姉妹、毒蛇と戯れる 2
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連日連夜のしらみつぶしの捜索にも関わらず、蛇の捕獲は未だ成されていなかった。
蛇という生き物は逃げられる速度も範囲も限られてくる。それは捜索範囲や時間が狭くて済むということでもあるはずだったが、捜索隊の努力は未だ実らないようだった。自称専門家たちは『既に死亡している』『鳥に浚われて捕食された』『悪意のある誰かに捕まった』などと説をでっちあげ、アナウンサーたちは『住人たちの不安が募っています』などと無責任なことを宣った。
紫子は不安を募らせる民間人の一人であった。紫子自身が不安なのはもちろんのこと、何もない虚空を指さして『そこから蛇が出て来るかもしれない』と怯える緑子をあやすのも大変だった。自分が守護者になってやれる時はまだ良いが不憫なのは自分の外出中で、アルバイトから紫子が家に戻ると窓ガラスにはガムテープがベタベタに貼り付けられ換気扇は板で覆われていて、緑子自身は布団を被ってガタガタと震えているという有様だった。
本人が怯える以上に姉のことが心配でたまらないらしく、結構な頻度でやって来る安否確認のメールに紫子は店長に訳を話しつつ返信してやらなければならなかった。最愛の妹の為とは言え疲弊は免れない。
よって一刻も早く蛇には捕まって欲しいのだが、テレビニュースはいつまでたっても吉報を寄越してはくれない。その日の朝のニュースでも『蛇の捜索は難航している』ということが伝えられ、紫子はげんなりとした気持ちになり、緑子は泣きそうな表情で姉に縋りついた。
「ねえお姉ちゃん。わたし、三倍内職するから。やりくりもうんとがんばるから。だから、だから、蛇が見付かるまでお仕事お休みできない? お外出るの絶対危ないよ」と緑子は主張する。「ほら見てよ。昨日だって寝ずにこれだけ作ったんだよ。きっと大丈夫だよ。ね? ね? お願いだよぅ」
有言実行とばかりに寝食を惜しんで造花作りに励むのがこいつの厄介なところである。本心から姉を心配する緑子を、紫子は日々疲弊しながらどうにかなだめる他なかった。
「……おまえがウチを心配してくれよるんは分かる。ほなけどそんな無茶はせんといてって」
「だって!」
「いやだってやのうてな自分。そもそもウチが出かけた先で蛇に噛まれて死ぬのなんて、事故にあうようなもんやんけ? 毎日自動車事故で何人死によると思うとんのや。それに蛇に噛まれるリスクが加わったところで、そんな大きな差はないねん。家計のこと考えたらやっぱり働いておかんと……」
「だってあちこちから聞こえるんだよぅ」緑子はかわいそうに泣きじゃくっている。「蛇がね、毎日毎日、キシャキシャ、キシャキシャキシャ! って、舌を突き出して嫌な音を出すの。玄関から出ていくお姉ちゃんを噛み殺そうと待ち構えてるんだ。外に出て行ったらきっとお姉ちゃんはあいつらに噛み殺されちゃうよ。お願い! 分かってよ! 分かってよぅお姉ちゃあん、びえええん!」
なんて泣き喚き始めるので紫子はアルバイト先に遅刻の連絡をし、数時間をかけて妹をなだめすかしてから出かけるということをしなければならなかった。説得が成功するまでにかかる時間は日に日に伸びてきており、かなり強い抗不安剤も試してみたが効果は一時的なものでしかなく、紫子は本気で休職することを考え始めていた。
〇
アルバイト先の休憩時間中、紫子は妹に無事を知らせる連絡を入れた後、妹の拵えた弁当をパクついていた。
弁当なんてもの前夜や朝食の残りもので拵えてしまえば良いと思うが、そこは緑子の主婦としてのプライドが許さないらしく、弁当には弁当用のおかずをきちんと入れて来る。こんなにしてもらってエンゲル係数は大丈夫かという心配に対しては、通帳を見せられて細々とした数字と共に説明された。とにかく大丈夫ということらしい。それで実際、どっからどうやってそんな金額を黒字にしているのかと疑うような貯金額が自分達の通帳には刻まれているのだから、紫子としては鬼経理と家事万能を誇る超高性能な妹に脱帽するしかなかった。
