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姉妹、勉強をする 3

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 姉は読み書きや計算を『忘れた』のではない。『忘れさせられた』か、いっそ『奪われた』と表現した方が適切だと緑子は思うし、姉から大切なものを奪った人間のことを今でも強く憎悪している。

 だが肝心の紫子はそんな風に思っていなかった。怒りも憎しみもなくただあっけらかんと『また覚え直す』と言ってのける。とても強くて真っ直ぐで綺麗な、そんな紫子を憐れんだり悲しんだりしてはいけない。紫子はきっと自分のペースで失ったものを取り戻していけるから、それを全力で応援するのが緑子の仕事なのだ。理解している。

 そう分かっていても、緑子は少し色気を出したい気持ちを抑えきれなかった。一度は覚えていて、間違いなく紫子の中にあるものなのだから、何らかの方法でそれを一発で思い出せないものか、どうしてもそう考えてしまう。

 銭湯に向かう為にアパートの廊下を歩いていると、階段に座りむハイカワさんの姿が目に入った。

 「あ、こんにちはハイカワさん」緑子はにっこり笑って声をかける。ハイカワさんはその細長い身体を爬虫類のように柔軟に動かして、ぺこりと小さく頭を下げた。

 ハイカワさんは緑子たちのアパートの隣人で、女性ながら190センチ近い高身長とガリガリに痩せた身体が特徴の、髪の長い女の人だった。いつも男物の白いTシャツと紺色のジーンズという出で立ちで、フィクションに出て来る美人の幽霊さんみたいだなぁと緑子は思っていた。

 『こんにちは緑子ちゃん、紫子ちゃん。これから二人でお出かけ?』という顔をハイカワさんはした。彼女は一言もしゃべらない代わりに表情で自分の思いを緑子に伝えてくれる。

 「うん。これからお姉ちゃんと銭湯に行くの」

 『そうなの。なら気を付けてね。今日は雨が降りそうだから、雨合羽を持って行っても良いと思うわ』と言っているような顔をハイカワさんはした。

 「え? そうなんだ。うん、お風呂に入って濡れちゃったら嫌だもんね。そうしようかな?」

 「緑子。おーい緑子」隣で紫子が心配するような声をかける。「えっと、北野さ……ハイカワさんとお話ししよんよな?」

 「そうだよー」緑子はにっこり笑う。

 「なんて言いよん?」

 「雨が降るから合羽がいるかもって」

 「ホンマにー?」紫子は空を見上げる。確かに雲が多く、濡れたわたあめみたいな重そうな色だ。「あー、確かになー。流石ハイカワさんやなー良ぇアドバイスするで。ほなウチ合羽取って来るでまっとってなー」

 「うんっ」

 脚の悪い自分の代わりに合羽を取りに行ってくれている間、緑子はハイカワさんの隣に腰かけた。ハイカワさんは雑誌を読んでいた。緑子はあまり読まない大人の雑誌で、開いているページには『催眠術特集』とある。

 「何読んでるの?」

 『オカルト雑誌』ハイカワさんは緑子の方を向いてそんな顔をする。『もしかしたら、これは、今のあなた達に必要なものかもしれないわ』

 「え? どういうこと?」

 『お姉さんの勉強のことでお困りなのよね?』的な顔のハイカワさん。流石ハイカワさんはなんでもお見通しなんだなと緑子は思った。

 「そうなんだよ。お姉ちゃん、一度覚えたはずのことなのに、今は全然できなくなってて」

 『この記事は、人の記憶を呼び起こす催眠術の特集なのよ』ハイカワさんはそんな顔をしてページに視線をやる。『二歳の頃、誘拐事件に巻き込まれた被害者が、催眠術によって幼い頃に見た犯人の顔を思い出し、無事誘拐犯を逮捕したという事例が紹介されているわ。その時に用いられた催眠術の手法も。これをお姉さんにかけて見るのはどう? 何か思い出すかもしれないわ』

 「取って来たやでー」紫子が小走りで戻って来る。「ほな緑子、ハイカワさんにさよならしよか。はよ行かんと銭湯混むで」

 「ちょっと待ってお姉ちゃん」言って、緑子はハイカワさんから雑誌を受け取る。「これ見て。催眠術で、昔の記憶が戻って来るんだって」

 「え? どゆこと?」

 「これを使えば、お姉ちゃんが昔勉強したことが戻って来るかもしれない!」

 「HAHAHA。みどりこー、そんな簡単にいったら苦労せんでー。そらウチも楽していっぺんに思い出せたらえぇな思うけど、でも催眠術なんてそんな簡単に……」

 「大丈夫だよお姉ちゃん! 単純な人程かかりやすいってここに書いてるよ!」

 「おまえそれで悪意ないけんすごいよな!?」紫子はひきつった顔をした。「ま、まあ、そんなに気になるならいっぺん試してみ? ウチもちょっと先入観捨ててかかりに行って見るわ」

