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夜香花  作者: 立花 健
3/4

(三)

  開店間もない店内には週末ということもあってか、六時前だというのに三十ほどあるテーブルが、

ほぼ満席に近い様子で、女性客が大半を占めていた。亭主が仕事に託つけて飲み屋を徘徊するならと

言わんばかりなのだろう。

「すいませーん。あと、上カルビ三人前追加お願いします」

 店員を見つけると、末っ子で四女の由美が追加で注文をしていた。既に、十分に注文は済ませていたのだが物足りなかったのだろう。それに、支払いは母親だということもわかっていたので遠慮はない。

「とりあえず、乾杯!お母さん、お誕生日おめでとう!」

 五人全員でビールジョッキを合わせた。娘たちを囲んで、食事をするのも久し振りであった。

今年で六十になる田村良子は多少、肉付きがよくなったとはいえ、実年齢よりも若く見える。

不動産業を営んでいた夫が五年ほど前に亡くなり、その事業を引き継いでいた。

都心に賃貸マンションをいくつか所有し、その家賃収入だけでも年間億を超える。

恋人でもいるのか、月に一度はエステと美容院に通っては、週末には着飾って外出しているという。

良子は、いつになく上機嫌で娘たちの話に相槌をうっていた。

よく、女三人寄ると“かしましい”というが、まさにここのテーブルだけは華やかで目立っていた。

「あんた、よく食べるわね」

 次女の美智子が眉間にしわを寄せながら、由美に言い寄った。

「やだなーっ。美智ねぇたら。まだ、二十歳だよ。ダイエットなんて気にする歳じゃないし」

 由美は大学二年でダンス研究会に所属し、練習にかこつけては夜な夜なクラブに通い、父親が亡くなってからは朝帰りも珍しくなく、自由奔放な毎日を過ごしていた。

「あんたはいいよね。未来があってさ。私たちなんて、旦那が出世するかしないかで人生変わっちゃうんだから」

「そうそう」

 三女の雅美と美佐子は、顔を見合わせてうなずいた。

「それより美佐子のほうは、良彦さんとうまくいってるのかい?」

 良子は、孫の良介の頭をなぜながら問いかけた。

「どうかな?」

「いやだわ。脅かさないでよ」

「だって、こればっかりはわかんないよ」

 美佐子は視線を合わせなかった。

「なんか、結婚って子供が出来たとたんに楽しくなくなるみたいね。私、結婚するのよそうかな?」

 つい最近、婚約したばかりの雅美が怪訝そうな表情でつぶやいた。

「ちょっと、あんたまで何、言ってるのよ」

 良子が、困った表情をしていた。

「そんなことよりも、早く食べようよ」

 由美が、会話を断ち切るように肉を焼き始めた。


タクシーを降りた良彦と前川は、暗がりのビルの合間を縫いながら目的の看板を探していた。しばらくして、前川があるビルの前で立ち止まった。

「ここか?」

「あぁ、このビルの五階だよ」

行き交うホステスの香りが、男のお粗末な下心を弄ぶかのようにエレベーターの中を漂っていた。

五階に降りると一番奥にスクエアーの青い看板が意外に目立って見えた。スクエアーにたどり着くまでに五〜六軒ほどを通過しなければならないが、どの店も外からは中の様子を伺うことはできない。こういう雑居ビルの知らない店にひとりで入るには意外に勇気がいるものだと、前川が笑いながら会員制の文字プレートが掛けられた真新しいドアを開けた。

「いらっしゃい」

 元気のいい懐かしい声が店内に響いた。

「あらっ、信ちゃん。いらっしゃ……」

 ママの山口孝子が前川を向かい入れようとした時に、その大きな影から良彦が顔を覗かせた。

「いやだわ、誰かと思ったら、良ちゃんじゃないの」

「やぁ、久しぶり……」

「久しぶりじゃないわよーっ」

 そう言いながら、大きな前川をじゃまそうに良彦に近づき腕をとって店の奥へと引っ張っていった。

孝子の豊かな胸が良彦の肘にあたり、誘惑めいた感触を与えていた。

 久しぶりに見る孝子は、今でもミニスカートがよく似合っていた。正確な歳はわからないが、五十近くにはなるはずだ。“若いつばめ”でも飼っているのだろうか。以前よりも若く見える。肩まで伸びた髪は軽くウェーブがかかり、小柄だが歳の割にはスタイルも良く化粧映えのする女だ。

