張した。出席者たちは互いの顔色をうかがいながら、用意された羽根ペンを手に取った。
「ヘンリー王子の正式な立太子は、妃となる娘の資質が確認されるまで延期すべきです」
動議書の末尾へ、ひとつ、またひとつと署名が加えられた。その音は宮殿の厚い壁を越えず、寝室にいるエラの耳へ届くこともなかった。午前零時の鐘が鳴ると、彼女は明日の五時まで少しでも眠ろうと、痛む踵を布団の外へ出したまま目を閉じた。




