姉妹、猫殺しと対決する 後編4
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夜の暗闇は視覚以外の五感を敏感にする。砂や土、木々の匂いが、最近めっきりと涼しくなった空気と共に流れて来る。
茂みの影で待ち伏せというのはなんだかドキドキした。本当に虹川がやって来るかどうかは良く分からなかったけれど、夜食を用意しての張り込みは楽しかった。
姉はただ待ち続けるというのが得意な性質ではない。すぐに弁当を食べたがり、食べ終えるとしきりに妹の自分に話しかけ遊びを持ち掛けた。
お互いのコードネームを決めようという流れで『パープル』『グリーン』というのを提案したところ、『お互いの本名に繋がるようでは意味がない』として却下された。だったらうんと本名からかけ離れたものをと考えた結果、『アムステルダム』と『口内炎』にそれぞれ決まった。
やがて夜の九時を回り、姉の根気というか覚醒の限界を迎えようとしたところで、足音がアパートの裏にやって来た。
「ねぇお姉ちゃん。人来たよ」
「え? ホンマ?」とろんとした目で紫子は言う。
緑子が指差した先には大柄なものと華奢なのもの二つの人影があった。片方が華奢に見えるのはもう片方が異様に巨大であるからで、背丈はもしかしたらハイカワさんと同じくらいで、横幅もドカンと大きく、シルエットからして筋肉質だ。
迷彩柄のタンクトップがはちきれんばかりの巨躯は、海外の軍事や格闘家を思わせる。アジア人らしからぬ彫りの深い顔立ちや、短くした髪が鮮やかな金色であることからも、おそらくは西洋人だろう。年代は三十台から四十代程。
「ネコのホカクキを仕掛けたというのはここデスカー? 狩人の血が騒ぎマース! 早くチェックしまショー!」
「でかい声出さないで下さいよミスターブラウン。つかあなた本当は日本語ぺらぺらじゃねっすか? なんでわざわざそんな変なカタコトの喋り方するんすかねぇ」
隣の華奢な影が言った。チューブトップにホットパンツという風邪ひきそうな恰好の、細く見えるが引き締まった体格の女性だった。緑子の知っている中だと茜に近い体格。こちらは日本人、それも高校生くらいの少女に見える。
「キャラ付けデース! 我々ガイコクジンがジャパンで愛されるには上手な日本語ダメダメ。ちょっとカタコトなくらいがお茶の間にも愛されマース。それで人気者になったガイコクジンタレントたくさんデース! いわゆるショセージュツ! HAHAHA!」
「……そっすか。でもミスターブラウン。偉いテンション高いですけど、あなた猫殺しとかあんま乗り気じゃなかったっすよね?」
「イエース! キャットキリングなどナードの遊びデース。バイオレンスをエンジョイするなら戦場がナンバーワン! ワタシ戦争でヒトたくさん殺しました! クンショウイッパーイ!
今更小動物など殺したところでエクスタシーはアリマセーン!」
「……の、割にはノリノリなんですけど」
「マイエンジェルからのお願いなら仕方アリマセーン。彼女の心の時間は止まってマース。幼い頃オベンキョーのストレスを解消する為に、猫を殺していた癖が未だに治りマセーン! 世にいうアダルトチルドレーン。でもそんなところもまたベリーキュート。ワタシ従順な下僕デース。彼女の笑顔を見る為ならなんだってやりマース!」
言いながら、ミスターブラウンと呼ばれた外人は茂みの中に手を突っ込み、捕獲機を引っ張り出した。そしてその中のからあげが既に消えてなくなっているのを確認して、首を捻る。
「ホワイ? ノーキャット&ノーチキン。どういうことデスカー?」
「……見付かってるっすね」
日本人女性の方がそう言って首を振った。
「シンク=サン、それはどういうことデス?」
「いやだから、猫にから揚げだけ取って逃げるのはできないから、つまりこの捕獲機が人間に見付かったってことっすね。警察に回収されてたりしないってことは見付けたのは子供かもしれないですが……どっちにしろもうここに捕獲機設置するのはやめた方が良さそうっす」
