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姉妹、水族館に行く 1

 〇


 少しうす暗い世界は青い光に包まれている。光の中で色鮮やかな魚たちがきらきらと鱗を光らせながら泳いでいる。まるで海の中にいるみたいだなと紫子は感じた。

 「今日は水族館にやってきました」緑子が何故か実況風に言う。「お魚が綺麗です」

 「どこにリポートしとるねん」

 「将来わたしが今日の日のことを思い出した時、幸せなのが伝わるように」緑子はうっとりとした。「お姉ちゃんと二人だけでこういうとこ遊びに来れるなんて夢を見てるみたい」

 「ウチらもう、どこへでも何べんでも好きなとこ一緒にいけるでぇ」紫子は妹の肩を抱いた。「自由なんやからなぁ」

 「うん! お姉ちゃん」

 まあ考えてもみれば施設時代は同じ時間を過ごすのもどうしたって限られたし、それでも許されるだけの時間を共有して日々を生きる糧としていたが、今みたいに気楽にレジャーに行けることはなかった。妹がいつにもまして上機嫌なのも頷ける。紫子も気分が良い。

 近所の水族館である。姉妹の両親は家族サービスで金のかかるところに連れて来る人ではなかった為、水族館など正直初めてだったりする。魚って意外とでかい。

 「あ、見てお姉ちゃん」緑子はきゃっきゃと指さした。「マンボウだ」

 でっぷりと丸っこい身体をした魚が巨大な水槽をぼんやり泳いでいる。名前と姿形は知っていたが実際目にするのは初めてだ。

 「お、ホンマやなぁ」紫子は頷いた。「でかいなぁ」

 こうしてみると相当でかい。上背は紫子の身長くらいあるし体重は数倍だろう。まん丸い瞳といいもにょもにょ動いている唇といい結構表情がある。俺はこんな狭いところに入れられて退屈なんだぞと言っているようにも見えなくもなかった。

 「こんだけでかかったら強いんやろなぁ」と紫子。

 「そうでもないみたいだよ」と緑子。「ほら、この魚だけ他の魚と違って、網みたいなシートで守られているでしょう?」

 「ほういやほうやな? なんで?」

 「ほとんど真っ直ぐしか進めないからこうしないと壁にぶつかって死んじゃうの」

 「とろこいな!」紫子は言った。「ほんでもこんなゆっくりしか泳がんのに、壁にぶつかった如きで死ぬんかいな?」

 「皮膚に擦り傷ができるでしょう?」

 「かすり傷で死ぬん?」

 「ばい菌が入ったら」

 「よ、弱くない? こいつ……?」紫子は目を剥いた。「ま、まあ、魚なんてそんなもんかもしれんが……」

 「お魚さんの中で極端に弱いっていうんじゃないんだけど、ちょっと飼育は難しいらしいね。ナイーブな子だよ。ほら、そこに『シャッターを叩かないでください』って注意書きがあるでしょう? あんまり驚かせすぎるとストレスでやっぱり死ぬから」

 「い、言われてみればほうやなぁ」紫子はうんうんと頷く。「まあ、広い海からこんなところに閉じ込められとったら、そらちょっとナイーブにもなるわな」

 まあ魚の扱いに注意が必要なのはマンボウだけに限らないだろう。人間とは違う生き物である以上人間には考えられないような弱点を持っていて当然だ。だがこの巨大でのんびりとした魚がそうやってナイーブだと、なんというかコミカルでそこがまた愛嬌に思えて来る。

 こいつも慣れない水槽の中で苦労をしている訳だ。ストレスを感じ取るアタマがあるというのは残酷でもある。広い海を思い出し自分自身の状況を憂える程の脳みそがないことと、飼育員がこいつを幸福に扱ってくれることを祈るばかりだ。

 そうやって二人でマンボウを見上げていると、近くでパシャパシャという音が鳴り響いた。

 視線を向けると、カップルらしき高校生くらいの男女が馬鹿笑いしながらマンボウを撮影しまくっている。ニコニコと肩を抱き合っている姿は仲良さそうで何よりだが、しかし哀れなのはマンボウだ。

