姉妹、猫殺しと対決する 前篇6
〇(※)
数日の時が流れ、虹川にとって紫子たちの中学で過ごす最後の一日が終わる。
養護学級ではささやかにお別れの行事が行われた。造花でできた花束を渡す役目は紫子が行い、虹川は無表情でそれを受け取った。
「さようなら。またあいましょー」
紫子がそう言ったのが棒読みだったのは、それが今生の別れ出ないことを知っていたからだ。また会いましょうどころか、ほんの数十分後にまた会う約束を取り交わしている。
妹と二人で近所の公園まで歩いた。例の『双子の池』のある公園だ。
虹川は池の柵に背中を預けてぼんやりと待っている。変な上級生だったが、間違いなく友達だったことの証拠に、離れ離れになるとせつないものだ。最後の最後に別れの儀式をやる時間を持とうという二次川の提案を、姉妹が断る理由はない。
「寂しくなるなぁ虹川くん」紫子は言う。
「また会えるよ。手紙書くから」緑子が言う。
「君達との友情はボクにとって非常に愉快なものだった。君たちと知り合ってからの一年半は、ひょっとするとボクの人生でもっとも楽しい時間だったかもしれない」
虹川は言った。大げさなことをと思ったが、それを口に出す気にはなれなかった。別れ際、自分達の友情は真実だったと確かめ合う儀式が三人には必要で、その一環としてこれだけ大げさなことを虹川は言ってくれている。ならばそれに答えるのが紫子達の友情だ。
「これな、ウチらの施設の電話番号やねん」紫子はポケットから紙切れを手渡す。「向こう着いたら電話番号とかも変わるんやろ? そしたらここに電話してそれ教えてくれや。住所とかもな。手紙書くし電話するわ。また会おう」
「そうそう」緑子はほほ笑んで頷く。「わたし達ね、中学出たら二人で暮らすんだ。どんな風に生活を始めるのが良いかとか、わたし達の立場で国からどんな支援が受けられるかとか、そういうこともちょっとずつ調べてるの」
「緑子は賢いけんな。きっと上手いことしてくれるわ。ウチもバリバリ働いて家賃とか稼ぐで。そんでな、ウチらが自分らの城を手に入れたら、虹川くんは最初のお客さんにしようと思うねん。また色々変な話聞かしてくれや。な?」
「……それは光栄だけれど」虹川は柵から身体を起こし、こちらに一歩、歩み寄る。「そうしてもらう権利を、ボクは多分、持っていないだろうね」
「何いうとるねん? 友達やろ」紫子は言う。「あんたのこと変な奴やと思うとるけどでもやっぱり友達や。ウチらのこととかもな、他に友達おらん寂しい姉妹とかバカにするんやなしに、仲良しで良いねって言うてくれるやん。せやから……」
小刻みに揺れる手が自分の手に添えられた。
体温ですぐに分かる。これは妹の手だ。紫子は隣を振り向く。緑子が震えている。震えながら、自分にしがみ付き、困惑した表情で虹川の背後を見詰めている。何かに怯えているようだ。
「どうしたん? 緑子」
「あれ……」緑子は虹川の背後の池を指さした。「金魚が死んでる」
紫子は目を凝らす。
柵の向こうで、二つの池の内の片方で、八匹の金魚が水面に浮いていた。
「洗剤なんか撒くのは素人だ」虹川は言って、ポケットから薬液の入っていたらしき小さな容器を取り出す。「専用の薬っていうのがあるんだよ。魚ってのは害にもなるからね。これなら殺し損ねる心配はない。イチコロさ」
「あんた……何をいうとるん?」紫子は目を剥いた。自分も震えだしたくて仕方がなかったが、しかし今この瞬間にぶつけなくてはならない質問が数えきれない程存在していた。「悪い冗談はやめろや。限度がある。その金魚はなんや? いつから死んどるんや?」
「ボクは君たちより十分早く到着しただけさ。緑子の脚を考えれば、ボクがここに来てから君たちが到着するまでかなりの余裕があることは分かっていたからね。その間に、金魚を殺しておいたんだ。君たちに見せる為に」
虹川は体を池の方に向け、二つの池にそれぞれ視線をやる。二つある池の内、片方には二匹の金魚がお互いの姿を追うようにゆっくりと泳いでいて、もう一つの池では八匹の金魚が真っ赤な腹を晒して水面に浮いている。生きてはいない。
「金魚は二匹が良い」虹川は視線をこちらに戻す。「三匹目はいらない。二匹で良いんだ。お互いがお互いだけを求め、他に何もいらない。それで良いんだ。三匹目は、いらないんだ」
