姉妹、猫殺しと対決する 後編6
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アパートの階段を降りると茜は力強く壁を殴りつけた。
皮膚が破け、衝撃が骨の芯まで伝わる。悶絶しそうな程の激痛だったが、しかし最早茜の苛立ちを和らげるものはその痛みだけだった。自分自身を傷つけるかのように何度も何度も壁を殴りつける。
紫子が自分の腕を切り刻む気持ちも分かる気がする。ぶつける先のない怒りや悲しみをそれでも何かにぶつけなければ耐えられない時、人は自分を傷付ける。茜は堅いコンクリートの壁を殴り続けた。
「ちょっとちょっと。茜さん」背後から胡桃が組み付いて茜を止めた。「さっきから様子おかしいよ? 君の中で何が起こっているのかは知らないけど、とりあえず壁殴るのはやめな。そんなんでケガしちゃバカらしいって」
「なら代わりにあなたを殴っても良いですか?」
「かまわないさ」胡桃はさらりと言ってのけた。
「では失礼して」
栄光の右ストレートを胡桃の顔面に向けて打つ。来るのが分かっていた為か胡桃はそれを難なく両手で受け止めた。壁を殴るのと比べれば柔らかい衝撃が走り、茜の頭の芯が冷えていく。
「……どうした?」胡桃は顔をしかめて両手を握り合わせる。流石に痛いらしい。「何をそんなに腹を立ててるの?」
「……あいつ、私のことてんで信用してやがらねぇ」茜は苦虫を噛み潰すような顔で言った。「私はまだ狼少年らしいですね……クッソ」
幼い頃の話だ。紫子達の母親が再婚し、しかしその男がとんでもない糞野郎で、双子姉妹がそいつにいびられるということがあった。仕舞いには母親が娘二人を捨てて逃げ出し、残された姉妹は家政婦扱いされ、何か失敗するたびに殴られるか煙草の火を押し付けられるかなんかした。姉妹はいつも怯えて泣いていた。
当時十歳の茜は紫子を勇気付ける為にある約束をした。『自分が強くなって、糞ったれの義父をやっつけて、紫子と緑子のことを救ってやる』と。
半ば本気だった。半ば本気で、半ば戯言だった。茜自身、それとも本当に自分が義父を倒すつもりでいるのか。それともただのその場しのぎの元気付けなのか、いまいちよく分からないでいたように思う。自分の手で義父を倒してやりたいと思ったことは本当だったが、けれど同時に、茜は顔を想像するのも嫌なくらいに姉妹の義父が怖かった。
白くて柔らかい姉妹の腹には青黒い痣が無数にあって、背中に刻まれた煙草の火の跡は六年以上たった今も生々しい。紫子の爪を剥がれた時、緑子が脚を折った時、泣き言を聞きながら茜は内心で酷く怯えていた。そんなことのできるのは本物の悪鬼だけだ。可能なら顔を合わせるのすら恐ろしい。けれど友達だから見捨てることもできない。
今の自分じゃ太刀打ちできない。だから、姉妹を救い出すのは『自分が強くなってから』だ。茜は父親にねだって道場に通わせてもらい稽古に打ち込んだ。
才能は誰の目にもあって茜はどんどん強くなった。しかし拳を如何に磨いても戦う勇気は得られなかった。そのはずだ、子供を虐待する大人に立ち向かうのに十歳の少女では荷が重すぎる。約束はいつ果たされるのかと救いを求める紫子には、今はまだ修行中だと言い訳をした。その度に茜の心は深い罪悪感で覆われて、それ以上に深刻な恐怖感によって塗りつぶされた。
茜の言い訳と先送りが片手で数えられなくなった頃、紫子は自分自身で決着を付けた。
義父は死んだ。姉妹の家の前をパトカーが行きかうのを呆然と眺めながら、茜は、自らの矮小さと卑怯さを思い知らされた。
最悪な心地がした。あんな思いはもうしたくない。
「……なるほどねぇ」茜の話を聞いて、胡桃はそう言って眉を顰めた。「それでか。君がそんなに強いのは」
「腕力だけなら当時と比べて大分強くなりましたよ」茜はそう言って腕を組んだ。「当時私は自らの弱さと卑怯さの為に親友を失いました。紫子ちゃん達とは六年以上離れ離れになって……離れ離れになっている間中、紫子ちゃんの中で私はホラを吹いて希望を持たせて裏切った嘘吐き人間だったのでしょう」
そこまで言って、茜は先ほど部屋の前で行った紫子とのやり取りを思い出す。
「……今もきっとそうです。現に紫子ちゃんは私に何も期待をしていませんでした。弱さと卑怯さの代償です。私は狼少年なんですよ。このままだと一生涯、私はあの子に信用なんてされないでしょう」
「今の君が如何に強くて気高かったとしても、集団動物殺害犯を捕まえることは難しい。警察にもできないことを一女子高生にできる道理はない。紫子さんはそれを知っている。君が無茶なことを言っているのだと今の紫子さんは分かっている。それでも彼女は君を許しているよ。弱いとも卑怯だとも思っちゃいない」
「…………」
「君は大した女の子だけれど、スーパーマンじゃあ決してないんだ。でも紫子さんはスーパーマンじゃない君のことを掛け替えのない友達だと思っている。茜さん、だから……」
「私はスーパーマンではありません。ですが東条茜ではあります」茜はそう言って胸を張った。「舐めないでいただけます? 私という人間は、あなたが思うよりずっとずっと気高いのです」
胡桃はそこで面食らったようにポカンとした表情を浮かべた。茜はふふんと鼻を鳴らす。そうだ、そうだとも。茜は自分の腹の底から巨大な自信とエネルギーが湧いてくるのを感じていた。
紫子達が遠く離れた施設に移されてから、全てが間に合わず大切なものを失ってしまってから、それでも茜は拳を磨き続けて来た。それは今この時の為ではないか?