 「う、うん」緑子は息を呑み、記事を読む。

 まずやること。相手の催眠術に対する先入観を解く。かかるまい、かかる訳がないと頑なになっている心に催眠術は通じません、相手の協力こそが術の成立に不可欠です。……これは満たしている、紫子は術に協力的だ。

 次に、相手の気持ちを思い出させたい過去にリープさせる。相手に過去の思い出を語らせ、思い出の中で相手に行動させるよう促すのです。その内相手の意識は過去の世界に定着し、そこからは何もしなくても相手自身が自らの記憶を追体験してくれるでしょう。

 「想像してね。お姉ちゃんは今、小学一年生です」緑子は記事の内容を自分なりに租借し、姉に切り出した。

 「はいはい。ウチは今、小学一年生やな」紫子は目を閉じる。頭の中で当時を思い出してくれているのだろう。

 「学校で勉強してるよ。算数の時間だね」

 「ウチは今、学校で算数の授業を受けよるんやな」

 「はい紫子さん、起立。先生が言います」

 「はいはい。立ったやでー」

 「この問題を解いてください。あなたはなんて答える?」

 「どんな問題なん?」

 「1たす1は?」

 「にぃ」

 「正解。今の問題をノートに書き写して」

 「はい」

 「鉛筆はどこにある?」

 「机の右端の筆箱」

 「何が描いてある?」

 「魔法少女マジカルキューティ」

 「あなたはそれを見てどう思った?」

 「ちょっと幼いな、友達に笑われないかな、でも妹も同じもの持ってるしな」

 「鉛筆はもう取り出した?」

 「はい。字を書いてます」 

 「授業は進んでる?」

 「教科書の問題を書き写して解くように言われました。5たす4が難しいです」

 「あなたはそれを解けたの?」

 「指を一本ずつ折って数えました。手を全部広げたら5です。それより一本指が少ないのが4です。合わせたら……9になりました」

 「あなたはたくさん勉強をして、一日の授業を終えます。何を思いますか?」

 「今日は妹とどこで遊ぼう、と考えます。近所の公園にしようかな、家でテレビゲームをしても良いな、どうしようかな」

 「どうなりました?」

 「公園でかくれんぼをしました。妹の隠れる場所は知ってるので、すぐ見付けられました」

 「次の日もその次の日も同じように過ごして、あなたは二年生になります」

 「はい。二年生になりました」

 「二年生の勉強はどうですか?」

 「最初難しかったですが、慣れました。物足りないくらいです」

 「ということは、あなたは掛け算の九九を……?」

 「はい、言えます」

 「三年生に進級しました。割り算を解けますか?」

 「解けます」紫子は言った。緑子は内心の歓喜を押さえつけて、質問する。

 「15わる7の答えはなんでしょうか?」

 「2、あまり、1」

 緑子はガッツポーズ。紫子は虚ろな表情を虚空にさまよわせている。その瞳が見ているのは十六歳の九月の空ではなく、小学三年生の教室だ。術にかかっているのだ。

 もっと時間を進ませるのだ。そしてきちんと授業を受け直し、全部覚えた状態で十六歳に戻す。完璧だ! 緑子は興奮した気持ちで次のステップに進んだ。

 「よ、四年生に進級しましたっ。授業は難しいですか?」

 「……それどころではありません」

 意外な答えに、緑子は首を傾げる。

 「え? どうしたの?」

 「パパがいなくなって、ママが知らない人を連れてきました。その人が……」

 「ストップ! ストップ!」緑子は叫んだ。「お姉ちゃん、お姉ちゃんもういいよ! ダメだから、それ以上はダメだからぁあ!」

 「家族が増えるよ、やったねお姉ちゃん! 妹は言いました。わたしが不安そうにしていたので、そうした前向きな捉え方もあることを教えてくれたのでしょう。でもその人は夜中わたし達の部屋にやって来て、そして……」

 『ちょっとやりすぎたみたいね』ハイカワさんはそんな表情をした。『解いてあげないとまずいわよ、これ』

 「お姉ぢゃぁああん! 正気になっでぇえええ!」

 緑子はド必死で姉の肩を揺すりまくるが反応はない。単純な人程かかりやすいとはいうがここまでとは思わなかった。『自分から術にかかりに行く』という弁は本当だったらしく、妹の誘導をことごとく受け入れ続けた結果紫子は術にハマりにハマっている。そして緑子には解き方がまったく分からない。