 店はカウンターとテーブル席が二つで、せいぜい入っても十五人といったところだろうか。

店内には、すでに八人ほどの客がいた。酔いが回っているのか、カラオケで調子っはずれな演歌を歌う客や、バイトの若いホステスに卑猥な話をして盛り上がる客やらで、店の雰囲気と客層では以前の「クラブ」というイメージはない。

「何年ぶりかしら」

「もう、十年は経つんじゃないかな」

「そんなに?」

「良ちゃん、いくつになったの?」

 ふたりを奥のカウンターに案内した孝子がウィスキーの水割りをつくりながら笑みを浮かべて言った。

「前川と同じで、四十五になりました。もう、いいおっさんだよ」

 良彦がたばこをくわえると、あらかじめ用意していたライターで火をつけた。

「でも相変わらず良ちゃんはスマートね。もう結婚したんでしょっ?」

「まぁ、人並にね」

「あら、失礼ね、私まだ独身よ」

「これは、失礼しました」

「だめよ、浮気なんかしちゃっ」

「まさか、こんなおじさんじゃ誰も相手にしてくれないよ」

 良彦は出されたピーナツをかじりながら苦笑した。

 しばらくすると突然、聞き慣れた声がアイドルの曲を歌い出した。大きな体をひょうきんに動かし、

周囲に笑いを誘っていた。前川がバイトの和美にカラオケを頼んだらしかった。歌い出しだけは聞いていたが、すぐに孝子との話しを続けた。

「こじんまりしてるけど、いい店じゃない」

「ありがとう、やっとって感じよ。バブルと一緒に私まではじけちゃったから」

 笑いながら、前川の歌に拍手を送っている。

「どの業界も今は大変だよ」

「えっ、良ちゃんの会社も?」

「前川から聞いてない?給料は減額されるし、住宅ローン抱えてる身で女房と子供を食わせなきゃいけないし……」

「信ちゃんは、ここでは会社の話なんてしないから。でも、ここに来た時だけはいやなことを忘れて楽しんでいってよね」

「あぁ、たまに寄らせてもらうよ」

「たまにだなんて、ちょくちょく寄ってよ。うち、安いんだから」

 そう言い残すと、テーブル席の客に移動していった。愛想でも伺いにいったのだろう。こんな狭いエリアでさえ“営業”が必要らしい。

 歌い終えた前川が、うっすら額に汗を光らせて戻ってきた。

「こらっ!聞いてなかっただろ。武田!」

「聞いてたさ。いや、聞きたくなくても耳に入ってくるから大丈夫さ」

「ひでぇーな」

「あはははっ」

 ふたりが談笑していると、孝子と入れ代わりにカウンターの前にバイトの吉田和美がグラスを前に差出し乾杯のポーズをした。

「和美でーす」

「あっ、彼は同僚の武田」

「よろしく。もし、いやな奴にからまれたらこいつに助けてもらいな」

「なんでですか」

「武田は、こう見えても空手の黒帯だから」

「すごーいっ!」

「新入社員のコンパの帰りにさ、俺がチンピラに襲われた時に、こいつがあっという間にかたづけちゃって……」

前川は、その時チンピラにナイフで切り付けられた左手の甲に残る生々しい傷を和美に見せながら話した。

「よせよ。もう、昔の話なんか」

 良彦は前川の昔話を、苦笑しながら制止させた。良彦は細い体に似合わず、子供の頃から近くの空手道場に通っていて腕には多少の自信もあった。

「和美ちゃんは、バイトなの?」

「そうです。週に三日だけですけどね」

 和美はショートの髪をやや茶色く染めている。小柄ではあるが、服の上からも想像できる体のラインは十分に色気を漂わせていた。今は、結婚願望はなく彼氏もいないので将来はスクエアーのような小さな店を持ちたいらしい。

