↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
86/108

姉妹、不思議に国に迷い込む 2

 ×


 森という概念の定義について確かな知識があるわけではなかったので、緑子がこの場所を森と認めたことも完全に渋々という訳ではなかった。ただ疑問がない訳ではない。森とは山の一部分にすぎず、山全体を司る存在であるなら『山の精』を名乗るのが本来ではないか? ひょっとしたら『森の精』はあくまで中間管理職で、上司に『山の神』とでもいうべき存在がいるのかもしれないが、そうした疑問を緑子が森の精にぶつけることはなかった。極めて賢明な判断ではある。

 などというような疑問を引きずりながら山道を進んでいた緑子ではあるが、小さな洞窟の前に差し掛かった。緑子は姉から話を聞いてこの山の全容を少し知っている。この洞窟はまっすぐ進めば安全で抜けた先にいつも姉が芝刈りをしている場所があるのだ。

 「すごく良いことを教えてあげるわ。あなたのお姉さんはいつもここを抜けているのよ」

 よって、森の精からそのようなアドバイスをされるまでもなく、緑子はそこを抜けるつもりでいた。暗くて怖かったが勇気を出して一歩を踏み込んだところで、緑子は脇から声をかけられた。

 「そこのお嬢さん」

 振り向けば亀がいた。甲羅の大きさだけでも緑子の身長くらいある大きな亀であり、顔は赤黒いミドルであった。赤黒いミドルという言い回しにピンとこない読者の為に表現を変えるなら、とどのつまり脂ぎった汚いおっさんであった。 

 「私は今すごく困っているのです。どうか助けていただきたい」

 顔だけ汚いおっさんで甲羅と手足は陸ガメという、コスプレをしている変態かさもなくばデザインセンスのないファンタジーキャラクターといった姿をしていた彼ではあるが、どのように困っているのかは緑子の目にも一目瞭然であった。ひっくり返ってもだえていたのだ。

 亀というのは一度ひっくり返ると自分では元に戻れない性質のものが多い。姉妹も過去に縁日で釣った亀をひっくり返し、悶えているのを見て笑うという残酷な遊びに興じて叱責された経験がある。四歳とか五歳だったろう。あれはどちらが提案した遊びだったのか記憶は曖昧ではあるが、姉と同じくらい笑い転げた記憶があるので結局は同等の業を背負っているものと思われる。ただそれは脇道であってこのおとぎ話における姉妹とは何ら関係がない。

 とにかく重要なのは緑子が今決断を迫られているということであり、何の決断かというとこの汚いおっさんの顔をした亀を助けるか否かということである。緑子は四秒迷ってから答えた。

 「ごめんなさい。今急いでいるので、後でお姉ちゃんと助けに来ます」

 山道は険しく危険が多い。熊が出るかもしれないし蛇が出るかもしれない。汚いおっさんの顔を持つ巨大陸ガメが存在しているからには、他にももっと妖怪や悪魔のような存在がいてもおかしくはない。姉が不安がっていることは間違いないし、一刻も早く駆けつけ救出する為に余計な時間を食っている訳にはいかないのだ。緑子は深い罪悪感や申し訳なさを押し殺して亀をいったん見捨てて置くしかなかった。

 童話の世界では心清らかな主人公は困っている者は助けることになっている。だがしかし現実問題としては、身内に危険が及んでいる時に赤の他人に救いの手を差し伸べるべきではない。我が子が川でおぼれている時に道路の子猫をかばう親がどこにいるのだろう。脳内お花畑の魯鈍な偽善者の所業とまで言い切って大過は無いと思われる。

 しかしこの変態おっさん陸ガメ、そこまで他人の事情に理解がある訳ではなかった。ただでさえ赤黒いその顔をタコのように真っ赤にさせ怒りの形相を作ったかと思ったら、陸ガメの手足を甲羅内に引っ込めた。次の瞬間には人間の手足がにゅっと飛び出して来て、そうなるとそれは最早変態コスプレ亀オヤジとしか表現できない存在になる。

 「貴様ぁああ! 俺を見捨てる気かぁあああ! 許さんぞぉおおお!」

 変態亀オヤジはひっくり返った状態のまま両手足を使って立ち上がり、ブリッジの姿勢で猛スピードで緑子ににじり寄って来た。『エクソシストのような』と形容すればだいたいの人には通じるであろう例の走り方である。分からない人はネットで検索をかけるかテキトウに流してもらいたい。

 とにかく恐怖したのは緑子である。亀の甲羅は重くブリッジ走行は決して速度の出る走り方ではないはずなのだが、そのスピードたるやセカンドベースへ疾走するリッキーヘンダーソンをも彷彿とさせた。彼は盗塁王を十二回獲得している。メジャー記録だ。それはそうとおっさんはルパンダイブで甲羅を脱ぎ捨て緑子に覆い被さる。