「オー! マイゴーット! 手土産無しで帰ったらマイエンジェル悲しみマース! ドウシマショー!」
「その辺から一匹捕まえて帰りゃよくないっすか? このアパートあちこち猫いますから楽勝っすよ。ゴミ置き場が狙い目っすかね」
「ナイス・アイディーア!」
それからその奇妙な二人組は、おそらく猫の姿を探してだろう、あちこちに視線を飛ばし始める。
きっと虹川がやって来ると思っていた。しかし現れたのはおよそ奇妙としか言いようのない二人組だった。ブラウンと呼ばれている外国人と、シンクと呼ばれている日本人女性。言動からして、捕獲機を仕掛けたのが彼らであることは間違いなさそうだったが、彼ら意外にもかかわっている人間がいそうな雰囲気もある。
もしかしたら、この事件は緑子が思っているよりもよほど複雑で、そして大きなものなのではないだろうか……。そう思い、隣の姉の方に視線をやった。
「……緑子」紫子は小声で言った。「あいつらこっちに歩いて来とる。このままやと多分、見付かる」
「え?」緑子は困惑する。確かにそうだ。
「おまえ隠れとれ」紫子は冷や汗をかきながら言った。「動くなよ。音たてるな。えぇな?」
「え、えっと、お、お姉ちゃん……」いったい何を……。
紫子はガサガサと音を立てながら茂みを突っ切って二人組の前に姿を現した。緑子はその無謀な行動に息を呑みこむ。
「おまえら!」いきなり現れた少女にポカンとした表情を浮かべる二人組に、紫子は吠えた。「おまえらか? この捕獲機仕掛けたんは!?」
「アチャー。見付かったっぽいっすわ。茂みに隠れてたってことは話聞かれてますね」シンクと呼ばれていた方の女がそう言って肩を竦める。「どうします? ミスターブラウン」
「オー! キュートガール!」ブラウンはそう言って両手を叩く。「この子を攫った方がキャットキリングより百倍おもしろそうデース!」
「冗談は止してくださいよミスターブラウン」
「冗談ではアリマセーン! 顔を見られたからには口封じの必要がアリマース!」
「たかだか動物いじめるくらいのこと隠すのに人攫いとかねーっすから。……つーか」女性は頬に酷薄な笑みを浮かべる。「こいつ西浦姉妹の姉の方じゃねーっすか。近所で有名なキチガイ」
「キチガイ?」
「狂人とかガイジとかジンジャーっすね。これ上手くやればこっちはノーダメですむっすよ」
「オー! リアリィ?」
「何を相談しよるねん!」紫子はそう言って二人に向けて一歩踏み出す。「ウチが見付けたからにはもうこのアパートで殺す為の猫探すんとか許さへん。今日はとっとと失せろや」
自分をかばったのだ。緑子は理解する。緑子をこの二人の目の前に晒さないために、紫子は自分一人で矢面に立ち、相手を追い払おうとしているのだ。
「ただで失せたらあんた警察にウチらのこと話すんじゃねーっすか? ブラウンの外見はこの町に二人といませんし、明日には事情聴取にやってきますね」女性は紫子に一歩ずつ近づいて行く。「あんたらのことは先生から聞いて知ってるっすよ」
「ウチらのことはどうでもえぇやろ? とっとと……」
「失せろって? やーなこった」女性はそう言ってけらけら笑い、いきなり正面から紫子に組み付いた。
緑子は息を呑みこんだ。それは姉が最も嫌う体勢だったからだ。誰かから真正面から組み伏せられ、抑え込まれることに紫子はトラウマを抱える。過去に義父にそうされて背中に煙草の火を押し付けられた経験を思い出し、パニックに陥ってしまうのだ。
「ちょ……あんた、何を……?」
「こうされるとパニくるんすよね? ユカリコちゃん?」シンクと呼ばれていた女性は嘲るように言った。「カッターナイフでも何でも好きなだけ振り回したらいいんすよ? そしたらあたしらの方からあんたのこと通報してやるっす。そこであんたが何言ったって、キチガイの戯言っ訳っすね。アハハっ」
