夜香花
そんなことを考えているうちに、オフィスのある見なれたビルの前に着いていた。オフィスはビルの八階にあった。時刻は八時半を回ったばかりだが、すでにオフィスの中からは、パソコンのキーを打つ音や資料をコピーする音が入り乱れ、いつもながら騒がしかった。
「おーすっ。いつも早いな、武田!」同期入社の前川信一が、パソコンのメールに目を通す良彦の肩を軽く叩いて微笑んだ。
「歳とると、早起きになるっていうけど本当だよ」良彦が笑いながら言った。
「武田、今日あたりたどうだ?」
口元にグラスを当てるジェスチャーをする前川に向かって、オーケーのサインを返した。
「さぁーて、今日もがんばりますかーっ」大きな体を揺さぶりながらデスクに向かう前川を横目に心中穏やかではない自分がいた。
メールの中に気になるものがあったからだ。良彦がまだ新人だったときに、運良く契約までこぎつけた顧客からのメールだった。
しかも、めったに連絡もよこさないリード生命の田代部長から昼食の誘いなんて予期しないことだったからだ。
良彦は昼食の待ち合わせの件も兼ねて田代に連絡した。
「東京フタバ商事の武田です。部長、お久しぶりです」
「あーっ、武田君。元気かね」
「はい。おかげさまで・・・」
「せっかく電話もらって悪いんだが、これから会議なんだ。メールしたとおり昼飯でも食いながらゆっくり話そう」
良彦の話を遮るように田代が言った。
「あっ、はい。わかりました。では後程」気のせいだろうか。普段とは何となく田代の態度がよそよそしく思えた。
良彦の会社は、パソコンやコピー機を含めオフィス機器全般を扱う商社で、業界的には中堅であったが、昨今のインターネットの
普及と共に従来の商売では通用しなくなっていたことは事実で、業績もここ数年に渡り下降気味であった。
田代に呼び出された店は、渋谷駅前のリード生命のビルから歩いても数分のところにあり、最近ではテレビにも紹介されたうなぎ屋だ。
十分ほど前に着いた良彦は店内に入っていった。
「いらっしゃいー」店員の元気な声が店内に響き渡り、その店の勢いが感じられた。儲かっているところは業界に関係なく元気のようだ。
「お客さまは、おひとりさまでしょうか?」
出迎えたのは、和服姿の四十台前半のきれいな女性だった。おそらく、この店の若女将だろう。良彦は勝手に決めつけていた。
「あっ、いや実は待ち合わせをしてまして……」
「失礼ですが、武田様でしょうか?」
「はい。そうです」
「お客さまがお待ちですので、ご案内します。どうぞ」
待ち合わせの時間よりも前に田代はすでに来ているようだった。昼時だというのに、客の数はそれほど多くはない。
ランチをやっていないせいもあるだろうが、若いサラリーマンが昼食に立ち寄るにはやや敷居が高いのだろう。
客層も年齢的にはやや高目で、落ちついたいい店だ。
店の奥の廊下を通り、しばらくして中庭がのぞいてきた。人工の庭ではあったがセンスがよく、とても趣のあるきれいな庭だ。
しばらくして若女将は、一番奥の部屋の前に立ち止まり障子を開けた。
「お客さまがおいでになりました」
田代は部屋で煙草の煙りをくゆらせていた。すでに飲んでいるのだろうか。
お膳の上にはすでにビール瓶が置かれていた。田代の毛髪には、白髪が目立つようになってはいたが、五十代半ばの割には腹も
出ていなくて長身でダブルのスーツがよく似合っていた。
「部長、遅くなりまして」
「おぉー、武田君しばらくだね」
「腹減ったー。特上をふたつ持ってきて」
「はい。かしこまりました」
部屋が閉め切られたせいだろうか。若女将の上品な香りが室内にかすかに残っていた。
「武田君、わざわざ来てもらって申し訳ないね」
「とんでもない。部長には日頃からお世話になりっぱなしで……」
「どうだ、君も一杯」
「いやっ、まだ回るところがありますので」
ビール瓶を差出した田代の前で目の前のグラスの上をふさぎ、低調にことわるジェスチャーをみせた。
「部長、飲んじゃって大丈夫なんですか? お仕事の方は」