 「きゃ、きゃあああっ!」緑子は悲鳴をあげる。

 「君が心優しい人間であるかどうかをテストしていたのだ」変態亀オヤジからただの変態オヤジにジョブチェンジした変態オヤジは言い放つ。「この洞窟には心の優しい人間しか入れない決まりになっている。君は不合格だ。おじさんがお仕置きをしてくれようではないか」

 童話にはあるまじき展開であるがこれは極めて大ピンチである。細い両手を脂ぎった手で掴み上げられ、緑子は滂沱の涙を流しガクガク震えて汚いおっさんを見た。おっさんの表情は嬉々としており、吐息を通じて伝わる激しい高揚からは、何が何でも緑子を性的な慰み者にしようという邪悪な意思が見受けられる。助けを求めて森の精の方を見はしたが、森の精はけらけらと腹を抱えて緑子を見守っているだけであった。

 民話というものは子供に聞かせる為の童話に姿を変える仮定で過激な展開は省かれるものだが、しかし元来は残酷だったり性的だったりする内容もいくらか紛れ込んでいるものであり、見捨てた亀に乱暴されると言う展開も俄然アリである。絵本として出版される頃にはこの展開は『怒った亀にビンタされそうになった』くらいにマイルドになっているものと思われた。

 しかし本当に乱暴されてしまっては困る。何故ならば西浦緑子は当作品の大切なヒロインなのであり、例えファンタジー空間であったとしてもレイプされて傷物になるなどということは望ましくない。それなりにエグい展開も書かれて来た当作品ではあるが、こんなどうでも良いバカ話で緑子をレイプさせるつもりは特になかった。

 よって、衰えた体力に鞭を打ち巨大な甲羅を背負って走りまくった挙句、一物をおっ立てて興奮しまくった結果、おっさんは心不全を起こして死亡した。元々持っていた心疾患が過剰な性的興奮により死を巻き起こしたのだ。

 白目剥いてばたんと緑子に向かってうつ伏せで倒れ、口から泡を吹いて倒れたおっさんを見て、緑子が味わった動揺は筆舌に尽くしがたい。ちなみに彼の腹上死はお互いが服を脱ぐ前に起きたことであり、緑子の貞操に直接的被害があった訳でないことは一応補足しておきたい。

 「あ……あ……ああ……」緑子は涙で塗れた顔で倒れたおっさんの肩を掴んだ。「し、死んでる……」

 いきなり襲い掛かって来て強姦の恐怖を味わわせたかと思ったら目の前で死ぬとかいう、他に何をどうしたらこんないたいけな少女にここまでの精神的負担を強いることができるのかと言わさんばかりの、はた迷惑なおっさんであった。今は訳が分からなくとも、自分がおっさんの死に関わったという事実は緑子の生涯に渡って拭い難く付き纏うに違いがなく、そのトラウマはふとした時に蘇り彼女の精神を苛むことに間違いなかった。周囲の人間としてはそっと寄り添って彼女の傷心が僅かでも癒えるのを見守るべきである。

 「おまえが殺したんだ」

 しかしむごいことをする奴はいるものだ。森の精である。森の精は呆然とする緑子を指さして、嘲りに満ちた表情で言い放つ。

 「おまえが殺したんだ。おまえがその亀を見捨てようとしたからその亀が怒って、それがその亀の死に繋がったんだ」

 「そ、そんな……」緑子は目を恐怖に振るわせながら目の前で自分に覆い被さっている変態亀オヤジの方を見た。

 「彼も森の一員として、心優しくない人間を森から排除するという信念に忠実だっただけなの。いくらあなたのお姉さんがピンチだからと言っても、ちょっとひっくり返してあげるくらい大した時間は必要なかったはずだし、それをしなかったあなたの非情さは間違いなく乱暴されるに値するだけの大罪だと私も思うわ。だから助けなかったの」

 「わ、わたしは悪かったけど……でも死んじゃうなんて……」

 「思わなかったって? わざと殺したんじゃないからあなたに責任はないって? あなたってば本当に軽薄な人間ね。あなたの非情かつ自分勝手な行動によって彼の死は引き起こされたというのに、その事実も認めず利己的な自己保身に走るだなんて、人間の風上にも置けないわ。あなたなんで生きてるの? 死ねば?」

 「う、ぅう。ぅううう……っ」緑子は思わず泣き出した。

 「泣く前にすることがあるでしょう? そのおっさんを丁寧に埋葬し遺族に謝罪し慰謝料を支払うことがあなたには求められているのではなくって? ちなみに遺族っていうのは私のことね。私は森の精だからこの森の全ての命の母であり神なのよ。あなたは今後一切私の奴隷としてこの森で働くことでこの度の非礼を償っていく義務があ……」