「や、やめろ!」緑子はいてもたってもいられず茂みから飛び出した。目に涙を溜めながら叫ぶ。「お姉ちゃんをいじめるなー!」
「ワオ! キュートガールがもう一人!」ブラウンは手を叩いた。「ニンポーブンシンのジュツデスカー?」
「多分妹の方っすね」シンクは紫子を地面に両手で組み伏せ、暴れる矮躯を軽々抑え込みながらけらけらと笑った。「脚引き摺ってんのが妹。変な訛りがあるのが姉。こいつら双子なんすよ」
「お姉ちゃんを離せ!」緑子は携帯電話を目の前に突きだして喚き散らす。「け、け、警察を呼んだんだからね。今も通話繋がってるんだからね。だから今すぐお姉ちゃんを離せ!」
「オー! ポリスメン!」ブラウンがあからさまに身震いした。「デンジャーデース! シンク=サン今すぐ逃げマショー!」
「逃げる必要ねーッスよ」シンクはそう言って鼻を鳴らす。「ミスターブラウン。そいつ眠らせて」
「ホワイ?」
「先生はこの近くにいます。すぐに呼べば警察より先に到着するはずっす。言いくるめてもらいましょう。先生ならどうとでもできるっすよ。そいつは邪魔なんで眠らせてください」
「オー! イエース!」
そう言ってブラウンがずんずんこちらに近づいてくる。近くで見ると猶更巨大だ。緑子より五十センチ以上は大きい。その迫力だけで緑子は腰を抜かしてしまいそうだ。全身が震え、凍り付き、気が遠くなる。
「み、緑子」組み伏せられた状態で、脂汗を吹きながら紫子はこちらに視線を送る。「緑子、逃げぇ……」
ブラウンは嗜虐的な笑みを浮かべると、緑子の小さな頭をそれ以上に巨大な片手で掴み上げ、軽く持ち上げたかと思ったら、残るもう片方の手で激しく首筋を叩いた。
世界が大きく揺れる。名状しがたい気持ちの悪さが全身に波紋のように広がったかと思ったら、どさりと、自分の身体が地面に落ちる音が耳朶を打った。そして暗転。
〇
紫子は自室で目を覚ました。
アタマが酷く痛い。身体中が汗だくで、強い吐き気を感じた。得体の知れない恐怖感が全身にあり、それを払拭する為にまずは妹の姿を探した。
体を起こしあちこち視線を送ると、近くで座り込みすすり泣いている緑子が目に入った。震える身体でぐすぐす嗚咽する姿は弱々しく、紫子は胸が張り裂けそうになる。何があった……?
いや、それは自分が覚えているはずだ。確か、そう。猫の捕獲機を発見して、それを仕掛けた人間がやって来るまで妹と二人で待ち伏せをして、やって来たのが性質の悪い二人組で、そいつらの片方に組み伏せられて自分は気を失ったのだ。あれからどうなった……?
「み、緑子」紫子は思わず妹に駆け寄る。「緑子? いけるんか? 何が……何があった?」
「あたしが説明します」
思わぬ声に振り向く。虹川姉がいた。そこにいるのがさも当然であるかのような表情で、ちゃぶ台の前に正座してニコニコとした表情を紫子達姉妹に注いでいる。
なんでこいつがこんなところにいるんだ……? 紫子は混乱する。虹川姉は全てを見通したような表情で優しげに紫子達に笑いかけると、透き通った声音で話し始めた。
「あなた達はお二人で外で遊ばれていたんですね。そこでどうやら、女子高校生と在日欧米人の男性の御二方と少しトラブルになったようなのです。その二人が言うには、猫を捕まえて殺そうとしていたという言いがかりを付けられたのだとか。そこでお二人はその男女にそれぞれ掴み掛って取り押さえられ、意識を失ったのだとか……」
「言いがかりちゃう!」紫子は叫んだ。「あいつらは、ホンマに猫を殺そうとしとったんや!」
「……あなた達が言うからには、そのお二人はあなた達にとってそう見えかねないような行動を取っていたのだと思います」虹川姉はそう言って力なく俯く。「ただの勘違いなんですよぅ。悪い人は、どこにもいないんです」
「思い込みや見間違えとちゃう! はっきり自分らで仕掛けた言いよったん聞いたんや!」紫子は吠えた。「それに緑子はあのガイジンに首を叩かれて気絶させられたんやで? 許せへん!」