「何が言いたい!?」
「校内で動物を殺していたのはボクだ」虹川はそっけない口調で言った。「理科室の亀も談話室の鳥も手芸部の魚も校舎のあちこちで首を吊っていた猫も、ボクの仕業さ」
「なんで」緑子は涙を溜めた瞳で虹川を見詰めた。「どうして、そんなことをしていたの?」
「……孤独だったから」虹川は言った。「君たちには分からないだろうね。いつだって誰にも見向きをされず、いつも一人で膿んだ時間を持て余していた。動物殺しとして人から疎まれて恐れられてあざ笑われて、ようやく自分が自分であることを主張できたような気がした。そんなボクの気持ちを、きっと君たちにだけは、分からないだろうね」
「ドアホ」紫子は言った。「アホかっちゅうねん。でもえぇわ、ウチは別にえぇ。友達や。虹川くんはウチらの友達や。せやからなんでそんなことしたんか話してくれ。そんでそんなアホなことはもう二度とやめてくれ」
「今話した以上の説明はないさ。そして君たちにはきっと理解できない。……それで良い」虹川は溜息を吐く。「君たちには謝っておきたくてね。紫子がイジメられた責任の半分は水倉と草壁、残りの半分はボクだ。何せ紫子は校内で起きていた動物殺しの……ボクの罪まで背負わされたいたのだからね。それがなければ少なくとも火口とかいう奴には何かされずに済んだかもしれない。だから謝るよ。今日まで話せなかったことも含めてね」
「そんなんは別にえぇ」と眉を顰める紫子。
「終わったことだよ」と泣きそうな顔の緑子。
「ありがとう」虹川は言う。「良い友達を持った。もう終わったことだけどね。そう、もう終わった、終わりにしたんだ。それでもきっと、姉さんが知ったら怒るんだろうな。頭をこんな風にするんじゃ、きっと済ませてくれないんだろうな」
「何を言って……」緑子は目を見開く。
「君たちのことは本当に心底から羨ましいと思っていた」虹川は目を伏せる「本物の絆がいつだってすぐ傍にある。その一点だけで君たちは様々な責め苦に耐えられたんだろう。だけれど……だけれどね」
顔をあげ、こちらを見た虹川の表情には、見たこともないような酷薄な笑みが浮かんでいる。
「この先の人生、共に生きる君達の前に、本物の悪意が立ちふさがることがあるだろう。今回、君達が巻き込まれたような児戯みたいな出来事じゃない。いつか本物の悪鬼が本物の悪意を君たちにぶつけるだろう。そうなった時、たった二人の君達は、いったいどうなってしまうのだろうね」
そう言ってから、虹川は姉妹に背中を向けて歩き始める。
「さようなら。ボクの友達。君達といるのは楽しかったよ」
立ち去っていく虹川に、紫子は何もできない。妹を放って走って追いかければ追い付けるだろうが、それは紫子にはできないことだ。
なら言葉を浴びせてみるか? そう思いつつ、紫子は何も言うことができなかった。『おい』とか『待て』とかそのくらいの言葉なら思いつくが、そこからどう言葉を繋げば虹川の心に届くのかが分からない。
いや、違う。届かせようだなんて本当は考える必要はないのだ。怒りでも憎しみでもいいから、今紫子の中で破裂しそうになっている感情を、何でも良いからとにかくぶつけるべきなのだ。何なら殴りかかったって構わない。それでどんな結果になったって、黙って見送るより遥かにマシだ。それが分かっているはずなのに、紫子は何もできなかった。それは己にその勇気がないということを意味していた。
「ねぇ、ゆっくりで良いよ!」緑子が叫んだ。この妹は本当は紫子よりも遥かに強い。「今は何も言わないでいいからさ、連絡先だけ教えてよ。ちょっとずつ、何年かかっても良いから、虹川くんの話を聞かせて欲しいの。このまま終わりなんて寂しいよぅ」
「もう会うことはないだろう」虹川は言った。
やがて虹川の姿が消えた。姉妹は取り残された。施設の連絡先も渡せなかった。お互い以外でたった一人だけ存在していたはずの友達は、もうどうにも手の届かないところへ消えてしまっている。真っ黒な悲しみと、行き場を失った怒りが紫子の内側で奈落のように渦を巻いた。
やがて緑子が泣き出した。紫子は姉の身体に縋って泣いているその背中を抱きしめて、彼女が失った以上のものを与えてやることだけに注力した。それは姉として絶対にやらなければならないことで、そして今の紫子自身にとって必要な行動にも他ならなかった。