信用というのは一瞬の勇気で取り戻せるものではない。ずーっと地味でまっとうな積み重ねによってのみ果たしうる。十歳から十七歳まで七年間、茜は強くなり続けて来た。強さと気高さを併せ持ち、どんなことにも飄々としていられる、無敵の、完璧の、成りたかった東条茜になったではないか? 何を恐れる必要があるというのだろう。
「失われた信頼は取り戻せば良いのです。調子に乗ってでかいことを吹いたとしても、成し遂げてしまえば文句は言わせません」
「茜さん……まさかとは思うけれど、本当に犯人探しをするつもりじゃないだろうね?」
「するつもりですよ?」茜はそう言って腰に手を当てた。「紫子ちゃんが私のことを信用していないなら、その鼻っ面を圧し折ってやるまでですよ。今の私ならできます」
そう言って茜は胡桃に背を向けてアパートの敷地の外へ歩き出す。
「まあ見ていなさい胡桃くん。あなたの惚れた女というものを見せて差し上げますよ」
「……それは楽しみだ。ごめんね茜さん、見損なってたよ」胡桃はそう言って苦笑し、小走りで隣に付いて来た。「君なら相手がどんな悪の組織だって問題にしないだろうけど、僕にも一緒に戦わせてくれないかな? こき使ってくれれば良いさ」
「あら、いいんですかそんなことを言って? 私は容赦しませんよ」
「僕は君の味方だし、君の味方である紫子さん達の味方でもある」
「良い心がけです」茜はそう言って胡桃の肩を掴んだ。「付いてきなさい」
揃ってアパートの外に出ようとすると、近くで自動車のクラクションの音が鳴り響いた。
二人が視線を向けた先には一台のオンボロ車が停止していた。オンボロ車は数メートルの距離を徐行すると茜達の前で停車する。運転席の扉が開いて中から細長い人影が現れた。
「……『北野』さん?」茜は目を大きくする。
「……い、いや、『ハイカワ』さんだと聞いてるけれど」胡桃は困惑する。
『どちらでも』
身長百九十センチ程の白いシャツとジーンズの女性はひょろりと車から降りると、縦向きにした大学ノートに向けてマーカーを殴り書きにする。それから爬虫類を思わせる動きで首を傾げて見せると、人類とは到底思えない程の無表情ぶりでこう書き足した。
『本名は北野』
「私が正解のようですね」茜は心なし胸を張って胡桃に言った。「こないだは家まで送っていただきましたね。いやぁ助かりましたとも。……それで、何の用で?」
『ねこ殺しの犯人をつかまえるなら』
北野がページをめくると、あらかじめ描かれていたのだろう文章が表示される。話を聞いていたらしい。
『あたしは協力する』
『ねこたちはただ生きているだけ』
『人間が好きほうだいにしたちきゅうの上で、自分達の在り方で生きているだけ』
『こうげきされるいわれはない』
『あたしは口はきけないけれど、運転手くらいにはなれる』
ページをめくり終え、北野は『どうだろうか?』と言わんばかりにこちらに視線を送る。
まったくの無表情だったが、その顔が少しだけ不安そうにも茜には見えた。なんとなく、目の前の女性がとても大きな勇気を出していることは理解できた。
何かをするのに、誰かとつるむことを好むようなタイプには見えない。だがこれは北野一人で何とかなるような問題ではない。それで自分達を……。
「……良いでしょう」茜はそう言って腕を組んで頷いた。「頭数は多いに越したことはありません。しかし大将は私です。私の言うことには従ってもらいます。そうすればあなたの目的は達せられ願いは叶うことでしょう。保証いたします。お任せください」
北野はそういう妖怪だと言われれば信じてしまいそうな程細長く色白な腕を伸ばし、やけにキレのある指の動きでサムズアップをした。
「ありがとうございますハイカワさ……北野さん」胡桃はそう言って北野に近付いた。
『気にしないで』北野はノートの文字を殴り描く。『あの子たちはあたしにとっても友達』
「期待しています」茜は自分の親指を立てて見せ、やけに高いところにある北野の手にぶつけて見せた。「我々はたった今から目的を共にする仲間です。必ずや敵を打ち滅ぼし勝利を友に捧げましょう。良いですね?」
三人は頷き合った。