歳は二十五で昼間は事務の仕事をしていると言っていたが、本当のところはわからない。ふたりの会話に前川が割り込んできた。

「そうなんだよね。和美ちゃんはしっかりしてるよ。結婚してもそんなに楽しいことないからね。なっ、武田!」

「はははっ、そうだな」

「まぁーっ、ふたりとも夢を壊すようなこと言わないでください。別に結婚しないなんて言ってないんですから」

「あっははははっ」

 前川のお目当ては、和美ではないだろうか。やたらと彼女にちょっかいをしているように思えた。

それに前川のキープしてあるボトルには数日前のプレートが掛かっていた。独身の頃なら前川と張り合っていたかもしれないが、

今はそんな気にはなれなかった。 いくら飲んでも、まだリード生命のことが頭をよぎる。来週からの行動を考えると、

酒もうまく感じない。勝手にどうぞといった心境で、ふたりのやりとりに笑みを浮かべていた。

 その時、前川の携帯がグラスの氷を揺らした。

「おっと、誰だ?」

 前川の表情が一瞬こわばるように見えた。

「ちょっとごめん」

 着信の相手を確認すると店の外に出ていった。店の中はカラオケの音量で声が聞きにくいのと、女房からだとバツが悪いのだろう。

 前川がいなくなったのを見計らったように和美が話しかけてきた。

「ねぇ、武田さん。前川さんとはよく飲むんですか?」

 会話を選んでか、差し障りのないことを和美が聞いてきた。

「あいつとは同期入社でね、もう二十年以上の付き合いだよ。しかも会社訪問の時にも偶然いっしょだったよ。あの体型だから忘れないよ」

「大きいですよね。うふふっ」

 髪を指先でいじるしぐさのせいだろうか、何気ない笑顔も中年男を惑わせているようかのようだった。

和美から漂う甘い香りが、かすかに良彦の本能を刺激していた。

「俺ってさ……」

「なんですか?」

「酔っぱらうと、近くにいる女性にキスしたくなる癖があるんだよね。和美ちゃんも気をつけてね」良彦は笑いながら言った。

「もう酔ったんですか?」

「正気だよ」

「あらっ、武田さんがそんなことを言う人だとは思わなかったわ」

「なんで?」

 良彦がたばこを取り出すと、すかさずライターを近付けて言った。

「だって、誠実で家庭を何よりも大切にしてるって、ママから聞いてますよ」

「してるよ。ここに来ているお客さんといっしょだよ」

「いやだ。武田さんたら、開き直ってる」

 和美との他愛のない会話も、良彦の今の心情を和ませていた。

「どう?何か歌ってよ」

「えぇ?歌ですか?得意じゃないんですよね」

「じゃ、デュエットなら?」

「いいですよ」

 和美はすかさずカラオケの本を手にした。

「それじゃね、定番ですけど銀恋なんかどうですか?」

「よくそんな古い歌知ってるね」

「三か月もいればいやでも覚えますよ」

 和美は笑いながら、カラオケのリモコンをセットした。アルコールの力も手伝ってか、歌の好きな客が何曲もリクエストしているらしく、

しばらく順番を待つことになった。孝子は、客からのリクエストに困惑している和美にアドバイスを送っていた。

良彦が、ふと時間を見ると十時半を回った頃だった。

 電話を終えた前川が戻ってきた。その表情はいくぶん険しく思えた。

「武田、ごめん。急用が出来た。先に帰るわ」

「前川、どうしたんだよ」

「これで後たのむ」

 そう言い残すと前川は、カウンターに一万円札を置いて急いで出ていってしまった。

「信ちゃん、ちょっと待ってよ」

 孝子がエレベーターに駆け寄ったが、姿を見失ったらしくすぐに戻ってきた。

「どうしたのかしら、信ちゃん」

 孝子が心配そうに良彦に近づいた。

「心配することはないよ。週末だし、いろいろ用事はあるでしょう」

 良彦は前川の性格を知ってか、青白いたばこの煙りをくゆらせていた。以前にも飲み会の席で同じようなことがあったことを、孝子に告げた。

「そうなの?それならいいんだけど」

 そういうと、また、元のテーブル席の客の前に着いた。

「何かあったのかしら前川さん」

 心配そうにがドアの方向を見ていた。

「そんなに前川が心配?」

 良彦が意地悪そうに言った。

「心配ですよ。うちのお客さんですもの」

「本当、それだけ……」