自分達はこうして支え合える。補い合える。だからお互い以外に何を奪われても大丈夫だ。けれども……。
自分達という友達を失った虹川は今、たった一人で、どんな気持ちでいるのだろう。
それを思うと、紫子は消えて行った友達のことがますます分からなくなる。妹の身体を抱きながら、紫子はどこまでも遠い秋の空を睨むようにして見上げていた。
〇
「ほんで。ホンマにそれっきりだったよな」
四畳半に挽いた布団の中で、十六歳になった二人が長い思い出話を終える。
「あの野郎マジで連絡して来ぇへんかった。ナンボ連絡先教えてへんかったからいうて、ウチらの施設がどこかっちゅうことくらい分かっとるんやから、調べようはあったやろうにな」
「……きっと無理だよ」緑子は言う。「あんな別れ方をして、虹川くんの方からまた会おうとすることなんて、きっとできないよ。だからあの時、虹川くんを引き留めるのに失敗しちゃったのは、良くなかったね」
「んなこと言うてもなぁ」紫子は目を細める。「あいつ、ホンマ意味分からんかったし。ウチらに何をいうて欲しかったんか、何をして欲しかったんか、ホンマ意味分からんかった」
「きっと虹川くんにだって分かってないよ。自分にも分かってないことを分かってくれるような人だなんて、わたしにとってのお姉ちゃんくらいしかいないよ」
自分には緑子がいる。今の自分達にはお互いという幸せだけが残っている。緑子の薬の量も少しずつ減って、その分パニックを起こすことも増えたけれど、けれどもそのことでどこかに浚われて離れ離れになる心配もまたなくなった。世間的にも、紫子は姉として正式に緑子の守護者になれたのだ。
自分達は望むものを手に入れた。戦いと忍耐の物語は終わった。だがあの時離れ離れになった虹川は、今はいったいどうしているのだろう。分からない。
だが分からないままで良いような気も、紫子は正直している。
虹川は言っていた。金魚は二匹で良いと。お互いがお互いのことだけを求めて他は何もいらない。それで良いのだと。一時的に知りあいが出来ることはあっても究極的な部分では姉妹の心はいつも二人きりだった。そんな二人の生き方を理解し、認めてくれたという点で、紫子は虹川に好意を持ったのだ。
だが姉妹のことを理解してくれた虹川のことを、紫子はどれだけ理解しただろうか。そもそも理解しようとしただろうか? そうではなかったから彼女は姉妹のところから離れて行ったのではないだろうか。その場合、虹川にとって姉妹は必要な存在ではなかったということになる。だとすれば自分に虹川のことを気に掛ける権利はないし、またその必要もない。
「……また会えるかな」緑子は姉の顔を覗き込みながら言う。その表情には憂いがあった。たった一人で消え去って、今何をしているか分からない過去の友人に対する憂い。
「……分からんな」紫子は妹の手を握る。「でもきっと、虹川くんにはウチらは必要やなかったんやと思う。だから、心配したってしょうがないってウチは思うで。友達は助け合うものやけど最後の最後は独立独歩や。ウチらとは違う。あの年上の変な人を信用するしかないと思うで」
「そうだよね」緑子はそう言って姉の身体に抱き着いた。布団の中で二人の体温が混ざり合う。そうすることで姉妹は生きて来た。どんなに傷ついてもお互いで癒すことができた。きっとこれからもそうやって生きていくのだろう。
それだけで良いと思っている。それだけが必要だと思っている。けれど、それを肯定してくれた友達は、別れ際に、こんなようなことも言っていたのだ。
『いつか、本物の悪鬼が本物の悪意を君たちにぶつけるだろう。そうなった時、たった二人の君達は、いったいどうなってしまうのだろうね?』
知れたこと。本物の悪鬼も本物の悪意も経験済みだ。乗り越えて行ける。紫子はそう言い聞かせ、妹の身体を強く抱きしめる。
気が付けば、緑子の瞼が降りていた。自分より先に妹が眠ったのはいつ以来だろうと思い返し、思い返そうとする思考はしかしすぐにほどけて、依存しあう二人の魂が絡み合いながら眠りの世界に落ちて行ったところで、この話はおしまい。




