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姉妹、猫殺しと対決する 前篇4

 〇(※)


 その時の緑子は割とヤバかった。姉の身体に縋りついて『お姉ちゃんが殺される!』と半狂乱で泣きじゃくりまくり(もう助かっとるちゅうねん)仕舞にゲロ吐いた。

 保健室に連れて行きしばらく寝かせたら落ち着いた。その程度で済んだという言い方もできる。椅子を火口に振り下ろしてでもいたら今度こそヤバかった。

 紫子がリンチをされずに済んだのは紛れもなく妹のお陰だった。火口の容赦のないやり口は聞いている。女子トイレに連れ込まれた被虐者が、出て来た時には髪が散切りになっていただとか、便所の水で顔がどろどろになっていただとか鼻血が出ていたとか次の日から学校に来なくなったとか、その手の噂は枚挙に暇ない。積極的にそうした目にあいたいかというとそんなことはもちろんなく、よって紫子は妹に注意を呼びかけつつ感謝している。

 ただイジメは始まった。

 鬱陶しい嫌がらせが繰り返された。靴の中に画鋲とか、朝来たら机が倒れていたりロッカーの中身があちこち散らばっているとか、机とか教科書とかノートに『動物殺し』『キチガイ』『ケーサツ行け』みたいな落書きがなされるだとか、そういうことだ。

 時たま火口が怒りの形相で現れて、根拠のない追及を繰り返し自白を迫るのには特に辟易する。向こうは自身の攻撃行動の正当性を立証したくてたまらないが、こちらはやっていないことを認めるつもりはなく、よって両者の主張は平行線だ。

 「本当に草壁がやったの?」

 たまに、ごくたまに、火口は真剣な表情でそんなことも紫子に聞いてくることもある。

 「だからそうやって言うとるやん」

 「信じられないんだけど。アイツ、最近はつまんない奴だけど、でも生き物のことはすごく大切にする子なんだよ。家で飼ってるチワワとか金魚とか、無茶苦茶大事にしてるんだよ」

 「そんなことウチはしらんがな」

 「ねぇあんた。それが人に信用してもらおうって人間の態度?」

 「笑えるわ」紫子は笑ってやる。「何の罪もないウチがなんであんたみたいな偉そうな奴にへりくだらんとあかんねん」

 火口は怒りの形相で紫子の髪の毛を引っ張る。紫子はずっと笑い続ける。こんな奴に何を理解させようというのだ。くだらない。どうでもいい。


 〇(※)


 たまの休みは妹と公園に出掛ける。

 その公園には双子の池と銘打たれた小さな池があり、『双子』と言うだけあって二つの池が並びあっているのだが、『双子』という割に両者のサイズはまちまちだった。片方がもう片方の二倍以上に大きくて、金魚だか鯉だかよくわからない真っ赤な魚が小さい方に二匹、大きな方に七匹か八匹程度泳いでいた。

 柵に身体を預け、妹と並んで魚の様子を見守る。この赤い魚は緑子がいうには鯉ではなくて金魚らしく、誰かが縁日で掬ったのをテキトウに漂流した内の生き残りが、育ち切ってこのサイズにまでなったらしい。

 「なごむわ」

 『なごむ』の意味は正直良く分かっていないが、この状況に即していることはなんとなく分かる。今この場所には紫子の嫌いなものは一つもなくて、好きな妹だけがある。

 夏の残滓の消えかかった九月の下旬は過ごしやすい気候ながら少し寂しい気持ちもする。秋の空は遠くて見知った公園だと言うのに世界の果てにいるような心地がした。きっと自由っていうのはほんの小さな片隅にほんのちょっとだけあるものなんだろう。

 「喉乾かん?」

 「そうだね。近くに蛇口あるとこってどっかあったっけ? 最近どこも撤去されたからなぁ」

 「ふふ。緑子、ウチらもたまにゼータクせんとあかんのではないかな?」

 「ジュース買うの? 良いんじゃないかな」

 施設の子供が金銭を入手する機会は少ない。己がものを失くしやすい性質であることを知悉する紫子は、妹になけなしの小金を渡して一まとめに管理してもらっている。今や自分達にとって共有財産で無いものなど数える程もなかった。

 最近CMでやってた海外から日本に上陸したばかりの炭酸飲料を買った。財布持ってるのは緑子なので見ていただけだが。その一つで売り切れ。ラッキー。

 池の傍にあるベンチに腰掛ける。「はいお姉ちゃん」と一口目を譲ってくれる妹からペットボトルを受け取ったところで、息を切らした足音が目の前を横切った。

 誰であろう、それは草壁だった。

 紫子は眉を顰めてその姿を睨む。こいつがいるということは後から火口やその取り巻きがやって来るということではないのか? そう思い、怯える妹の手を引いて紫子は立ち上がる。