緑子は『お姉ちゃんのお陰でわたしは生きられている』とことあるごとに口にするが、実際は逆なのだ。妹がおらず一人切りの自分を想像してみればそれは分かる。家に帰ると洗濯物も洗い物もゴミも積みっぱなしで、部屋の真ん中には茶色くなった布団がゴミに埋もれるように置かれている。紫子は何もする気が起こらずその布団の上でただただ天井を見詰めていて、部屋の悪臭に耐えかねて外に出ると、同じ歳の女子高生共が楽しそうに笑いながらカラオケなんかに入っていく。生き甲斐を持たない紫子は中卒生保フリーターの自分自身を省みて涙を流すのだ。考えるだけでも死にたくなってくる。あらゆる意味で自分には緑子が必要なのだ。
「ねぇ西浦さん」アルバイト仲間の女が弁当食ってる紫子に声をかけて来た。「次の水曜日、バイト変わって欲しいんだけど」
「あん?」紫子は絶妙な甘辛さで味付けされたブリの照り焼きを飲み込んでから顔を上げた。「次の水曜?」
紫子は頭の中でカレンダーをめくる。妹を病院に連れて行く日である。さらに言えば紫子自身過眠を伴う無気力と無頓着の症状をもっていて最近それらは悪化傾向にあり、眩暈を感じる程の苦痛を飲み込みながらどうにか気力を奮い立たせ働いている。自分も薬をもらっておくべきだし一刻も早い休養が欲しい。
「ゴメン無理」紫子はそう答えざるを得なかった。
「なんで?」バイト仲間は責めるような口調だった。
「妹を病院に連れて行く日」
「それ何時までかかるの?」
「たぶん午前中で終わる」
「じゃあ午後からでいいから変わってよ」
「ちときつい」
「なんで!?」
「最近疲れとるねん……」
「だからって毎日のようにバイトを遅刻して来たらダメでしょうがっ!」バイト仲間の一人はそう言って紫子を怒鳴りつけた。「それでこっちがどれだけ迷惑してると思ってんの? ビョーキの妹がいたら何やっても許される訳? 傲慢よ!」
「悪かったなぁ!」紫子はそう言って机に手を突いて吠えかかる。「てめぇに何が分かるかいアホボケ! そんなにウチのことが目に余るいうんやったら店長に言ってクビにでもなんでもさせぇやこらぁ!」
紫子の剣幕に女はたじろぐ。興奮のあまり情緒不安定に陥った紫子は、女の目に向かって箸を振りかざそうとした。
「ちょっと! 西浦さん落ち着いて!」騒ぎを聞きつけて事務所からやって来た店長がそう言って紫子をなだめすかした。「何してるの!? 何があったの?」
紫子はなけなしの冷静さで箸を放り投げ息を整えた。危ないところだったと思うと冷や汗をぐっしょりかいた。女は被害者の顔をして泣きじゃくっている。紫子は喧嘩の内容を説明した。
「なんとか回せてるしそんなに迷惑にはなってない。妹さんの容態のことはしょうがないから気にしなくていい。でも西浦さん、箸で刺そうとするのはダメだよね?」
店長がそう言うので紫子は「はい、すいません」とかなんとかどうにか細い声で答える。
「……あんまりあの子を刺激しちゃダメだから」店長はこちらをちらちら見ながら喧嘩相手の女に声をかけている。「事情のある子だって聞いてるでしょう?」
「……クビにできないんですか? あたし殺されかけましたよ?」
「…………今日のことは本部の人にも相談してみるから。エリマネの人が面談に来るんじゃないかと思う。場合によっては……」
聞き耳を立てているとどうやら自分にとって良くない方向に話が進んでいるらしい。紫子は溜息を吐く。この分だと、自分から休職を申し出るまでもないかもしれなかった。
×
しこたま精神安定剤を飲んだことと、姉から無事を知らせる電話の声を聞いたことで落ち着いた緑子は、さっきから聞こえていた蛇の声がなくなったことに安堵していた。
常に台所の引き出しとか本棚の裏とかから蛇の声が聞こえて来るので、緑子は布団を被ってじっと恐怖をこらえていなければならなかった。自分が噛み殺されるならまだ良いが、冷静になった時につらいのは姉に迷惑をかけていることである。もう何回も自分のわがままでバイトに遅刻させてしまった。その所為で店長に叱られている紫子を想像すると、緑子は地獄のような罪悪感と自己嫌悪感に襲われ、それがまた気分をネガティブにさせるのだった。