 「おまえちょっとここでマンボウ見とれ」紫子は言った。

 「え? ど、どうし他のお姉ちゃん?」困惑する緑子。

 紫子はずんずんとカップルに歩いて行って、カメラ機能を持つスマートホンの前に立ちはだかった。

 「あ? ちょっと、どいてくんないあんた? 邪魔なんだけど」スマホを掲げていた女が言った。

 「なああんた。こいつシャッターとかされたらびっくりしてあかんのやって」紫子は諭すように言った。「なんかそういうチューイガキがあるとかいうて。やめとき、それ。あんた字ぃは読めるんやろ?」

 「は? しらねーし」女は眉を顰め、恥をかかされて心外だとばかりに紫子を睨んだ。「なんてあんたみたいなガキに偉そうに注意されなきゃいけないの? 失せなよ」

 そしてあなたのことなんて興味ありませんよという態度でこれ見せよがしに再びシャッターを切り始めた。男の方は苦笑している。我意の強い女らしく自分みたいなチビに注意されたこと自体に腹が立つらしい。『あんた字ぃは読めるんやろ?』にムカついたのかもしれない。漢字読めない紫子的には嫌味でも何でもないのだが。

 紫子は眉を顰めて女のスマートホンをはたき落とした。

 「ああ?」女は目を剥いて紫子に迫った。「なにすんのガキ!?」

 「なにすんのはマンボウの方じゃわこら!」紫子はマンボウの偉大なる代弁者となって女にキレた。「こいつはなぁ! どこにも逃げ場ないんじゃわあんたみたいなアホうに嫌なことされてもな? それちょっとは考えたれアホんだら!」

 「生意気!」女は紫子の胸倉をつかむ。

 「や、やめ、やめてぇ……」近くから緑子が脚を引きずって歩いて来た。「お姉ちゃんをいじめないで。やめてぇ……」

 喧嘩になりそうな空気を察して止めに来てくれたらしい。えぐえぐと泣きじゃくりながらどうにか女をなだめようとするか弱い妹の登場に、女は顔をしかめた。如何にもよわっちぃ表情のこいつが加わることで誰の目にも女が悪者になる。

 「……これじゃあたしが悪いみたいじゃない」女は不承不承という表情で紫子を離した。「覚えてなよ」

 スマホを拾ってずんずん歩いて行く。男の方はでくの坊みたいに後ろをちょこまか付いて行った。あんな気の強い女と付き合うのは大変だろう。

 「すまんな緑子」紫子は妹の頭を撫でた。「助かったで」

 「うん、うん」緑子はそう言って鼻をずるずるする。拭ってやる。

 どうにか妹をなだめ終えた頃、向こうから水族館の職員らしき男がやって来た。

 「あなたですか? さっき女性と揉めてたのは?」

 「せやけど?」紫子は言った。「注意しといてアイツに。ホンマアホうがおるなぁ。マンボウも気の毒やで」

 「スマホに傷がついたとおっしゃっていますのでちょっとこちらに来ていただけますか?」

 「え? いやまあ確かにウチはスマホを払いのけたけれどもそれはマンボウが」

 「来ていただけますか?」面倒臭そうな顔で職員。見れば後ろから同じ服を着たのが三人くらい駆けて来る。そして紫子の周囲を固める。

 「え? ちょ、ま」紫子はがたいの良いのに連れて行かれながら困惑している。「待ってぇ。ウチ悪ぅないって。待ってぇ!」

 「あ、ちょっと、お姉ちゃ……」緑子は追いすがろうとする。

 「あなたはここで待っていてください」職員が緑子の前に立ちはだかる。「すぐに済むようにしますので……」

 緑子は取り残された。


 ×


 「可愛そうなお姉ちゃん」

 そう言って緑子はべそをかいて膝を折り座り込む。

 「マンボウさんを守ってあげたのになぁ。叱られてるのかなぁ。……でもお姉ちゃん悪くないもんね」

 『本当にね』声が聞こえた。『あなたのお姉さんは悪くないわ』

 「え? 誰?」緑子はきょろきょろとあたりを見回す。「誰? 誰誰?」

 『ここよ』真正面から声がする。『私が見えない訳がないでしょう?』

 マンボウだった。

 「マンボウさん?」緑子は水槽に縋り寄った。そうだ、被害者である彼女なら一緒に紫子を弁護してくれる。

 『マンボウさん?』しかしマンボウは緑子の発言に気分を害したように、丸い目でこちらを睨みつけて来た。『あなたは『人間さん』呼ばわりで腹が立たないのかしら?』

 「あ……ええと、す、すいません」

 『すいませんでなく、所詮マンボウはマンボウだからと一括されることが、どれだけ個人の権利を踏みにじり多くの屈辱や精神的苦痛を齎しているのか、それを理解しているのかを聞きたいの』