 などと言い終える前に、虫取り網を用いて森の精を捕まえる存在がいた。

 細かい網の中に閉じ込められて、網の口は手で握られて逃げ出しようもなく、もがけばもがく程身体に網が絡むようだった。最早緑子に悪態を吐き精神的に疲弊させ支配しようなどという余裕はどこにもなく、捕えられた羽虫同然の哀れさを持って暴れまくるだけの存在になり下がっていた。

 「なんやねんこいつ。珍しい虫やなぁ」緑子を救ったのは他でもない、姉・紫子であった。「緑子おまえ何やっとんねん。こんないやらしい奴にいじめられて可愛そうになぁ。でももういけるで?」

 「お、お、お……」緑子は感動のあまり自らの救世主に駆け寄った。「お姉ちゃぁあああん!」

 滂沱の涙を流しながら姉に縋りつく緑子。そんな妹の頭を撫でつけてやる紫子。感動の再会である。苦難を乗り越えた先にはハッピーエンドが待っているのが童話であろう。そうでない話も数多くあるが当作品はそれには当たらない。

 「緑子心配してきてくれたんかーありがとうなぁ」紫子は緑子の肩を抱きながら言った。「お姉ちゃん、芝刈りしよったらあちこち虫が這いよるん気になってな。食うたり売ったりできるかな思うて捕まえよったら夜になってしもうて……。ごめんよ心配かけて」

 などと言いながら紫子が取り出した虫かごの中には、ムカデやハチ、クモなどとモチーフにした怪虫たちがひしめいていた。頭部だけ恐ろしい人間の頭でそれ以外の部位はモチーフ通りというおぞましい妖怪たちである。今まさにそいつらは共食いを行っており虫かごの中は血と臓物塗れで阿鼻叫喚地獄と言って差し支えのない有様であったが、これをどうやって調理して誰に売るつもりだったのかは、姉が無事だったという事実の前では極めて些細なことである。

 「ううんいいよいいよ。無事でよかったよ」

 「ウチもおまえに大きなけががなくてよかったで。ほな帰ろか。その前にこいつどうにかせなな」紫子は虫取り網に入っている森の精をつまみ上げた。羽根を片手で強く握りしめられると飛行が不可能になるようで、森の精は紫子の手の中で苦悶の表情で身をよじるしかない。

 「ちょ、ちょっとあんた! 離せよ人間風情が! 私は高潔な森の精なのよ離さないと酷いわよ! ねぇ!」

 「森の精って、ここ山やん」紫子は緑子の方を見た。「せやのに森の精とかおかしいやん。なあ緑子」

 「うんそうだねお姉ちゃん」緑子は確固たる確信を持って頷いた。「お姉ちゃんの言うことが絶対に正しいよ」

 「こ、こらてめぇ! 約束破りやがったな!」森の精は憤怒の表情を浮かべる。「離せ! 離しなさい! 離せ!」

 「こいつ油で揚げたら美味いかもな」紫子は森の精の顔を覗き込む。「それか高ぁに売れるかも。持って帰ろうや」

 「は? 持って帰るって、ちょ、あんた……やめ……やめてぇええ!」

 紫子は虫かごの蓋を開けると、羽を握りつぶした森の精を情け容赦なく中に放り込んだ。ムカデやクモの怪物たちが共食いを繰り返す血みどろの地獄である。

 「なにすんのよ! やめてよ! 出しなさいよ!」羽を失って怪物たちの真ん中に落下した森の精に向かって、怪物たちはただちに寄ってたかる。「ま、待って。待って待って待って! たすけて! 謝るから! 色々全部謝るからぁ……あ、あ、あ、……いやあああああ!」

 こうして悪辣な森の精を退治した西浦姉妹は、二人で肩を抱き合いながら山を降りて行った。そしてそれからも幸せに暮らしましたとさ。

 めでたしめでたし。


 〇


 「今日はようけ寝とるなぁ」

 などと呟くのは四畳半の貧乏アパートにおける西浦紫子である。

 朝珍しく一人で目を覚ましてみたらこちらも珍しく妹が寝坊をしており、起こすのも難なので一人で身支度を開始した。今日くらい二人の朝飯は自分が用意してやろうかなと考えつつも、紫子は一人じゃ火も使えない不器用な姉であり、しょうがなく米だけ解凍して溶いた生卵をかけて啜ることで朝食とした。

 出掛ける時間までちょっとあるし妹の寝顔でも拝んでやろうかと枕元で膝を追ったところで、ガバりと妹が唐突に身体を起こした。

 「おうおはよう」紫子は笑顔で言う。「珍しなぁおまえが寝坊するんとか。まあでもようけ寝れて良かっ……」

 妹が唐突に抱き着いて来た。

 「お、おう」性根が甘えん坊な緑子なのでこういうことは良くある。「どしたん?」

 「すごい夢見た」

 「ほぇ?」

 「すっごい夢みたぁっ!」

 妹から夢の話を聞き終えて、精神病抜きにしてもこいつちょっと変わってるよなぁと紫子が思ったところで、この話はおしまい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。