「もうっ!武田さんたら」

「前川なら心配ないよ。週明けの月曜日は社内全体の会議だから、親の葬式でもない限り出社しないわけにはいかないからね」

「鬼みたいな会社ね」

「鬼か、そうかもな」

 良彦が苦笑しながら呟いた。

 スクエアーの客もまばらになってきた。それもそのはずで時間は十一時を回っていた。良彦も最終の時間を気にし始めていた。

「いやよ。時計なんか見ちゃ」孝子が良彦の腕を捕まえた。

「でも、もういい時間だよ」

「今日は良ちゃんと、とことん飲みたいのよ。久しぶりなんだから付き合ってよ。ねっ、お願い!」

「わかった。今日はママに付き合うよ」

美佐子には夕食の始末を頼まれていたし、前川がこれまでの支払いをしてくれていたので、

財布の中には自宅までのタクシー代は残っていた。すでに、腹をすえていた良彦は孝子の申し出に付き合うことにした。

やがて、他の客も姿を消し、店内の客が良彦ひとりだけになっていた。

すでに、そこには和美の姿はなかった。帰り仕度をしているのだろう。ほどなくして、ジーパンとセーター姿に着替えた和美が現れた。

「武田さん。すいません、お先に失礼します」

「和美ちゃん、もう帰っちゃうのかい。残念だな」

和美は、ふたりに軽く会釈すると、笑みを浮かべ足早に店を後にした。カラオケや話し声が止まり今までの騒音が嘘のように静まり返っていた。

この時間からの客も期待できないのか、席をカウンターからテーブル席に移動していた。

足を組むスカートから覗く視界が、良彦を誘惑しているかのように やたら白く映って見えた。孝子に悟られないように平然として言った。

「なんかママとふたりきりだと話しずらいね」

「そう?私は、平気よ」孝子は笑みを浮かべながら、たばこの煙りをくゆらせていた。

「そう言えば、良ちゃんが若い時うちのお店に連れて来た子がいたわね。なんて言ったっけ、あの子」

「真利子のこと?」

「そう、真利ちゃんって言ったわね。彼女はどうしてるかしら?」

「さぁ?」

良彦は口をつぐんだ。

「良ちゃんもあの時は、モテモテだったものね」

孝子は少し意地悪く言った。

「そんなことないよ。ほとんど接待で、いつも前川といっしょだったでしょ」

 良彦が独身の時に付き合ってた女で、新宿の孝子の店にも接待にかこつけて何度か連れてきたことがある女だった。

「私は、てっきり真利ちゃんと結婚すると思ってたわ」

「いや、自分でもそう思ってたよ」

「何が原因で別れちゃったの?」

「そんな昔の話、もう覚えてないよ」

 ふたりの青白く上った、たばこの煙りが行き場を失い、渦を巻いていた。

 ふと、気がつくと飲んでいた前川のボトルも底が見えるまでに減っていた。

「ママ、一本入れておいて」

「いいわよ、私からプレゼントするから」

 そういうと、カウンターの中から新しいボトルを持ってきた。

「商売にならないね。ママ、感謝するよ」

「ボトル代なんか、良ちゃんから取らないわよ」

「よせよ。商売なんだから、ちゃんと取ってもらわないと」

「いいのよ、他から取るから。内緒にしといてよ」

 その時、店のドアが開いた。

「誰かしら、もう閉店の時間なのに」

 孝子が席を立ち、ドアに近寄っていった。

 どうやら馴染みの客らしく、店内に向かい入れた。男は長身で、良彦よりも少し高いくらいで、

百八十はあるだろうか。短髪で、がっちりとした体型にスーツ姿ではあるが、小さなセカンドバックを小脇に抱え、サラリーマンには見えなかった。

 孝子は、良彦のすぐ隣の席に案内した。男は良彦と目が会うと、軽く会釈するとため息まじりに深く腰掛けた。

「もう、閉店だよね?」

 男は丸いフレームの眼鏡を取ると、差出されたおしぼりで顔をぬぐった。

「そんなことないわよ。来るものは拒まずだから」

 孝子は笑いながら、男の前へボトルを用意した。

「相変わらず商売熱心だよね」

「お互いさまでしょっ」

 孝子は笑みをうかべ、作ったばかりの水割りを男に渡した。

「せっかくだから、ご紹介するわね。こちら……」

 孝子の言葉を待っていたかのように、お互いに名刺を交わし自己紹介した。

 名刺にはスーパー生命保険代理店、高橋順一と印刷されていた。

 高橋は、自分のグラスを持つと武田のテーブルに移動してきた。孝子とは新宿にいた頃からの客で、