 「ちょっとあんた達」草壁は紫子達を呼び止めた。紫子は返事をせずに妹と一緒に立ち去ろうとする。

 「待てっつってんでしょ!」

 「そない言われて待つ奴おるかい」

 「そのジュース譲ってくんない? まだ飲んでないでしょ?」

 「あ?」紫子は眉を顰めて草壁を見やる。「ウチがあんたに芋の皮でも譲ることがあると思うとんのか?」

 「意味わかんない。火口さんがこれ買って来いっつってんのよ。もう三軒目よこの自販機で。コンビニも売り切れ! 電話で怒ってたしマジ最悪。早く寄越せって。金出すから!」

 紫子は妹と顔を見合わせた。この話が本当なら火口は少なくともここには来ないということだ。

 「良い気味やな」紫子はせせら笑った。「でもそんなん、ウチがあんたのこと嫌いやない訳がないんやけん、金出すいうたかて譲る訳がないやろ? アホちゃう? せいぜい駆けずりまわれや。アハハっ」

 「お願い! このままじゃあたしヤバいんだって」草壁は必死の形相で両手を合わせる。

 「やーなこった」紫子は意地悪な表情で妹の背後にペットボトルを隠す。「あんたにやるくらいなら犬にでも飲ますっちゅうねん」

 「三百円出すから!」

 紫子は妹と顔を見合わせる。ほぼ二倍の額だ。

 「は? え、ちょ?」紫子は心が大いに揺らぐのを感じつつ、しかしながら薄っぺらなプライドを優先した。「た、たかが百四十円得するくらいなら、あんたを困らした方がおもろいんちゃうかな?」

 「じゃあ五百円!」

 「マジで!?」紫子は思わず妹と手を取り合った。「緑子! 緑子五百円やて! 差し引き三百四十円の儲けやんけすっごい!」

 「う、うん。うん」緑子は困惑気味だ。しかし差し引き三百四十円は嬉しいらしく、困惑している中でも頬が少し緩んでる。

 取引が成される。草壁は紫子からペットボトルを引っ手繰ると、その場を後にして行った。

 「ご、五百円……」金色の硬貨に目を輝かせる緑子。

 「何買う? なあ五百円手に入ってもうたで何買う?」興奮を抑えられず満面の笑みの紫子。

 「ほ、欲しいものとかないならとりあえず貯金……じゃないかな?」

 「おまえは堅実やなぁ」

 ひとまず別のジュース買い直して一口ずつ飲む。それからほっと一息吐くと、紫子は言った。

 「あいつ、パシリにされとんのか?」

 「みたいだね。あんなに大変そうな顔で色んなところ回らされて……。ちょっとかわいそう」

 「良い気味やわ良い気味。……せやけど」膝に頬杖を突く。「たかがジュースの為にあんなしんどい思いして、五百円自腹切って、そないまでして火口なんかの下っ端やっとって、何がおもろいんかな?」

 「きっと逆らえないんだと思う。逆らえないというか、他に居場所がないのかもしれない」緑子は言った。こいつは意外とシビアなことを言う。

 「でもあいつ水倉と仲良いやんけ。小学校から親友や吹聴しとるで。火口のグループから抜けて、二人だけで仲良ぅにした方が絶対楽しいと思うねんけど」

 「火口さんってあの怖い人だよね? そういうこと許さないんじゃないかな?」

 「二人でおったら平気ちゃう? 火口の奴が攻撃するんってウチみたいな一人の奴やで」

 「そういうことできる程の友達だったら、最初から火口さん達とはいないで、二人でいると思うよ」

 「でも草壁は絶対火口より水倉のが好きやろ? 水倉にとっても一緒ちゃう? 付き合い長いしいつもニコイチで行動しよんやけん。せやったら草壁が『グループ抜けたい』いうたら水倉もそれに付き合うんではないの?」

 紫子がいうと、緑子は小さく微笑んで、それから姉の身体に横から抱き着いた。

 「いきなりなんやねん」こいつの身体はいつもちょうど良くぬくい。

 「うふふ」緑子は笑いながら姉に甘える。「お姉ちゃんは、そういう考え方の人だもんね」

 「あ? どういうこと?」

 「昔さ、施設に入ったばかりの頃、わたしだけ施設の仲間と上手に馴染めなくて、いつも一人でいて……そういう時、お姉ちゃんはいつだって他の友達よりわたしのことを選んでくれてたよね? それでわたしと一緒に孤立するだとしても、いつだってわたしのところに」