「その外国の方には安全に他人の意識を失わせる心得があったのだそうです。緑子ちゃんはその時酷く興奮していて、そうしなければその場にいた全員に危険がありました。あの行動は、緑子ちゃん自身を守る為でもあったのです」
「ふざけんな!」紫子は虹川姉に掴み掛る。「つかなんであんたがここにおるねん!? おかしいやろ!?」
「たまたま通りかかったので」虹川姉はそう言って紫子の瞳をじっと見返す。その表情から慈母のような笑みが消えることはない。見ているとつい油断させられて力を抜かれてしまう……そんな奇妙な魔力に満ちた笑みだった。「警察の方にあなた達のことを説明したのです」
「何を勝手なことを!?」紫子は限度までのルサンチマンを動員してそれに耐え、虹川姉に噛み付いた。「そういうのあかんのとちゃうんか!?」
「……守秘義務は守っています。分かってください。あそこで警察の方に適切な説明を施さなかった場合、あなた達は今頃警察署にいたかもしれないのです。二人はあなた達に暴力を振るわれたと証言していますし、またあの捕獲機から出た指紋はあなた達二人だけのものでしたから……」
「ちょっと、待って……。あの捕獲機はホンマにあいつらが……」
「あなた達には少し時間が必要なんです」虹川姉はそう言って真剣に頷く。「大丈夫、悪いようにはなりませんから。あたしはあなた達の味方です。話せるようになったら、いつでもどんなことでもあたしに話してくださいね」
「待って! 何? 意味わからん。まるでウチらが悪いみたいな……」
「今はゆっくり休まれてください」虹川姉は紫子の頭を撫でる。「近い内に警察があなた達に話を聞きに来ます。あなた達はありのまま見たことを話せばいいんです。心配しないで。きっと分かってもらえますよ……」
緑子が嗚咽している。その瞳には絶望の色が浮かんでいた。自分達の力ではどうしようもない事態を目の前にして、苦痛と諦念に限界まで傷付いた時の表情だ。二度と見たくなかったし、二度とこんな顔にはさせないと誓ったはずだ。なのに、どうして……。
「安心して」虹川姉は何一つ悪意や嘲りを含んでいなさそうな屈託のなさで笑って、その場を立ち上がった。「取り返しのつかないことなんてないんですから。あなた達の根っこはとても優しくて素晴らしいのですから。お互いを想いあって、強い絆で結ばれていて……とても羨ましい」
言いながら、虹川姉は部屋の隅、本棚の上に置いてあった帽子を手に取る。この間アパートの敷地内で拾った、紫子達の友人だった虹川梢が付けていたのと、同じ帽子だ。
虹川姉はそれをひょいと自分の頭にかぶせて見せた。そうすると、それがそこにあるのが自然であるかのように良く似合う。
「素敵な帽子ですね」虹川姉はにっこり笑った。「どこで手に入れたんですか?」
「……あんたにゃ関係ない」紫子は言った。「帰って」
「はい」虹川姉は帽子を脱いで、元あった場所に返してから、玄関に向かう。「いつでも病院に来て下さい。お話ししましょう」
虹川姉が立ち去っていく。紫子は何もできずにそれを見送った。
時計の針の音。妹の嗚咽が聞こえて来る。
沈黙を保ったまま、紫子はポケットからカッターナイフを取り出した。台所へ向かうと、無数に蚯蚓腫れの刻まれた手首にそれをあてがい、強く力を籠める。
焼けつくようなその痛みをじっくりと味わうようにして、紫子は新たな傷を自らに刻み付けて行った。熱い血が滴る。脂汗をかいて、泣きたくなって、それでも紫子は手を止めない。
耐え難い程弱い自分を殺す作業には地獄のような苦痛を伴う。だがそれを乗り越えて紫子は強くなる。そして妹を守れるようになるのだ。自分だけの力で。
紫子はそう信じていた。だが実際そこには何の根拠もありはしない。ただ生々しい傷跡だけが、彼女の心を代弁するかのように生きた体液を垂れ流すに過ぎなかった。