 「ご、ごめんなさいぃい」緑子はべそをかいた。

 『ごめんなさいじゃないわよ。ただ謝れば良いと思っているの? 具体的に私がどんな風に傷付いたのかを理解した上で、こちらの納得が行くように落とし前を付けることが、誠意のある謝罪というものなのではなくって? あ? 手を付いて謝ったって無駄よ。そんなのはただの体勢だから』

 「ひ、ひぃいん」

 ネチネチとしたマンボウに数分ほどイジメられる。水槽の前で一人でマンボウに謝ったり手を着いたり言い訳したりしている緑子のことを、周囲の人々は身を退いて遠巻きに見詰めていた。

 『……まあいいわ』マンボウはようやく良しとしてくれた。『あなたのお姉さんには守ってもらったからね。それに免じて今回は許して差し上げましょう』

 「あ、はい。はい、すいません」緑子は目に涙を溜めて言った。

 『ちなみに私の名前はビクトリカ・ギャラクシーエンジェルだから覚えておきなさい』

 「分かりました。ビクトリカ・ギャラクシーエンジェルさん」緑子は頷く。「それで……どうしてわたしに話しかけたんですか?」

 『あなたになら私の言葉が通じると思ったからよ』ビクトリカ・ギャラクシーエンジェルは言った。『仲間の一人もいない水槽で、飼育員には言葉なんて通じない。そんな状況じゃあアタマがおかしくなりそう』

 「さ、寂しいですよね……」緑子はいたく同情した。「お友達もいないんじゃ、つらいですよね……」

 『同情するなら行動してほしいのよ』ビクトリカ・ギャラクシーエンジェルはそう言って緑子に凄む。『私、海に恋人がいたの。一緒に十億個の卵を作りましょうって約束した恋人がね。でも私だけこんな遠く離れた水族館に幽閉された』

 「か、かわいそう……」緑子は両手を絡めた。「好きな人と一緒にいられないのは世界で一番つらいことだよ……」

 『けれど自分の力じゃ絶対にどうしようもない。あまりにも巨大すぎる隔絶が私と彼の間には立ちはだかっているの。それに助けを求める相手もいなかった……あなたが来るまでは』

 「わ、わたしが来るまでは……?」

 『あなたは人間よ。自由に動けるし、話すことで何かを訴えることができる。この私を救い出せるのは世界にあなたしかいないわ。……助けてちょうだい』

 「そ……そんな」緑子は凍り付いたように動けなくなる。自分にどうすればいいのだ。大きなバケツを持って来てビクトリカ・ギャラクシーエンジェルを入れて海へ運べばいいのか? そんなのどこにあるんだ!?

 『そこの職員にお願いしてちょうだい』ビクトリカ・ギャラクシーエンジェルは言った。『私を海に返してくださいって……。いいこと? 上手にお願いするのよ』

 緑子はすごく気の重い足取りで近くの職員に歩み寄った。先ほどまでマンボウの水槽の前で泣き喚くようなパントマイムをしていた恐ろしい少女が近づいてきたことで、職員はあからさまに狼狽して身構えた。

 「す、すいませぇん」緑子はおどおどと言った。「び、ビクトリカ・ギャラクシーエンジェルさんを恋人のところに連れて行ってあげてくださぁい……」

 「はぁああ?」職員は意味不明という表情を浮かべた。さもあらん。「ちょ、ちょっと、その……ねぇ君。保護者の人はどこかなぁ……?」

 「お、お姉ちゃんはなんか、職員さん達に連れて行かれて……」緑子は職員の足元に縋りつき、頭を地面に擦りつけて懇願した。「お願いしますぅ……っ! ビクトリカ・ギャラクシーエンジェルさんを助けてあげてくださぃいい!」

 「えぇえええ!」職員はポケットから無線を取り出して口元に当てる。「応援をお願いします。応援をお願いします。情緒不安定な来場者様。マンボウ水槽前……応援お願いします……っ!」

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