「いや、実は来週から大阪に移動が決まってね。引き継ぎやら準備で早退したよ」
「転勤ですか?」
「そうなんだ。人事移動ってやつだよ。急に向こうの支社長に任命されてね。仕事だから仕方ないがこの歳で単身赴任だよ」
「そうですか。でも栄転ですよね」
「まぁ、よく言えばそんなところかな」
「それはそれは、おめでとうございます」
赤い顔で豪快に笑う田代ではあったが、突然真顔になった。
「実は武田君、君をここに呼んだのは他でもない。うすうすは感じていると思うがうちの人事で、すでに会長職に退いている
山崎が銀行出身の長男を送り込んできたんだよ」
「その話は業界関連のニュースで……」
「知っての通り、バブル期のツケが回ってきたみたいで、来月の株主総会を機に現在の社長が退任に追い込まれるだろう。
当社が窮地に追い込まれない為の予防線として、会長の息子を次期社長として送り込むことになるだろう。
息子は三立興業銀行の出身で金融庁の連中とも親交が深いらしい」
「そうだったんですか」
「そこで、話をまるく納めるために政治家を利用する話が持ち上がってね、調査の手が入り込まない策を考えたようだ。
そうなれば一度退いたはずの会長が、裏で院政を引いて返り咲くというシナリオだ。社長サイドについていた私も今後、
どうなるかわからんよ。武田君の会社との取り引きも、場合によっては解消されることになるかもしれないんだよ」
「本当ですか」
「あぁ、監査を逃れる条件としてファミリー企業との取り引きをする見通しだ。君のところだけじゃなく、
他の取引先にも影響がでることは間違いない。残念だが……」
「なんとかなりませんか、部長のお力で」
「本当に申し訳ない」田代は若い武田に対し、深々と頭を下げて言った。
「部長、頭を上げてください」
話の一部始終を理解した良彦はがっくり肩を落した。どうしていいかすぐには理解できなかった。
良彦のリード生命の営業成績の依存度は二十五%もあり、良彦にとっては致命的ともいうべき数字だった。
その時、襖が開いた。
「お待たせしました」若女将が食事を運んできた。
「武田君、そういうことだから悪く思わないでくれ。また、いつか必ずチャンスはあると思う。
それと私の分も食べてくれ、支払いは済ませてあるから」
「……」
「大阪に来ることがあったら寄ってくれ」
そう言い残すと田代は足早にその場を立ち去って行った。
ひとり残された良彦は味も噛み締める余裕もなく、特上のうな重を無言でほうばった。
これほど辛い食事は、生涯においてもこれだけにしたいと痛感していた。
社へ戻る良彦の足取りは両足に重りをつけられた囚人のようにも生気を失い、表情はまるで身内での通夜の帰りのようだった。
社に戻ったのは、すでに午後四時を回っていた。二時には店を出ていたのに、どこでどう時間を費やしたのかも覚えていない。
それほど良彦にとっては衝撃が大き過ぎた。無表情のまま業務日報を記載する良彦に前川が寄ってきた。
「武田、なんかあったか?」
「いや、別に……」
「ならいいんだけど」
「今日、大丈夫だよな」
「当然でしょっ!」
良彦は前川の前に親指を突き出して精一杯元気な態度を見せた。
「本日の業務は終了しました。お疲れさーん」
「乾杯っ」
ふたりは、生ビールのジョッキで乾杯した。退社後に、たまに社の仲間と立ち寄る居酒屋にふたりで入るのは二か月ぶりだった。
お互い、期末の報告書や来期の準備などで飲みに来れるような状況ではなかったからだ。
「ところで武田、今日何かあったのか?外回りから帰ったあと、元気なかったように見えたんだけど」
「いやっ、それが……」
「武田、困ったことがあったらなんでも相談しろって言ったのお前だろう、なんでも相談してくれよ」
「悪りい。実は前川、俺のメインの顧客知ってるか?」
「あぁ、リード生命だろう」
「今日、そこの部長に呼び出されて、取り引きを中止するかもしれないって言われたよ」
「マジかよ。 リード生命っていえば武田のメインばかりかうちにとっても大得意だろ」