 「ウチはおまえの方が好きなんやけん当たり前やろ?」

 施設に入ったばかりの頃、紫子はそれなりに仲間たちと馴染もうと努力していた。今のこのみょうちきりんな口調を得たのもその一つだ。全国から色んな子供が集まる養護施設では様々な言葉遣いが混ざり合い、独特な言語文化が築き上げられる。それに習うことが施設という異国に服従することであり、浮いてしまわない為に必要な行動だと信じ込み、そしてその努力は功を奏した。同年代の少女達とおぼろげな交流を行うようになったのだ。

 だが姉よりも深い心の傷を負っていた緑子はいつも塞ぎ込んで膝を抱えていた。施設の仲間を馴染もうとせず、姉以外とは話もしたがらなかった。そんな妹でも、まずは姉の自分が仲間に受け入れられることで、いずれ友達ができるようになるだろうと無邪気に信じていた紫子だったが、『あんたの妹気持ち悪いよ。構うのやめたら?』とはっきり言われて仲間から背を向けた。

 「……他の子とわたしのどっちが好きかっていうんじゃなくてさ」緑子は姉にしがみ付いて言う。「お姉ちゃんは、お姉ちゃん自身の平穏で快適な生活と、妹のわたしの二つから、わたしを選んでくれたってことなんだと思う」

 「たった一人家族で味方のおまえや。それをほっといて平穏も快適もないやろ。おまえを引き換えにするものなんて何もあれへんで」

 「うん。信じてる」緑子はどこか、表情に愉悦らしきものを滲ませたように見えた。「でもお姉ちゃんは一度決めたらきっぱりだったでしょ。『あいつらに緑子の悪口言われた』って言って、それからあの人達がどれだけお姉ちゃんを誘っても全部無視してくれた。あそこまでできる人って滅多にいないよ。わたしにとってお姉ちゃんはそこまでしてくれる人だけど、でも多分、草壁さんにとって水倉さんはそうじゃないんだろうね」

 「おまえの言いたいことなんとなく分かったで」

 いくら草壁と水倉が親友同士でも、『自分と一緒にグループを抜けて欲しい』なんて言って、その願いが適えられる保証はどこにもない。鼻で笑われて、『一人で抜ければ?』とでも言われるのが恐ろしいのだろう。だから草壁はどんなに使い走りにされても火口と一緒にいなくてはならない。あの火口にたった一人で背中を向ける度胸は草壁にはない。

 「……そう考えたら、草壁ってなーんか、気の毒なやっちゃな」紫子は鼻で笑う。

 「わたし達が幸せなんだと思うよ」緑子はそう言って笑い、姉の肩に頬をぎゅむと押し付ける。

 「そうかもな」紫子は妹の頭をぽんぽんと叩いた。「そうやと思うわ」

 他の全てが不幸でもお互いがいるという一点で相殺できる。虹川がそう言ってくれたことを思いだした。


 〇(※)