 「ごめんねお姉ぢゃぁああん。わたしがバカだったよぉお。大切なお姉ちゃんなのに催眠術なんてかけてごめんねぇええうわぁあああ!」

 「しーずかーな、こーはんーの、まーばゆーい、ひーかりー。きょうーも、よーいひーだ、おーさんーぽびーよーりー。みーんなげーんきーにー、らーんらーんらーん」

 紫子は小学四年生の合唱コンクールの真っ最中だ。先生に声の大きさを褒められた彼女は張り切ってこの日の為にたくさん練習をしていた。肩をゆすっても頬をつねっても何をしても三番まで歌いきるまで動きそうにない。

 『ていっ』

 という表情でハイカワさんは紫子の後頭部にチョップを繰り出した。紫子は「あぎゃんっ」という声を発してその場で前のめりに倒れ、ハイカワさんの細長い身体に受け止められる。

 「お、お姉ちゃん?」

 『大丈夫。ただの喝よ』とばかりに手刀を掲げ、紫子の身体を廊下に座らせるハイカワさん。『そしてこれが気付け』

 ハイカワさんの両の平手が紫子の頬に同時に叩きつけられた。ぱしんと気味の良い音がして、紫子ははっとした様子で目が覚めた。

 「な、なんやねん、いったい。なんか後頭部と頬がムチャクチャ痛い……って北野さん? あんためっちゃ顔近いでどしたんっ?」

 「お姉ちゃあん!」緑子は姉の身体に抱き着いた。「ごめんねぇええ大丈夫だったぁああ? 術なんかかけてごめんねごめんねぇええ!」

 「な、なんや? なんやおまえいきなり? つかここどこ? ウチなにしよったん? 部屋で勉強しよったまでは覚えとるんやけども……」

 それからハイカワさんが二人を無言で落ち着かせ、緑子が嗚咽しながら事情を説明する。紫子は信じられないといった表情を浮かべた。

 「さ、催眠術っておま……いかついのー」紫子は表情を引きつらせるが、すぐに笑顔になった。「でもあれやろ? その催眠術の中で、ウチ割り算とか解きよったんやろ?」

 「うん。15わる7も解いてたよ!」

 「九九は? 九九はできたんか? 八の段は言えたんか?」

 「言えた言えた! きっと言えた! 絶対言えた!」

 「思い出しとったんやなウチは? HAHAHA。こりゃでかしたわ緑子! ウチかて楽できるならふつうに嬉しいけんな。よっしゃ! いうたろ8の段。ほんで華麗に割り算解いたろ! いくでー!」

 そう言って、紫子はコホンと咳払いをする。これから姉が8の段を暗唱するのだと気付いて、緑子はその場で正座して清聴の構えを取る。

 「はちいちがはち! はちにじゅうろく! はっさん……」紫子は顔をくしゃくしゃにして大きな声で言いながら、停止する。「はっさん……三十くらい?」

 「お姉ちゃん!?」緑子は目を剥いた。「お、お姉ちゃん? 落ち着いて? できるよ、全て思い出したお姉ちゃんならできるよ? がんばって!」

 「えーとこれどう考えるんやっけ? 8がひとーつ、ふたーつ、みーっつ……ああもう分からへん。8ってでもほとんど10やんな? 10って三つ集まったら30でええんよな? じゃあ30くらいちゃう? ちょっと少なめに28とかちゃう?」

 「お姉ちゃんお姉ちゃん一つ8円のチョコレート三つ買ったら何円?」

 「そんなん24円やろ? それより8×3や。ウチの推理によると多分28とか7くらいやきっとそうや!」

 「お姉ちゃぁああん!」

 うなだれる緑子。その背後でやり取りを見ていたハイカワさんが『まだまだ先は長そうね』とばかりに肩を竦めたところで、この話はおしまい。


 紫子ちゃんの学力をテーマにしたものを飽きたいとは前々から思っていて、構想もあったのですが、このとおり形にしました。

 最初に来る話だし、仲良しで楽しくてでもアタマくるくるぱーなこの子ららしい話にしようとがんばったけど、ちょっとところどころ意味もなくしんみりしちゃったのは反省。

 最初は一話分(3000~6000字)くらいの短い話のつもりだったんですが、構想開始から執筆までの期間が長引いていろいろ思いついて結局このサイズに。シーズン2はそんな感じで長めの作品が多い気がします。

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