「あぁ、なんか政治的な絡みがあるみたいでね」
「それで落ち込んでたのか。無理もないよな。でも、まだ切られるって決まった訳じゃないだろう」
「まぁ、そうなんだけど、一か月しか猶予がないし、部長の話からすると間違いなさそうだ」
「でも、リード生命は武田が新規開拓したお客だろう。元々、うちとの取り引きはなかったんだし、
云ってみりゃあタナボタでしょっ。部長もそんなに厳しいことも言えないだろう」
「なら、いいんだけどね」
「くよくよしてもしょうがないよ。それよりもっと楽しい話でもしょうや」
「それもそうだな。飲みますか」
落ち込んでいた良彦も、前川のお陰で多少は落ち着きをとりもどしていった。
週末ということもあってか、ふたりの会話など周囲の客には聞き取られないほどの騒音と化していた。
ストレスが溢れた客の、愚痴が飛び交うこんなエリアがかえって良彦の心情を癒してくれるようだった。
「そういえば、新宿の孝子ママ覚えてるか?」最近の体型を気にしてか、トマトをかじりながら前川が聞いてきた。
「クラブ孝子のママか?なつかしいね、でももうないだろう。たしか、去年の年末に店をたたんだって」
「その孝子ママがね、また店を始めたんだよ」
「へぇー、どこに?」
「湯島だ」前川はカバンから名刺を取り出すと、良彦に差出した。
「スクエアー?・・もう、行ったのか?」
良彦は店の名刺を見つめながら前川に聞いた。
「それがさーっ、上野の吉田商事の浜田部長に誘われて仕方なくおつき合いしたら偶然に。いやー、いろいろ昔話で盛り上がっちゃって」
「それじゃ、浜田部長もクラブ孝子のお客さんだったわけだ」
「そうらしい。結構通ってたわりには意外と逢わないもんだよな」
「いやっ、逢っていたのかもしれないけど意外と飲み屋の客って覚えてないもんだよ」
「あの頃がなつかしいよ。接待とはいえ、ほとんど毎日のように宴会だったもんな。支払いはすべて会社持ち出しさ」
「ほんとほんと、夢のようだったよな」
「そのツケが今、回って来てるって感じだよ。あっ、ごめん武田、自分で言っときながら、また暗い話になっちゃって」
「気にすんなって」良彦は少し気の抜けかかったビールを飲み干した。
もう、どれほどここにいるのだろうか。店内の時計に目をやると九時近くになっていた。
前川とすでに三時間近くもいたことになる。座席も空席が出始めてきた。「飲んべえ」の性質なのだろうか。
ハシゴがあたりまえになっている連中は次の店へと場を変えているようだ。
そんな時、前川が突然立ち上がって言った。
「さーて、じゃ行ってみますか」
「えっ、どこへ?」
「決まってるでしょっ。孝子ママの店さ」
「スクエアーへか」
「そういうこと。今日は俺のおごりだから気にすんなよ良ちゃん」
「よせよ、前川。お互いローン抱えてんだからいつもどおり割り勘にしょうぜ」
「いいんだよ。うちは、子供はいないし夫婦ふたりだから、気楽なもんさ。それに先週、競馬で大穴取ったんだよ。
だから今日は気分よくおごらせてくれよ」
「マジかよ。そこまで言うなら遠慮なくゴチになるよ。ごちそうさん」
前川は良彦から伝票を強引に取り上げると、足早にレジで清算を済ませ店の外に出た。
この時季にしては涼しく思える風が、ほどよく酔いが回った良彦の体を心地よくすりぬけていく。
歩道に目をやるとふたりを誘っているかのように、野良猫がじゃれあいながら雑居ビルの奥へと消えていった。
タクシーに乗ってから三十分も経っただろうか。湯島天神の近くのビルの前で止まった。いつになく気前のいい前川は、
タクシー代も払って先に降りた。普段、夜の湯島など来たことがなかったが、想像していた以上に、賑わっている。
大通りから、ビルの脇道に入った。あたりには、小さな飲み屋が軒を列ねる。なかには、店の入り口で怪し気な笑みをうかべながら、
客を誘い入れようとする女。悪酔いし、仲間と口論している中年のサラリーマンや頃合を見計らってか、連れの女を口説きにかかる男。
まさに欲望の渦巻く場面を間近にしていた。