歳も良彦よりひとつ上ということで当時の話で盛り上がった。丸いフレームの眼鏡から覗かせる顔には、

愛嬌はあるものの時折見せる眼光には鋭さも感じる。良彦は改めて高橋の名刺に目をやった。

「高橋さんは保険を……」

「まぁ、細々とですけどね」

「彼はね、バブルの時に株で大儲けしたのよ。だから、今の仕事は暇つぶしみたいなものね」

「ママ、勘弁してよ。武田さん、誤解しないで下さいね」

「ふふふっ」

 孝子は含み笑いをしながら、高橋のグラスに氷を入れた。

良彦は、リード生命の今日の一件を酔いも手伝ってか、つい愚痴を漏らした。

孝子は、滅多に見せない良彦の表情に気づかったのか、席を立ちカウンターの中へ入っていった。

「そうだったんですか。それは運が悪かったですね」

「すいません。酔った勢いで、初対面の高橋さんにまでこんな話を。今日は、こんな話をするために来たわけじゃなかったんですが……」

「いや、気にしないで下さい。私も同じような経験はしてますから。分かりますよ」

「ありがとうございます」

「ここで逢ったのも何かの縁ですから」

 そう言うと高橋は、右手を差出し握手を求めてきた。良彦もそれに応じ、グラスを傾けると急にカラオケが鳴り出した。

孝子が頃合を見計らって曲を入れたのだ。イントロが流れ出すと高橋が立ち上がりマイクを握った。

 あれからどれ程の時間が経ったのだろう。良彦は、気がつくとタクシーに乗っていた。タクシーに乗ると間もなく眠ってしまったらしい。

店を出るまでの記憶が断片的にしか思い出せない。普段あまり酔いつぶれたことのない良彦には珍しいことだった。外の景色も気のせいか、

明るくなりかけていた。

 ふと時計を見ると、驚いたことに午前四時を回っていた。

「四時?」良彦は目を疑った。

「接待ですか?」運転手が話しかけてきた。

「いや、今日は久しぶりに仲間と飲んでてつい……」

「たまには、いいんじゃないですか。そういうお客さんもいないと我々も商売あがったりですからね」

 良彦は思わず苦笑した。ほどなくして、タクシーはマンションに着いた。運転手に料金を渡すと足早に中に入っていった。

 いつもの要領で自分の部屋に入るとすばやく着替え、すぐに蒲団に潜り込んだ。蒲団に仰向けになると体中の血液が逆流しているかのように、今日の出来事が良彦の脳裏をすさまじいスピードで駆け巡っていった。

 眠ってからどれくらいの時間が経ったのだろうか。部屋の外はすでにうす暗くなっていた。部屋の時計を見ると、すでに夕方の五時を回ったところだった。隣の部屋からはテレビの音と笑い声がかすかに聞こえた。ゆっくり起き上がり、部屋のソファーでたばこを味わった。いつになく飲み過ぎたせいか、気分がすぐれない。思いたったように風呂場で熱いシャワーを浴びた。毛穴の奥に溜まっていた毒が吸い出され、くたびれた皮膚が生気を取り戻しているかのようだった。

 シャワーを終えて風呂場から出ると、物音に気付いたのか美佐子が夕食の準備をしているところだった。良彦は朝帰りの原因を前川のせいだと、愚痴を言いながら自分の部屋へ足早に引き上げた。

 その時、良彦の背中越しに嫌味な言葉が飛んできた。

「あなたのスーツ、安物の香水で息苦しかったからクリーニングに出しておいたわよ」

「……」

 まさかと思い部屋の臭いをゆっくり嗅ぐと、シャワーを浴びたせいか孝子の香水の臭いがしっかりと感じとれた。夕べ飲み過ぎた良彦の肩を抱いて、タクシーまで送ってくれたのを思い出した。細かくは覚えていないが、酔いに任せて抱きつくぐらいはしたかもしれない。それにしても、スクエアーで真利子の名前が出た時は驚いた。

 もう、彼女が亡くなって八年は経つだろうか。良彦と別れた後に、同棲している相手がいるとメールをもらったことがあった。その後、てっきり結婚して幸せになってるだろうと思っていたが、新聞の片隅に彼女の訃報を知ったのだ。新聞記事によると、男女間のもつれからアパートの自室で首を吊って自殺したという内容のものだった。

良彦にとっては、忘れることのできない衝撃的な事件になってしまった。


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