 平穏な時間はいつまでも続かない。六時になれば施設に戻らねばならず。鬼婆の顔色を窺いつつずらりと並んだベッドで眠り、そうして訪れた月曜日、姉妹は学校に向かった。

 「いったい!」紫子は履こうとした上履きを思わず放り棄てた。「画鋲か思たらカッターやんけ! くそうくそう」

 反対側からカッターの刃を貫通させて来るとは手が込んでいる上に相当痛い。割とシリアスに流血していて靴下血まみれだ。歩けるかなこれ。

 「……これ、先生に言うとかした方が……」緑子はがくがく震えている。「ね、ねぇ。お姉ちゃん、今日も教室行くの?」

 「行かんとしゃあないやろ」紫子は気合で立ち上がり、けんけん歩きで上履きを拾ってカッターを引っこ抜いた。

 「ほ、保健室。保健室行こうお姉ちゃん」

 「うん。今日虹川くんとはあんま話できひんな。寂しいとか思うんかなあの人」

 今日ばかりは紫子が妹に肩を担がれる。その妹も足が悪いので二台の壊れかけたロボットが油を差してもらおうと彷徨っているような光景になる。

 「ねえお姉ちゃん」

 「なんや緑子」

 「教室行くのやめない? こんな目に合う為に教室なんて行くことないよ。一緒にどっか隠れてよう」

 「そんなことしたら鬼婆に殺されるで」

 「ご、ごめん」

 「なあ緑子。お姉ちゃん平気やで。イジメられとる奴ってな、たいがい味方とかおらんねん。でもウチにはおまえがおるんやからな」

 手当してもらうと始業の時間が近い。ガーゼとテープで固めてもらったお陰で歩行くらいは何とかなった。

 緑子は姉の教室まで付いて行きたがった。

 「今日は先にお姉ちゃんの教室に行こう」

 「おまえ一人で階段とか、そら上がれるやろうけど、ウチがおった方がええんとちゃうん?」

 「良いから」

 「……うん。分かったで。ありがとう」

 教室に入る。中まで付いて来てくれた。好機の視線が二人に注がれる。いつも以上の嘲りと好奇心とが姉妹に向けられているように見えた。

 緑子が息を呑む声が聞こえる。

 「どしたん?」

 虚ろな表情で緑子が人差し指を差し出す。

 その先に見えたのは、紫子の机の上に置かれたズタズタの猫の死骸だった。

 タテヨコナナメ問わず乱雑に切り裂かれた顔は血まみれで、身体のあちこちにも刃物が食い込んだ跡があり、血だの臓物だのが紫子の机に垂れ流されている。

 死んだ猫の身体に、ただ思いつくままにナイフで損傷を与えたと言った具合だった。それは行為の為の行為だ。何の必然性もない。ただボロボロに切り裂かれた猫の死体というオプジェを作る為にそうされただけの、ひたすらに哀れでバカバカしい光景だった。

 「あんたがやったんでしょ?」

 火口が腕を組んで紫子に言った。

 「校門の前に置いてあったのよ。あんたがやったんだから責任を持って片付けさせるべきだと思ってね。持って来てやったの。きちんと穴を掘って埋めるのよ。いつかみたいにね」

 緑子は震えて泣いていた。両手を握ってこらえるように泣いていた。本当につらいのは姉だと思ってこらえようとしているのだろう。だが緑子以上に紫子のことを想っている人間はいない。紫子以上に紫子のことを想っている。だから彼女が泣くのは自然なことだ。

 思えば……紫子は自分のして来たことを振り返り、自省した。自分が動物殺しを疑われていることは緑子にとって大きなストレスだったはずだ。立場を入れ替えてみたら分かる。気が狂いそうになるはずだ。それなのに紫子は、誤解を晴らす為にどんな努力をしただろう。どんな自己弁護ができただろう。捨て鉢で、投げやりで、ただただ妹に甘え縋りながら内側へと閉じこもるばかりではなかったか?

 「……アホやな」紫子は思わずつぶやいた。「アホやな、ウチは」

 「いきなり何いってんの?」

 「どけ!」紫子は火口を押しのけた。

 体格の良い部類の火口にとって大した力であるはずもない。それでも火口が驚いたのはそれがあまりに唐突に行われたからであり、そして紫子の興味が自分の押しのけた火口に対しては微塵も注がれていなかったからだろう。

 紫子は自分の机から猫の死骸を引っ手繰った。教室から悲鳴があがる。あっけにとられる火口に背を向けて、紫子はずんずんと教室を進む。目的は決まっていた。隅っこの席で、怯えたように、居心地悪そうに、都合の良い罪悪感と強がりのような開き直りを表情に滲ませながら、ただただ目を背けて座っている女に用があった。

 「これ」紫子は相手の机に猫の死骸を叩きつけた。「こんなことにまでなっとるんやで? あんたが卑怯な嘘吐くからや。何とか言わんかい、アホんだら」

 草壁はひきつった笑みを浮かべて紫子の方を見た。だから何だという表情を浮かべようとして、浮かべ切れていない。怯えている。

 「なんでホンマのこと言えんかったんや!」紫子は叫んだ。「そんな情けない顔してビクビクして過ごすくらいなら、最初っから過ちを認めたら良かったんとちゃうんか? そしたら誰もあんたのこと責めたり軽蔑したりせんかったはずとちゃうんか? そんなに卑怯な人間になりたかったんか? なんとか言うてみぃアホ。ボケナス」

 「な、なにを言ってるのか……」

 「わざととちゃうやろ、あんたが洗剤池に撒いてもたん」紫子は草壁の目をしっかりと見て話す。「あの洗剤のフタんとこのボール紙、カッターかなんかで切り取られとった。でもあのフタな、そんなことせんでもツメかけて引っ張ったら取れるねん。中身全部注ぐ為やったらふつうにフタ外したらえぇだけやねん。誰かが細工しとったんやろあの洗剤の容器に」