蛇の声が聞こえなくなった代わり、窓の向こうから女性同士のものらしき話し声が聞こえて来る。良く耳にする声なのでこのアパートの住人の誰かだろうが緑子は顔を思い浮かべられない。
『ここに住んでいるのは人間の屑だ。姉に迷惑ばかりかけている』
そんな声が聞こえた。悪口を言われているのだ。緑子は耳を塞いで布団の中に潜り込んだ。
『ただ家に引きこもって誰の役にも立たないのみならず、毎朝大騒ぎをして迷惑を振りまいている』
耳を防いでも音量が変わることはない。こんなのを今聞かされたら死んでしまうのに、世界は地獄で誰もかもが緑子を責め苛もうとする。優しいのは姉だけだ。
『こんなのの面倒を見ている姉も姉だ』
『見捨ててしまえばいいのに』
『見捨てないのは、姉の頭もおかしいからだ』
『キチ〇イの姉もキチ〇イだ』
緑子はとうとうわが身を抱いてガタガタと震え始めた。なんでこんな酷いことを言うのだ。自分のみならず最愛の姉の悪口まで言うだなんてあまりにも酷すぎる。緑子は涙を流す。
増して姉に見捨てられるだなんて緑子は考えるだけで死にたくなる。たった一人路傍で野垂れ死んでいる自分や、精神病院の冷たい檻の中で手足をベッドに括りつけられている自分が想像され、その悲しさと寂しさに緑子はのたうち回るのだった。
携帯電話からメールの着信音が鳴り響く。
画面を開く。姉からだ。無事を知らせる報告と緑子の様子を心配し励ます言葉がつづられている。優しい言葉をわざわざ苦手なメール入力作業をしてまで送って来てくれるのは、緑子の励みになることを知っているからだ。姉からのメールを見つめ続けることが緑子にとって何よりも強力な安定剤となることをあの人は知っているのだ。
こんな優しい人が自分を見捨てるはずがない。見捨てられるなどと想像してしまうこと自体が姉に対して不実なことなのだ。あの人は神聖で完璧な存在であり無限大の優しさを持って自分のようなゴミ屑を養ってくれている。紫子は絶対に自分を見捨てない。緑子はその確信を新たにすることに成功し、その場を立ち上がった。
窓の向こうでは女同士が囁き声を続けている。良く聞こえなくなったがきっと姉の悪口に違いない。そう思うと『アホ』だの『ボケ』だの『チビ』だの『単細胞バカ』だの『小学校二年生レベルの学力』だの『でも最近三年生くらいになった』だのと姉を見下す文句が聞こえて来るようだった。
緑子が悪口を言われた時紫子はいつだって立ち上がって立ち向かってくれた。そうすることで自分は味方なんだということを緑子に示し続けてくれた。なのに自分がそれに応えなくてどうするのか。例え相手に反撃されて殺されるのだとしても、ここで自分は姉の為に立ち上がらなければならないのだ。
忠義心から来る使命感によって緑子は玄関の扉を開け放った。『ふつうに昨日見たテレビの話をしていた』二人の主婦は、血走った目で飛び出して来た尋常じゃない様子の女児に気付いて、思わずあと退りした。
「お姉ちゃんを……お姉ちゃんをそんな風に! そんな風にいうな!」緑子は興奮してそう喚きながら、主婦二人組に突貫した。「うわぁあああああ!」
「「きゃあああああああ!」」
主婦二人組は顔を見合わせて、迫りくるキチ〇イから逃げ惑うしかなかった。
「変な子が追いかけて来る!」「きっとアタマがおかしいわ。誰か助けを呼んで!」
「うわぁああああん! わぁああん! お姉ちゃぁあああん! うわぁああああん!」
大騒ぎしながら走りまくる緑子は、自分の片脚の膝から下が常人にはありえない角度で捩じれていることを忘れていた。かつて骨折を長時間にわたって放置された後遺症である。緑子はできもしない全力疾走をした結果あえなく転倒した。
「きゃふ」
仰向けに倒れて顔を擦りむく。そしてそのままの体勢で盛大に嘔吐した。