 フタの細工は緑子に言われて気付いたことだ。鯉を殺すこと自体が目的であれば、フタを外して中身を注げば良いだけのこと。つまり草壁には元々何か別の目的があった。決して鯉を殺す為にあの池に現れた訳ではなかったのだ。

 「魚のエサってな、最初、でっかい容器に入っとることあるねん。それをな、別の小さな容器に入れ替えて持ち運んだりするねん。フレーク状のエサとかやったらあの洗剤の容器、ちょうどえぇんとちゃうんか? 学校には絶対あるもんやけん手に入りやすいし、洗うにしても元が洗剤の容器やから良いことではないけど、でも誰かズボラが使い始めてそのままやったんちゃうか? その中身がホンマモンの洗剤に入れ替わった上、フタに細工がされとったりしたら、運の悪い奴が悪意なく鯉を殺す羽目になりかねん。あんたは被害者やったんとちゃうんか?」

 「そんなこと誰が信じるのよ!」草壁は泣きそうな声で叫んだ。

 「ちゃんと説明したらよかったやろ? あんたのこと、センセーとか友達とか、皆動物を大事にしとった立派な飼育委員やいうとったで? なのにあんたはあんたのこと信じとった人達を騙したんや。騙して、自分を守ろうとしたんや。アホとちゃうんか? ちゃんと話したらどんだけ楽やったやろ? 気の毒に思うで、ホンマ」

 「うるさい!」草壁は机に手を突いて怒鳴った。「意味わかんない! 意味わかんない意味わかんない。鯉を殺したのはあんたでしょ!? あたしはただそれを目撃して職員室に報告しただけ! 何も知らない! バカなこと言うな、このキチガイ!」

 誰もが二人のやり取りに視線を注いでいた。草壁は紫子のことを罵り、犯人だと喚き、妄想癖の虚言症だと騒ぎ散らした。

 草壁の語彙も尽き、喉も枯れ、はあはあという疲弊の息だけが静まり返った教室に響く。

 その時、あちこちで一斉に電子音声が鳴り響いた。

 メールだかラインだか、そういうものの音だと携帯電話を持たない紫子でも知っている。誰もがその音声に救いを求めるように自分の端末を取り出した。とっちらかった舞台の上でようやく演じる役を与えられた役者のように、皆一様に、存在しない何者かに自身の振る舞いを見せつけるように、携帯電話を開いた。

 「なにこれ……」

 どこかから、声が聞こえて来た。

 画面を見終えたものから順に、草壁に視線をやっていく。その視線は一つ増え二つ増え、最後は教室中のほとんどの者の目が草壁に向けられた。その視線に込められている感情は、軽蔑と嘲り。

 「どうしたの?」

 草壁は困惑した表情で吠える。

 「ねぇ? 何があったの? あたしのケータイ何も届いてないよ? ねぇ、どうしてこんな」

 「ねぇ草ちゃん草ちゃん」

 そう言って、草壁に近づいて行く足音がある。

 水倉だ。草壁の親友を自称し、いつも一緒に行動している慇懃な喋り方の女だ。

 「この映像は何なのですかね?」

 草壁の視線が水倉のスマートホンに注がれる。紫子も習った。

 映像が流れている。そこは学校の中庭だ。『絆の池』がある。奥から歩いて来た女生徒……草壁が、手に持った洗剤の容器を池に向けて翻す。フタが取れる。中身がぶちまけられる。

 草壁は息を呑みこむ。

 映像には新たな登場人物が現れた。紫子だ。抗議するように喚く紫子に、草壁は洗剤の容器を持たせて逃げ出した。そして何が何だか分からず容器を見詰めている紫子に、画面の奥の方で草壁がスマートホンを向ける。写真を撮ったのだ。

 紫子が何やら騒ぎながら洗剤の容器を持って歩き出す。鯉を助ける為、大人を呼びに行ったのだ。そこで映像は途切れている。

 「……この映像が皆のケータイに一斉に送信されたのです。差出人不明」水倉は言う。「自分で鯉を殺そうとしておいて、その罪を養護学級の生徒に擦り付けようとしたのですか。いやはや」

 水倉は頬を捻じ曲げる。

 その表情に深く刻まれているのが愉悦であるということに気付いて、紫子は愕然とした。

 「わが友草ちゃんと言えどもこれは弁護不可能、まごうことなく最低人間です。いやはや、やってしまいましたなぁ。これはいけないことだと思うよ」

 草壁は悲鳴を上げ、その場にうずくまって醜い泣き声を上げ始めた。

 無理があるとか言わないで。

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